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仕事部屋

とても親しくしている友人がいるのだけど、うんざりさせられることが多くて困っている。
普通にトモダチ付き合いをするときの感覚が、どうも噛み合ないらしい。

たとえば、時間やお金系の数字の約束を守るとか、御礼を言うとか、お詫びをするとかの、トモダチ以前に私が当たり前と思っていることが、いちいちできない。

年齢が私よりかなり下なので、腹を立てながらもその都度「御礼を言いなさい」とか「お詫びを言いなさい」と忠告するのだけど、彼は必ず謝ったり御礼を言ったりするより先に「そういう高圧的な言い方をするな」だの「理由を聞こうともしないのは一方的で暴力的だ」と反論をするので、始末に負えない。

人を怒らせるのは、冷蔵庫のドアを開けるようなもので、理由だのなんだのよりまずはドアを閉めろ、と思うのは私だけなのだろうか。
怒っている人間が一方的なのは当たり前だし、そもそも一方的に理不尽な無礼を受けるから怒るんであって、謝りもせずに「理由を聞け」とは、そちらの方が一方的だろうと思ってしまうから、まったく折り合う点がない。

親しくしていることに甘えているんだろうと思うから、何度も距離感を調整した。
言ってしまえば元カレなのだが、つまるところ彼とは最初からこの問題が解決しないままに関わり合っていて、恋人の頃には周囲からも同様の無礼を指摘されていたし、その都度私が頭を下げていた。

何度言っても直らないのは、きっと客観性がないからなのだろうけれど、いつでも彼は自分の言い分が一番大切で、相手の感情を損ねることにはなんの責任も感じない。
「怒ってるんだよ」と言えば「俺だって怒ってるよ」と言い返す有様で、礼儀や筋道を通すことには重要性がなく、幼稚園児の如く、自分にわからないことには決して折り合わない。
まともに付き合えないので、恋人関係は解消した。

トモダチになれば、私自身がそういうことを気にせずに、もっと快適な距離感でうまくやれるだろうと思ったし、彼も多少は礼儀や筋道を通すようになるんじゃないかと。

ちがった。

どうやら、距離感や関係性ではなく、もっと本質的な問題らしい。

私はもう恋人でもないし、無論親兄弟でも教師でもないから、彼がどういう人間であろうと知ったこっちゃない。
トモダチだから、自分に嫌なことをされれば直接に訴えるまでだ。

で、相変わらず、言い合いになる。
メールを多用するから、分が悪い。
もともと彼は頭の中で言葉を組み立てるのが上手なタイプではなく、喧嘩と議論と会話の区別もついていない人だ。
理論だてているつもりの自己主張にも説明が足りていなかったり、文法がでたらめだったりして、メールで読むと本人の意図せぬところで「愉快なメール」になってしまっていて、こちらはついつい作文教室の先生のように微笑ましく彼の激情を受け取ることになる。
もちろん、敢えてそんなことに着目はしないし、指摘もしないのだが、どうしても「言葉の使い方が上手じゃない人向け」の返信になってしまったりして、それがまた彼をバカにしているように思われる。

しょっちゅうそんなことがあるので、最近ではもうお互いに言いたいことを言い合って後は知らん顔しているのだが、冷蔵庫のドアは開けっ放しだ。

「怒っている人にはまず謝る。謝って相手の怒りを宥めてから、自分の意見を言う」と、私は小学生の頃に学校の先生に教わった。
彼にも教えてあげたんだけど、倣うつもりがないのだから仕方がない。

礼儀ってのは目上だろうが目下だろうが人と関わり合うときに欠かしてはならないものだと思っているけれど、私は、そのことを彼が納得するように教えられない。
もちろん、礼儀というものは、そもそも納得のいかない事柄にうまく筋道をつけるための決まり事である以上、納得しようがしなかろうが「ある」か「ない」かの問題だ。

「トモダチではあるけれど、私に対しても目上に対しての礼儀を欠かさない接し方をしてください」と、「どういう態度だよ、このガキ」と、伝えるのが精一杯の思いやりなのだが、
それも否定されれば、確信が揺らぐ。

つまり、彼にとっての私は、礼儀に値しない存在であると受け止めるしかない。
世の中に礼儀に値しない人間がいるとは思えないけれど、そういう扱いを受けているのだから、他に解釈の仕様がないではないか。

だから、そういう返事をしてやった。
「私は礼儀や尊重に値しないゴミのような人間ですから、どうか気にせずこれからも好きなように振る舞って存分に侮辱してください」と。

彼は、ついさっき普通に「今日は天気がいい」と電話してきた。
彼なりの折り合いであるとは思うが、相変わらず筋道も礼儀もない。
私の怒りはとっくにないし、「ああそうですか」と普通に対応するのだが、いつでもそうやってなし崩しになかったことになっているから、毎度のことと諦めている。
つまり、彼は頭と行儀が悪くて、傷つき易い人なのだと思う。
御礼が言えないのは幼児性が強いからで、謝れないのは男らしくないからなのだろう。
それらは性質であって、落ち度や失態ではない。

