仕事部屋

3.31

twitterのシンプルな使い勝手を覚えてしまうとmixiだのfacebookだのってほんとにめんどくさくて使いづらい、この先いつからどうやってmixiだのfacebookだのからフェイドアウトしようかと画策中、twitterとブログがあれば十分だよなあ、みんな続々mixiとか止めてるし。

使わなくても困らないんだけど使わないのに登録してるのってすごく嫌、持ってるものが使えないとか、いらないものを持ってるとかってのが生理的にダメで、道で配られるティッシュも必要なときしか受け取らない、あと必要なものが見つからないとか、探して見つからなくてそのままとか、もうほんとにそういうのがあると軽いパニック発作が起きるくらいダメ、連絡して返事がないとか、約束の確認ができないとか、自分で責任を負えない範疇のそういうことがあると何も手につかなくなって無気力に陥り、あっさり鬱症状。

うかうかしているうちに3月が終わる、長編の書き下ろしに取り組むつもりが正月明けにぺらっと二枚書いたきり、まだ先と思っていた短編の〆切も刻々と迫っている、当然ながら〆切のない原稿にはまったく手がつけられていない、これにパニック発作が起きないのは自分の責任と自覚しているからで、編集氏にパニック発作を起こさせてしまっているかもしれないけど。

テンションだのモチベーションだのと言うのは口はばったいけれど、ふつっと湧くものがなければ何もできないし、それでも無理矢理に書き出せばなんとか書けるってのは事実であれどそうやって取り組んでいい結果になった試しがない、「集中できる精神状態」の波があって、そいつをなんとかコントロールしたい、書くことを習慣にしたい、毎日ルーチンに作業したいとずっと思っているのだけど、かれこれ十年ままならぬのだから今更もう無理だな。

やることやってないなあと思うから、映画だの芝居だのに出かける気力も湧かないし、誰への言い訳でもないのに毎日できるだけ何もせず息を殺してひっそり過ごす、みたいな。
もやもやする春先だし、曇天多いし、犬は寝てばっかりだしで、ちょっと重たい気分なんだな。

月変わり、ぱっと花咲くみたいに、アクティブな作業ペースを取り戻せたらいいのだけれど。
  1. 2010/03/31(水) 21:26:37|
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@たびたびすみません、Blog更新→Twitter投稿テスト中。

本文。
  1. 2010/03/31(水) 19:03:33|
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更新テスト(タイトル)

更新テスト(本文)。
  1. 2010/03/31(水) 16:06:12|
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再手術。

月曜に再手術の予約をしていたので午後イチで獣医、バス停降りた途端にスリングの中でがくがく震え始めた臆病犬、それでも院長の前に行くと従順、部分麻酔なので見守らずそのまま預け一泊入院、渋谷で食材の買い出しを済ませて遅めの昼食、心配がないわけではないけれどちょっとのんびり気分になったのも事実、子供がよそんちに泊まりにいってるお母さんの気分。

帰宅後に院長から術後の様子を報告する電話、前肢に二本埋め込んだピンのうち激しくずり落ちていた一本は抜去し、もう一本は短めにカットして埋め直したとのこと、手術前のレントゲンで骨折線が消えていないからピンを抜いたらまた折れ易くなりそう、そうなったら再々手術で他のところからピンを入れて固定しなくちゃならんなんて話だったので、それよりましな対処ということらしい。

犬のいない部屋はやはり静かで、作業してると中断するものがない分、何時間でも熱中してしまう、この機会に原稿作業すれば良かったのだけどそういうテンションになれず、なかなか片付かなかった雑用を黙々で朝、仮眠して雑用続け、昼過ぎにようやくあれこれを終えて、犬を迎えにまたバス、このバスは渋谷から国道246を走っていて、いわば故郷を通るから、いつも窓にへばりついてしまう。

前日に報告してくれたことをレントゲン写真で改めての解説、骨は使わずにいると再生しないんだそうで、あと二週間でギプスを外して少しずつ使わせ様子を診ましょうとなった、今日のギプスはこないだよりわずかに足先が開いていて、これで足をつけるようになるらしく、治癒の遅い帆太郎先輩も着々追い込まれていく感じ。

photo-1_20100331032623.jpg 今日のギプスはピンクでモモレンジャー、これで叩かれるとかなり痛い。

帰ってきた帆太郎、ぐったりとベッドに横たわっていて、さすがにしんどそう、部分麻酔の手術がよっぽど怖かったのか、ギプスの足先をチェックしようとちょっと触っただけでひくっと肢ごと引っ込めてしまう、夜の食餌後、こころ無しか腫れてドラえもんっぽくなっていたので、包帯なりギプスなりを少しばかり緩めてやろうとピンクの包帯を解いたら、下には別の色の包帯が巻かれていた。

photo-2_20100331033536.jpg モモレンジャーと思いきや、その実体はオレンジレンジャー!

