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仕事部屋

あたしの恋愛成績表…ちょっとした才能なのに活かせてない気がするなあ…と思っていたら、案の定、モテぶりはよろしくないと見抜かれた…ほんとにねえ、そこらへんどうよ?と思うあたしに代わり、あたしの恋愛について1000人にインタビューしてくれた結果は、これ

…つうことで、絶望ポーカーもやってみたのだが、人生の指針を与えられているような。

「after sex」で、愛は妄想のゲーム、とか言ってたような気がする。
リアルじゃ笑えないことを、ゲームで笑い飛ばしてしまえってコンセプトなのか。
この切り口は、けっこう好き。

因みにこれがあたしの伝説なのだそうだが、ゲームなのに三つほど事実が混じっているのはどういうことか。

過去の恋愛を採点するコンテンツでは30代以降のデータを入れてみた、あんまりにも的確な評価が出てしまったので、これは非公開にしとく。

ハニホー、いやはや恐ろしや。

  1. 2009/01/14(水) 22:52:40|
  2. 雑感
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昨夜も朝まで調べものして予習復習、今日は昨日に引き続き常さんに三時間のヒアリング、一夜漬けながらも学習効果はそれなりにあって常さんの解説が昨日よりすんなり飲み込めるってな具合、自分の解釈がそれほど見当違いではないことがわかると次にはもっと知りたいことが浮かんでくる、よって帰宅後も黙々と調べもの、ぼふっと知恵熱が出ました。

ぱんぱんの頭が感じていることは、言葉の情報量、伝達力。

昨日までわからなかったことがちょっとでもわかるようになるのは何とも言えぬ快感だけれど、正しいそれは「知る」というだけの単純なことだ。

「知る」は「わかる」とは違う。
WiKiの記事を読むだけじゃ、「わかる」どころか「知る」ことにすらならない。
文章で書かれている内容を理解するのと、人の話す言葉を理解することは違うし、文章として読み易く正しく整頓された言葉を読むことと、感情や知性や思想を持つ生身の人の言葉を聞くことと、出来事を実感するってことは、やっぱりそれぞれ違う。

何がそれなのかと定義するのは難しいから、感覚で言うだけなのだけど、知識としての理解と実感や共感の隙間を満たすのが、「知る」という認識のような気がする。

理解することには、理解力という個人差があるから、誰もが同じものを手にできるわけじゃない。
けれど、知るってのは、知ったことをどう受け止めるか、どの程度の理解が及ぶかの個人差はついて回れど、「認識」ってことに限れば「へーそうなんだ」も「うっそ、マジで?」も「またまたそんなー」も同じように「認識」したことになるでしょ。

私は今日、常さんにたくさんの質問をして、たくさんの解説を受けて、それを知った。
ヒアリングしていた店の片隅にいた赤ちゃん連れの女性も、今日、私と常さんの会話として、それを知った。

「知る」って、すげー。
隙間をひたひた満たす抜群の浸透力だ。

常さんの職業はその仕組みに働きかけて、いつも何かを「知らせている」んだなあ。
かっこええー。

多分、あたしも「知らせる」ために書いてるんだろう。
出来事や、出来事にまつわる人の顔や、仕草や、景色や、真っすぐに向けられる機会を失した呟きなんかを、そういうものを掬い上げる人が存在することと一緒にして、知らせる。
だからこそ、「まずは読めや」と言いたくなるのかもしれないし。

そこにおいて、小説もブログもメールもたった一つの目的しか持てない気がする。
それをどう感じ取られるかと望むところはなく、ただ知らせたいのだから、気にいられることを目標にはできない。

それでも、「知らせた」ことは、ちゃんと自分に返ってきて欲しいとも思ってて。
感想や、意見や、批判は、「どれくらい知らせることができたのか」を自分が知るために、必要だから。

