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仕事部屋

ヤポンチカは、「モグラ町」出演の楽団ヒロシ(g)とフジッコ(Dr)と前川(vo)+バンマス・深井(b)のバンドです。
今年は最初で最後のライブ。
どんな曲をやっているかというと、洋楽に勝手に詞をつけたり、友達の歌を借りてきたり、全部他人の曲 笑
今回は初めてポエトリー・リーディングにも挑戦します。
前川は基本でろでろに酔っ払ってますが、ただそこにいる、という立ち方は芝居と同じです。
ノルマがあるんで…どうか冷やかしに来てください!


11/27(金)【唄声酒場】

渋谷WastedTime 
渋谷駅ハチ公口を出てスクランブル交差点を公園通りの方へ渡り西武デパートA館とB館の間の道(井の頭通り)を入る。
交番のある二股を右(NHK,東急ハンズ方面)へ流れ、サンマルクカフェの向かい・キリンシティの隣のビルの地下。

open18:30 start19:30 
出演は 19:30~ 中村翔、20:20~ TimeCamp、21:10~ ヤポンチカ の三組です。

「ヤポンチカ」の出番は一番最後 21:10~21:50
19:30からの他二組もかねてからの知り合いで大変によい感じなので、時間のある人は是非早めにご来場の上、ゆっくり楽しんでいってください。

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★ご予約はサイドバーのメールフォームから承ります!
  1. 2009/11/05(木) 19:33:51|
  2. 雑感
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ブログやmixiやTwitterの一般化が進むに従って、人はただただ自分を見失い続けているんだろう。ネット上の別人格が妄想の世界を生きることはしんどい現実のガス抜きにもなるけれど、しんどい現実に向けて自分を閉ざしたままに、誰かとつながっている錯覚を得がちだから。そして、いざ現実でつながろうとするとき邪魔になるのは、結局、現実とちょっとずれたそれらの世界に残した、もう一人の自分の言葉だったりする。
「ネットでこんな嘘をついている自分は現実では他人から受け入れられないだろう」「ネットでこんな大層なことを言っている自分が現実でやれることはこの程度でしかない」と、自分にすら透けて見えてしまうのが現実だ。妄想に生きることを選ぶ人には幸せな結末でも、まともな人にそんな矛盾は耐えられない。
現実に生きたい、けれど何やらうまくいかない人が、安全でお手軽な妄想としてネット上に自我を形成する。ガス抜きして大丈夫なつもりになる。ほんとはちっとも大丈夫じゃなくても。
大丈夫じゃない自分に気づかないことが何より危険なのに、ガス抜きして大丈夫な気になって現実を生きる。当然、某かの事故が起きる。時にそれは事件にすらなる。

婚殺犯という秀逸な呼び名をつけたのは2ちゃんねるの人たちだけど、今や匿名性に甘んじる彼らの方がよほど健全だ。
読者がいようがいまいが発信される一個人の呟きより、匿名でもいいから気の利いた一言を求められる大衆としての2ちゃんねるの書き込みの方が、むしろ表現に対して貪欲なのかもしれない。

様々な事情があるとしても現実では何も行動できず、人とまともに関わり合うことにも不自由な状態なのに、ブログやmixiやTwitterでの「自分発信」を続けることで、その危機感を麻痺させて、生きているつもりになってしまう人たちは、だがいざ現実に生きることを考えたとき愕然とする。信じられるものが何一つない。パソコンと携帯の電源を切ったら人生が終わってしまう。恐ろしいに違いない。

だから、続ける。ブログやmixiやTwitterで。発信をしていれば消えてなくならない。

だが、そもそもは消えてなくなるものなのではないだろうか。
人の記憶、印象、関わり、悪感情にしろ好感情にしろ、人そのものが残すものはすべていずれは消えてなくなるのが本来だ。ログもキャッシュもミラーもない。

ワープロが世の中に出てしばらくして皆が気づいたのは、「これ使ってると漢字書けなくなるよね」という危機感だった。同じように、パソコン通信やインターネットを使いこなす人たちは「リアルで人と会わないでいるのなんかヤバくね」と気づいて、せっせとオフ会をする。
発信することで保つ自我は、コミュニケーション能力を持たない。

ワークショップでは、自己紹介のときに参加の目的を話してもらうのだが、「自分探しが目的のひと」と挙手させると、案外に多い。ちょっと昔の、私たちの世代が持っていた感覚としての「自分探し」とはまた違うそれなのだろう。

醜悪に肥大し続ける自我に押し潰されそうになった人が救いを求めるのが、何故、演劇なのか。自分ではない誰かになれるような気がするからか、日常で閉じ込めてきた自分を解放させられるような気がするからか。
なんにしろ、現実でそこに足を運ぶことを選んだ人には、何かを得る権利がある。
どれだけ言葉を使っても何一つ発信できない不自由を知り、人の生々しい在り方を知り、自我だのなんだのと難しいことを考える暇なく、ただそこにいることを要求される。
そこにいることができることのすべてと知る。
役者の指導が常々自己啓発に近くなるのは、そこにしか答がないからだろう。
だが、芝居の稽古場は、一人ではない。常に誰かと向き合い、更に観客に向けて曝すことを当たり前に求められる。

芝居の表現は、決して自己を解放しない。切り捨てたい醜悪な自我をそのまま抱えて立つしかない。そのままそこに居続けるしかない。自分の言葉など一言も持てない。すべての出来事は形になるそばから消えて行く。
芝居は、役者にとってむしろしんどい現実そのものだ。演じることで違う誰かの人生を生きられるなんてのは幻想に過ぎないし、そんな気持ち悪いことをする役者は、私にはいらない。

ワークショップに参加する覚悟のできた皆さんは、うんと自我を抑圧してきてください。それがたった一つの道具になるのです。

そう言って判りづらければ、言い直してもいい。

発信することで保つ自我は醜悪に肥大し続ける。可能な限り削ぎ落として来てください。あなたの自我の行き場は稽古場にはありません。

つまり同じことだ。レトリックではない。
  1. 2009/11/05(木) 12:25:20|
  2. 雑感
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