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しつこいですか。
けど、定員に足りないと赤字になっちゃうんだもん。



この数日は日常の心地悪さを感じていたのに、今ふと気づいたら、ああ幸せだなあと思っていた。
幸せの具体的な理由は、モグラ町のレビューを読み返していたからなんだけど 笑

当たり前だろうけど、褒められるのは嬉しい。
褒められなくても、まあ嬉しい。ほんとです。
意見することには労力を使うんだから、それを割いてくれるってだけで嬉しい。
だから褒められなくても嬉しいし有り難いけど、あんま好きじゃない。

もうやっちゃったことあれこれ言われてもなあ、どうしようもないからスンマセンとしか言えない。
けど言う方だってスンマセンと言われたくて言ってるわけじゃあるまい。
仮にそれは解釈の間違いですと思ったとしても、そうとは言えない。
何が理由であれ「つまらん」と思ってしまったその時間を取り戻すことはできないし、正しい解釈を伝えたところで「つまらん」が「おもろい」に変わるはずもない。
「○○だったらもっと良かったのに、もったいないよね」などと上手風な言い方をしてくれる人もいるが、これも余り意味がない。
まさか「もったいないのはあなたの感性だ」とは言えまい。
それに、あたしが戴く感想は芝居とか小説とかのもので、大概が応用のない独自のものだったりする。つまり「次は気をつけます」が言えない。

だから、あたしには褒めてくれない感想があんまり役立たない。
褒めない人は黙っていればいいと思う。
褒めない感想で納得がいくのは、「つまらなくて腹が立った」という怒りの矛先として向けられるそれだけだ。

褒めるのは、共感の表明による自己表現だったり、サービスだったり、もっと単純に興奮だったりするんだろうけど、褒めない感想を口にするのはなんでだろう。
自分のことを振り返れば、安い自己顕示欲とわかるけど。

「つまらん」はつまらんで良くて、何がつまらんのかをぼそぼそ呟いているぶんには愚痴の一種としてありだと思うし、愚痴と思えば受け止められる。
が、作り手に面と向かってそれを言うのはまた別の覚悟が必要になるはずで、すなわちそう評価を下してしまうことへの責任というか、関わり合いというか、まあ、そういう類いのものを、言われる方にしてみれば、言うんだから背負ってくれてるんだろうと、勝手に期待してしまうもんだと思う。

そして実際、きちんとした評論家や観客や読者は、背負ってくれているのだ。

若い頃には「若いのに」という枕詞で大抵の結果は褒めてもらえたもんなあ。
今同じことをやっても「もう若くもないのに」という枕詞に続いて罵倒されるだけだろう。

つくづく、「何をやるか」より「いつやるか」の方が重要なのだと思う。
今日やれたのにと思いながら今日を終えるなんてまっぴらじゃありませんか。
明日でなければできないことをするための明日なんだから。
一日の終わりはきちんとピリオドにしたい。
んで、できれば褒められたい。

些細なことなんだろう。
褒められたり感謝されたり歓ばれたり労われたりして一日のピリオドを打てれば、それだけで幸せになれる。誰だって、きっと。
けれど、自分が幸せになれる居場所、自分を幸せにしてくれる人を選ぶのは、自分自身の責任だ。
褒められるときの歓びは、それが間違っていないと認めてもらえる歓びでもある。

褒めるとか、感謝するとか、歓ぶとか、労うとか。
人を幸せにする方法は、案外に単純だったりするのね。
みんながそれを実践すれば、それだけで人類は皆、今よりちょっとずつ幸せになれるに違いない。

しかしながら、絶対の幸せを手にした人はそれを守るべく闘う術を身につけ、侵略を許さないテリトリーを持つ。うっかり踏み込めば蜂の巣にしたり、されたリ。
ならば、幸せなどなくてもいいのかもしれない。

幸せになりたいと望む心は、幸せになれるかもしれない明日を待ち望んでいるんだから、それだけで何よりほくほく幸せじゃないか。

ま、あたしは、絶対の幸せより褒められるだけのちょっとした幸せが欲しいんだけどね。





  1. 2008/07/31(木) 04:24:07|
  2. 雑感
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娘のブログによくコメントをつける。
一方的な説教とか、一方的な励ましとか、一方的なアドバイスとか。
娘も「もやもやがすっきりした、ありがとう」なんてコメントを返してくれる。

