あたしは多分「みっともない」という生き方が好きなんだろう。
みっともない、とは「見たくない」から来ている言葉らしく、今は「見苦しい」という意味で使われる。
思えば「みっともない」ことを避けたいばかりのええかっこしいをやっている。
見苦しいと思われるなんて、とても恥ずかしいことだと思っていた。
世間に恥ずかしくないようにという心がけは、自分が恥ずかしいと思うことはしてはいけないという戒めでもあるはずなのだけど、あたしの場合、世間と自分の恥じらい基準がズレているらしく、あまりあてにできない戒めだった。
それでも、かっこよくありたいとは思っていたのだ。かっこよく振る舞うことが難しくても、かっこ悪いところを人に見せないよう用心深くはいられる。それ即ち「みっともない恐怖症のええかっこしい」だ。その自覚すら赦せるようになったのは、それが充分にみっともないことだと気づいたからかもしれない。
こうありたいと願っても辿り着けずに地団駄を踏むのも、太々しく開き直るのも、すっとぼけて取り繕うのも、笑うのも、泣くのも、怒るのも、希望に縋るのも、絶望に浸るのも、どれも結局はみっともないもんだと思うし、そもそも、人という生き物は大変にみっともない存在で、やってることは他の動物とさほど違わないのに我々は知的で高尚な生物であると思っていたりするし、そうしたみっともなさの中で懸命に生きることを意味付けたりする間抜けなわけで。
恋愛なんて究極にみっともないじゃん。
だけど、みんなどっかそういう自分が気持ちいいから、懲りずに恋愛するんだろうし。
人と向き合うことは、ええかっこしいでやれるもんじゃないんですね。
だったら相手を選ばず、ところを選ばずにみっともなくやっていけばいい。
みっともない誰かを見て眉を顰めたり陰で嗤ったりする、その自分のみっともなさを知る人は、あんまりいない。
みっともないことを一生懸命にやり続けている人に対して、「一生懸命」の価値を認める人はいても、「みっともない」部分を認める人は、あんまりいない。
みっともない姿で地べたを這う人を嗤う人はそうそういないけれど、それを自分の選択肢にする人もそうそういない。
つまり、「みっともない」ことは、誰にとってもできれば避けたい不具合なことで、避けられずに陥ってしまった場合には、それほど必死であるとアピールすることができる、使い勝手のいい「不具合」だ。だから、はなから「みっともない」に開き直る人に信用が向かないのだろう。
自覚のなさがみっともないタイプや、みっともなさに開き直ってがむしゃらにやってるタイプは、案外とたくさん見かけるけれど、はなから「みっともない」という概念を持ってないんじゃないかっていう人には、なかなか出逢えない。
映画「リトル・ミスサンシャイン」の、ああもうみっともないったらありゃしないって大人たちの嘆きと開き直りは、生きる美学だろうと思う。けれど、あたしが心打たれたのは、みっともないという概念など持たずに、単純極まりない心の整理をする少女の幸福感だ。
あの少女の、なんていう幸福。
あたしは、あれが欲しい。
- 2007/11/17(土) 01:42:15|
- 雑感
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