モモレンジャーを全部外してオレンジレンジャーを緩めに巻き直す間も、触れるとひくっと引いてしまうので痛いのかと思ったが、そうっと触れると平気らしいので、きっと手術の痛みを覚えていて怖いんだろう、足の爪切るときと同じ、よく見ればトリマーさんが爪切ってくれたらしくかなりの深爪、となると手術の痛みではなく爪切りの痛みと恐怖かもしれない。

動いていいと言われたことで永らく続いていた看護生活も少し楽になった、これまではケージに軟禁させられなくてベッドの上り下りも介助付き、慣れない女の子スタイルのおしっこで包帯を汚すのでその都度身柄を確保しての包帯交換で係りっきりだった、ギプスが取れる頃には注文した新しいスエットが届くだろう、犬に服を着せるなんてのは趣味じゃないのだが、ブルーという毛色に特徴的な遺伝性脱毛症が出ているため紫外線を避けるよう獣医から厳重に言われて、散歩のときだけジャージを着せている、体躯がおかしな犬種なので首回り・胸回り・胴回りのサイズを測ってオーダーしなければならずこれもまたひと手間。

癲癇持ちに生まれて一歳半で死なせてしまった帆太郎の娘のことがなければ、「ハゲたって死にゃあしない」と高を括ってお構いなしにしていただろうけど、一度でも見送るとあれをしてやれたんじゃないかこれをしてやれたんじゃないかとひどい後悔が残って、ついつい余計に世話を焼いてしまう、餌なりサプリなりオヤツなりシャンプーなりローションなり歯磨きなり、やり始めると際限なくお金も手間隙もかかるのだが、死なせるよりましだ。

犬も猫も好きだけど、よその犬猫をみて「かーわーいーいー」とは思わずただ面白い、人間の子供に至っては、自分の産んだ子供も含めて赤ん坊は怖いし幼児はうっとうしいし、むしろ子供は嫌いで、娘が幼稚園~小学校低学年の頃には行事で幼稚園や学校に行かなければならないのが本当に苦痛でこちらが登校拒否になっていた、小学校も半分過ぎになると子供たちみんなにそれぞれの個性が見えてきてようやく人間らしくなり今度はやたらに面白い、運動会でも卒業式でも飽きずに眺めていられた。

やっぱり犬も寝てばっかりじゃ面白くない、健康でいてくれなくちゃ毎日退屈してしまうよ。




  1. 2010/03/31(水) 04:03:49|
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3.27

桃まつり最終日だった昨夜、富山から帰京中のF先生、ガンホ会O先生K子女史夫妻とユーロスペースで合流、その後は卒業し損ねたばかりというO先生とこの学生さん誘って近場で自主映画の過去と未来を語らい、夫妻と私は桃組打ち上げに参戦、「へばの」監督とプロデューサーが来ていたので相手してもらい、ドキュメンタリーの新作「LINE」を宣伝中の小谷監督ややはり公開控えた劇映画「にくめ、ハレルヤ!」の板倉監督とかを紹介してもらい、そういえば小劇場には昔っからどこの誰だかよくわかんないけどいっつも打ち上げの席に現れてタダ酒飲みながらあれこれ偉そうなこと言ってる破落戸がいたよなあ、なんか私は段々そういう人になってきてるなあと恥じ入りつつ朝まで、まあ飲み代はちゃんと払うし何もしてないわけでもないからまだマシかと、とぼとぼ帰宅。

桃まつりプログラム、吉岡は一週目・船曳真珠監督の「テクニカラー」と三週目・石毛麻梨子/大木萌共同監督の「代理人会議」に出演、「テクニカラー」はバランス良くて上質な映画だったけど吉岡が今ひとつ冴えない感じ、「代理人会議」での吉岡は素の存在感のみ貢献しても結局のところ一人芝居で痛々しさ強く失点、どちらも監督の演出力の問題だとは思うけど、そういう現場で役者は何がやれるかが課題のはず。個人的なところだと一週目の「バーブの点滅と」と三週目の「カノジョは大丈夫」が好み、要は女優の好みなんだろう、昭和な顔立ちで昭和な青春が似合うハスッパな女って可愛いじゃないか、男優も「カノジョは大丈夫」のビッグボーイ店長が圧倒的な仕事ぶりで印象深かった。