そう分かる分、これも分が悪い。
わかったところで折り合うのはこちらばかり。
もう何年も、冷蔵庫のドアは開きっ放しだ。
私の不快は、これからもまたしんしんと積もっていくんだろう。

若い奴って本当に頭が悪いなあ。
目上の友人というのは、そういう損な役回りなんだなあ。

と思っていたら、他の若い友人とのメールのやり取りで、いい指南をもらった。
娘が大学受験を経験せずに社会に出て行くことに不安があると書いた私のメールへの返信に、「今の時代、受験を避けたことは生きる本能として賢い選択だと思いますよ」とあり、ははあなるほど、そうかもしれないと。

この友人も、大学生の頃には頭が悪くてどうしようもない奴で、人との距離感が測れないキチガイみたいな奴だったのだが、常にそれを意識して、「こういうふうに思うのも僕の問題なのでしょうか」などとよく質問してきていた。
人に対しての距離感が危ういから、他の人に紹介するときにも「こいつキチガイで失礼なこと言うけど気にしないでやって」と付け加えなければならなかった。

今は頼りがいのあるいいトモダチだ。
付き合っていての不快もない。

先日、龍さんとこのコヤで、二十年近く昔に御世話になった人にばったり出くわした。
あの頃の私は誰よりも傲慢で、思いやりもなく、人並み外れて無礼だったから、今もその頃の知り合いに会うと、恐縮してしまうし、恥ずかしくて悶絶する。
いつかゆっくり飲む機会があれば、すべての非礼を謝りたいと思うけれど、きっとそんな機会のないままに、いつかは見送ることになるのだろう。

これまでだって、何度もそれを経験してきた。
今すぐすべてを謝りたくなる若い頃のあれこれは、決してそうする機会を与えられないままに、ただ、目上の友人に赦されるばかりにやり過ごし、赦してくれた人を見送るとき、どうしようもない悔いになって自分に戻ってくる。

思えば、十代、二十代の頃に、「後悔することになるよ」と言われても、怖くなかった。
「やらずに後悔するより、やって後悔した方がましだ」と嘯いていたのは、後悔の痛みを知らなかったからだ。

今はちがう。
私は日々、後悔だけが恐ろしい。

もう十分に後悔を抱えているから、これ以上の後悔を重ねたら、毎日を生きていけなくなるだろう。
後悔の痛みに比べれば、人から受ける不快などちょっと針で突つかれるようなもので、煙草一服すれば消えてなくなる。
だが、自分がしたことへの後悔は、身を切り裂き骨を割って、やがては息も絶え絶えに赦しを乞うような、大出血の痛みだ。

きっと、私の目上の友人たちも皆、だらだらと血を流して生きている。
血を流して、息も絶え絶えに、私を赦してくれている。
赦すことは、認めることでも見逃すことでも受け入れることでもないから、私は認められても見逃されても受け入れられてもいないのだけど。
赦されることは、ただ、生かされることだ。
そうやって生きていくのだし、生きているのだから、血を流している人に吠えかかるような真似は、しない。
礼儀という決まり事の、もともとのところは、そういうものだと思う。

決まり事として「~するものである」と教わるときに「~しなさい」と同意であることが分からないのは頭が悪いし、「~するものである」に対して「私はそうは思わない」と返すことも大変に間抜けなことだと思う。
決まり事というのは、個人個人がどう思うかを問うものではなく、百万通りの考え方や生き方があることを前提にしたところに作られたものなのだし。

私自身、決まり事を守るのがとても苦手だ。
中途半端な理屈を並べて頭でっかちで身勝手な区別を作り、嬉々としてそれに囚われていることの方が、ずっと多い。
それはきっと、仕組みがわかっていないからだ。
決まり事というのは、たいがいが仕組みの中でうまく作用するよう考えられたものだし、「意味ないじゃん」と思わせられる決まり事も、つまるところは自分にその決まり事の意味や必要性がわかっていないというだけだと思う。

わからないことは教わればいいし、教わったことは倣えばいい。
倣ううちに身につき、身に付いたときに初めてわかる。

そうするかしないかは、勿論、個人に選択の自由がある。
知ったことが役立つかどうかは、自分がそれを役立たせられるかどうかの結果に過ぎない。

ただ、もっと根底の部分に、「人に嫌な思いをさせないようしよう」とか、「嫌な思いをさせて嫌われないようにしよう」とか、「よりよい人になろう」とかっていう欲求があるのとないのとの違いがあるんじゃないかと思う。

昭和の青春ドラマの不良少年だって、平成の無差別殺人を犯す犯罪者だって、根底のそこんところが欠落する何かがあって投げやりに決まり事を守らない結果が、それだ。

もっと言えば、更にそこから根深いところに、「自分は間違っているのかもしれない」という怯えや不安がある。
客観性に結びつく、どんな人にもあって当たり前の視点だ。
「自分は正しい」という感覚そのものが、正しくないことの証明であることくらい、イマドキは小学生だって承知しているだろう。

