初郎4歳、怪我も病気もなく落ち着いて暮らしている、ヒトなら32歳くらいらしい、幼犬時は鼻周りから顔半分が黒かったけど年々白っぽくなってきた、オヤツくれと散歩行けとクーラー寒いから毛布かけろの催促を使い分ける、地震と雷と馴れ馴れしい老人が嫌い、宅配業者玄関ドアから内側に一歩でも踏み込むとガルルと威嚇するなかなかの番犬ぶり、台所に侵入してドーナツ4個を一気喰いしたりイギリスパン4枚を一気喰いしたりしても体調を崩すことのない健胃、公園からダッシュで逃げ出して必死の形相で追いかけた亭主を大きく引き離し公園の外周をぐるっと走って素知らぬ顔で戻る健脚、自慢のトラ柄ボディはツヤツヤすべすべの健毛、誕生日にもらったオヤツとオモチャを次の日にわざわざ取り出してベッドに並べ満足気だった、大概はうっすら機嫌良さげにしており、家族に対して興味を失わず愛情深く見守っている、とにかくひたすら健やかな犬、これほどありがたいことがあるだろうか。
- 2023/07/31(月) 05:59:28|
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通勤20分のバイト先を退職し通勤40分の新しいバイト先で研修をしている、同じ職種で業務内容も同じなのだが両極端に違う部分もあって戸惑うやら面白いやら、退職した職場では気の合う同僚にも出逢え新しい仕事を教わったので有難い気持ちがたくさんあるが、時たま出くわす「毛嫌い」に辟易し、1日4時間の勤務であれ人生の無駄遣いをしているように感じられたことが退職の大きな理由だった。
幼少時から「毛嫌い」に出くわす、きっかけは様々なのだろう、「毛嫌い」されるだけだから自覚がない、だけど「毛嫌い」されていることはよくわかる、よくわかるのに自覚がないから対応の仕様がなく平常のままで過ごす、その平常が尚更に「毛嫌い」を増幅させる仕組みらしい、幼少時からのそれを思い返せば相手は必ず私をどうにかする力を持つ立場の人で、対等な立場からどう思われようがなんとも感じないからそういうことになっている。
今ならパワハラだのモラハラだのセクハラだのと論うやり方もあるだろうが、それらは自覚なき悪意もしくは取り繕われた悪意の一枚皮を剥がすための手段で、「毛嫌い」は寧ろ露骨な悪感情なので皮を剥がす必要もなくやり過ごすだけだ、ただどうしても平常の中に「私のこと本当に嫌いなんだねえ」という面白がり方が透けてしまっているらしく、ひたすら相手がヒステリックになっていくばかりなので、またこちらは面白がるという悪循環に陥る。
「毛嫌い」とか「不機嫌」とかの悪感情はウィルスみたいなもんだろうと思う、耐性もつくが想像以上に思わぬダメージを受けることもある、一番の自衛策はそれが臭ったら速やかに撤収、闘うほどの執着を持たずに済むのがアルバイトの利点でもある、日頃から家庭内で仕事のことをぼやくのは避けようと思っているので言わずにいたが、ある日とうとう口をついて出た、その2日後には次の勤務先の面接を受け、5日後には契約書通りに二ヶ月後の日付で作成した退職届と有給休暇届を出して、7日後にはWワーク的に次の職場の研修を受け始めた。
雇用契約書ががある以上失点がないか重ねての確認はしていた、その上で労基に持ち込んだら調査くらい入りそうな雇用主側の失点も改めて確認したけど、そこは敢えて突かずあくまでも契約書に従って話を進めた、拗れたら並べ立てようと思っていたが向こうもシマッタまずかったと自覚したのか、二ヶ月後の退職で決着していたところをもし迷惑でなければ有給つけるんで来週から来なくてもいいと言われ、退職届を渡した10日後に追い出された、ノーワークノーペイだけどついてた有給休暇はしっかり貰う。
働いた11ヶ月でセンパイ方が全員辞めて私が一番古い人になっていた、センパイ方が退職する際、勤務最終日まで貸与の白衣を着て働き、クリーニングして宅配便で送りますと言っても了承して貰えなかったり、黙って辞める人が入り口に白衣の入った袋をこっそり置いて行ったりする職場だったから、私は半年以上前からAmazonで注文した自前の白衣を使って貸与の白衣はいつでも返せるようクリーニング済みだったし、お礼の品は新しい職場の向かいに有名な銘菓の店があった。
