月曜の夜に事件が勃発、調子の悪かったPowerBookのOSが瀕死になりクリーンインストールが必要になった、慌ててバックアップの確認するもどうもうまくない様子で徹夜一日目、どうもならんので火曜夜に「ブレイクタウン物語」と「新宿乱れ街」二本立て、美也子さん可愛いのになんで流山児さんの嫁なんかに、会場でそれぞれ単独行動で現れた吉岡や切通さんと顔を合わせたがトラブル放置だったので誘わずに帰宅。
ひどいことになる前に救出しようとネットワークディスクにしている外付けHDDを動かしたら直付けしても読み込めなかったりこちらも具合が悪そう、起動ディスクにしているiPodと外付けHDDとPowerBookとiBookをフル稼働させて必死に取り組んだが思うようにならず徹夜二日目、挙げ句ネットワーク設定もでたらめになってディスクが認識できなくなったのでデータ消失の覚悟と新しい外付けHDD購入の決意をしてジーニアスバー、無料でPowerBookのクリーンインストールをしてもらってHDDの検討をつけひとまず帰宅、ひたすらソフトウェアアップデートとインストールでほぼ徹夜三日目、この日に急遽月末〆切という書評原稿の仕事が入ったので最悪はiPhoneのテキストアプリで書くか手書き原稿かと目が血走っていた。
木曜午前はネットワークの復旧、午後に再びアップルストア、ちっこいHDDを購入して帰宅、ワンタッチして犬連れで食料の買い出しなど済ませ、またワンタッチでガーデンプレイス、帰国中のナブコと合流して恵子が入院している厚生中央病院へ見舞い、タバコ我慢の限界になって引き上げ、ナブと解散して帰宅。
玄関のドアを開けたら帆太郎が出迎えてくれ、きゃっきゃと先に立って室内に戻った途端に「うぎゃああああん」と絶叫、叫びは治まらず「うぎゃうん、うぎゃうん」と泣き叫ぶので何事かと抱き上げようとしたら左前肢の肘から下が尻尾のようにぶらんぶらん回転している、一見して折れたとわかる状態なので、ひとまず抱きかかえて手で肘を固定しつつ、みどりが骨折したときに手術をしてもらった動物病院に電話して、ヒロシにタクシーで来てもらってすっ飛ばして夜間診療、一目でわかる骨折なので「入院」と先に言われ、すぐにギプスと痛み止め、レントゲンには手首(肢だけど)近くの骨が太いの細いの二本とも斜めにばっきり割れて写っている、だって肘んとこの皮から骨が飛び出しそうになってたから肘だと思ったけど、手首が折れて肘の骨が皮膚の下で思いっきり肩の方に引っ張られていたってことらしい、手術は明日、入院二週間、治療費は前回同様十五~二十万だろう、泣きっ面に蜂ってやつですわ。
この日四度目の帰宅して、ようやく買ってきたHDDを開封、PowerBookに両方つないで具合悪いHDDからデータの救出に成功、といっても主に画像や書類や音楽ファイルで、カスタマイズしまくったOSの設定はどうやっても取り出せないし、メールも全部消えてしまった、それでもワード設定はすぐに完了し、サファリやアドレス帳、メールアカウントなどの設定も復旧、重要なデータを全部取り出した具合悪いHDDを初期化してネットワークにつないだら一発で認識、書き込みも読み込みも不具合なし、いそいそ初期状態になっているPowerBookと新入りHDDに移したデータをタイムマシンに乗せてフルバックアップ、この時点でかなり気が楽になったので宅配ピザで徹夜という予定を変更してポトフなど煮込み始めとっ散らかっていた部屋を片付けて平常の片鱗が見えてきた、カスタマイズは追々、とかいいつつきっと今夜やってしまうのだろうけど。
明日は三時に動物病院で手術始めの全身麻酔に立ち会い、明後日はご無沙汰したゲーマーズラウンジにお邪魔してゲーオタさんたちの様子を見物、書評原稿は月曜午前中〆切にしてもらったので日曜に読んで書く、いやはや、こんな怒濤の日々もあるのだなあ、まさにサバイバル・ウィーク。
- 2010/01/29(金) 00:47:36|
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今年最初のWSには12名が参加、うち新規参加は3名で先月見学に来てくれた警備員48才もいる。
