iPhoneが3GSになった昨夜は渋谷でガンホ会のミーティング、カンヌから戻った大久保さんのリポートを中心に珍しく日本人ばっかりの集まりになって比較的さっくりと解散。
今朝は早起きできたのにどうにも気力が湧かなくて「倫敦から来た男」をとうとう見逃した、夜はM女史と合流して九段下の武道館でWSレギュラーメンバーの出演する公演のGPを見せてもらう、フルオーケストラと大駱駝艦とダンサーとコーラス隊と里見浩太朗、東京電力がやってるのに場内寒かったし表の総合受付は暗かった、M女史のお誘い断って留守番させてる骨折犬のために帰宅。
怒濤の一週間もようやくWSで終わり、タルベーラだけが心残り、しかしこの一ヶ月appleに振り回されてた、来週は五日休んで二日働こう。
- 2010/02/26(金) 23:34:13|
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水曜、午後イチでひねもすのたりのたりとバスを乗り継ぎ、帆太郎の診察。
骨がくっついていないので骨に埋め込んだピンを抜く手術は二週間後の診察で判断しましょうとのこと、ギプス半分にならずしょんぼり、ピン抜いたらまたギプスだし、いちばん散歩が気持ちいい季節なのに。
会計のときに診察券を作ってもらったら、ポイントカードになっていてびっくりした、骨折手術代と二週間の入院費のポイントがまるまるあったので還元してもらったら本日のX線検査の料金4200円が4000円割引になって、ほぼ再診料のみの支払い、連れて行かないわけにはいかないけれど診察料が悩ましい動物病院ゆえ、ポイント還元制度の導入は画期的かつ良心的。
一旦帰宅して雑用済ませ身支度、犬看護当番の娘も来たのでさて出発と思ったらiPhoneがまた初期化されてしまい、どうやってもアクティベーションできないので捨て置いて出発、恵比寿でK社文庫担当A氏と元単行本担当Y氏に水炊き御馳走になり、そのまま調子づいて銀座へ。
銀座の文壇バーには新人賞の授賞式の流れで無理矢理にせがんで連れて行ってもらったことがある、デビューから十年目にして二度目の文壇バーは「魔里」、噂のマリ子ママとももちゃんという和装の美しい女性が迎えてくれた、驚愕したのは初めましてと名乗ったら「鞄屋の…?、あとブルーハーツ…ですよね」とももちゃん、さすが銀座、さすが文壇バー、手広いフォローにプロフェッショナルの根性を見る思い、つくづく感銘を受けた。
帰り際、「もうまた十年くらいは来るチャンスもないと思うので」などと言っていたらマリ子さんが「Aさんにつけとくからどうぞいつでもいらしてください」と言って下さった、嬉しいので酔ってないときに是非寄らせて戴いて酔わないうちに帰ってきたい。
そして今朝は娘とSubwayで朝食済ませてからsoftbankショップを訪ねるもリニューアル中で営業しておらず、近所の携帯ショップにて3GSに機種変更、新しいの出るまで3Gで頑張ろうと思ってたから悔しいが、ぴかぴか新品はやっぱり嬉しく、今度はバックアップも万全だったのでアプリの並び順までまんまさくっと復元してストレスフリー。
いい具合になりそうな申込数に達しました。
2月WSの参加申し込みは金曜正午に〆切とさせて戴きますのでご容赦ください。
- 2010/02/25(木) 15:37:47|
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気合いで早起き、日仏会館で親方と娘とヤスコちゃんに合流して「
パリ20区、僕たちのクラス」試写、といっても親方は映写室、途中レンズがずれたりして駄目駄目な映写だったが。
予備知識なく観たのでカット割りに注意しないと劇映画とわからない極めてドキュメンタリー的なタッチ、原作の本が売店にあったので「ああ、やっぱり劇映画なんだ」と理解したほどリアルに徹した演出は、監督がテレビのドキュメンタリーをやっていた人であることと原作が元教員の書いた半自伝的な物語であることに加え、その原作者自身が教師役で主演して、生徒たちは皆地元の演技経験のない中学生たちという、芝居になりようがない基盤あってなのだろう、つまり「ドキュメンタリー的に」という劇映画としての演出が徹底しているってことだし、そうした仕掛けに目がいかないくらい、物語や人物に力強さがある。