で、思った。
人の心の内側にあるものって、結局は言葉なんだなあと。
「考え」も「気持ち」も「感覚」も、結局のところ、全部言語で整理してるだけだよね?
だから、言葉にできないものは、全部もやもやのまま残される。
ボキャブラリーが足りなければ心の内側を整頓できない。
他人に悩みごとを相談するのは、そのためなんだな。
大体の相談事は、他人の「考え」や「方法」が欲しいわけじゃなくて、ただ「言葉」が欲しいんだと思う。
不足していた言葉が他人によって補われれば、すっきり整理がついたりする。

よって、バカほど悩む、は、ある意味真実ですね。
何をもってバカと定義するかは別のこととして。

そんで「上手な彼の愛し方」とか、そういった、多くの人のもやもやを掬い取る「言葉」が豊富に書かれた本が売れる。本が売れる、というよりは、言葉が売れるんでしょうな。
多くの人のもやもやを掬い取るって時点で、その言葉はかなり浅い意味合いの平べったい言葉になりがちだけれど、それは確かに、もやもやを解消してくれたりする。
「彼が好き」とそのまんまの言葉で書かれているものの方が、事細かな描写で「彼が好き」を伝える文章よりずっと多くの人に役立っている。
たとえば、蝶々だったり相田みつを、だったり。
多くの人に共通する、ちょっとしたもやもやをさらっと言葉で掬い上げる芸。

てところで、小説はなかなか売れない。
はなから共感できそうなシチュエーションの物語しか選ばれなかったりする。
「十五」にもの凄く共感してくれている友人がいるんだけど、そりゃあんた、どんだけ不良娘だったんだって話でさ 笑
「どんな本が好き」というだけで、その人が知れたように思うのも、そのへんのことかもしれない。

本を読まずとも潤沢な言葉を知る人は存在するんだろうけれど、その応用の幅広さを知らないという点が、不勉強=不幸せだ。ビジネス書ばっかり読んでる人を読書家とは言わないってのも、そういう基準だろう。

限られた言語を多様に使いこなして人の心の内側にある同じものを掬い取ろうとするのが小説だから、小説を読まない人は、言葉を知っていてもその使い道を知らなかったりするし、そういう人の場合、自分の考えを一生懸命話してくれるときも、わかりづらく伝わりづらくて、聞いてる方が同時進行で整理しなければ真意を掴めなかったりする、要は話し下手だ。

複雑な構成の小説を読みこなす人は、人の心の複雑さや、言葉の選び方、話の組み立て方の複雑さも読み取る。その手のものが読めない人にはただ理屈っぽいだけだろう。

ボキャブラリーが少ない人は、人の心も自分の心も眼鏡のない近視眼みたいにぼんやりしか見えていないんだろうな。気が合うとか馬が合うってのも、お互いの言葉がスムースに通じる相手ってことだろうし。

自分が読んだ小説の本について「どんなお話だったか」しか語らない人は、きっとそれしか読み取れていないんだろう。「どんなお話だったか」の中には「何が書かれていたか」が含まれていない。そんな読み方をしていては、何冊の小説を読んでも役立たないだろうし、読む時間は途方のない無駄だ。だからそういう人は小説を読まなくなる。読まないから読めなくなる、悲惨な悪循環。

言葉を知らないってだけで、人のことや自分のことがぼんやりとしかわからない人になってしまうなんて、本当にひどい、悲しむべきことだと思う。

あたしは、本を読まない人が世の中に存在する現実を考えると、いつも絶望的な気持ちになってしまう。あたしにとって、その存在は、アフリカの餓えた子供たちや、戦争が起きている国や、人種差別をする偏った思考を持つ人たちと同じで、存在することは否定できないけれど、いっそ地球上から消えてしまえばいいのにと思わせられる存在。
そんな人も同じ日本人で同時代に生まれて同じ街に暮らしているってことが、どうにもこうにも、もやもやむかむかちくちくぎりぎりと苛立たしい。
小説の一冊を読む時間も生み出せない無能な奴がいっくらビジネス書やノウハウ本読んだって知恵はつかねえよと言いたくなる。
その一点において、あたしはかなり了見が狭い。読書に関しては過激派を自認している。