前半は「素の表現方法」についての講釈と、「モグラ町1丁目」テキストから抜粋してテキスト解釈の方法を説明、後半は先月に続いて「箱のエチュード」、テキストの解釈と同じ方法でエチュードで与えられた設定を解釈するというアプローチ。
実践的エチュードには瞬発力が勝負でやりっ放しの部分があるが、WSでは「今やったことについて改めて考える」ことができる、それを繰り返すことで、「やる時間」と「考える時間」の距離が少しずつ狭まったら良いし、人のやってることを観て「あれこれ感じる」ようになるはず。
頭で理解しても自分がいざやるときには思うようにできない、やるときにはなんとなくやれるけど理屈としてはちゃんと理解できていない、という両極の問題は、結局のところ中心点である「実践方法がわからない」ということなのだろうと思う、実践方法とはつまり立ち方、「そのままそこにいる」ということそのものなのだけど、まだまだ「演じること」や「芝居という仕組み」について、どこかで見聞きしたり教わったりして植え付けられてしまった先入観が強く、皆なかなか自由に立てない。
「へらへらやる」ことと「ものすごく考えて作る」こと、「ものすごく演技が巧い人」と「まったく演技のできない人」は辿り着くところがおんなじだと思うんだけど、「演じる」ことを知っている人たちは何かをやっていないとそこにいることに自信が持てないのか、考えてやったつもりになってしまったり、やることで考えずに終わってしまったりして、全身くまなく働かせることに苦心する。
普段の生活でへらへら喋っている状態は、決して頭が動いていないわけではなくて、猛烈な働きを習慣化させているわけだが、「演じる」ときの「演じる」人は、頭や心を動かさずに台詞と段取りをこなす為の練習をしてしまうので、出来上がったとしてもそれは「普段の生活の自分」とはまったく違う状態の自分になってしまっている、だがそのことにすら気がつかずに「普段の自分そのまんまのふり」までしたりする。
彼らには、いわば「如何にも自然に見せようとする不自然さ」「無意識であろうとする意識」が分厚いかさぶたのようにまとわりついていて、生身の感覚が働かせられない、よって、「不自然であることが自然なのだ」「意識を持ってこその無意識なのだ」という理屈でのアプローチは、自分のどこをどう突つかれているのかを理解するまでに時間がかかる。
彼らは自分が身につけてしまった方法論の中でそれらを理解しようとするのだけど、「難しくてわからない」とか「うまくできない」状態で機能不全にさせることが一番「素」に近い状態になるから、こちらとしてはどうにも誤摩化せない状態に追い込むことで体感させようとする。
ものすごく単純なことだけをやっているんだけど、その実、彼らは意図せぬままにものすごく高度な、難易度の高い点を目指しているってことだよなあ、と思う。
ちょっと散歩でもしようと誘われてへらへらついてきて、そうと知らぬままにヒマラヤ登山させられてる。
だけども、「難しいしわかんないから、もういいや」とリタイアする人が少ないのは、皆理屈や方法論としてわからないながらも、感覚的などっかで「もしかして、こういうこと?」「これがそう?」と感じるからなのかもしれない、登山の心構えはなくても歩くことはできるから「この先は無理」ってポイントまではなんとなく歩けてしまったりするんだろう。
さて二日目の今日は、「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」の抜粋を利用して、「考える」こと「やる」ことの組み立て方を、テキストとエチュードの両方からアプローチ、すんげえ難しいエチュードを用意してるんだけど皆やれるかしら、私にはWS中連続する朝までコースの飲みがヒマラヤ登山。
- 2010/01/24(日) 14:01:52|
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アスミック・エースにて2/28公開パク・チャヌク監督作品
「乾き」(
ファントム・フィルム配給)の試写。