そんな気配は微塵もなかったのに最後の1カットでいきなり滂沱の涙がこぼれ自分でも驚いた、「ふうん、へええ」と観ているだけだったのに、本当に最後の最後の、クレジットが上がってくる直前のカットを目にした途端だらだらと涙が滴るなんて初めての体験だった、未だに何に泣いたのか自分でもよくわからないけれど、何かしら映画の力があって呼応してしまったんだろう、びっくりした。
ニコラ・フィリベーリの「僕たちの舞台」という映画は、演劇学校の生徒たちに自分たちの公演を打つための課題に悩む姿を演じさせた所謂「演出の入ったドキュメンタリー」だったが、それはやっぱりドキュメンタリーには見えず、映画としては上手なエチュードといった感が強く、その違いはつまるところ「俳優が人としてきちんとそこにいるか」ってとこなんじゃないかしらん、そこに映っているいる人が、映されていない時間をどれだけ持っているか、物語からはみ出していく「筋立てじゃない物語」をどれだけ持っているか、まさしく「素」の力強さが、映画が終わるそのとき、物語が閉じようとした瞬間に溢れ出していたことに、私は泣いたのだと思う。
もう一つびっくりしたのは、上映終わって一服していたときにすぐ前のベンチに腰掛けていた紳士に見覚えがあり、「まさかなあ」と思ってやり過ごしていたのだがヤスコちゃんに確認してもらったら案の定、朝日CCの小説教室を受講してくれている方だった。驚いた。
カナルカフェのデッキで紙皿抱えてランチ、駅で解散して一旦帰宅、雑用して身支度し直して今度は渋谷でフジッコに合流してJPBのライブ、さっきは映写技師だった親方も今度は堂々ベーシスト、やっぱりJPBは面白い、見せ方や見え方なんか二の次でただ自分たちが楽しむための技術と立ち方なのだけど、もちろん皆抜群に巧いし、彼らほど観ていて面白いステージをやるバンドはなかなか見当たらない。
巧くて緩くて若くない、JPBと龍昇企画には通ずるもんがあると思う、つまりそういうのが私の好みってことなんだろう。
「パリ20区、僕たちのクラス」は6月に岩波ホールにて公開、監督はフランス映画祭に合わせて3月に来日されるそう。地味だけど、「素」の力強さを束ねてきちんと劇映画に仕立てた奇跡のような映画にちゃんとパルムドールをくれるカンヌって、やっぱりすごい。
- 2010/02/24(水) 00:23:41|
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もう上映が終わってしまったと思っていたのだが「まだやってる」と文洋に教えてもらってイメージフォーラムのタルベーラ、2本立てするつもりで比較的早寝早起きしたのだがしゃっきりせずで夕方から「
ヴェルクマイスター・ハーモニー」のみ、全編じゃなくて一部はかつて観ていたと思い出したが、全編改めても壮絶に面白かった、暴徒が流れ込む病院の廊下で扉に映ったキャメラの影になんだかほっとした、写っちゃいけないのかもしれないがあれがなかったら息するの忘れてたと思う、ところで「家族ゲーム」は鯨の出ない「ヴェルク~」だったんじゃないのか、全体の印象がすごく似ていて不思議、人物と共に流されていくキャメラのせいか冒頭からわんわんしてる音のせいか、黒々煮詰まって物語に溜め込まれる静かな憤怒とねじ曲がっていく人々の描写のせいか、抜けのいい風景か。
- 2010/02/22(月) 22:12:30|
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10.( tenten)Magazineの取材で下北沢。
以下は1月に出た創刊号「創刊のご挨拶」より一部引用。
10.は東京に住む様々な国籍・人種のエディター、デザイナー、学生、翻訳家などのプロジェクトグループが作っている月刊誌です。
コンセプトはズバリ「人」です。「人はみんなそれぞれのストーリーがある」、それを伝えたいという素朴な発想から始まりました。仲間を集め、工夫した結果、シンプルで読みやすい10問答のフォーマットと、日本人はもちろん外人にも読んでいただくため、日本語と英語を中心とした他言語のインタビュー雑誌が生まれました。今どきウェブマガジンじゃなくカラーページの雑誌、フリーペーパーというのが泣かせる。
しかもコンセプトが「人」となれば、芝居でも小説でも「人」だ「人」だと馬鹿の一つ覚えのように唱えている私が共鳴しないはずがない。
加えて、このところどうすればお金になるかという発想に逆行して、どうすればお金を取らずにやっていけるか、に興味が向いているので、スタッフは皆本業があってテンテンは持ち出しで作っていると聞き、思わず今後は作り手として参加させてくれと食いついた次第。