平常でいることにほとほと疲弊しつつも、平常のまま淡々と最終日にクリーニング済みを白衣を返却しお礼の品もお渡しして帰ってくるのは清々しく、あちらも清々したに違いないと思うから結果的には円満退社である、そして多分こういう気質が「毛嫌い」されるんだろうとも思う、反省はない。
「毛嫌い」① はっきりした理由もなく嫌うこと。② 鳥獣が相手の毛並みによって嫌うこと。
体調体力とも低下しているので新しい職場の勤務時間は2時間半で週3日、これくらいならもしまた毛並ちがいがあってもやり過ごせるんじゃなかろうか、そりゃまあ嫌われたくはないけれど、毛並ちがいを嫌うのも生存本能だろうし。
- 2023/07/23(日) 01:46:35|
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ふたつみっつ下に1年前の記事が出てくるなんてほんとに文章を書かなくなった、早めに始めたおかげで大掃除も難なく終え、年末は溜め込んでいた針仕事を愉しんだ、正月二日に犬連れで義実家、初めて亭主の弟に対面、兄弟がいて家族が集まる正月は私も娘もほぼ未体験なので「ザ・お正月だね」と娘、歳の近い子どもたちと遊べた孫も嬉しそう、犬も案外と大人しく過ごし義両親義妹弟の健やかな笑顔を確認して無事の帰宅、あとはひたすらに本を読んで過ごし、集中して本が読めるくらいには体調が整っていることにひっそり安堵、ここ数年に比べたらこれでも格段に動けるようになっているのでまた色々やりたいことを思いつくかもしれない、ひとまず今月はガンホの新作を観なくちゃ。
子・丑・寅・ウイ…で、今年はウイ年。皆さん、どうか穏やかな一年でありますよう。
- 2023/01/06(金) 10:48:13|
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「仕事部屋」というブログなので仕事がないと書くことがない、病気の話ばかりというのもあれだしなあとずいぶん放置している。
先日オフィスコットーネ綿貫プロデューサーの訃報が届き、なくなる前日までFacebookの更新があったと聞いて確認のためこちらも久々にログインした、いきなり訃報の記事を書くのも気がひけて簡単な近況をのせたら多くの人にコメントやイイネをもらってしまいやっぱり気がひける、友人知人の近況にイイネを飛ばして回るだけで1日がかりになるのでこちらは何もしていない、Twitterも同様ですっかり休眠アカウントになった。
休職6ヶ月のち退職してただひたすら自宅にこもっていた、通院と犬の散歩だけの外出で家族以外の誰とも会わずに過ごし、義理堅く慶事を報せてもらったり後から訃報が届いたりがあると人から遠ざかっていることを痛感する、遠ざかっていてもお祝いやお悔やみの気持ちがわかないわけではないのだが外に出ることなくやり過ごしてしまっていた。
綿貫Pのお通夜で混雑する電車に乗ったらやはり調子が悪い、翌日が通院日だったのでなんとかやり過ごしたが結局処方を増やされた、せっかく2年がかりで減薬してきたのにままならない、それでも夏の終わりから働きには出ている、混雑する電車に乗らずに済み、体力の限界を感じずに済む勤務時間で、後ろめたく思いながら病欠する必要のない勤務日数なので給料も正社員で働いていた頃の6分の1になったが新しいことを覚えるのはやはり愉しい。
2年も休んでいたんだから書き物をする時間はたくさんあったのだけど何も書かなかった、この記事を書くのもこれまでより随分時間がかかっている、体調のせいではなく生活のせいだろう、穏やかに過ごすことだけを心がけていると映画を観ても本を読んでも薄皮一枚が挟まれている感覚があり、自分の内側で蠢くはずのものが見つけられないから書く言葉も話す言葉も湧かない、映画や小説に笑ったり泣いたりはするのに。