そう考えて、自分のやってることは案外とストイックかつ欲求と矛盾した行為なんだなあ、なんて思った。
だって、いくら書いても、それは「知らせる」こととはやっぱり本質が違うんだろうし。
出来事を「知らせる」のは、とてもむずかしい。
「知らせる」ことができるのは、結局のところ、自分の感覚で受け止めたそれらでしかない。

けど、「知らせる」べきことは、そこにしかないのだとも思う。

抱き心地のいい嘘やおためごかしは、体の中をするりと通り抜けるだけだ。
ぐっさり刺さる真実の痛みを体に感じることが、「知る」ことだろうと思う。
真実は、個人の感覚の中にしかない。
それは、事実という出来事の表面とは違う。

「知る」は、あっさり触れられる真実だ。
だって「理解」は「誤解」という側面を常に孕んでいる。

結論のない状況説明を受けて「なるほど、それではこうということとして受け止めましょう」と、察したふうに自分が結論を出すなんて、真実の放棄だろうし、理不尽だ。
どこかに結論を必要とする人がいるならば、それを「知らせる」くらいの労力を費やしたっていいじゃんか。
「結論は出ませんでした」という結論であっても、たとえ十分に察していて見誤りようの無い結論が目の前に置かれていても、それを「知る」のと「推察する」のとは受け取る側にとって全然違う行為なんだし、それが「関わり合う」ってことだろうと思う。

大人の常識なんて豚のケツ。
言わぬが花とか空気読めとか知らぬが仏とか、お愛想おつきあい社交辞令の類いなんて社会のゴミ。
と、あたしは何度でも繰り返す。

だって、あなた方は、何事もバカ正直に真に受ける人を愚直と嗤ったり、純粋な人と褒めそやしたりする。
自分たちの知りたくないことからは目を背けたり、自分たちに知らされない世の中の出来事には隠匿だと騒ぎ立てたりする。

そりゃ誰だって、耳障りのよくない音がすれば耳を塞いでしまうし、見たくないものが現れれば咄嗟に目をつむる。
舌触りのよくない言葉を口にするのは苦々しい。
それはきっと本能で、ほら日光にいるじゃん、人の本能を象った、そういう猿。

たとえば、「ありがとう」とか「ごめんなさい」を選んでくれる、柔らかな気持ち。
そこのところは、もうその言葉だけでもちゃんと「わかる」。
けど、それとは別の、またもっと他の意味を持つ、ごつごつしてたりトゲトゲしてたりするそれ、それを隠してたらダメじゃんね。

きれいなリボンをかけたプレゼントの包み、手触りで中身を想像しながら包みを開けたら中身は空っぽ、みたいな。

どんな言葉を口にしようが、それだけでその人を量ったりはしないのに、きれいなリボンを選びたくて、あたしたちは神経をすり減らす。
言葉で人を量る人は、言葉に謀られてるんじゃないか。
そう思いながら、やっぱりすべすべした手触りのいいリボンを選んでしまう。
関わりたいから。

なのに、関わり合いを放棄するような贈り物を選んでる。
「失言」も「言霊」も、実体は同じだろうに。
言葉なんて記号の羅列に過ぎないのに、どうしてかこれほど囚われる。
そして、うんざりして口を噤む。

だからこそ、「知らせる」こと「知る」ことが、唯一正当な関わり方に思えるのかもしれない。
理解とか共感とか裏とか表とか後とか先とか関係なしに、「知る」は「関わる」だと思う。

だってさ、世の中「言わなくていいこと」はたくさんあっても、「知らなくていいこと」なんてのは、一つもないんじゃない?

知りたいことは訊くって、ただそれだけで、「言わなくていいこと」の扉を叩いて誰かや何かと関われるんだから、シンプルでいいやね。
「知りたい」こそ、創世記に描かれた本能じゃないか。

図らずも今月のあたしはヒアリング強化月間。
真実の光を優しく屈折させる磨りガラスの向こうが、知りたい。




  1. 2009/01/14(水) 04:52:35|
  2. 雑感
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