そしてやはりフランク・ザッパ。
情報は知識ではない、知識は知恵ではない。

ならば戒めに、言葉は思想ではない、思想は心ではない、と言うべきか。

ちょっとしたことが、とめどない不満になる。
ただの思考が、次々と不満に結びついていくのは、日常の心地悪さのせいかもしれない。

最近はどんな小説を読みましたか。どんな言葉を知りましたか。
あたしは「うっとりするような暑さ」という言葉の使い方を知りました。
本ではなく、友人のブログで。
ほんと、今日も朝からうっとりしてます。暑いの、嫌いじゃないんです。


  1. 2008/07/29(火) 10:04:52|
  2. 雑感
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伊映画「映画のようには愛せない」は映画の撮影現場における俳優同士の恋愛、女優になれない女の現実は女になれない女優に過ぎず、居場所のなさが小さな命の実感を欲するんだろう。
よく出来たお話で、どこまでもリアルなエピソード、現実的すぎてせっかくのイタリア映画なのにちっともロマンチックな気分にならないけど、「ふふん、キチガイめ」と含み笑いで痛みを誤摩化しつつ。
俳優ってのは太陽を仰ぐ向日葵のように破滅に向かっていく性なのだ、「世の中の人間には男と女と俳優の三種類しか存在しない」とは誰の台詞だったか。
幸いこんな男には出会わなかったが、こんな恋愛ばっかしてきたらそりゃちょっとどっかおかしくなるわな、と実感、ならば画になる破滅へ、更には物語になる破滅へ。

先週末に髪をばっさり切った、こないだも切ったんだけどどうにもまとまらず、ブレイズとパーマで痛んでいた部分をちょっきんとしたらプール通いの小学生みたい、襟足が涼しくてよいです。

みどりさんもようやく初花でオクテを返上、しばらく気軽な外出ができなくて可哀想だけど仕方あんめえ。

気づけば今月も怒濤の如く過ぎようとしている、長篇のシノプシスは気負いが抜けなくて未だ手つかず、月アタマからは〆切四本が立て続け、終えたらワークショップで一週間、合間にいくつか観たいライブもあって、結局今年もまとまった夏休みは取れそうにない。
子供の頃から夏休みなんてもんはなかったから、いつも通り、ただ暑い毎日を送るだけなのだけど、盆暮れ正月に帰省する実家もなく微妙に空いた感じがするトーキョーで淡々といつもと同じ毎日を迎えるたび、ちょっとだけ淋しくなる。

まあ皆さん、親が無事なうちに盆暮れ正月には顔見せに帰るがよろしい。
「帰ってやろうかな」と思うようになれば、子の役割を終える時期が近づいてるってことだろうし、その役割を果たさないとほんとの人生は始まらないもんだろうから。


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  1. 2008/07/27(日) 15:18:29|
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mad hot ballroomというニコロデオンのドキュメンタリー映画に感動、ニューヨークの小学校のプログラムで導入された社交ダンスに取り組む小学生たちの可愛らしいこと。
日本でも、小学生用にサブスクールを作ればいいのにね。
学童クラブみたいに放課後に集まって、社交ダンス、作文、読書、裁縫、料理、大工仕事、動物の世話を教わる。

大事に育てるって、どういうことかねって話を最近していたんだけど、しくじらないよう、危険な目に遭わせないよう、傷つかないよう、って保護するだけでは、ダメな大人にしかならないような気がする。
肝心なのは、しくじったときにも危ない目に遭ったときにも傷ついたときにも自分で乗り越えられるような知恵をつけてあげることだろうと。

学校なんてのはほんとに社会のミニチュアで、それぞれの家庭の方針や、親の個性をそのまま反映させた子供たちが、大人と同じことをやってるところでしょ。
いい子も悪い子もいていいんだし、同じように、いい大人も悪い大人もいる。

うちの娘の高校は、「性同一性障害」の先生がいるって聞いたから、そこ一本に決めて受験させたんだけど、そういえば、未だその先生にはお目にかかっていない。
って、あたしは、入学式以降一回も学校に行ってないけど。
最初の授業のときに必ずカミングアウトするんだって聞いたんだけど、もう辞めてしまったのかなあ。