「へばの」以降いくつか自主映画作品を観て思うのは、イベント上手でプレゼン能力が高いのだけど、自分の頭の中にあるイメージを壊していく忍耐力と勇気と現場での知恵が足らんのだろうと、映画の視点を見出せずに「撮りたいものが撮れる」喜びで終わってしまっているんじゃなかろうかと。

創るってことは、自分の思想や思考や妄想をなぞって形にすることじゃあない、人と関わって人の力で歪められて自分自身からどれだけ遠ざかっていくのかをひたと見据える時間や、その道のりこそが創るってことなんじゃないか。思ってもみなかったところに辿り着いて、それなのになんでかそこはまったく自分の生まれたところのように感じて、自分の中にあったそれからずいぶん違ったものとして出来上がったそれなのに、そのものがすべて自分自身のように感じてしまう不可解な旅だから、何度でも踏み出せるんじゃないのか。

O先生に紹介された七里圭監督がPFF同期と知って、あの当時に少しだけ触れた大真面目で貧乏臭いお兄さんたちの「モノにならない映画もどき」のバカバカしい作品や、それらを人に観せるため必死に走り回っていた日々にふらふら手伝いに行っていたことや、瀬下くんって子と横浜で上映会の司会やったなあとか、身内に中尾ちゃんって映画一本丸ごと物真似する天才がいたなあとか、つまんない映画だったけど中尾ちゃんの撮る映画はみんな大好きだったなあとか、んで映画の話しなんか一つもしないまんま打ち上げて夜明けの山下公園でフォークダンス踊ったなあとか、自分がそれなりにあの時代の自主映画の一端への思いを持っていると突然気づかされ、その頃の自主映画ってムサ苦しくてダサくて貧乏でセンスのないお兄さんたちの世界で、監督は勿論上映会の客にも女の子なんて一人もいなかった、自主映画そのものだって小難しい実験映画かバカ丸出しの女の子映画しかなくてどっちも童貞の屈折が原動力になってる妄想世界でしかなくって、そういえば16歳の誕生日は自主映画のおっさんたちと撮影で広島に向かう新幹線に乗ってたんだっけ、その後多摩芸でモグリの学生やった時ですら女子は3人、4人いただろうか、その頃にもやっぱり連中はムサ苦しくてダサくて貧乏でセンスがなくて、女子も結局そういう女子で、美大の連中はぐずぐずした男女関係で人生を学んでいたのに映画科の連中は卒制の撮影バックレた女優のご機嫌取りやらされるだけで可哀想だったなあ、撮影すっぽかして逃亡するくせに得意げにゴールデン街に呼び出したりする私のひどい振る舞いも彼らには青春だったんだろうか、私と寝てたくせに好きな女に振られて実家帰って家業継ぐと行って映画をやめてしまったあの人の東中野のアパートの鍵は返し忘れたままにまだ持っている、彼ら、今はどんな映画を誰と観ているんだろう、子供たちとポニョとか観るんだろうか。

今朝は龍社長より「モグラ、助成金でました」と報告もらい打ち合わせの日程決めて、「モグラ町」という華々しい戦歴も今年が最後だしなあ、終わったら次は何しようかなあと悶々の二度寝、夢の中で芝居やってて、私が出番を間違えて出てったら袖にいる吉岡が他の人に頭下げてるのが見えて「ちっ、なんだよ」と思った、出トチリとか台本なくすとかキッカケ通り舞台に出たはいいけど自分の役がわからないとか、冷や汗かく夢はいつも同じパターンなんんだけど、そういう類いの夢に出てくるのはいつも流山児とか佐藤信なのに今日の夢は何故か吉岡、世代交代の実感てことなのか、朝になって居酒屋出るときに「また吉岡に叱られるなあ」と思ったからなのか、そうそう帰りがけの文洋との握手は「ラースとその彼女」みたいな握手だったよ、吉岡。
  1. 2010/03/27(土) 17:46:10|
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映像は音楽を必要とするのに、音楽は映像を必要としない。

と、ゴダールは言うのだけど、人は物語を必要とするのに物語は人を必要としない、と言うことができるだろうか。

小説教室でも芝居のWSでも繰り返し言う羽目になるのは「描写」で、まあWSでは「描写」という言葉は使わないけど言ってることは同じで、たとえば小説教室に提出される作品に共通してコメントがつくのは、「ある朝、男が目覚めると、蟲になっていた。」と書いてしまうのは要約文ですよ、「男は未だ重たい瞼を引きはがすように持ち上げて、霞む視界に目を凝らした。」などと書くことで「目覚めたんだな」と、「自分の身体が思うように動かない。助けを求めたいが声が出せない。微かに聴こえるのは、しし…という何かを摺り合わせるような音だけで、身体全体が固い甲羅に覆われたようだった。」などと書いて「蟲になったんだな」と、読み手に思わせるのが小説ですよ、という類い。