毎月の発行が10日で、毎月配布のためにリリースパーティーをやっていて、10,000yenと5,000yenの二通りあるスポンサーカードを購入するとパーティーでドリンクがサービスされたりする。
なんだかもう、やってることがカワイイ。
なんつうか、気張ってないところが、いい。
カッコいいことやろう!と力まなくてもそれなりにカッコつくことができちゃうのが、今どきの世代だなあと思う。
広告のない純度の高さがどれくらい保てるかわからないけれど、配布されて手にした読者が誰も知らないような人を10問インタビューの対象に二カ国語記事、という姿勢が、かつて劇団の芝居で新人に二カ国語~四カ国語の前説をやらせていた私の感覚にはかなり面白いことに思える。
「人はみんなそれぞれのストーリーがある」と言うんだから、私ももっと飲み屋っぽい話をすれば良かったのかもしれないけど、10. に因んでデビューから十年になる小説稼業の話がメインになった。
確かに人を物語るのに10問は少ない。
それでも、10問の受け答えから覗き見る「人」、という切り口が、これも、本がLPレコードのように高級嗜好品となりつつある今の状況において、雑誌や読み物アプリなどはあれこれ盛り沢山主義をやめて書評コラムだけとか、日記コラムだけとかの一点主義にすべきと考える私には頷けた。
カナダ人カメラマンと韓国人デザイナー、韓国人インタビュアーと私が「ほら、日本語でなんていうんだっけ」とたどたどしく語り合ったのは、電子書籍用端末に始まるテクノロジーの進歩と、それについていけない社会の仕組みと人間の能力の限界、みたいなことで、「カナダのAmazonは本しか売らない」と聞いて爆笑したり、雰囲気は学生新聞の記者というか、まあ段取りもよろしくなく素人丸出しには違いないのだが、それがマイナスにならないのは、彼らが皆それぞれ10.とは別に自分の目的を持った大人であること、なんだろう。
発行される都市は主に東京で、パーティーをやる渋谷と原宿が多いんだとか。その他に、パリ、ソウル、シドニー、サンフランシスコなど9~10都市で配布予定だそう。
因みにスタッフに日本人はいない。
私が最初の日本人スタッフになるのかもしれない。
ところどころ日本語として微妙な感じも、私がスタッフになれば解消するはずだ。
雑誌が文化の中心だった時代に育ったんだなあと、今は思う。
平凡、明星はもちろん、ビックリハウスや話の特集、奇想天外を愛読するませた子供だった。
カストリ雑誌、という悪口があるけど、昔からそれ系が好きで、いかにもなものを見つけると必ず購読した。
カジノフォーリー、OnAndOnなど編集長たった一人で作っている雑誌とは読者であるというだけで後々に縁ができたりもする。
OnAndOnは、劇団の旗揚げ公演のときに情宣の資料を送ったら即効でページを割いてくれ、まだ旗揚げ公演も打ってない小劇団の座長としてインタビュー記事になった。掲載された第4号が最後になって廃刊したけども、その編集長とは今も連絡を取り合っている。
カストリと呼ばれた質の悪い密造酒を飲むと「3合で酔い潰れる」からきているカストリ雑誌の運命として、4号出せれば上出来だよと、あの頃は笑っていたけれど、編集長は寂しかったに違いない。
10.も私の記事が掲載されるのは4/10発行の4号になるはず、カストリにならなければ。
どこかで10. を見かけたら、ぜひ持ち帰ってためつすがめつしてやってください。
http://10tenmag.com
- 2010/02/21(日) 21:45:21|
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徹夜のまま午前中に今年に入って三度目のジーニアスバー、合間に煉瓦亭でカツレツ、帰宅して仮眠、夜は楽しみにしていた「
ロマンポルノ・リターンズ 団地妻 昼下がりの情事」で吉岡と合流。
上映前に切通さん司会で中原俊監督とロマンポルノの女王・白川和子のトークがあったからか場内は満席、若い女性のグループあり、当時の青春ど真ん中世代あり、関係者風あり、そのへんの青年あり、シナリオは元日活プロデューサーで「母娘監禁・牝」のときにはメリエスのプロデューサーだった山田耕大、企画は元日活プロデューサーで現アルチンボルド代表の成田尚哉、成田さんは会場にいたらしいが逢えず、山田さんは見かけず、因にトークの様子を最前列で撮影していた報道関係者の中には元池袋シネロマン支配人の小林十氏の姿。