「人に不快な思いをさせたくない」気持ちと「自分は間違っているのかもしれない」怯えがほどほどにある人は、他人からの忠告にはびくっと飛び上がって平謝りし、すぐさま改善して「こんなんでどうでしょう…?」と再度お伺いを立て、結果を認められるまで息を潜めて待つんじゃなかろうか。

「不快な思いをさせたいわけじゃないし、こっちにはこっちの言い分がある」という主張の芯には「自分は間違っていない」という正しくない認識が黒々陰っていて、人のこころの明るい部分を全部覆い隠してしまう。

たとえば、稽古場で演出をしているときの私は常に確信的に振る舞っているが、そのときにも常に「自分は間違っているのかもしれない」と思っている。
演出家の言うことは絶対価値であるべきだと思うけれど、演出家が正しいとは思わない。
演出家は、決まり事を作る役割をやるだけだ。
世の中と同じように、稽古場の決まり事の中にも、正しくない決まり事がある。

しかし、それが決まり事である以上、正しくないと気づいていても、皆それに従う。
そのツケが回されるのは、多くの場合、観客だ。
つまらないものに金を払った損害を被る観客に対しての責任を負うのは、当然ながら決まり事を作った演出家だ。
その仕組みがあるから、演出家は、正しいか正しくないかより、決めるか決めないかを能力として問われる。

正しくないことにも盲目的に従わなければならないかと言えば、そうではない。
役者やスタッフは稽古場において、正しくない決まり事から降りることができるし、観客は席を立つことができる。
彼らにそうした選択肢があることで、演出家は「自分は間違っているのかもしれない」という客観性の種を失わずにいられる。

日常に、打たれ弱い人というのがいるのも、同じ仕組みなんじゃないかしらん。
自分が何かを決断しなければならないとき、多くの人は自分の決断に多少の不安や怯えを持つだろう。
しかし、決断が必要である以上、責任が負えるくらいの確信がなければならない。
自信のないまま前に進むわけにはいかない局面というのが、誰にも一度や二度はある。

友人たちは多くの場合、本人の決断に意見することを避ける。
「自分がそう決めたんだから、それでいいと思うよ」が常套句なのは、意見したところで、結果の責任を負う立場にないからで、そう言うしかないからだ。

結果など、ない。
自分がいいと思えばいいのだし、よくなかったと思えばそういうことになるってだけで、世の中の物事の殆どがそうであるように、正しいか正しくないかの明確な違いなどそもそも存在しない。

だが、大きな決断の責任を飲み込んで次の決断に備えるには、「正しい決断をした」という結果が欲しくなるものだ。

それが、すり替えにつながる。
重要なのは「決断し、実行する」ことで、それをクリアしたことに自信を持てばいいものを、「自分は正しかった」とすり替えて、自信を持ってしまう。
経験の浅い人にそれが多いのは尤もで、経験が多くなればどう頑張っても「自分は正しかった」と思えないような場面にも否応無く遭遇するからだろう。

皮肉なことに、すり替わってしまった「自分は正しい」という自己評価が、その人を決定的に「正しくない」人として周囲に評価させてしまう。
打たれ弱い人は、そのズレを突きつけられたとき、「自分は間違っているかもしれない」という自己評価をし直すことが困難で、いちいち傷ついたり苦しんだりする。

一度でも似たような経験を持てば、その傷つき方や苦しみがわかる。
わかった人は、調整するようになる。
最初っから自己評価をやり直して、不安や怯えや痛みを根深く仕舞い込んでおけば、「正しくない」という評価にぐっと対応し易くなるからだ。

つまるところ、半端な経験がすべてと思っている小僧ほど「自分が正しい」と言い募るし、どう言われようが、自分の視点や受け止め方や方法を変えることができない。
できないことを自分の事情で正当化して開き直るから学習しないし、その都度むやみに傷ついて自己防衛が強くなり、より頑なに「自分は正しい」を旗にして縋る。

つらいことだろうに、いつまでも永遠にループして抜け出せないなんて、地獄巡りだろう。
同情はするが、助ける手だてはない。

こういうことを思うとき、いつも思い出す年下の友人が二人いる。
二人とも今は音信不通だが、一人には逢えない事情があり、一人は本人の意思で私との関わりを絶った。
時期は違うけれど、顔を合わせていた頃は二人とも二十代後半で、どうしようもないダメな奴だった。
今はもう分別のある立派な大人になっているに違いないのだが、彼らの後悔や反省や自己評価のやり直しを見られなかったのは、なんだか残念だ。

結局、私はそんなふうに思える自分を確認して、安堵しているだけなのかもしれない。
若い頃からきちんとしている人ってのもいるから、そういうトモダチには、私などさぞかし腹立たしい思いをさせてきたんだろうし、目上の友人たちには、今もやはり恥ずかしい小僧でしかないはずだ。

ただ、私はもうそれを知っている。



photo-11_20090302222135.jpg 今日の帆太郎くんは、自己批判中。


  1. 2009/03/02(月) 17:45:44|
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