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仕事部屋

また産まれまして。

犬嫁、二度目の出産。
予定は日曜だったのだけど、金曜夜から兆候が見られたため、あたし一人が徹夜で見守ることに。

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妻の出産を待つ夫。

犬嫁が寝ている親方の枕元で産もうとするので慌てて親方を起こし、産室へ連れていく。
直前まで散歩に行きたがってなかなか落ち着かなかったが、8:20 諦めたようにいきんで第一子。
ネズミの仔のように小さい女の子、イチコと命名。
恨めしそうな顔で親方が出勤、産婆は娘に交代。
あたしはあのドロドロした胎盤やらへその緒やらのあれが苦手で触れないので役立たず、犬息子と二人で辛抱強く待つばかり。
子供など産んでませんという顔でしばらくまた普通にうろついた犬嫁、9:12 大きめの第二子、これまた女の子だったので名はニコ。
その後、9:48 に長男サンタ、サンタのへその緒切ってるうち 10:06 次男ヨタロウ。
犬嫁もすっかり落ち着いた様子なので、産室のタオルなど取り替えて一息。

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犬嫁はさすがにぐったり。

mixiにあるうちの犬舎のコミュニティーに報告していると、仔犬らにお乳をあげていた犬嫁が突然「ぎゃん」と一声、見るとまた青い玉がぽっこりしてたのが 10:56 、三男ゴンタ。

お産の介助もへその緒の始末も、娘は極めて冷静、てきぱき見事にこなす。牧場とかに嫁に行くと役立つに違いない。
昼過ぎから二時間ほど仮眠、胎盤臭い手でピザを作りに行く娘と交代で起きて、母犬の背中や脇の下や敷いてあるタオルの隙間などあちこちに潜り込んでいる仔犬らの点呼を取り、体が小さくてしょっちゅう転がされてしまうイチコとゴンタを犬嫁の腹に押し込み…。

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仔犬、五頭。

今年になって急に花粉症が出たらしく、目が真っ赤になったので久々に眼鏡使用。Loratonという薬、即効性があってすぐに治まるのだが猛烈に眠くなる。三十分ずつ細切れの仮眠ではやはり体は休まらない。
これからしばらく我が家には七頭の犬が暮らす。
半年前のお産のときと比べれば、急ぎ仕上げる原稿などない分気楽ではあるけれど、当分はあれこれが不自由だ。喘息発作が起きませんように。
  1. 2007/02/24(土) 23:04:20|
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ブルーハーツ、第一シーズン終了。

ケータイlivedoorの小説「ブルーハーツ」第一シーズンが終了。
原稿落とさなくてよかった…。
休載中もlivedoorブログは継続したいのだが、何を書こう。
ブログが炎上しなくてよかった…。

衛星劇場でやってた「blue」を流し見。漫画の乾いた表現の方が断然いい。絵に描かれたキャラクターの方が生身の役者より表現が勝っているというのは、どういうことなんだか。
こういう女の子っぽいやり取りって苦手だなー、さっぱりわかんねえし、当時もその手のことは理解できなくて放ったらかしだったなー、などとぼやいていたら親方に「あなた、基本が男だからね」と言われた。んなこたあない。
が、話すうち、結局は男女に関係なく思春期特有の感性なんじゃないかということになり、やっぱりそれもわかんねーし、というオチ。

自意識の持て余しっぷりというか、恋心の収めどころというか、他人との距離感というか、その手のぐだぐだした悩み事は大人になってからの方が深刻だ。どうにもできない思春期にぐだぐだしてんのは時間の無駄と当時も思ってた。んじゃ今はどうか。やはり時間の無駄と思う。もちろん、悩み事のある人を切り捨てるような視点ではないけれど、世の中には一人で考えていても解決しない問題というのが多々あって、その類いのことで悩むのは無駄と感じてしまう。
考える力は、もっと純粋に「考えるため」だけに費やしたい。
基本、うだうだ考えるのは好きだ。
但し、それは考えるという目的で意図的に取り組む、趣味し好の一種。

ちょっと前までは人並み以上に悩んだり落ち込んだり悲しんだりする心の動きがあったのだけど、いつ頃からか、んなもんは脳細胞の活動による生体反応でしかなく、どうこうできるような実体のあるもんじゃねえじゃん、と気づいてからは、さっぱりなくなった。
不快な気持ち、悲しい気持ち、落ち込む気持ちなんてのは、あたしにとって、体温が上昇して毛穴がひらくとか、発熱すると寒気がするとか、刺激を受けて勃起する(ちんこないけど)とかと同じことになってしまった。だから、あー熱があってぼうっとするー歩くとふらふらして真っ直ぐ歩けなーいと、そういうときに普段は味わえない感覚を改めて確認して楽しむように、くそームカついてしょーがねーあったまくんなーあのやろーとかってときも「状態」や「感覚」を味わうのに忙しくて、大概、そもそもの部分はすぐにどうでもよくなってしまうから便利だ。

自分が感じることがないから、他人のそれにも殆ど共感できない。
「かくかくしかじかで悲しいんです」と言われれば「ああそうか、悲しいのか」と思うし、「これこれこうで悩んでます」と言われると「ああそうか、悩んでいるのか」と思う、という範疇でしか、他人のそれが理解できなくなってしまった。つうか、わかったふりをするのが面倒になって、もうわかったふりすらしなくなっている感じで、その開き直りがますます一般読者に共感されない要素になっていてどうしたもんかとも思うが、共感を寄せてもらえる小説を書く以前にそうでなければ自分の日常が危うくなる「生きる力」としてのそれなのだろうと思う。

きっと普段は、あんまり感情が動いていない。振れ幅が大き過ぎて、何もできないくらいに消耗してしまうからだ。んで、芝居やるときだけ解放してるんだろう。感情が動かなければ芝居にならないから、これはしょうがない。日頃こつこつ節約して貯め込んで、時々ぱあっと遣うタイプのケチ。だから、ときどきむしょうに芝居をやりたくなる。

そういえば、恋もすっかりしなくなってしまった。人と出会う面白さや、近づいていくドキドキ感や、向き合ったときに得るものがあっても、それ以上やそれ以下の何かにはならない。
不安神経症の頃には生きていくのってなんてしんどいことなのかと思ってげんなりしていたのに、今はなんだか生きているのが楽過ぎて、退屈なくらいだ。日常の出来事すべてが面白く感じられるって、むしろ、ぱっとしねえなって感覚だったりする。

そんなことより、もうすぐ犬嫁の出産予定日だ。
考えずに生きる命は強い。
  1. 2007/02/24(土) 01:52:11|
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