空が青すぎる、と思った。フィルムじゃないんだな、もうあの頃とは違うんだなと。
だからいっそおセンチに観たかったのに、そうはさせてくれない。
最新の小さなカメラで撮るフィルムじゃないことを最大に活かした構図が随所に見られ、生意気を言えば本領発揮、テレビ版「桃尻娘」の中原さんの洒脱さが今や幻のような団地妻を活写、リターンズに相応しい人選だったのだ。
男優陣が奮闘するロマンポルノ作品はどれも傑作というのが定石、特に顔が写る前から気配だけで気持ち悪さを醸していた怪物君、普通の学園ドラマには出られないだろう怪優ぶりで出て来るたび怖かった、そういうキャスティングができるのはロマンポルノならではだと思う。
今どきの若夫婦、今どきのお楽しみ、全部ちゃんと「今」だった。
ただね、中原さんにも言っちゃったけど、ヤカンが光り過ぎだよね、スタッフは皆若いんだね、古ぼけた団地の一室なのに小物が多くて生活が豊かに見えるのは、スタッフが、そういう豊さの中で育ったってことだよね、精一杯に足し算しちゃう世代なんだよね、そのあたりも、文句つけるのは簡単だけど、今は、そういう人たちがこういう現場にいられる未来の方が魅惑的だからなあ。
最後の台詞、洒落てるな。山田さんのホンに出てくる男は、いつもそうやってぽかんと置いてかれている気がする。
終映後、「面白かった」と伝えたい人たちの姿はさっぱりなく、切通さんに連絡をして、吉岡と向かいの居酒屋で待機、アルチンボルド東プロデューサーと中原監督、次週から上映の「後ろから前から」の増本庄一郎監督と主演の宮内知美嬢に合流させてもらい、懐かしいあの頃やら今これをやる面白さやらあれこれ、及び吉岡の売り込みをしつつ午前一時過ぎに解散して帰宅。
切通さんがロマンポルノに出てくる人たちを「世の中の中心からちょっとずれてしまっている人たち」と言った、それが今また通用してしまうのは世知辛いことかもしれないけれど、いい時代だったよねと自己満足を語るだけでは未来に結びつかないのだと気づいた80年代の作り手たちが、だてに年食ってねえぜと胸を張れる仕事を観られたことは、今生きている歓びだと思う。
中原さんと会うと、どうしても斉藤博を思い出してしまう。
昔みたいに、10分に1ファックのシバリもなく、道具は最新で、スタッフは若く、監督はもう若くない。
やみくもな熱は、ないのだ。
青春のノスタルジーは裏切られるだろう。けれど、未来にそれを感じることだってできる。
未来へのノスタルジーこそが、ロマンてやつなんじゃないのか。
「団地妻 昼下がりの情事」は
ユーロスペースにて今週金曜までのレイトショー。
どうかたくさんの人に観て欲しい。作り手側にいる自覚のある人には、観なさいと言おうと思う。
半券で、次週の「後ろから前から」が割引になるそうです。
- 2010/02/20(土) 03:26:09|
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水曜、小説教室二回目はプロット作り、事前に提出あったのは一名で他の受講生は皆その場で提出だったので一時間半丸々講評したが時間が足りずに十五分ほどオーバー、センターからは長め歓迎と言われているのだけど終了時間を予定していた受講生の方には申し訳ないことをした、次回はもう少しテンポアップを心がけようと反省、補聴器の方がいるので今回はマイクを使ってみたのだけどそれでもやっぱり聞き取りづらいとのこと、最前列に座ってくれるのに、ううむ困った、よい案ないものか。
犬をケージに幽閉していたのでヤスコたちに付き合わず直帰、早速提出してもらったプロットもしくはプロット用のメモを添削作業、メアドを書き添えてくれた人の分だけ先にスキャンしてコメントメールの下書き、メアドない分には次回プリントしてコメント付きのものを返す予定、提出物を読んでざざっと鉛筆入れて、それをPDFにして、鉛筆で入れたコメントの説明をメール文にする作業が一人分で約一時間、受講生は二十一名、今はまだプロット段階なので分量がそれなりだが本編に入ったら一ヶ月がかりでも終わらないだろう、センターの前例では1000枚とか送ってくる人もいるとのこと、その分量を集中して読むことを考えただけでも緊張するので、上限400枚に設定させてもらった。
編集業の先生だと原稿全部に本腰で朱入れをなさるらしい、本業の他に一ヶ月のタイムリミットで20人分の原稿にチェックを入れるのは正気の沙汰じゃないですよ、M・元小説S編集長!