二枚目ガンホが観られるのかと思ったらガンホはやっぱりガンホなのだった、神父が吸血鬼となった挙げ句道ならぬ恋に落ちて情欲に溺れ苦悩するというあらすじゆえ「うええええ」と目を背けたくなるエグい描写と、長げえよ!と突っ込みたくなるファックシーンが満載、女優のおっぱいが「これぞ!」という絶妙なエロさで理想的だった、後半は北九州監禁殺人事件を連想させる雰囲気、笑っていいのか泣いていいのか切ないのか痛いのか興奮すべきか萎えるべきか今ひとつ振り切れないのはドラマチックに仕立てようとする音楽のせいなのか、エンドタイトルのテーマ曲はとても素敵だったけど。
10年構想の吸血鬼のストーリーに「テレーズ・ラカン」を取り入れたと解説にあったが芸術っぽく売るより上品なカルトムービーとしてオールナイト上映で観たい感じ、元は「コウモリ」というタイトルだったと思うのだが文芸路線に変更して「乾き」にしたのかしら、「コウモリ」の方がカルトっぽくて合ってるけどなあ。
それにしてもソン・ガンホって台詞のいらない役者だなあ、顔だけで全部見えてくる、情緒の目盛りが日本的なんだろうか、ガンホで「北九州監禁殺人事件」を韓国に置き換えてやったら「復讐するは我にあり」の緒形拳を超えると思う、いや「復讐するは我にあり」をガンホでリメイクしてくれてもいい、ソン・ガンホと同時代に生まれてきたのは幸せなことだと思う。
- 2010/01/21(木) 22:22:39|
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小説教室、書きかけのシノプシスやらネタメモやらも資料で提供しての第一回は総勢20名のご参加を戴き滞りなく終了、WSにいた顔もあり、前回ぽしゃった時に作品提出して下さっている方もあり、mixiでの知人あり、3月のひと区切りまで脱落者なくいけたらいいのだがどうだろう、今後の予定としては4月からまた新規受講生を募集、今月から来てくれている方々は4~6月の間に一本書けるようぐいぐい指導の予定、今日やったのはテーマ決め、10分で三つくらいを目処に出してもらったがたくさん出せる人も一つに絞っている人もいて、偏らない分、話を進め易かった、人物、タイトルなどの必要性の説明をして来月までに何を書くか再検討してテーマを提出、という感じにしたのだが、果たして参加してくれた方々にはちゃんと意図が伝わっただろうか。
待っていてくれたWS&モグラ稽古場付きのヤスコちゃんとタクシーで大久保「はち」に向かうも定休日でしょんぼり、徒歩で新宿に向かって、いつぞやガンホ会で使ったマッコリ専門店を目指すも見つからず、串焼きの店に落ち着く、後から訊いたらマッコリ専門店がある道はもう一本向こうだった、ヤスコちゃんは昨年夏のWSから来てくれていてモグラ町にも稽古場付きしていたのに、きちんと話したことがなかったので、芝居の話をメインにじっくり差し飲みできて楽しかった、集団飲み苦手なのでこういう機会があると、ようやく関われた気がしてほっとする。
自分の戦争体験を書きたいという老婦人、周囲で聞いた興味深い人の話を書きたいという老紳士、奇抜な発想のできる人、身近な視点を活かせる人、など様々、「こういう書き方をしろ」とは指導できない、が、当初に考えていた通り「読む」ことはできるし、「書いて欲しいもの」をリクエストすることもできる、編集者の悦びとはこういうところにあるんだなあと、自分の立場に役立つだろう発見も多くこの先が楽しみ、まずは切通さんのライター教室~WS~朝日CC小説教室と出逢い任せに流れて来てくれているMS嬢が、当初からずっと一貫して書きたいと言っているあのテーマで一本きちんと書き上げられるよう進めたい。
芝居のWSでは、芝居のためなんだから辛抱しろと言えるところがカルチャーセンターでは言えないのだ、皆さんの生活の一部としての貴重な時間だからこそ、緩い雰囲気で和んでも要点だけは逃さずにびしっと決められたらと思う、魔法のように小説が書ける、とはいかないけど、受講前よりなんだか書けそうな気分くらいは、ね。
- 2010/01/21(木) 01:49:29|