これは勿論私が散々にあらゆる編集氏から教えてもらってきたことなのだけど、微に入り細に入りと言うが、要約すれば一行で済むことを原稿用紙に何百枚も書くキチガイじみた作業が小説を書く作業の本質なんじゃないかと実感する。
つまり「おっぱいぽろん」と書くと、返される原稿に入っている朱書きは「どんなおっぱいですか?」「どんなふうに【ぽろん】なのでしょうか?」であって、やっぱり「おっぱいぽろん」じゃ小説にならんのだ。

役者の勉強も同じで、自分が演じる人物像を「要約」してしまう演技は物語を生み出さない。
台本に「と、笑う。」という「ト書き」があれば役者はそれをやらなきゃいかんのだけど、そこんところを勘違いしてうっかり、ト書きに書かれていることを完璧にこなせる技術が役者の仕事だと思っている人もいて、そうじゃないんだよ、「なんで笑うか、どう笑うか、台本に書いてないことをやるのが役者の仕事なんだよ」と言い続けて何十年になるやら。

WSでは「描写」ではなく「解釈」と言うし、解釈と描写はもちろん違う言葉なのだけど。

人は物語る生き物だなあと思う。言葉が存在しない時代から、人は何かを物語るためにあれこれの知恵を使っていたじゃあないか。言い伝え、象形文字、舞踏、音楽。人が物語ることは本能なんだろう。
死ぬ間際にも何かを語ろうとする遺言なんてのもあるんだから、最後の最後まで失われない本能、言わば「悪あがきの本能」なのかもしれない。

佇まい、という言葉がある。
その人がそこにいる、その雰囲気のことをひと括りにした言い方だけど、「佇まい」という言葉自体は、状態を説明していない。つまり、誰かの佇まいに自分が惹かれたとして、そのことを書くときに「その佇まいに心惹かれた」と書いてしまっては小説にならない。
小説で「佇まい」という言葉を使いたいときにはせめて「どんな人が、どんなふうにそこにいるのか」を書いた上で「その佇まいに~」と書く、それが小説家の仕事だし、そこが物語になっていく。

んで、役者がやるべき仕事は「どんな人が、どんなふうにそこにいるのか」をやってみせることだ。だから台本には「誰それが立っている。誰かれがそれを見ている。」としか書かれていない。書かれた通りに「立っている」だけ、「見ている」だけでは物語にならない。

役者がすごく得してるのは、人を演じる以上、最低限に必要なものは必ず揃ってるという点で、これが椅子の役だったら、椅子の佇まいを演じるのはかなり難しい。
椅子は目を閉じているのか開いているのか、息をしているのかしていないのか、なんてことを考えなければならないのだけど、人を演じる以上、まあ目を閉じて立ってるってあんまないしな、息はしてるだろ普通と、最低限のことの目安がつく。
ばかばかしいことのようだけど、演劇の人ってずいぶんと本気でこういうことを考えたりしているんじゃないかしら。「ばーか」と思うけども。

WSでは、人は人なんだからあんたが人だったらそのまんまでいいじゃん、てな方法論をやってるのだけど、そのまんま立てって言われると、普段自分が人として使ってる機能が停止した状態に陥ってしまう人が多い。
それは、舞台の上の役者は何かをやらなきゃいけないという先入観のせいじゃないかと思う。

んで、なんかやっちゃうんだな、そういう人は。やらんでいいことを色々と、「そこにただ立ってろ」と言われているのに腕時計(もしてないのに)を見(るふりをし)て待ち合わせでそこに立ってる、なんて勝手な設定を作っちゃう。そういうことを芝居における台本の「解釈」ですと教える人もいるからしょうがないんだけど、うちのWSではそういうことをすると「この設定乞食が!」と恫喝されます。

そういうことをやっても「どんな人がどんなふうに」が描けない。小説に「腕時計を見ている人の佇まい」と書いたら「だからその【腕時計を見ている人】はどんな人なんですかってところを描かなきゃ!」と編集氏が苛立った声で電話してくるに違いない。

設定増やしただけで解釈になってない。どんな人かがより一層わからなくなる。どんな人かよくわからないのにあれこれのことをやって見せられて設定ばっかり見えてくるのは、あらすじを原稿用紙二百枚読まされるのと同じで、観る側には猛烈な苦痛なのだけど、やってる人はちっとも気がつかなかったりする。