とはいえ、こればっかりは性質の問題なんだろう、加減などわからないし、わかったところで加減できるとも思えない、コメント返した受講生の方やセンターの担当嬢からも「丁寧すぎて心配です」と言われているので、もう少し要領よくやるべきなのかもしれないが、ワークショップみたいに飲みながらともいかないし、一回目より二回目の方が顔と名前がつながってきて個々の作品テーマがより明確に見えてきたように思うし、皆それぞれの思い入れや長年の夢を抱えて、しかもお金を払ってきてくれているのだから、やっぱり心配されるくらいの誠意があって当たり前、教えるなんて大層な役割を引き受けた以上、個々の思いに向き合うには、誠意と丁寧さしか、こちらには見合うものがない。
私は〆切がないとついつい読み書きをサボってしまうたちなので、〆切仕事のない今の時期はきちっと集中して取り組むべき作業があることはありがたくもある。
ずいぶん前のことだが、新しく担当になった編集氏に「私のカレコレの作品を読んでみてください」とお願いした、後日その氏は「読み始めたんですけど途中でつらくなっちゃって読むのやめました」とニヤリ、「読み進むのがつらい出来である」という感想であることに間違いはないが、たとえそうでもそこんとこ堪えて最後まで読むのが仕事だろうと、なんとも納得のいかない、しかし強気にそうとも言えない、もやもやした思いになったことがある。
だから、小説教室をやりましょうと決まったとき、自分が書く以上にうまく書ける方法は教えられないけれど最初の読者になって読むことはできると、そこだけは責任を果たさなければならないと、誓うような気持ちになった。
プロットを提出するときの得意げな顔、自信のなさそうな視線、あらすじを解説するときのイキイキと楽しそうな輝き。
受講生と一括りに呼んでしまっているけれど、私より何十年も長く人生をやっている人がたくさんいるし、その人たちの人生の断片を読ませてもらうのに、片手間などあり得ない。
書き手として、読み手として、小説をナメんなよ、と思う。
それは労力とか能力とか賃金とか商品価値とかのもっと手前のところで、人の一部なのだ。
書いた人の一部であることはもちろん、それが誰かの手に渡れば、読む人の一部になる。
もちろん小説に限らない。
紙や文字が道具として使われるよりずっと昔から、人には「物語る」という本能がある。
そこんとこに触れる仕事をするのだから厳粛な姿勢にならざるを得ない。
自分が売文業をやっていく以上、人の文を軽んじれば必ず自分のそれも軽んじられるに違いないのだ。
文芸に関わるとき、書くことと読むことは、同じ姿勢でありたい。
芝居に関わるとき、やることとみることは、同じ姿勢でありたい。
大げさなようだけど、ものを作る人は誰だって、結局のところ、何十年もかけてその擦り合わせをしていくだけなんじゃないのか。
他人のそれが手本になるわけじゃない。
読み手としての自分を満足させるものを書くのが如何に難しいことか、また、書き手としての自分が満足できる読み方をするのは如何に過酷なことか。
演じ手に置き換えてもまったく同じことだし、洋服を音楽や料理を作る人も、皆同じに違いないと思う。
だけどまあ、ときたま、書きたいだけの人ってのもいる。
そういう人は、ものを作る人ではなくて書く人なのだから、電話帳でも書き写していればいい。
芝居で言えば、死ぬまで「外郎売り」でも暗記してろ、ってやつだ。
実を言えば、私は十年前まで、そういう人だった。
文字が書きたいというだけの欲求で辞書を書き写し、文字を読みたいというだけの欲求で電話帳を読んでいた。
ほんとです。
朝日カルチャーセンター「
プロ作家が教える小説創作 実作編」4月からの受講生を募集しています。
1月からの受講生はいよいよ実作に取り組む時期ですが、新規受講生はテーマ作りから後追いの形で進めていきます。
個別に対応しますので、戯曲を書きたい方もどうぞ。