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阿佐ヶ谷でWSに来てくれた出世魚ズのコントラバス奏者・熊ちゃんの新バンド「大福」お披露目イベント、モミーさんに「モリヤンの友達です」と間抜けな挨拶して握手してもらっちゃった、アミナ・マイヤースやヒカシュー思い出しながら大福を前にしてもやもやと着想、即効でマツジュンに打ち明け、熊ちゃんに交渉、一年かけてでも口説くつもりが案外ノリノリ、大福メンバーの皆さんに挨拶していたら某青年が声をかけてくれた、曰く「犬の記憶」観てますって私が16のときに参加したほしのあきら監督の自主映画、聞けば多摩芸のほしの先生のとこにいた生徒さんで、「品行方正もバーグエポックから観てます」と、こちらが思い出せないような旗揚げ2本目の芝居のタイトルまで覚えてくれている旧いお客さん、そういう人に出逢うと自分の全人生と全存在が丸ごと肯定されたような気がしてもの凄く幸せな気分になる、今はドキュメンタリーで熊ちゃんを追いかけているそう、ははあ、これは昨日観た「バーナードとドリス」でスーザン・サランドンが力説していたカルマって奴なんだろう、気分よかったので終電一時間前の阿佐ヶ谷解散に物足りなくて大久保でぶーちゃんの「はち」に寄り道、案の定ハナコがいて楽しく小一時間、大久保の終電逃して新大久保までぶらっと歩き、健全かつ安全に終電前の山手線で帰宅。
子供のころ、母の親友の久江ちゃんの旦那さんがN響のコントラバス奏者だった、遊びに行くとでっかいコントラバスがあって、たまには弾いてるところも見ていたと思う、私がもっと大きかったら、もっとたくさんのことを教えてもらっていただろうけど、小さい私はもっさりしたその音がひたすらに退屈で気難しいものに思えて、とても優しくて繊細だったその奏者であるミツルさんも、そのまんまもっさり気難しい苦手な人だった。
母と親友の久江ちゃんは喧嘩して、いつからか長いこと疎遠になった、仲直りしたと聞かぬまま、私から母が亡くなったことを知らせたとき、久江ちゃんは絶句して、すぐに駆けつけてくれた、久江ちゃんはミツルさんもすでに亡くしていて、子供のいない夫婦だったので、一人きりだった、久江ちゃんは秋田の人で、母と仲良くしていた頃には毎年きりたんぽを持ってきてくれていたので、私は今でもきりたんぽが好きだし、コントラバスの音もいつからか心のすごく深いところで好きになっていた。
アコーディオンには憧れがあって、友人のライブに前座で出ていた日本語を喋るアメリカ人アコーディオン奏者・ALANをその場でナンパして芝居に出てもらったりもしているけど、あの頃の私はまだまだ山師臭い部分があって、ALANにも結構しんどい思いをさせたんだろうと思う、その後久々に会ったときには「もの凄く楽しかった、いい経験になった、とても大事な経験だ」と言ってくれて救われた、大福のアコーディオンの音にはそういう自分のはったりが通用しないと思った、はったりで進むことならはったりも厭わないけれど、そんなふうじゃなくもっと、不器用でも危なっかしくても、そのまんま胸を張って並びたくなる音だった、アルトサックスの音も、彼らが短く発する声も、全部が、私の何かを呼び込むように感じた。
きっと、大福を聴いた人は皆同じように感じるのだろう。隠しているところを突つかれる。
やるぞ、大福と前川。演出家も決めた。イメージもある。
音を聴いていて、そこに乗っかる自分の声や言葉が見えたんだ。
きっちりじっくりで、十年使える出し物を作ろう。
動き出すのは明日かもしれないし、来年かもしれない。
作る力を情熱で摩耗してしまわないよう、大事にしていこう。
全力120の段階で熊ちゃんを口説く。
ノースモーキングバンドが難しいならゴースモーキングバンド、いいや大福そのまんまと前川がそのまんま、ここ十年くらいの間にぼんやり願うだけだったあれこれが、熊ちゃん決死の大福を大皿に一品できた感じ、余分なこと検討せずそれがちゃんと伝わって、興奮してくれる熊ちゃんに愛を感じる、作り手だなあ、生きざまだなあと、衝動は原動に、情熱は継続に、出逢えたことは熊ちゃんを誘ってくれたマツジュンに多謝なのだけど、磁力なのか原子なのか出逢うべきときと場所と人が揃って始まる細胞単位の活動が、ひたすらじわじわ心地良くて、これは出逢いとかそういう段階をつるりと超えたところにいるんだなあと思う、皮一枚のところに、出逢うだけなのか、出逢いなどどうでもいいような細胞単位の活動がすぐに始まっているのか、そういうのがあるとして、始まっているのだと。