ダメな先生なんて大歓迎じゃない?
学校は、人間動物園であって欲しいから。
世の中には色んな人がいるってことを知って、そういう人たちそれぞれに対する接し方を、傷ついたり傷つけられたりしながら学んで、自分もそういう色んな人の一人でしかなくて、何も特別なんかじゃないってことを、ひっそり飲み込む。
そうあってくれたら、他のことはどうでもいい。

子供にとっての学校はすでに社会だし、学校での出来事に本人が対処できるかできないかは本人の力だし、その力が不足するところがあれば、本人が努力して身につけるしかないわけで、そこんところの手助けをするのが親や、身近にいる大人の役割だろうと思う。
読み書きそろばん以外のことを教えてもらおうと期待する方がズレてるんじゃないのかね。

行き届いた学校や先生だってあるんだろうけれど、それは出会ったらラッキーってことでさ、人として生き抜いていくために必要なことは、点数つけずに個性に沿って教えてあげればいいのにと思う。

サブスクール、私設でやりたいなあ。誰か出資してくんないかしら。

  1. 2008/07/27(日) 02:02:43|
  2. 雑感
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火事じゃありません。

テルコが「火事だいじょうぶですかっ」と電話してきてくれたのだが 笑

すいません、比喩がよくなかったですね。
鎮火、と書いたのは火事じゃありません、憤怒の炎です。陳謝。


翻訳プロジェクトのミーティング二回目は、韓国から日本に出張中の徐さんに合わせてO教授と三人、リアル韓国文化の話に興味津々。
帰宅してから数時間かけて、ミーティングの内容をまとめたメール、プロジェクトに参加して欲しい人への誘致メール、今回のミーティングには出張中で参加できなかったSさんへの報告メールなど作成、送信。

そもそもあたしは、「自分で何かことを起こすと必ずやしくじる」手相を持っている。
これは、小説の新人賞をもらう前に、しかも受賞発表の前日に、池袋の手相見に言われた。
「あなたは『タンポポ線』があるわねえ」…『タンポポ線』ってあるのか知らんが、そう聞こえたんです。
「なんすか、それ」と訊いたら、「自分で何かことを起こすと必ずやしくじるけど、あなたの周りには全力であなたを助けてくれる人が次々に集まってくるから、そういう人に全部を任せれば、すべてがうまくいく」と言われた。
で、新人賞は、あたしの意思で応募したんじゃなくて、原稿を読んだ編集者の強い薦めで応募したんで、ばっちりだったと。
だから、信じる。タンポポ線。どの線かわからんが。

なので、プロジェクトも、徐さんのような「翻訳をしたい!」情熱溢るる元文学青年の登場によって、俄然うまく動き出すに違いない。

と、このような能天気さで、今日も主な話題はソン・ガンホをどの作品でどの役にしようかと獲らぬ狸の皮算用で盛り上がって、ミーティング終了。

あ、チョナン・カンの話も出たな。
チョナン・カンとソン・ガンホとペ・ドゥナで「鞄屋の娘」はどうだ。
こうなるともう、狸というより鯨、マイデートウィズチャーリーズエンジェルくらいの話のデカさだが。

悪友が集まって、「こんなん面白いんじゃん」とかの飲みの話が悪ノリになって、真夜中に興奮状態であちこち電話したり、よくしたっけなあ。
O教授との出逢いになった8ミリ映画もそうやって撮ったし、そこから立ち上がった品行方正児童会もそんなノリで旗揚げしたんだった。

もちろん、タンポポ線のおかげで、どっちもどうにもならなかったが、そうやって始まることには、必ずや面白い出逢いがあるし、その出逢いが十年後、二十年後に何かにつながったり、誰かと誰かを結びつけたりするんだから、それはそれでいいんだろう。

「お、なんか面白そうなこと、やってんじゃん?」って思ってくれる人が集まれば、それだけで「面白そうなこと」は間違いなくそこに出来上がるんだしさ。

ぬるい?