- 2010/02/18(木) 03:29:05|
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ワークショップのメニュー、前回は充実した内容だったのに今月の申し込みが少ない、リピート参加している数人はWSコネクションで回した里美浩太郎主演の武道館公演に出演で日曜しか来られないし、日曜には来られるのに来ないのかもしれないけど、それだけじゃなく申し込みが少ない。
レギュラー参加者の上司から電話で「来月のワークショップはいつですか」と問い合わせがありましたよ、シフト組まなきゃいけないからってのはわかってるんだけど「まだ決まってないんです、すみません」と答えたら「あ、じゃあまだ決まってないってのほんとなんだ」ってどんだけ信用ないのかウッチーは。
あるとき、教える歓びはなんですか、と訊かれたけど、教える歓びなんか別にないなあ。
特にワークショップは教えてるわけじゃなくて演出の仕事をしているだけだから、歓びというより仕事そのものの面白さなんだよなあ、強いて言えば「人と逢うこと」「人の生き様に関わること」なんだけど、これは支配欲の一種だろうからなあ。
朝日CCの教室は無論お仕事なわけだけど、朝日で担当してくれているY嬢の仕事ぶりが誠実なので、お仕事としてとてもやり易いし、デビュー十年目で初心を振り返るためとも言えるし、今の時期だからこそできる何かだと思っている。
小説教室に来ている熟年、老年の方々には本当に頭が下がるのだ。
「やりたいことがあるんです。だから教えてください」という、それだけのことが、年を取るごとに難しくなっていくのは私にもよくわかるから、ああ、この人から私もそこんとこ教わろう、と思う。
小説教室での歓びはきっと一人でも多くの人が自分なりの小説を書き上げてくれることだけど、それが十年後でも二十年後でも構わないし、書きたいと思っていたけどやっぱりやめた、でもいいと思う、要は、やってみたいなあと思ったことを実際に行動に移したからこそ知り得る何かってことだから。
さて、次回ワークショップでは集中についてやってみようと思う、なんで世の中の演劇の人たちは皆芝居やるときあんな気違いみたいに集中してるのか、つうかあれじゃ気違いにしか見えない、みたいなことをね。
お芝居やりたいって人には、そういう人が多いような気がする。
集中力とかあって、何かに取り憑かれたような目をしてて、大きな声が出て、表情が豊かで、って、所謂「演劇」体質みたいな人、それって普通じゃないよなあ、普通の人間には見えないよなあ、どんなに一生懸命お芝居したって人間に見えなきゃしょうがないと思うんだけどなあ、みたいなことをね、まあ、いつもやっているわけですが。
だから、そういう演劇体質を解放したいタイプの人は、うちのワークショップにくると傷ついちゃうらしい、傷ついて白けていい加減にやってると「そっちの方が全然いいよ」とか言われるもんだから、はあ?こいつ何もわかってねえとか思うんだろう、次からは来ない。もったいないなあと思う。
私はお芝居のやり方を教えるわけじゃなくて、どう見えるかだけを言っているだけで、そこでじゃあ何をすればいいのか、どうすればいいのかを考えさせてくれるようなワークショップはあんまりないから、あああしろこうしろと人形使いのような演出を受けてその通りにやれることだけに満足感を求めるタイプの人にはとても大切な時間だと思うのだけど、そういう人はやっぱり頭を使うのが嫌なのだろうか、まあ、演劇体質にも体育会系演劇体質と文科系演劇体質みたいなのもあるし、つまるところどちらも秀でた人はおんなじことやってる、っていうふうに見ることができない人には何も通用しないのかもしれない。
私は、人が見える、ってことだけがお芝居の面白さだと信じている。
演じている人、演じられている役、どちらも人。
作る人、観に来る人、どちらも人。
吉岡がインタビュー記事の中でいいこと言ってた。
