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仕事部屋

Break-Up.

誰だって、自分の安全地帯を探し当てるべきだろうし、見つけたそこは死にもの狂いで守るべきだろうし、それを持たない自分でも、傷ついた誰かのための安全地帯になれるはずだと思う。

どんな自分でも赦して受け入れてくれなんてことは、親にしか求められないのかもしれない。
そして、大変に残念なことに、あたしはそれをすでに失っている。

すでにそれを失った人には、誰かを赦して受け入れることしか残されていない。
赦して欲しいと懇願する人より、赦して受け入れる人の方が、よほど赦されたいと願っているものなのに、それは恐らく死ぬまで満たされず、永遠に願い続けるしかない。

何かを堪えて飲み込むとき、あたしは自分の孤独を自覚する。
人を赦すのは、赦すことで自分自身が少しだけ赦される気がするからなんだろう。

「the break-up」に、そんなことを思った。

映画に出てきた、恋人に問題を改善させる三か条は、
「大目に見ない」「受け入れない」「絶対に許さない」だ。

V・ヴォーンとJ・アニストンの同棲カップルが、二年目のある日、些細な出来事で不満をぶつけ合う。
「こんな扱いは我慢できない。彼に変わってもらいたいだけ、思いやって欲しいだけ、彼がゴメンと謝りさえすればいいのよ」とJ、友人たちの協力でVを反省させようと手段を尽くすが、恋人の望みを理解しようとしないVは意地を張り続けて関係を闇雲に悪化させ、破局にまっしぐらという物語。

家庭内別居状態になっている二人に、「君たちは一緒にいてもどうにもならない。もう一日も早く別れるべきだ」と、彼らの友人が忠告する。
二人で暮らすためにVが買った家を売りに出して、買い手がつくまでがちょっとした猶予期間になり、Jは自分自身を見つめ、Vはひたすらイライラを抱えて過ごす、そこんとこが分かれ道なんだろう。

思うのだが、我々ニッポンの女性は「自分はこんなふうに扱われるべきではない」という感覚に鈍感だよね。耐えて当たり前の悪習が未だ。
結婚関係では経済的自立のあるやなしやが関係するのかもしれないけど、映画のVも、Jに速攻で別れを切り出された直後「ここは俺が金を払った家だ」と経済力を盾に身勝手な振る舞いをして、際限なく人間性を貶めていた。

「ドッジボール」では、ダメなようでやるときはやる男だったV・ヴォーンも、どんなハチャメチャな馬鹿映画でも出てきただけで身近なリアリティーにしてしまうJ・アニストン相手だと、心を入れ替えて誠意を尽くしたときには手遅れな結末。
ラブコメながら甘ったるくない現実的な筋書きが痛快で、嫌いじゃありません。

余談ながらJとVはこの映画の撮影をきっかけに交際を始めて、現実でも二年目に破局したんだそうですが。

赦したり、折り合ったり、手入れをしたりするのは、いつもあたしじゃないか。
想いの強さは、守る強さとは違うしね。
なす術のないまま手遅れになる怖さを知っているから、ついついそうしてしまうのだけれど。

決して傷つけられることなく、常に守られていて、のびのび自由でいられる。
自分自身が、いちばん「イイコ」でいられる、安全な場所。
一人で生きてるような顔をしてても、誰にだって、そういう時間が、本当は必要なのだ。

みどりさんは、今日もあたしのお腹の上。

あたしは彼女の安全地帯に選ばれた。
だからあたしは、何があっても、その温もりだけは手放さない。

そんなふうに誰かを思えるときが、あたしにもいつかあるんだろうか。
  1. 2008/06/28(土) 05:35:10|
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