Netflixの「賢い医師生活」が好きだ、シーズン2までさっさと観終わってからも繰り返し観ている、苛ついたり辛くなったりしんどい気分のときにも3分でも5分でもこれを観ると穏やかさを取り戻せるくらいに鎮静効果が高く、もはやドラマの中の医師に治療を受けているような日常になっていて面白い、まあドラマの医師は外科医だけど。
今の仕事は小さなメンタルクリニックの受付で、医療事務の資格はないが電子カルテのおかげで操作さえ覚えれば業務に差し障りはない、初診相談の電話対応を完璧と褒められたのはホテルのフロントや法律事務所の仕事で覚えたことが役立っているからだろう、様々な病院への通院歴も業務をイメージする助けになっているのか初めての仕事内容にも戸惑いは少なかった、医師や弁護士は多かれ少なかれ変わり者の気があるように思うが変わり者には慣れている、患者もそもそも本当に具合が悪い人は病院にも来られないわけで、通院する患者には皆治したいという前向きな明るさがある。
そう考えていくと自分の人生はうまいこと回ってるなあと思ったりもして、自分都合の前向きさは相変わらずなのだった。
- 2022/11/10(木) 14:44:00|
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体調が思わしくなく3月から休職している。一泊の検査入院もあったし、毎週休みのたび通院しているときちんと体を休められる日がない。薬の量も増えてさほど忙しくもない日々の業務にミスを多発し気持ちが落ちることもあり、メニエールも急速に悪化した、療養のため休職すると通知しているのに飲みに誘ってくる同僚もいるが無論断っている。
出かけるのは病院と犬の散歩のみで地元の商店街にすら出向かないのだがたまに電車に乗れば風邪を拾ってくる有様、出勤であれば無理がきく程度でも療養中だとたちまちにダウンする、とはいえ今回の緊急事態宣言で亭主の仕事もバタバタまたキャンセルになっている状況ではいっそこのまま退職ともいかない。
読書はカズオ・イシグロの新刊と韓国の小説「PACHINKO」が素晴らしかった、もってまわった文体が苦手で読了しなかった本にも挑戦してみたがこちらはやはり数ページで挫けてしまった、小説でも映画でも大袈裟な文体や言い回しが苦手で淡々としたトーンが好みなのだ、山本夏彦とか。
そういえば初めて山本夏彦を読んだのは出産で入院していた時だったと思う、病院の売店で買ったんだったか、それを読むまで自分に文体の好みがあるとは知らなかった、視点も語り口も脳味噌を輪切りにされるような快感で内容よりその文章を読むことそのものに心が躍る初めての体験だった。
月一回血液検査で通院している持病の専門医が職員の感染疑いで休院になった、再開はGW明けだそうだから休院になってほっとしている職員も多かろう、つくづく大変な仕事を受け持ってくれているのだなあ、政府の対応にばかり気がいくが何より感染拡大を防がねばと心算あらた、迂闊さの被害でしんどい思いをする人たちがたくさんいるのだから。
- 2021/04/26(月) 15:44:00|
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年末年始の挨拶は省略、ただただ生き延びていることを幸運に日々のしくじりをやり過ごしていくばかり、犬も孫もすこぶる健康で散歩のテンションが高い、ただし犬は気温が下がる夜の散歩は嫌がり玄関から5メートルも歩くと三歩歩いたから散歩終わり!と屁理屈で小鼻を膨らませる男子小学生のような顔で帰りたがる、いっそ行かなきゃいいのだがそうはできないらしいからこちらは三歩に付き合うしかない。