ああ、いいもん見つけちゃった、いいこと思いついちゃった、な興奮に大はしゃぎなのだけど、また飯の種から遠ざかったなあとも。
- 2010/01/18(月) 02:01:25|
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いつもと同じようにDVDを観ていてもぐいっと集中できず、すぐに何か思いついてメモを取る状態、なんだかなあ、と思ったらもう来週が小説教室とWSなのだった、自覚ないまま準備態勢に入っていたらしい、講師業が板についてきたってことなのか、とにかく何を観ていても「あ、これはエチュードに使える」やら「あ、この構成の仕方を例に出そう」やら、そうやって溜まったメモを見ながら二日前くらいに内容を考える、直前には参加メンバーを頭に入れて再検討、というのがいつもの感じ。
WSは新しいメニューを思いついた、試してみて芳しくなければまた他のメニューを考えるけどこれが王道だろうと今は確信している、後はそのメニューに合うテキストを探さないとならないのだけど、著作権を配慮すると自分で書いた方が早い、そうなると一仕事なんだよなあ。
今月のWSはレギュラーのヒラケイが妹の結婚式で一日しか参加できないというので、その一日に有益なアプローチを一通りやっておいて参加できない日にもう一段階踏み込んでいくやり方にしてみようと思う、そうやって融通しているとキリがないし二日間の都合をつけて参加してくれる人に申し訳ないので、いつもは二日間ともに参加できることが必須条件なのだけど、今回は募集をかけた五分後に即効で泣きが入ったのと、レギュラー・ヒラケイのやる気を見込んでの特別措置なのだった。
小説教室にも知った顔が何人か集まりそう、知り合いからは事前に「仕事が大変な時期なので課題の分量次第で」「戯曲の勉強としての参加でも可能か」などの問い合わせが直接あって、どちらにもちゃんと個人の事情を考慮して融通するから安心して参加してくれるようお返事、何十人も集まるとそうもいかないだろうけど、教室と名乗っていても学校じゃあるまいし、少人数ならお互いの事情を理解した上でそれくらいのことをしてもいいだろうと思っている、決まりごとがあってそれを守るのも大人のマナーだけれど、個人の事情に個人の感情で対応する幅を持つことだって大人のマナーじゃないか。
小説教室では自分の課題にも取り組みたいし、私が個人的に志すのはWSのように「個々のやりたいこと」に支えられた時間と空間で「お教室」ではないし「仲良しサークル」だけは御免被りたい。
全6回を予定している講座で、長くても短くても皆が何か一本の小説を書き上げられたらいいな、とは思うけど、書き上げることが目的じゃないから書かなくたって構わない、書きたくなった時にしか書けないもんだと思うし、ただ、書きたくなったときにどうやって書けばいいのかわからなくて書かなかった経験のある私は、そこんところを回避して、書きたくなったときになんとなくそれなりに書けちゃう人が、ちょっとだけ増えたらいいと願っている。
自分で全責任を負えるなら、小説に限定せず「言葉のワークショップ」にしたかった、作文や会話、解釈、言葉の組み立て方、言葉の選び方、言葉の使い道などなど、具体的に考えているわけではないけれど、芝居のWSが「伝える方法」「見せる方法」について考える場だとすれば、その道具としての言葉について、もっと考えるべきことがあるんじゃないかと思う、言語学の正論ではない「素の言語学」としてのそれならば、文章を書きたい人にも台詞を喋りたい人にも面白がれるんじゃないかしら。
たとえば、イラストレーターになりたいという知人には「小説を読んで挿絵を描く」訓練をしてみるように勧めるのだけど、小説を書く人も「絵を見て物語を書く」訓練が必要だと思うし、役者には台詞を喋る技術より黙ってそこにいる技術を教えなければならないと思う。
映画だったり音楽だったり経済だったり医療だったり、自分のやりたいこととは関係のないあれこれを知るための場、自分が知ったことを人に伝える場、見知らぬ人と出逢える場があれば、価値などいくらでもつけられるだろう。