いいや、ちっとも。

ヴェンダースでソン・ガンホも、夢じゃないのだよ。わはは。
  1. 2008/07/25(金) 02:03:42|
  2. 雑感
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昨夜未明、消防隊の懸命な消火活動により、無事鎮火。
ご近所の皆様にはご迷惑をおかけしました。
憤怒の勢いでバカラのグラスを窓から投げ捨てなくてよかったです。


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  1. 2008/07/24(木) 14:36:25|
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安息は、どこにあるのだろう。
つまらないことに気を取られてがたがたに振り回され、安息のために全力を尽くしても、また同じようなことが、次々あちこち絶え間なく持ち上がる。

ちょっとコマンドを入れたらすぐにフリーズしてしまう具合の悪いパソコンみたいなもんで。窓からぶん投げたくなる。

何がキツいって、仕事が捗らないったらない。

もちろん、それは自分の気力のせいなんだけども。
くらくらするほど必死に空気を吹き込んでいるのに、どこかに穴があいてる感じ。
しゅうう…と静かな音が聞こえるばかりで、いつまでたっても掌の中のそれは、手応えを持たない。そんな感じ。



何故って、そりゃ、激怒しているから。




あたしは、普段、怒ることが滅多にない。
大概が理屈の胃袋で消化できるし、消化できなかった結石は言葉にして排出するから。
そうでなければ、アレルギー反応を起こす。
怒りの感情を受け付けられない体質なんだと思う。

感情というのは、それを引き起こす現象の問題ではなく、感情が起きる土壌の問題だろうから、いやな気持ちになると、それを起こす土壌である自分自身を拒絶してしまうんだろう。
たちまちに生きてく気力を失くす。それが、体の不調になって現れる。
不安発作、喘息発作、嘔吐の挙げ句の吐血、吐血の挙げ句の貧血、体調不良による鬱状態。
ダウナーとはまたちがう。どこか攻撃的にアッパーだし。
攻撃したい、排除したい対象が自分に向いてしまうから、結果はダウナーだけど。

いっそ全部消えてしまえばいい。
核爆弾でも落ちないかな。

こういうとき、2ちゃんねるに「お前らみんな死んでしまえ」とか書きたいんだけど、残念ながらあたしんちの回線では書き込めない。
現れる奴らを皆殺しにするゲームとかしたいんだけど、うちにはゲームがない。
でろでろに酔っ払いたいんだけど、体がアルコールを受け付けない。
せめてメラトニンでもと思ったら、二錠しか残ってなかった。
この一年で百二十錠入りのメラトニン一瓶空いてるって、どういうことだ。
前はそんなに飲まなかったのに。

眠る力は生きる力なのに、なんかもう、いろんなところが衰えてるんだなあ。
  1. 2008/07/24(木) 00:15:06|
  2. 雑感
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触るな、危険!






                  激怒しています
     




  1. 2008/07/23(水) 00:18:20|
  2. 雑感
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犬盆。

犬息子と犬嫁がこさえた子供は全部で9匹、全員が代々木公園に集合して総勢11頭で犬まみれの犬盆、他にもイタグレのグループがいたのでドッグランは「夏のイタグレまつり」、珍しい光景なのか柵の外から見物してる人も多かった。
夕方になってカフェに移動、みんなで行列して歩いているとデモ行進のよう、偶然よそのイタグレグループも同じ店にやってきたので、今度は店のフロアが「納涼イタグレまつり」。

帰ってきたら体中が犬臭かったです。


Image008.jpg
カフェにて、みどりさん、大好きな帆太郎とーちゃんにずっとくっついていて離れず。

Image016.jpg
左がとーちゃん、真ん中がみどり、右がかーちゃん。



因みに、犬とーちゃんは舘ひろし、犬かーちゃんは林寛子に似ていると思う。



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  1. 2008/07/21(月) 12:45:01|
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ハングル・ウェーブ。

さざ波がきてます。
特にmixiで。

プロジェクトのメンバーが、韓国の検索エンジンからこんなブログを見つけたと知らせてくれた。
あたしはハングルが読めないので、どんな方のどんなブログなのか皆目検討がつかないのだが、どうやら小説を書かれている方のようだと。