じゃあこの人はどんな人ですか、と問われたとき、演じる役者は自分に与えられた役なんだから「私です」と答えればいいのに、「普通に働いているOLで、家は世田谷の方で両親と暮らしていて、今は仕事帰りでちょっと疲れていて、それでもモヤイ像の前で恋人を待ってるところです」とか答える阿呆地獄。
「私に与えられた役なので、私がやるときのこの役は私です」と答えられる人などいない。

小説書く人も物語の人物をどんな人と問われて「私です」とは答えられないのだけど、それでも本当のところ、描かれている人物はすべて「私」なのだ。いや正しくは「描かれていることはすべて私」か。
まったく客観性をもって誰かのことを描写しきったつもりでも、「ははあ、この作家はこういう人のことをこういうふうに見ているのか」と、「私の目」が曝される。

芝居の感覚があるからか、作家の新刊インタビューとかで「この人物はこれこれこういう人で~」みたいな、自分が作った絵空事の人物像についてまるで現実での知り合いか何かのように熱心に語っているのを見ると、すげーな、キチガイだなと感心してしまう。そういう人は「書く」という自意識をどこに置いているのだろう。芝居でいうイタコ体質みたいなのが、小説を書く人にもあるんだろうけれど。

編集者にもそういう読み方をする人がたまにいて、自分が作った絵空事の人物の思うことや行動について、知人のことのように語られると、なんだか後ろ暗い気持ちになって、ちょっとびびってしまうのだ。

人物像のために、役の解釈のために、細かに架空のプロフィール(設定)を作ることも必要になるけれど、絵空事で作った人物は、どうやったって生身の人間の複雑さには敵わない。思考や思想や精神など、生身の肉体なしでは1メートル先に歩くことすらできないんだから。
それらを歩かせ、語らせ、生かすには、生身の肉体を容れものにするしかない。それが「私」だ。
といって「私」を空っぽにしてしまったら、何も物語れない。絵空事の人物には「生きてきた時間」がないから。

芝居に対する私の考え方は截拳道というブルース・リーの武術論を基にしているのだけど、私の容れものには水のようにたぷたぷと「私」を満たして、絵空事の設定など顆粒にして溶かしてしまえばいいじゃないかと思う。
だって小説家が物語の主人公そのものに成り代わってしまったら、構成とか校正とかができないじゃん。
役者が芝居の人物に成り代わってしまったら、キッカケも段取りもやれないじゃん。
小説が書かれた物語である以上、芝居が作られた空間である以上、んなこたあ不可能だ。
結局のところ、行き着くのは「書く私」や「演じる私」でしかない。

屁理屈ではあるけれど、小説に書かれている登場人物の言動は、どんだけその人物になりきったつもりで書いていたって、結局のところ、「作家が人物になりきったつもりで書いた言動の描写」でしかない。
つまり、もし自分がこの人物のような物の考え方をするとして、こんな出来事があった場合、自分ならどうするだろうという、どこまでも自分基準の想像だ。

芝居の場合はもう少し幅があって、空間や時間や相手の存在や与えられた台詞から、自分基準が自然とぶれることがあって、そうやって、物語という絵空事の人生にすっぽりハマったときには、普段の自分では想像できるはずのない言動がぽっと出たりするし、小説を書く人も、そうやって書く自意識を無くす瞬間があったりするのかもしれないけど、であれば役者のイタコ体質は、小説家の場合、自動書記体質ってことなのか。

截拳道では「武術家は水のようであれ」と言う。武術のスタイルを容れものにたとえ、どんなスタイルで闘うときでも、水のようなたおやかな精神があればよいのだと、言う。
それを役者や小説家に置き換えたとき、何を何と捉えるかは、人体の細胞の仕組みと壮大な宇宙の仕組みが永遠の入れ子構造になっているのと同じようなものだと思うけど。

物語が一番大きな容れもので、その中で生きる人物は顆粒状で「私」と溶け合っている。
てのが、小説にも芝居にも共通しているんだと思う。

私は泳げないし、とんとんとん…と包丁の音が軽やかな千切りをすることができない。
だからきっと、私が舞台上で演じる人物も、「泳げなさそう」「千切りできなさそう」なんだろうと思うし、それでいいと思う。遠泳で優勝しましたとかトンカツ屋で三年キャベツ切ってますに見えるタイプの人は他にいるし、そう見える必要があればそういう人にその役をやらせればいい。
だけど「泳げなさそうに見えて実は毎週プールに通ってます」とか「千切りできなさそうに見えてもハイパーオリンピックでは定規使わずにハイスコア出せます」とかが人間の面白さだったりする。
だから、その役を私がやるってだけで、絵空事の人物がより生身の人間に近いものに見える場合だってある。

