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仕事部屋

続・お金がない。

月末までのカウントダウンがものすごーく遅く感じる。
基本引きこもっているのだが練習には行かねばならず、入場できるだけの切符を買って改札で待ち合わせて精算する小銭を借りる、などという小学生みたいなことをする。練習が終わると飯を食わせてもらい、煙草とビール(練習用)を買ってもらい、帰りの電車賃と次の練習日までの煙草代を貸してもらって帰るのだ。
普段滅多に口にする機会のない「これ買ってー」が言える快感はあれど、105円のプリンにうきうきする自分は四十歳になるまで何をしていたのかと虚しくもなる。
「失踪日記」までいかないの中途半端だよなあ。

最近、一番悲しかった出来事は、卵かけご飯に醤油をかけ過ぎてしまったこと。

お金がなくてコインランドリーにも行けないのだが、お陰で「コインランドリー」の貧乏主人公が痛いほどリアルになってきた。
  1. 2007/11/28(水) 14:17:43|
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お金がない。

十八の頃、家出をして、友達の家に転がり込んだ。
旗揚げ公演の稽古中なのに稽古場に行く電車代もなくて、十円玉一枚を握って公衆電話に走り、稽古場に電話して迎えに来てもらった。近所の鳶の親方の家に上がり込んで、晩ご飯を食べさせてもらった。駄菓子屋でおばあちゃんが作っている一個二十円のたこ焼きを三個食べられたら贅沢だった。

ずっとそんなんだったけど、ハタチを過ぎたら、いつの間にか食えてた。
毎日芝居をやってるだけでギャラらしいギャラなどそれほどもらっていなかっただろうに、お金の心配をすることなく、本当に芝居のことだけを考えて暮らしていたのは三年くらいだろうか。

この一週間、そんな頃をしみじみ思い出すほどの貧乏暮らしをしている。口座には107円しかなく、財布には今日の煙草代しかないから、どこにも出かけられない。
現代でもこんな貧乏に陥ることがあるんだなあと自分で驚く。

四十になった大人が、しかも世の中に向けて自分の名前で本を出すような仕事を持っていながら、お金がないとは一体どうしたことか。

返すお金がないとか、貸せるお金がないとか、支払うべきお金がないとか、欲しいものを買うお金がないとか、行きたいところに行くお金がないとか、貯えるお金がないとか、そういう「お金がない」とは違う「お金がない」には、悩みもない。

突発的な貧乏だから、大した不便はない。
暮らしに必要なものは揃っているし、助けを求めれば駆けつけてくれるだろう友人もいるし、売ろうと思えば売れるものだって持っている。所詮は体験貧乏に違いない。
そもそも煙草が吸えてるうちは、貧乏じゃないよなあ。となると、本物の貧乏体験などしたことすらないわけだから、これから新しい経験をすることになるのかもしれない。

面白がっていられるのも今のうちだけだったりしたら、困る。


  1. 2007/11/22(木) 14:54:40|
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時価会計。

エンロンのドキュメンタリーに、あたしの恋愛これと同じじゃんと思った。恐ろしいことです。
  1. 2007/11/21(水) 00:31:34|
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コインランドリー 第二回 更新されております。
  1. 2007/11/20(火) 11:58:19|
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昨日はブルハのラス前原稿を仕上げてから龍昇企画の打ち合わせ。
いやもう、ぐだぐだぐだぐだ。ああ、彼らとぐだぐだに飲むのは、ほんとに楽しいなあ。
徹底的にみっともない人のみっともない人生をやりたいもんです。
公演は来三月の6ステぽっきりだけど、うひー・・・ものすごく愉しみ!
  1. 2007/11/18(日) 14:03:37|
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リトル・ミスサンシャイン。