「ボクはできるだけ日常と切り離さないで演じたいんです」みたいなこと、いいことって言っても私がずっと言ってることそのまんま言ってるだけなんだけど、そうそう、よしよし、しめしめ、と思う。
その「しめしめ」が、教える歓びなのかしら。
単純に、ワークショップをやることで私が作る芝居を観て面白いと感じてくれるお客さんを増えるのが嬉しいし、私が観て面白いと感じられる役者が増えるのも嬉しい。
生涯、誰かの師であることは、それがどれほどフレンドリーであっても本当に大変なことだし、そういう大変なことをこんなに引き受けている自分、という自己満足はあっても、そんなことは誰も評価してくれない。
自分のやりたいことの中では、結局のところ、自分の力でしか判断されないし、そのためには常に勉強が必要で、その勉強の場をどこに置くってことなのかもしれないけど、人に何かを教えようなんて傲慢な立場で学ぼうとなると、これはもうやっぱり才能の一種であって、できれば私はもっと素直にものを教わることができる才能の方が欲しかったなあと思ったりもする。
教えることは、請われればできる。経験と技術と、自分に対する諦めさえあれば、いつでも。つまり手前味噌だ。
けれど、教わることは、なかなかできない。
学びたい気持ちとそれができる時間と教えてくれる人っていう条件を自分の力で揃えるのは、なかなかに難しい。
ワークショップは、何も教えない。いや、教えてるんだけど、真に受けなくていい。
考えて欲しい、気づいて欲しい、疑って欲しい、繰り返し来て欲しい、という願いだけだ。
あんたのやってることつまんない、と私が言う、どうしてなのかは私にもわからない、ただつまんないと思うんだから仕方ない、じゃあどうしてあたしにはつまんないのか、どうしたらつまんなくなくなるのか考えよう、というのがワークショップの基本姿勢だ。
「つまんなくて当たり前だから、魔法のように演出一つでつまんないことが面白くなるのを観たかった」と言ってくれた過去の参加者もいたけど、それって稽古場の演出家がやることなんじゃないの、と思う。
稽古場には、何をもって面白いとするか、というラインが必要だし、基本的には演出家がそれを引くことが多い。
だから、稽古場で演出家が「どうしてつまんないのかわかんない」とは言えない。
故に、魔法も起こり得る。ここをこうしたらいい、ってのがすぐにわかる。
だけどワークショップにはそういうラインがない。お金払って時間作って来てくれる人に、たかだか私の感覚で面白いだのつまんないだのの評価をしてはいけない気がするから、あくまでも「私にはつまんない」っていう微妙なラインを踏み外せない。
だから、なんでだろうねえ、と考える。考えるうち、私の見方を変えたら面白くなったという場合もあるし、その人の工夫で俄然面白くなることも多い。
自分のやってることがこの人にはどう見えるんだろう、という興味を持った人が参加している。
マツジュンなど自分の劇団を持っている座長なのに、へらへらレギュラー参加して、自分がやらされることは二の次三の次でかなりどうでもよく、「ははあ、前川はこういうことを面白がるのか」とかまるで私を演出してやろうという視線なのだけど、そりゃずるいよなあ、こっちは丸々全部曝してるんだから。
そうそう、マツジュンから借りた雑誌の巻末に載ってたルポ漫画が、ピンク映画の撮影現場を見学してきました、ってので、漫画なのに横顔だけで「吉岡じゃん」とわかった、最後の方で「男優の吉岡さん」とネームがあって本当に吉岡だった。
吉岡がこれほど成長していなかったら、私はワークショップを再開しなかったと思う。
けれど、映画畑の俳優がワークショップに来て「目指せ吉岡」みたいなことを言っていると、大真面目に「それはやめろ」と言う。因に、吉岡は吉田拓郎を目指して上京してきたわけだが、私は心の底から、誰も何も目指すな、と思う。