こうやって言葉にしていくと、なんて複雑なんだろう。
演出やるときは良いとダメとが一目瞭然だし、小説教室の添削でも朱入れに迷うことはないのに。
芝居でも小説でも結局は、そこにある物語が観客や読者の日常より面白ければ良いわけで。

なんで急にこんなややこしい話になったかというと、ブログ更新のtwitterへの反映にはタイトルついてなきゃ駄目らしいからで、そんで珍しくタイトルつけてみたりして、そしたらなんかそれをテーマに書かなきゃいかんような気がして、こんなことになったのです。
タイトルにできるようなことを毎日考えてるわけでも、タイトルになるような出来事がいつもあるわけでもないのになあ。

で、タイトルに戻る。
ゴダールの言葉は、「私はいつも、映像をつくる人たちは音楽を必要としているのに、音楽家は映像を必要としていないという事実を、不思議なことと…おもしろいことと思ってきました」だそうだ。

「小説家は物語を作るときに人を必要としているのに、役者は人を演じるときに物語を必要としていない」んじゃないか、だからダメなんだお前ら、って意味で。

いい役者は、どんな役柄を演じてもただ「そういう人」に、どんな物語の中でも「そういう人生」に見える。
いい小説が、あたかも作家の目が見たようにありもしない世界を描くように。

  1. 2010/03/25(木) 15:23:57|
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3.23

twitterやってるとブログ書かなくなるって本当だ、なんか気が済んでしまう、なのでブログをあんまり書かない人にはtwitterをお薦めしたい。

今日はがしがしと布団類の洗濯、療養中の犬がケージに入りたがらずいつもに増して布団に常駐しているので犬主観の夢を見るほど犬臭くなる。

夕方娘がやって来て荷物部屋へ荷物を運ぶ往復を手伝ってもらった、夕飯奢るって言ったのに同窓会だからと振られた、なので娘の給料日過ぎに赤坂に焼き肉食べに行く約束した、割り勘で。

布団常駐に飽きると犬は膝の上に乗りたがる、仕事机の椅子は座面が狭いので犬を膝に乗せるとかなりつらい姿勢、仕方ないので一人掛けソファーを仕事机用に使うことにした。

ほらほら、こんくらいのこと書くだけならtwitterでもいいじゃんかね。

こないだWSの飲み会で一番若い男子が「一番若い」ということを喜んでいて驚いた、「一番若い」ってことは「一番バカ」だし「一番恥ずかしい存在」ってことだと思うのだけど、まったくそんなふうに思わないと言うので論破する気力もなくなったが、そういう奴は死ぬまで「一番若い」をやって喜んでいればいいと思う。

無知ほど無恥という真実、特に女子。
何かを目指している女子には経験値においてちょっとばかりのコンプレックスがあるんだろうけれど、若い女の「だって若いんだもん、経験なくたって当たり前だし」な太々しい開き直りと羞恥のなさが痛々しく見える年齢になったのだ、私。

エロ・アンソロジーを作りたいという倫敦のモニカ嬢、他の作家にも出版社経由じゃなく直接連絡を取りたいのだけどどうしたらいいかと訊いてきたので、「日本の作家は個人の連絡先を公表していないし、調べて連絡されるのを嫌がる傾向があるから、まずは出版社に連絡した方が良い」と回答したのだけど、間違っていただろうか。

演劇界・文芸界における伝説のストーカー、故・K藤K介青年がいなくなってから、とんとそういう面白い話は聞かなくなったけど、やっぱり未だその手の売り込み系ストーカーっているのかしら、あの当時と比べたら、皆なんだか「空気読む」のが巧くなって無闇矢鱈なことはしなくなってるように思う。

そういう器用さと、がっつり人と向き合う、自分を曝す、どん欲に学ぶ、みたいなことがちゃんと合致していないのが、今どきの若い連中という印象。

コミュニケーション力が新卒採用の最重視項目と新聞にあったけど、若い連中の考えるコミュニケーション力って「愛想」とか「付き合い」とか「トーク」みたいな表面的なことなんじゃないか、そこらへんの認識がすでにズレてるんじゃないかと。

好きなものだけ手にしてたんじゃ勉強にならないよ。

何かを初めて体験して「うわ、すげえ、これ好き、今まで自分が知らなかったことがもったいない」と思う、知らずにいた自分が損してたように感じることってあるだろうに、そこで「知らずにいた自分を恥じる気持ち」にならないのは、「訊くは一時の恥、知らぬは一生の恥」の間違った解釈だと思う、誰がそんなふうに教えたんだろう。