再びの緊急事態宣言だが今回は社内で騒ぎ立てる者がいないのもあり会社は知らんぷり、テレワークの準備が進んでいないので全員が通常通りに出勤し業務をこなしている、往復に見かける飲食店の軒先には営業時間短縮のお知らせもしくは閉店のお知らせ、対策万全!と張り紙して開けてる店はそこそこの客入りだが果たして万全の対策などあるのか、政府に自由を奪われていたり街頭で撃ち合いがあったり野生の動物に襲われたりする国で生きるリスクと感染症が蔓延する国で生きるリスクはほぼ同じだろう。
ただ不思議と、先行きのわからない生き方に馴染んでいるような気がしてくる、国どころか世界のすべてがこの先どうなっていくかわからないという状況がかえって生き易く感じられる、切迫していない故の能天気であったとしても視界を塞ぐ不安に俯くよりマシではないか、何しろ我が身以外の状況を慮る余裕につながる。
皆さんどうか今年もご無事に。
犬は滑らない。
- 2021/01/15(金) 11:50:54|
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帆太郎命日のドッグランと近場の神社で七五三詣をした以外は配信の韓国ドラマばかり観ていた気がする、今日は早退して医者2軒をハシゴして明日の1軒で年内は診察納め、病状は緩やかに悪化しており薬が増えた、大人はヨレヨレでも犬と孫は極めて健康、通勤電車では小説を読んでいて作家の名前もタイトルも覚えられず読んだ傍から忘れて読み終えた物語の断片が次々混ざっていく感じ、職場ではこの半年でようやく新しい業務に慣れ効率が上がり始めたところ、席替えのおかげで環境も良い、少人数の同僚で飲みに行ったことが2〜3度あったけれどその他の宴席には参加せず今年は記憶をなくす機会もなかった、新型ウィルスの流行に関係なく家で過ごしている、孫や犬の成長と共に家の中は雑然としてきたがまだうんざりするほどではないし、常に自宅に人が出入りしていた頃とは生活様式も違うので雑然とした家こそが暮らしであるようにも思う、家の中に人がいるのと出勤すれば同僚がいるのとでわざわざ人に会いたいと思わないのかもしれない、ツールもあまり使わなくなって誰かと連絡を取るのも必要最低限になって、これくらいが普通なんじゃないかと思うようになった、もうしばらく会わずにいる人のことはよく思い出すけれども。
普通という感覚は多分、身近な範疇のそれと自分がさほど変わらないという実感に基づいているんだろう、違和感があれば自分が普通じゃないと感じるかこいつら普通じゃないと感じるかのどちらかで、それを特別と認識することになったりもする、自分のことで考えるとAという範疇で違和感を持ってもBという範疇では普通に感じられたから違和感が苦しくなればBに逃げ普通に退屈すればAに逃げと立ち位置を変えることで気楽さを保っていた、気楽さは余力だ、最近馴染んできたCという範疇は気楽そのもので追い込まれることもテンパることもなく今のところ退屈もしていない、それでも逃げ体質は変わらずにあるからまたいつかはここからも逃げ出して最後まで何事にも向き合わず逃げ果すのかもしれないけれど、立ち位置を変えるのにも体力がいる、自分の体からは逃げられないからなあ、居場所が変わると必要なことも変わって、Aでは役に立たなかった資質がBでは才能と呼ばれたりAで許されていたことがCではご法度だったりするその変質が面白い、年齢や経験を重ねてわかることが増える面白さが縦軸なら居場所を変えるたびに自分自身を組み替えさせられる面白さは横軸で、AもBもCも自分の座標点でしかないわけだから、つまりは何をしたって自分自身からははみ出せない、ならば精一杯でたらめに点を打ってやれと思う。

こどもの頃に繰り返し聴いていた朗読のLP盤5枚組をフリマサイトで発見し入手した、そうやって端っこを千切るみたいに大して考えず処分してしまったものがたくさんある、端っこじゃなくて真ん中かもしれないのに。
- 2020/12/16(水) 00:22:21|
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夏の終わり、世の中が自粛ムードだった隙に、こっそり家族旅行をした。