異業種交流会ほど社交性を必要とせず、サロンというほど閉鎖的でなく、私塾というほど思想を持たず、ただ、私が子供の頃にはぶらっと街に出て行けば得られたそれが今はない、というだけでの渇望だけど、誰もがそういうことをちょっとずつ必要としているからインターネットの発展があるんだと思う。
勿論ネットでの出逢いを否定するつもりはないし私にもネットだけで交流している顔も名前も知らない友人がいて、それはすごくロマンチックだし会ったことがないからこその付き合い方があるからとても面白いのだけれど、顔を合わせる生身の出逢いが代用されている感が私にはどうしても拭えない、生身の出逢いに幻滅しようが傷つこうが、それが出逢うということだろう、うんざりしたら電源切って終了にできない、逃げ隠れのできない、どうやっても誤摩化せないものが、人生には必要なのだ、ものすごくウザイけど。
演技をすることも小説を書くことも本来は際限なく孤独な作業だからこそ、人と出逢うことが大きな財産になるんだろう、出逢うのは「仲間」なんかじゃなくて「人」だ、生身の声、生身の肌合い、生身の感覚を持つ、自分とは違う誰か、孤独な作業をするときはうっかり自分ばかりを見つめてしまいがちだけど、目の前にいる赤の他人に自分を見出すことが本当の意味での「自分を知る」ことなんじゃないかと思う、もしくは、自分の中に赤の他人のような誰かを見つけることが。
どこの出版社がヤバいとか、あそこの制作会社が潰れたとか、助成金が9割減とか、淋しい噂ばかりが聞こえてくる。
芸術は食えないとか、食えるのは芸術じゃないとか、そんな大袈裟なことよりもっと手前に、細胞の活動くらいの生きるための機能として、「演じる」ことや「書く」ことがあるのかもしれないのに。
ああ、考えていたら本気でやってみたくなった、「うざい塾」。
私はどうしてこうアングラでアナログなことしか思いつかないのか。
- 2010/01/15(金) 01:07:40|
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自分が自分らしく、自分のままでいられるよう死闘していたのは、いくつくらいまでだったかなあ。
自分とは違っている何かを認めてしまうと、自分を否定することになってしまうような怖さがあって、何もかもを否定するのに必死だった頃。
やり切れないくらいに絶望して、正当じゃないくらいに自分を小さく丸め込んで、そんな卑屈なところも自分の中にはちゃんとあるんだと知って、卑屈さを正当化するために、それまで絶対に嫌だと思っていたみっともなさや厚かましさを、かさぶたみたいに拡げてきた。
私は、自分が思っていたよりずっと狡くて、みっともなくて、厚かましくて、ちっとも美しくなんかないと飲み込むのは、たいそう苦しいことだったけれど、そうするしかなかった。
そうなってみると、それまで美しいと思っていたあれこれが別のものに見えた。
それはまるで美しく彩られた何かのように見えていたのに、自分が重ねてきたかさぶたと同じものだった。
かっこよく美しく生きている人なんて、一人もいなかった。
だから、かっこよく生きたい、という思いより、みっともなく這いつくばってでも生きたいと、思えるかもしれないと自分にも期待できた。
実際には、未だにそうは思えていなくて、自分が生きていることは罰なのだとしか思えないのだけれど、這いつくばってでも生きることが正しいことだとは判った気がした。
生きていくことは大前提だ。だからこそ、しんどい。
結局、ただ自分の中のぐじゃぐじゃした汚らしい気持ちで自分自身が窒息しそうになっていたのだけれど、それらの汚濁を浄化することも除去することもできなくて、押し殺すか、誤摩化すか、首までどっぷり浸って人前から姿を隠すか、のどれかを選ぼうと足掻いているだけだった。
どれも不本意な選択なのに、どうしてか、そこから選ぶしかないように感じていた。
皆、汚濁を飲んで生きていると頭では知っているつもりでも、まだ自分自身の立ち位置に何かの理想を持っていたのかもしれない。
理想として括ったことはなかったけれど、「嫌だ」と否定するものの多さは、そういうことだったんだろうと思う。
あなたは、才能もあって仲間もいて行動力もあってまだ若くてたくさんの出逢いがあるのに、どうしてそんなに自己評価が低いの?