知らないことばっかりなんだから「知らぬは一生の恥」を最初から一生分抱えてるのが「若い」ってことじゃないのか、知らないことにぶつかる前に「知らないことがある」と考えることがどうしてできないのか、そう思われていることも知らないで日々を過ごすことに何故嫌悪感を持たないのか。

そうじゃない若い人がたまにいて、そういう人は目の光が違う、俗にいう知性の光なのかもしれないけれど、アホな若い奴は若いくせにどんより淀んだ目をしていて、笑うと妙に卑屈な媚びた色になったりしてぞっとさせられる。

犬の目がきれいなのはいつも「知りたい」と思っているからなんじゃないか、そして犬の可愛げは犬であることを誰より恥じているからなんじゃないのかと、若い奴にげんなりさせられて家に帰って犬を抱くたび、思う。

そりゃもちろん、こんなこと思うくらいに若くなくなった自分のことも恥ずかしいし、犬に見つめられると自分が人間やってることが恥ずかしくなる、つまるところ、人はいつでも自分を恥じていた方がいいんじゃないかと思うのだ。

ああ、なんか「どうもこの頃自信が持てない若い人が増えているから、自分に自信を持て、自分はたった一人の自分なんだから誇りを持て」とか言い出した時代があったような気がする、テレビドラマの教師とか、そんな時代じゃなかったか、それとこれとは違うことだと、その後まで責任持って説教すべきだよなあ。

自信と誇りと羞恥心はそれぞれ違うことだけどすべて一つの同じ核にあるものだ。
自分を見つめてるだけじゃその核には触れられないのに、みんな自分のことばっかり見てやしないか。

まあ基本、「ありがとう」と「ごめんなさい」をちゃんと言えればそこそこまともに生きていける。
けれどそれもろくにできない奴が、そこそこまともに生きてるつもりになってるのを見ると、首を絞めたくなる。

恥ずかしいことに、私もそんなふうに「お前らみんな死ね」と思われながら生きてきたのだ。
けれど、そうと知った今はちょっとましじゃないか。
年をとるってことは、ちょっとましになるってことだ。


  1. 2010/03/23(火) 23:38:02|
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3.22

3月WS無事終了、リピーター14名で新規参加なしだったのでいつもやってることの次の段階に進む、こうやって先に進みつつ新規の人にもやれるメニューを考えなければならないのだけど、基本となる考え方を知るためのメニューを徹底して繰り返してきた人の方が次に進んだときに躓きが少ないのも事実、イクマとのエチュードは立ち上がりよろしくないまま一時間フルセット、「どこから芝居になっていくのか」と思いながら観ていた連中はやっぱりまだ基本の理解が表面的なんだろうけれど、イクマにも私にも「イケなかった」感あってまたちょこちょこやろうという話、それでもイタコ体質のイクマの芝居を間近に観察できたのは連中にとって貴重な体験だったに違いない。

目覚めたら春になっていたよ。こないだ正月だなあと思ったのに、もう。
  1. 2010/03/22(月) 14:58:28|
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3.21

今日のエチュード、心の準備ができておらず酒の抜けない頭でオロオロ、「資本論なんか忘れてしまった」とイクマにメールしたら「またあの設定なんですか(笑)」と返信あって、何故だかまったく他の設定では考えていなかったことに気づいた。

キャラメルでやった二人芝居にも色々あるのだけど、イクマとやったそれは本当に濃密な時間で、舞台上の一時間は芝居の経験ではなく、事実として記憶されている。
たとえば、自分と自分の家族という関係を「もし友達同士だったら」と想像することが難しいように、何かもう圧倒的な事実としての、現実的な記憶。

つまり、芝居の台詞や段取りみたいなことは全然覚えていなくて、ただ「あのときイクマがこんな顔してた」とか「私たちがどう触れ合った」という断片だけが残っていて、恋人同士という設定だったからでもあるけれど、イクマはもう大昔にちょっと付き合って別れた男、な感じがしていて、それは当時、イクマも芝居をやった数ヶ月後に「なんだか僕は前川さんのことを別れた彼女みたいに思っちゃってるんですよね」と言っていたのだけど。

よくWSの飲み会で「扉の向こう側」という言い方をして話す、演じる感覚が消失する瞬間、というのがあって、それはつまりキチガイへの入り口みたいなものなんだけど、稽古して段取りでやっているはずの動作や、自分の言葉ではない台詞が、自分の日常の記憶と混同されてしまう。

