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仕事部屋

なんと言えばいいのだろう。
つまるところ、心を開けない。
それは、相手を信用できない、ということでもある。

臆病なところがあって、相手の好意や理解の上にしか、足場を作れない。
もちろん、その自覚があるから、それらが感じられないところにもコツコツ自分が立てるよう足場を作ろうと努力はするのだけれど。
自分が築いた足場を信用できないってことなのかもしれない。

単純な話、物書きであるあたしの、書いたものを読んでいないとか、役者であるあたしの、演じているものを観ていないとか、そういう類いの。

評論して欲しいわけではないから、理解や共感などなくても、ただ知るだけでいい。
「知りたい」と思ってくれることや、「知ろうとする」労力を費やしてくれることが信用であり、敬意であり、誠意であろうと。

「どんなもの書いてるの?」と訊かれると、答が見つからない。
1)それをその場で言えるのなら、文章など書かない。
2)趣味でやってるわけじゃなく、仕事としてやってる。

仕事とはつまり、あたしにとってのアイデンティティーだ。
ボブ・ディランの曲を聴いたことがない人を、ボブ・ディランを知っているとは思わないだろう。ボブ・ディランと並べるのは、傲慢だけれども。

だから、あたしの小説を読んでいない人は、あたしのことを知らないのだと思っている。
人見知りなので、そういう人には心を開けない。安心できない。

ま、そんなことは、あたしの小説を読めば、きっとすぐにわかることだろうから、読まない人には、それすら想像もできないんだろうけれど。

そういう人と関わり合うことが、実はとても辛い。
ざらざらにささくれたベニヤ板で、いつも心を擦られているような感じ。
意思なのかもしれないし、事情なのかもしれない。
そう思いやって、自分の辛さは堪えるのだけど、気がつくと血まみれだ。

ふんぞりかえってるつもりはないから、読んでください、と本を差し上げたりもするし、興味を持ってもらえるよう、多少は仕事の話もする。
相手だって悪意があるわけではないから、本は受け取ってくれるし、話だって親身に聞いてくれる。

だけど、あたしの小説は読まない。
そこから先のあたしを知ろうとはしてくれない。
知らないままで関わったつもりになられるのも辛いし、知ってもらえないまま関わっていかなければならないのも辛い。

親しくなるほど、そう思う。
親しくなって知り合うほどに、「読まない、見ない」の穴が果てしなく広がる。
穴を埋めるためにもっと相手を知ろうとするのだけれど、あたしが相手を知るほど、相手があたしを知らずにいることが悲しくなる。
他の部分を知られるほど、真ん中にある一番大切なものが放っておかれていることが辛くなる。

お金を払って本を買って知ろうとしてくれる人がいるのに。
目が見えなくても点字や朗読で読んで知ろうとしてくれる人がいるのに。

いつも、そのことを考えて、めそめそ泣いたりする。
そういう人とは二度と関わるまいと決めているはずなのに、また関わってしまったと悔やんだり、そういう人の鈍さを嫌悪したり、別にもうどうでもいいやと諦めたり、むきになって訴えたりする。
そして、そんなふうにじたばたする自分をどんどん嫌いになる。
で、まためそめそと泣く。

なんてことはない、ただ傷つくってそれだけのことなんだけど、その時間はたいがいにおいて、ずるずる長引く。
そして、ずたずたに傷ついてから、やっと、もう無理だと、気づく。

知って欲しい、知りたいと懸命に働きかけた関わりだから、断ち切るのは難しい。
いつもそこでしくじる。
「この人、読んでくれないんだよね」と笑いながら、そのことがどれほどのものを取りこぼして失っているかを知っているあたしは、いつだって泣き叫ぶのを堪えている。
あたしの前で、頭をかいて笑っているその人は、どこの誰よりも遠い。
その人が遠ざかったのではなく、あたしが遠ざかる。

その人はいつも、ほんとのことが言えなくなったことにも、居心地悪くそこにいることにも、あたしが一人で泣いていることにも気づかず、頭をかいて笑っている。
なんて心のない人だろうと、腹立ちや悲しみや嫌悪を通り越して、見知らぬ人のようになる。

そんな人との関わりは、穴のあいた容れ物に砂を溜めようとしているようなものだ。
どれだけの時を過ごしても、砂粒に擦れた傷跡のほか、何も残らない。

とても残念だけれど。
  1. 2008/05/30(金) 13:33:43|
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