長年会っていなかった親友と再会したとき、心底不思議そうにそう言われた。
当たり前のことなのに、そんなふうに考えたことがなかったから、胸を射抜かれた。
気がつけば、こんな状態で人に逢うのは嫌だ、こんな気持ちで何かに取り組むのは嫌だ、こんな自分に何かを与えられるのは嫌だと、いつの間にか、自分自身を否定するばかりになっていたと、気がついた。
急に自己評価を高めて自信満々になったところで、やることなすこと頓珍漢で、周囲を呆れさせもしたけれど、その振る舞いが大層みっともなかったことで、ようやく、自分はみっともないんだと、そういうふうにしかできないし、ならないんだと、本当の意味で飲み込めたような気がする。
何度反省しても同じことをしてしまうとか、泣き喚くとか、八つ当たりするとか、言ったことをやらないとか、約束を破るとか、些細な嘘をつくとか、人の気持ちを踏みにじるとか、しゃしゃり出るとか、しつこく食い下がるとか、失敗を誤摩化すとか。
やりたくないことをやってしまっている自分を、なんとなく許せる気がした。
自分のそれが許せたから、人のそれも許せるようになった。
非を許す、という受け入れ方ではなく、非ではないと思うようになった。
人はそうやって生きていくものだと。
みっともないことをしでかして、許したり許されたりして、みっともないなあと恥じ入りながら、生きる。
そんな当たり前のことを、どうしてあれほど複雑に頑なに捉えていたのかと、不思議なほど、あっさり飲み込めた。
幼少期からの苦い自己探求は、振り返ってみればただ、人との出逢いを重ねて、流されているうちに本流へと辿り着いたようなものだと思う。
育った環境や、生まれもった性質や、そうならざるを得ない経験の中で、そうなった。
出逢いたい、必要とされたいとの思いだけが常にあった。
それらの思いを伝える方法が他に見つけられなくて、結局は一番安易な恋愛という形を選ぶ。
求めているものが違うから満たされる部分も違って、恋愛関係を結ぶとあれこれのことで相手を傷つけてしまう。
多くの男の子たちは、出逢いなんてことに大した価値は持っていなくて、ただ恋愛を楽しみたいばかりだったりもするから、恋愛が終われば目の前からふいっといなくなってしまって、自分が傷つく。
あなたを大切にしたい、大切にされたい、形などどうでもいい、むすびついていたい、という思いを、「好き」と言うか、無心に身体を重ねることの他に、うまく伝える手段が見つけられなかった。
病的な博愛主義と同じように誰とでもセックスができた。
その真意は、「出逢いが大切」という出会い系主義のものだけど、そう言ったときに多くの人が誤解するままに、自分自身を誤解することになっていたのかもしれない。
もちろん、正しい意味合いでのセックスの尊さや、人が言う「愛」の感情を知らないわけではないし、価値も感じているのだけど、それらは意味合いが大き過ぎて、簡単にそうとは飲み込めなかった。
手軽で身軽な、握手のようなセックスを器用にこなすことはできないけれど、本当に好きな人と抱き合う幸せ、愛情の確かめ合いのような感覚をセックスで持つこともできない。
出逢っていなかった過去の時間を丸ごと飲み込むことの代わりに身体を重ねる。
愛だの恋だのじゃない、別の何か。
それを封じられてしまうと、自分の気持ちをどう伝えたらいいのか、たちまちに取り乱してしまったりする。
人が、自分の一番みっともない部分を曝け出して、無防備なまま向き合う、わずかな時間。
刹那的で、なんとも頼りない、身体が重なっているだけの曖昧なその時間が、一番信じられる。
身体が美しければストリッパーに、身体が丈夫ならば売春婦になりたいと、処女の頃から思っていた。
愛だの恋だのは、動物のようにいつでもどこでもつながるわけにはいかない人間にだけ必要な、セックスの代償なんじゃないか。