身にまとう物と同じで、身体に馴染んだ下着はパンツ穿いてるって感じがしないみたいな、あれ?今日パンツ穿いたよな?と思うくらいの馴染み方。ゴムが当たって痛いとか、何か不具合があると一日中意識してしまうそれ。
芝居の記憶は、それによく似ていると思う。

イクマは私にとってすっかり身体に馴染んだパンツみたいな相手役だった。
エチュードだから、ものすごく頭を使って常に客席の雰囲気を測って異常な集中力で本番の一時間を過ごしているはずなのだけど、芝居をするという意識が消失して自分の日常の中の一時間になっていた。

きっと、イクマもそうだったと思う。
私とイクマは恋人同士の別れを毎日一時間ずつ演じて、お互いに毎日ものすごく傷ついて落ち込んで、また次の日に顔を見て「ああ、あれは芝居だよな」とちょっと救われて、それなのにどうしてかまた同じ一時間を繰り返してしまうという泥沼な精神状態に陥っていた。

一緒にいるのはほんとに楽しくて幸せだったけど、その本質は地獄で、終わってからしばらくは他のことができないくらいの喪失感があって、それでも何を失ったのかわからない、ただぽっかりと大きな喪失感という、ちょっとおかしな具合のあれは、他の芝居でも味わったことがあるけれど、イクマとのそれは設定が恋人同士の別れだったから、日常に紛れ込んでしまったんだろうか。

技術として気持ちを動かせるタイプが青木サボ、イタコ的に強烈な現実感を持ち込むのがイクマ、のような気がする。

あの時間がなんだったのか確かめたくて、その後も一度ワークショップの連中との芝居に出てもらったけど、そのときは違った。

一番最初に演じる感覚を消失したのは佐藤信が演出した「青ひげ公の城」という芝居に出たときで、あれから私はずっと、消失することだけを目指して芝居を創っているんだと思う。
演技する空間を日常の感覚で認識するとか、リアルな時間感覚とか、そういうのをあれこれ試して、どうしたら日常の時間に演じることを紛れ込ませられるか、どうしたら演じる感覚を消失させられるかを探り続けているのが、WSなんだと思う。

結局は人なのだと結論しても尚探求し続けているのは、人というものには実体がなく、ヘーゲル的に言う他者の認識でしか存在し得ないと考えることが基本になっていて、「どういう人のどういう状態があればそうなるか」と括った確信がどこにも持てないからなんだろう。

今はただ、別れた男との再会を前にして、ああどうしよう、何を話そうと、そわそわした落ち着かない気分。
よもぎコラーゲンパックとかしちゃったよ。
  1. 2010/03/21(日) 14:32:44|
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3.17

今週末に控えたWSでは、山田伊久磨をゲストに迎えてまたぞろエチュード実演を企んでいます。

エチュードってのは即興芝居のことで、演劇系ではアドリブと混合されがちですが、即興芝居ってのはつまり、その場ですべて創り上げていく、ということで、ぐだぐだ未完成な「お芝居ごっこ」とは、本来意味が違います。

いつもは紹介・許可制でしか見学申し込みを受け付けていないのですが、
今回は2日目の日曜18:00~22:00のみ、飲み代込み有料2000円にて見学申し込みを承ります。

公演形式にすると何かと面倒なのでこんなスタイルですが、まああ、やる方にとってエチュードってのは稽古じゃなくて本番です。

大昔イクマとやったエチュードの二人芝居はこんな感じ(まねきねこ氏の劇評より)でした。

上記劇評サイトで紹介されている二人芝居のシリーズは、
打ち合わせ1日、エチュード稽古を3日、本番を3日、と台本なしで芝居を作るスタイルで、
一週間で顔合わせから打ち上げまでのフルセットだったわけですが、
WSでの実演は、二時間でどこまで仕上がるものかを公開しようという試みです。

前回実演したときの感想はこちら(mixiコミュニティー内トピック、mixiへのログインが必要です)。

劇場の舞台で明かりが当たって役者がまともなことやれば、それだけで芝居なんて出来上がるもんだぜ、
というのを、「お芝居ごっこ」しか知らないWS参加者に知ってもらいたくやるわけですが、
もはや私が舞台に立つ機会など五年十年単位であるかないかなので、 エチュードとはいえ必然、本気モードです。

21日20:00入りを確認したイクマからも「覚悟します」と返信がありました。

WSの参加申し込みも、まだ一名分受け付けられます。
見学お申し込みは金曜正午に〆切ります。

詳細は 情報サイトをご確認下さい。

WSの後は場所を移って宴会です。
見学の方、最初の締めまではフリーで飲んでって戴けます。
芝居の話をしたい方、是非!
  1. 2010/03/17(水) 13:14:04|
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