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仕事部屋

達磨≠マトリョーシカ。

訪問者カウンターの数が跳ね上がるときってのは、多分記事が過激に走ったときなんだな 笑

同じ話でも居酒屋なんかでけたけた笑って大勢と話したら、また全然印象が違うんだろう。
「僕のことでしょうか」という問い合わせが数件。かもしれないと思っていても恐ろしくて確認できずにいる人が更に倍くらいはいるんじゃないかと。
あたしは、自分の書くことを気にして欲しいと思う相手がいたなら、blog記事の二倍三倍の分量を使って本人にメールするたちです。

ところで春ってもやもやしますね。

なんだかこころが浮ついてくる。
夏の夜も秋の夜更けもそうだ。
つまり冬以外は年中もやもやしてる。

このもやもやがよい具合に働く人と、悪い具合に働く人がいるんだろう。
あたしには、今、悪い具合に働いている。
先週までは、いい具合に働いてる感じだったのになあ。
強風に押されて、逆流してしまったのかしら。

トゲトゲくさくさした気分になることがたまにはあり、そういうときには人と逢いたくないのだが、定期的に顔を合わせる人がいると、必然そのまんまに八つ当たりしてしまう。
かつてはタケとか吉岡とかアベちゃんとか。もしくは、おおむね娘とか。
しかし彼らにもトゲトゲくさくさした気分になることはあるわけで、そういうタイミングが重なると、あたしのトゲトゲを跳ね返さんばかりの強力なムカつくビームが返されるので、勢いこちらはしゅんとしたりして。
人と関わるってそういうことなんだよなあと、もう滅多に彼らとも会わなくなった今になって思うあたりが、何やら悪い具合に働いている気がしてならない。

感情が不安定な証拠に、〈あたしは死ぬときに「おかあさん」と言うのかもしれない〉と一行分の想像をしただけで涙が出そうになった。
やっぱり何かに傷ついているのかもしれない。

それを探るとどんどん過去に遡ってしまう。言いたかったのに言わずに飲み込んだ言葉や、飲み込めたはずなのに吐き出してしまった言葉の残骸で、思いがけずざっくり足の裏を切ったりしてさ。
やっぱり墓場を歩くのは危険なことだ。
人のことをくそったれと言うのは、よろしくないことだと思います。

魂を預けている友人の一人に、怒り狂った状態で猛然とグチを零したとき、「傷ついてるんだね」と言われて、「憤怒=傷心」というあんまりにも自然で正確な解釈にびっくりしたことがある。
もしやあたしが当たり前のことを知らなかっただけかもしれないけど、彼にそう言われるまで、あたしはそんな解釈をしたことがなかったから、すごく驚いた。
ほんとにこいつはいちいち暑苦しい奴だよと思ったけど。

つくづく、腰が重くなったなあと感じる。
ぴんとこなければ次、と身軽に乗り換えることで前に進んでいるつもりになり垂直跳びで無駄に体力を消耗していた頃が、少しばかり懐かしい。
あらゆることに対して、継続が基本理念になりつつあるからなあ。
継続に特別な意味や特別な価値などないとも気付いているのに。継続の先にあるのは評価という結果だけだ。だめだこりゃと切り捨ててしまえば何も残らないけれど、継続の先には少なくとも「継続している」という評価だけは残される。

「とりあえずやってみりゃいいじゃん。ダメならやめればいいんだし。やめたって、とりあえずやったってことだけは残るんだしさ」と、軽い頭なりに本気で口にしていた頃には、評価や結果なんかなくたって、どんどん次に飛び移れた。「ダメなもん抱えてたって消耗するだけじゃん」とか言いながら、まず絶対に消耗なんかしなかった。
評価や結果が命綱に、消耗が命取りになるような今、そう言えたらどんなに楽だろう。

そういえば、マトリョーシカには手も足もないんだよなあ。


  1. 2007/03/06(火) 03:52:12|
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