私の中のセックスには、恋愛感情と結びつくものが少ないのだろう。
それとも、恋愛感情そのものが、私の中で変質しているのかもしれない。
「好き」と言う、「好き」と思う、「付き合いたい」や「抱き合いたい」や、そういった恋愛感情の一切は、突き詰めれば自分の中でなんの意味も持たないし、その場しのぎに世の中のマニュアルを応用した、本質からかけ離れたものに感じていた。
こんなに大人になった今も、世の中の皆さんが「好き」と思うそれが、どんな気持ちなのか、なんだかぴんとこない。
恋愛関係で嫉妬心を感じたことがないのは、「好き」という恋愛感情の基本の部分が、偽物だからなんだろうか。
残念ながら、同性とのセックスは、もやもやしたことがあるだけでそのものの経験がないけれど、人として絶対に受け入れられる確信がある。
大切にしたい、大切にされたい、むすびついていたい、という気持ちは、相手が異性であれ同性であれ変わりなく望む気持ちだし、その気持ちを一番純粋に形にして伝えるには、セックスすることが、どんな言葉よりも一番自分の気持ちに正直な表現だと思うから。
だから、恋人でない人とセックスをすることもあるし、セックスしても恋をしないこともある。
自分の中にあるセックスの意味合いが守られていれば、セックスだけのつながりであっても淋しくはならない。
セックスのない関係は、淋しくて居たたまれなくて、すぐに逃げ出してしまうのに。
そう言うと、理解のないままにただ利用されることもあるし、それに傷つかないわけではないのだけど、それも結局は「必要とされる」ことに満たされて許してしまうあたりが、自己評価の低さにつながっていたんだろうか。
そんなことをぐずぐず考えているのは私が振られたからで、といっても結びつきを失ったわけではないから、なんだか振られた気がしなくて、ちっとも堪えてない、という自分の状態は一体なんだろうと考えていてこうなった次第。
私自身にも、私の思っていることの答は出せないままだけど、答を出すために考えたわけじゃなく、ただ、ちょいと押されたメトロノームのように、気持ちを揺らしながら考えている。
出逢ったことを本当に大切に感じてくれるのなら、恋じゃなくていい。
恋愛感情じゃないのかもしれないけれど、あなたを丸ごと飲み込んでしまいたい。
わかってあげることも、近くで支えてあげることも、助けてあげることもできないし、私はそうしない。
それでも、あなたを知りたい。
そういう気持ちを判ってもらうのは、きっと難しいし、判るように伝えられる知恵もない。
言えば怯えさせてしまうだけだろうと思うそばから、そのまんま言ってしまうのが、みっともないのだけど、「あなたが好きです」と一万回告げても、それが自分の心ではないような気がしてしまう。
もっと違う、もっと他の、本当に切実な、何か。
それを伝えることは本当に難しくて、裸の身体を差し出すのと同じくらい簡単に、思考や感情をそのままに伝達できたらいいのだけど。
押し倒さないから、逢いましょう。
高い所に黙って並んで立って、地上を見下ろしましょう。
ここに書けば、あなたにもそれは伝わるのだけど、私からあなたには伝えない。
「僕がここにいることを、決してあなたに告げたりしません」と、無様に不器用に、信じてみたりする。
返事なんかいらない。確かめたいわけではないから。
私もあなたも、伝えたいことの純度だけを高めていけたら、それが音楽だっていい。
ああ、かっこ悪いぞ、私。
こんな気持ち、恋でも慈愛でもないのなら、ただの自我なんだろうけど。
一つだけ、理屈じゃないところで明確に判るのは、人は誰かを想うとみっともないことになる、てことですな。
- 2010/01/12(火) 19:28:37|
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