犬と幼児を連れて電車を乗り継ぎ、海沿いの家に一泊してきただけだが、今もその景色が恋しい。
親戚に会うなどの目的もなく、ただ家族でどこかに移動するだけの家族旅行は、恐らく初めての経験だった。
借りた家の芝生の庭で犬も幼児も大人たちも走り回り、寝転んだ。
庭の裏に出るともう砂浜で、水着の幼児は波打ち際で狂喜し、犬もざぶざぶと波を蹴って進んだ。
海辺には馬がいた。
日が落ちると、クール便で送った食材を庭の一角で焼いて食べ、潮風と煙まみれの体を交代で洗い流して、早寝した。
夜中に庭に出て星空を眺め、短い睡眠で目覚めてからは朝焼けを浴びた。
数時間後にはもう暑くなって、また裸足で芝生を走り、皆が起きてぞろぞろと海に向かった。
それだけの休日だったが、確かにこれまで味わったことのない時間だった。
日常がつるっと別の次元に滑り込んんだような、特別だけど特別すぎない感じが、とても心地よかった。
庭
孫
犬
月
朝戻って数日後には、映画を観たり人前で喋ったり懐かしい人と話したりした。
芝生や海辺や星空の時間と、新宿の映画館や居酒屋が、ゆるゆる混じり合って、少しふわふわしていたかもしれない。
それからまた日常がはじまった。
相変わらず、薬の服用で体調をだましだまし働いているけれど、慣れてくるとまるで不調などないように思える。
肋骨を痛めて以前整形外科でもらったコルセットをつけたりしていて、馴染んだ不調より俄然鮮明な痛みがあるから、肋骨の痛みがなくなればさっぱり健康になるような気がする。
少しだけ涼しくなったつい先日に、娘と二人で近所の焼き鳥屋に行った。
二人で飲むのはしばらくぶりだったが、二人とも酔っ払わずに引き揚げた。
新型コロナウィルスの煽りを受けて仕事が激減している亭主はこのところめきめきと料理の腕を上げ、孫の誕生日にプリンを作った。
孫が3歳になって集中していた誕生日ラッシュが落ち着くと、もう今年も終盤になっていた。
そういえば、帆太郎もみどりちゃんも海には行ったことがある。
犬は、ぜひとも海に行くべきだ。
- 2020/09/23(水) 23:20:17|
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ゲンキンなものでこの頃はやっぱりFacebookなどからも遠退いていて、生きてるのか?と直接確認してくれた人がちらほらいたくらいだが取りたてて知らせたい近況や心情がない。
いや、ここ最近でものすごくはっきりとしたことがあって、自分の中ではしっかり言語化できてもいるんだけど、それを誰かに伝えたいとは思わないので未だ誰にも話していなかったりもする。
思えばそもそもそういう資質なんだけど、そういう資質そのまんまでいられる時間が、これまであまりなかった。
芝居を作る作業には不適切な資質だったからだろう。
頭の中身をあれほど他人に伝達しなければ成立しない役割は、そうそうないと思う。
思考や心情は湧くそばから言語化して垂れ流してきていて、喋ってしまうと自分自身がそれに煽られたりもするし、喋り続けていると不意のだんまりに意味ができちゃったりもして、物事の奇跡的な解決もとんでもないしくじりも、すべては言葉が発端だった。
たいていの場合、感じ取ったり考えついたりしたことはもやもやと頭ん中に浮遊していて、言語化するにはスイッチひとつくらいの切り替えが必要で、起動が遅いこともしばしばあるのだが、いったん言語化するための回路に電流が流れればあとは垂れ流しだ。
つまり、考えて喋るってことがない、クーラーの自動運転みたいなものだった。
twitterをよく使っていた頃もそれに近かったんだろう、ただ文字数が限られている分、意識的に言葉を組み立てていただけ。
たまにFacebookを見ると、友人たちの個性や感性や人生に圧倒されてしまう。
情報のすべてにイイね!をつけてコメントしたいとも思うのだけど、なんだかうわあーと思うばかりで残す言葉が見つからない。
おめでとう!すごいね!よかった!がんばれ!