あたしは多分「みっともない」という生き方が好きなんだろう。
みっともない、とは「見たくない」から来ている言葉らしく、今は「見苦しい」という意味で使われる。

思えば「みっともない」ことを避けたいばかりのええかっこしいをやっている。
見苦しいと思われるなんて、とても恥ずかしいことだと思っていた。
世間に恥ずかしくないようにという心がけは、自分が恥ずかしいと思うことはしてはいけないという戒めでもあるはずなのだけど、あたしの場合、世間と自分の恥じらい基準がズレているらしく、あまりあてにできない戒めだった。
それでも、かっこよくありたいとは思っていたのだ。かっこよく振る舞うことが難しくても、かっこ悪いところを人に見せないよう用心深くはいられる。それ即ち「みっともない恐怖症のええかっこしい」だ。その自覚すら赦せるようになったのは、それが充分にみっともないことだと気づいたからかもしれない。

こうありたいと願っても辿り着けずに地団駄を踏むのも、太々しく開き直るのも、すっとぼけて取り繕うのも、笑うのも、泣くのも、怒るのも、希望に縋るのも、絶望に浸るのも、どれも結局はみっともないもんだと思うし、そもそも、人という生き物は大変にみっともない存在で、やってることは他の動物とさほど違わないのに我々は知的で高尚な生物であると思っていたりするし、そうしたみっともなさの中で懸命に生きることを意味付けたりする間抜けなわけで。

恋愛なんて究極にみっともないじゃん。
だけど、みんなどっかそういう自分が気持ちいいから、懲りずに恋愛するんだろうし。
人と向き合うことは、ええかっこしいでやれるもんじゃないんですね。
だったら相手を選ばず、ところを選ばずにみっともなくやっていけばいい。

みっともない誰かを見て眉を顰めたり陰で嗤ったりする、その自分のみっともなさを知る人は、あんまりいない。
みっともないことを一生懸命にやり続けている人に対して、「一生懸命」の価値を認める人はいても、「みっともない」部分を認める人は、あんまりいない。
みっともない姿で地べたを這う人を嗤う人はそうそういないけれど、それを自分の選択肢にする人もそうそういない。

つまり、「みっともない」ことは、誰にとってもできれば避けたい不具合なことで、避けられずに陥ってしまった場合には、それほど必死であるとアピールすることができる、使い勝手のいい「不具合」だ。だから、はなから「みっともない」に開き直る人に信用が向かないのだろう。

自覚のなさがみっともないタイプや、みっともなさに開き直ってがむしゃらにやってるタイプは、案外とたくさん見かけるけれど、はなから「みっともない」という概念を持ってないんじゃないかっていう人には、なかなか出逢えない。

映画「リトル・ミスサンシャイン」の、ああもうみっともないったらありゃしないって大人たちの嘆きと開き直りは、生きる美学だろうと思う。けれど、あたしが心打たれたのは、みっともないという概念など持たずに、単純極まりない心の整理をする少女の幸福感だ。

あの少女の、なんていう幸福。
あたしは、あれが欲しい。







  1. 2007/11/17(土) 01:42:15|
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ボジョレー・ヌーボー解禁イベント、無事終了。

20071116200743.jpg


こんな感じのところで、

20071116200756.jpg


こんな感じに。

最近増えてきたシェアオフィスの共同イベントで、季節ごとに共有のルーフガーデンでパーティーをされているそう。ビルは表参道ヒルズの真裏という抜群の立地、100坪のルーフガーデンは高すぎず低すぎずで眺めも上等、サービス精神というのは、自分の楽しみが先にあって他人の楽しみを邪魔しない、こういう形が理想ですな。素晴らしい職場環境だと思います。

アットホームな雰囲気での寛いだ集まりだったので、我々のような一見して社会性に欠ける連中も暖かく迎え入れて戴き、わいわいとBBQグリルのソーセージ、カナッペ、焼き肉などなど、手作りの料理と若々しいワインが振る舞われて、大変に楽しく酔っ払いました。

ずるずる三時近くまで打ち上げ、今日は午後遅くから犬の散歩に行くのがやっと。
みどりちゃん公園がモルガン・スタンレー社の防災訓練の避難場所になっていたので、ぼんやり見物しつつ、落ち葉をわさわさ踏んでいつもよりゆっくりめ。

あれこれの考え事もようやく気分が落ち着いて、ふむ、なんだかんだこうやって日々を重ねていくうちにぷつんと人生が終わったらさぞかし清々しいだろうなあ、などと。

Q・ラティファの「ラスト・ホリディ」、お話は出来過ぎだけど、彼女ならではのリアリティーで成立させられるところがスゴい。あんなふうに人生を使い切るのもゴージャスだろうが、満足して終わらせるよりたくさんの悔いを残して終わらせるのが生きることの醍醐味なんじゃないか。