で、その記事に書かれていることを翻訳してもらった。

初めて彼女の文章を読んだ時は自慰がしたかった。
再び彼女の本を読んだ時には彼女と酒を飲みたくなった。

前川麻子

ポルノ俳優として出て横浜ポルノ映画祭で
グランプリを受賞した彼女は
私にいつも官能的な文章を書く姿勢を呼び起こしてくれる。

私はまだポルノが書けない。
脳ではない指先でオルガズムを感じるまでには
書けないだろう。

女達が私の本を持って自慰に落ちるぐらいの
素敵なポルノを書きたい。

もしかしたらただ
彼女とセックスをしたいだけかも知れない。

前川麻子


わっはっは。モテてます。
「母娘監禁・牝」のときの、今岡さんみたいだよ。

このブログを書いた人は小説のページも持っていて、そこにアップされている作品は「チサトアイデンティティ」という作品。
韓国にはチサトという名前はないそうなので日本女性の名前らしいが、この中にもブログ記事と同じようなことが書かれているらしい。

もちろん、翻訳してもらった。

 チサトと一緒に作業室へ行った。
 作業室で音楽をかけといて僕の膝に彼女をのせて日本から出たSM小説を読んであげた 
 大部分が日本の有名な作家が書いた所謂官能小説なのだが、僕はその中でも女性が書いた小説を読んであげた。女性の観点からみるのと男性の観点から見るのは互いに違うためだ。
 小説と言うものは元々が原書で読むのと翻訳本を読むのとは違う味がする。日本の官能小説もインターネット上で翻訳されて載せられた文を読むよりは原書をそのままで読んだ方がより実感が湧く。日本語は日本語の味があるし、その言葉の意味を噛みしめる味がなかなかのものだからだ。
「素敵ですね」チサトは僕の膝から上体を起こしながら斜めに座ったままで僕を見つめた。
「そんな風に仮想の話をもっともらしく作り出すのだよ」僕は彼女の輝く瞳を見つめた。 
 彼女の瞳は熱い水気を含んでいた。
「まるで宇宙に一つの世界を作っておいたみたいに、その中にいろんな人と物を集めて生かして、動かしている様な感じですね」
「ただ、連載料をもらおうとしているだけさ。そして、それが集まってこんな風に本になったんだよ」
「お金稼ぎとしてはとてもかっこいいですよね。こんな小説を書く女性はどんな女性なのでしょうか。」
「前川麻子」僕は作家の名前を言ってあげた。
「あさこ、いつかご主人様が知っている女性の名前があさこって言いませんでしたか」
「あさこと言う名前は日本にはすごく多いんだよ。この女性は全く知らない。小説家でもあり、また女優でもあるんだ。ポルノ女優。」
「あっ」チサトは感嘆する様に叫んだ。「と言うことは自分が書いた小説で映画を作り、そこでまた主演をしたりするのでしょうか。」
「いや」僕は上体を曲げて雑誌台にさしてあった雑誌一つを出して見せた。
 現代小説。雑誌の表紙人物として前川麻子の写真が載っていた。
「挑戦的ですね」
「この女性はいつか横浜ポルノ映画祭で主演賞をもらったことがあるんだよ。僕はその映画を見てないけど。だけど、こんな女が出て演技をしたとしたらそのポルノ映画は本当にうまく作られただろうと思うんだ」
「ポルノ映画に出るためにはセックスがうまくないとだめですよね」
「さあ、演技力がよくないとだめなのでは?」
 チサトは笑いながら僕を眺めては着ていたシャツのボタンを外し始めた。

※翻訳文は二点とも徐 丞範氏によるもの。改行挿入は私。


どわっはっはっは。ダシにされてます。しかもメイド小説です。
よほどエロいインパクトがあったんでしょうか。

因みに、ブログに掲載されている写真は、いわずもがなアラーキー撮影のそれ。
だから、エロいのはあたしじゃなくてアラーキーの眼だと思うのだが。

けど、なんか嬉しい。
どこかの国の見知らぬ人が、こんな形であたしを知ってくれているんだなあ。
そして、まったく関係のない人を間に挟んで、あたしも、こんな形でこの人を知った。

インターネット万歳!


  1. 2008/07/17(木) 23:33:11|
  2. 雑感
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