ワークショップの参加者には「モグラ町」の稽古場付きを勧めるし、普通の見学も歓迎していて、学生劇団や素人劇団の公演とかの甘々な経験しかない連中には大興奮、大覚醒の世界に違いない。
時折入ってくる商業演劇のエキストラとか、様々な知人を呼び込んでの宴席とか、お金を払うだけじゃ滅多に手にできない特典だと思うんだけど、これはやはりウザイ塾なのか。
来月のワークショップでは、再びゲストを迎えてエチュード二人芝居の実演をしようと思っている。
そのときにやってみせることを、今月のワークショップである程度ちゃんと説明しておこうというのが、前回ゲストを招いて実演したときの反省としてある。
だから、前回のように見学募集をするかまだ決めていないし、ゲストもまだ公表しない。
ああ、本当にワークショップには一回でも多く来て欲しいと、私は本気で願っているんだなあ。
続けてくれ、続けてくれ、来るための時間を作ってくれと、願い続けている。
こんなの、歓びじゃない。
来なくなる人がいるたびにひどく悲嘆するのは、当然ながら苦痛なのだ。
十人来て、九人が次には来ないのであれば、九人分の苦痛を背負うのと引き換えに、残りの一人がまたその次も来ることを期待する。
だからこそ、何年も通っていた吉岡にはあらゆる機会を渡したし、その姿勢こそが私の学びたいことなのだと尊敬もしている。
吉岡も、ようやく事務所が決まった。いい仕事も悪い仕事も、いっぱいしてって欲しい。
タミヤスはこないだ明良さんとドラマでコンビ組んだらしい。
タミヤスとは短い間の関わりだったけど、もっと深いところで、吉岡とはまた別の何かでつながっていられるような気がしている。柄本さんとやったワーニャんときの稽古場付きに凝縮されてたのかもしれない。
私が入っていない演出家協会に入って忙しくしている三谷とか、宝塚で演出やってる小柳とか、小形だってモグラ町には欠かせない演助だし、アベちゃんも育児がもう一段落したら絶対に演出助手に復活するだろうし、初期のワークショップの連中は、皆それぞれに自分の居場所を見つけた。
さて、君ら。どこに行って、何をする人になるのか。悪いけど、一生見せてもらう。
その代わりではないけれど、私の一生にどれだけ関わろうが、それは君らの自由だ。
ワークショップの飲み会にナンパした阿佐ヶ谷の龍馬から、今日メールが来た。
阿佐ヶ谷にいないと思ったら、六本木に「侍バー」を出して細々やっているらしい。
つまりね、ほら、人と出逢って関わっていくことは、自由自在なんだよ。
関わりたいなら、自分が動けばいい。それだけのこと。
犬用の粉末カルシウム・サプリが届いたので餌にわんさか混ぜてみたら大喜びだった。
足りてなかったのか、カルシウム。
2月ワークショップの参加申し込みを受け付けています。http://www.maekawa-asako.com
- 2010/02/15(月) 01:06:01|
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がっつり大BoogieChaffを堪能、ふざけた名曲ぞろいで最初っから最後まで大笑いして高揚、みんなちゃんと大人で見た目もぱりっとしていてものすごい巧いのに、出てくる歌がどれもこれもふざけてるから沁みる、「幸せになりたぁぁぁい」「ああーん」と文字では伝えられない悶絶モミー節が炸裂してハイパー演技歌唱しながらタイトなリズムってかっこいいったら、RCサクセションのステージにいた片山御仁がモリヤンと一緒に首振ってるって泣ける光景、「テンポに気をつけていきましょう」「あせらずいこう」などのMC合間にかかる大王指令が職人風情を感じさせて好き。
BoogieChaffのステージは愛が溢れてるなあ、飲まずに帰ってしまい申し訳なかったです、モリヤンびっくりしたけどおめでとう。
- 2010/02/14(日) 00:46:14|
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