よりよく生きたい、きれいな生き方をしたいという気持ちが、どっかしら自分の首を締めていたのかもしれない。ずるずるのダメダメのぼろぼろのぐちゃぐちゃでも、人から羨まれるくらいには人生を楽しんでいるのだろうし。よりよく逝きたい、に路線変更しとこうか。

だらしのないちっぽけなあたしだから味わえる、ささやかな幸せなんてのもあるからなあ。
神様、あたしを駄目な人間のままでいさせてくれて、ありがとう。
  1. 2007/11/16(金) 20:51:02|
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今日はボジョレー・ヌーボーの解禁日。
今夜はどこぞの社の解禁記念イベントで、歌ってきます。

新しい曲を3曲やるので、朝方まで一人でぶつぶつと二時間くらい練習。覚えてるつもりの歌詞がつるっと抜けるなんてのはよくあることで、芝居の台詞なら相手の言葉や場面から拾えるのだけど、歌の場合は後ろの演奏にちょっと感激しただけでつるっといっちゃったりします。あわあわになるのには馴れてるけど、聴いてる人はさぞ白けるだろうし。つまるところ、記憶力というより集中力が肝心なのでしょう。

あたしは文章などもPDF画像的に記憶する性質で、思い出すときはそれを頭の中に呼び出して読んだり見たりする感じなのだけど、集中してないと頭に再生される画像がピンぼけになるし、咄嗟にどこを読めばいいのか混乱してしまう。カラオケの画面みたいに歌詞がロールする感じで記憶できたらいいのに、そこまで高性能な頭脳じゃありません。

パーカッションがカズさん、深井くんのアップライトベース、ピロシくんのアコギという編成、このメンツでの練習は一回だけだったのだけど、時間が長かったのでうっかり飲み過ぎてしまい、個人的に悲惨な状態になって落ち込み気味に迎えた当日。

正直、びびるなあ。
何にって、自分の酒量ね。だってボジョレーっすよ、ボジョレー。解禁だし。
ま、いいか、見物する人たちもどうせみんな酔っ払いだ。



同じメンツ+クボちゃんのダブルパーカッションで12月にまたやります。

1215.jpg


12/15 sat @shibuya WastedTime
19:00open 19:30start
2000yen with 2drink tickets


featuring SOAK/Asako Maekawa/Takamitsu Watanabe
special guest AKLO&SORA

  1. 2007/11/15(木) 12:24:17|
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週末は歌の練習だけに集中して、後はすっかりだらだら何もせず。お陰で復調、リズムって大切だなあと今更に痛感。

毎週月曜〆切のブルハをやっているうちに、土日は休んで月曜午前中にがっと集中というリズムになっていたせいか、土日に休息できないと月曜に馬力が出ないとか、月曜の午前中から用事があると前倒しにしなきやならなくて、その分平日に休息を取るとか、なんだかそういう不器用なことになっていたんだろう。

原稿の〆切というのは変則的なので、生活リズムが作りづらい。某先生のように毎日朝から夕方まで時間を決めて執筆、というふうにしたいと過去何度も挑戦したが、無駄だった。
書きたくなったときにすぐ書ける状況でないと書き出せない、という致命的なスタイルだったし、書けないことに恐怖心があったから、神経症的に一日中モニターの前に座っていたりしたけれど、それが自分の生活リズムなのだと開き直って続けていたのは只単に不規則な生活で、それは家族の存在に甘えていただけなのだ。

犬との二人暮らしになって、平日は留守番させがちな分、土日は犬とだらだら過ごすことを必須にし始めて、なんとなくリズムができてきた。
以前から割と「普段はどんな生活をしているんですか」と質問されることが多かったのだけど、これまで決まったパターンがなくて答えようのなかったそれにも、今は答えられる気がする。