などなどの至極単純な反射としてのそこでしか機能しないので何も残さないんだけど、時々は皆さんの投稿を眺めて、へえーすごい!とか思ってる。
新型コロナウィルスは演劇や映画の成り立ちにあれこれの影響を及ぼしていて、皆がそれぞれ何をすべきか何ができるかと思い悩んでるというのに、
そうだよなあ大変だろうなあとか、どうなっちゃうんだろうなあとか、まるきり他人事になっていて、自分がもうそういうことを考えないところにいるんだなあとしみじみ思う。
そもそも自分がそういうところで何かしていたという実感すら残っていない。
がっつりやってる連中のことも勿論心配ではあるのだけど、それよりも、とうに芝居のことなんか忘れて暮らしているだろうかつてWSにきていた人たちのことを不意に思い出して案じることのほうがずっと多かったりする。
あの人たちはあの頃きちんと働いていて、仕事の合間や休みを潰してでも芝居に関わっていこうとしていたわけで、それがどれほどの気持ちだったか、今思えば働いてもおらず芝居にだけ時間を使える自分なんか到底太刀打ちできないものだったんじゃないか、それだけの気持ちに果たして応えられていたのか、何かひとつでも、その場だけでなく人生のかけらとして役立つ関わりができたのか、楽しませてあげられたのかと、悔いばかりが浮かぶ。
そして、そういう気持ちはうまく言語化できなくて、やっぱり黙り込む。
身を削るように自分の内側を曝す役割がなくなり、言葉にできない思いが増え、この歳でようやくいくらかは分別を知った。
働いていると、考えや感じたことを言葉にする必要がないので、楽ちんだなあ。
言葉は、ホルモンとかアドレナリンとかと同じく体内で自然に生じる何かの物質なんだろうと思っているのだけど、だとすればすっかり体質が変わったのかもしれない。
分別といえば成長だか進歩のように聞こえるが、ただ言葉をこねくり回す頭やココロの機能に更年期が訪れただけなのか。
気がつけば今年も誕生日シーズン、先月末には二代目犬息子が、今月は亭主に始まり来週には娘も、再来週には私がまた年を重ねる。
長年あちこち不調だった身体にも、とうとう確定診断で病名がついた。
命にかかわるような病気ではないが、放置すればいずれ動けなくなるとまで言われればやはり恐ろしい。
幸い診断されてすぐに始まった投薬が効いたようで、毎月の検査では数値がかなりよくなっていると医者は楽観的だった。
病院近くの薬局で、「この病院で診断されるまで、いくつの病院で検査を受けましたか」と聞かれたので答えたら、
「やっぱりねえ。この病気は3軒目4軒目でやっと確定という方ばかりなんですよ」と薬剤師が笑ったので、そんなものなんだろう。
今は勤務を時短にして、でき得る限りの楽ちんを追求している。
以前ならその日の仕事が終わるまで当たり前に残業したが、この頃は「これは今日終わらせられないので明日やります」とぬけぬけやり残す。
メインで担当する部署が変わって私の仕事を代われる人がおらず平日に休むとその日の業務が丸々デスクに積まれており、月末月初になると1日分の仕事が3日がかりになって無能を思い知り、また口数を減らす。
一年前にやめたつもりだった煙草をまた吸っている。
煙が言葉の代わりになっている。
私たちはみんな、ひとりぼっちの寂しい脳みそを生きています。骨の独房に閉じ込められ、絶え間ない思考労働という終身刑に服しているのです。(小島慶子さんの文章より)
- 2020/08/10(月) 23:44:21|
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