朝八時起床、コーヒー飲んでベランダの鉢に水やって部屋の掃除してメールチェック及び雑用少々、銀行や郵便局などの用事があるときは犬の散歩がてら午前中に済ませ、朝食。
それから原稿作業を始めて、早く終われば犬連れでコインランドリーや買い物に行くし、終わらなければ夕方までは作業、取材や、体調が悪いときの休息もこの時間帯。
打ち合わせや歌の練習や遊びに行くのは大概夜なので、入浴も夕方が多い。んで、出かけるか、本を読んだりDVDを観たりしながら夕食を済ませ、午前三時くらいには就寝ってのが平日。
土日はものすごく適当で、二日酔いで動けないときもあれば、午前中から出かけて半日以上と犬と散歩してたりもするし、ベッドでDVD5本立てなんてこともあるけれど、基本、用事や約束は入れたくないし、よほど差し迫っていなければ原稿作業はしない。

こうやって書き出せるパターンがあるってところが新鮮です。
続かないとしょうがないんだけど、快適さがもたらす効果の大きさは感じますな。
ビバ!別居。

まともな人でいたい。まともな暮らしをしたい。
つまり、人並みに対する昔からの強い願望が日頃の自分に失望する原因になっているのだけど、まともを目指す以前に、まずはそれなりに暮らすことが大切なのだったと、今更に気づいた次第。

多分あたしは、親や娘も含めて、誰かと一緒に暮らしたり、結婚生活を送ったりする基礎力が足りていないんだろう。物事の考え方も、暮らし方も、感じ取る距離感も、きっと一人仕様もしくは仕事の現場仕様の二通りしか持っていなかったんだろうと思う。
この先、そのまま一人でいるかもしれないし、老後の淋しさに負けてまた結婚生活に戻るかもしれないし、別の誰かとの暮らしを考えるかもしれない。
しかしまずは、と思う。
なんにせよ、今までの自分のままで暮らしていくのは、自分自身がしんどいし。
暮らしの基礎力、大切よねえ。
ようやく、生きることに対してフラットに目を向けられるようになったのかもしれない。

子供を産んで育てている間、「生きる力」を持たせることを最優先にしてきたのは、あたしに足りてないじゃんってことを自覚していたからで、それがないとこんなにしんどいよってのを教えたつもりになっていたし、子育てを優先させて自分のことを後回しにしたことは一度もなかったと思ってたけど、こんなところにありました。

そりゃそうだわなあ。
子供育てる生活の必然がなければ、苦手な結婚を次々してなかろうし。

自分で書いた婦人公論のエッセイを読んで「へえ、こういう人もいるのねえ」などと思います。
あれはなんだか不自由な感じがするから。
多分、あたし自身は、もっと自由に、心地よく生きているだろうと思う。

てことは、表現が不自由ってことかもしれないが。

それでも、子供を産んでいてよかったと思うし、基礎力つける暇もないくらいに次々結婚してきてよかったと思う。
こうして今、大切さを感じて真摯に取り組めてこそ、意味があるんだろうと思うし。

調子がよかったり悪かったりするし、足りないものもあるけれど、つまるところ、心はおおむね満ち足りて生きている。幸せなことだ。
  1. 2007/11/12(月) 12:16:08|
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体調不全であらゆることをサボっていた一週間、ぼちぼち動かないと延期した雑用がぎゅうぎゅうでまた身動き取れなくなりそうだし、このままぐだぐだしていたらウツ状態に突入しそうだから、無理やりにでも活動しないとならない。

早起きも苦手だが移動はもっと苦手だ。パニック発作とまではいかないけど移動すると疲れ切って何もできなくなってしまう。なので一日一件の用事をこなすのが精一杯、電車移動なく近所を動き回って用事を済ませる分にはものすごく精力的にあれこれやれるんだけど。そういう自分が社会的に駄目人間だなあと。具合よろしくなく用事をキャンセルしたりするとそれが原因で落ち込むし、落ち込んでいながら無理矢理に活動するとまた具合悪くなって何もできなくなるしの悪循環。
基本、町内限定で暮らしたい。もしくは体力が欲しい。


久々の長篇「コインランドリー」がアップされています。月二回更新の予定ですので、どうぞよろしく。
  1. 2007/11/09(金) 11:15:42|
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