仕事部屋

5.29

曇天のまま持ちこたえた土曜、空きっ腹のまま16時入りでサウンドチェック、ビール2本ですでに酔っぱらい、ぼんやりしていたところにMとK君が顔出してくれたのでWastedTime隣のキリンシティーでビール、この間バンドの連中は楽器屋と寿司屋に行っていたそうだがこちらは食事のタイミングが見つからず、20時にアップリンク前で文洋を待ち伏せWSのチラシを預ける往復が程よい酔い覚まし、Wastedに戻ったらなかなかの客入り、自分のお客さんが早めに来て他の出演者の演奏を楽しんでくれていると嬉しい、あんまり酔わないようにしようと思ったのに差し入れでワイン戴いてしまったのでボトルごと抱えて登壇、イソジン持ち込むほど用心していた喉は問題なく、酔いながらもぎりぎり踏ん張れた、と自分では思っているけれどこればっかりは録音した音源聞いてみないとわからないのだ、酔いのせいじゃなくうっかりのせいのトチリがあったりしてまあ相変わらずのぐずぐずだったわけだが、それでもやっぱり愉しい、ライブやるのは愉快だ、お付き合い下さった皆さん、またお話できないままだった方もいたけれど、来てくれて嬉しかったです、どうもありがとう。

朝まで飲んでしまってふらふら帰宅、パスタ茹でようと大鍋に水張ってコンロつけたまま寝入ってしまった、目覚めたら鍋から火が出ていて今も部屋中が焦げ臭い、洗濯しに行って荷造りして、これから「へばの」観にアップリンク、こんなんで明日旅立てるのか。
  1. 2010/05/30(日) 19:17:56|
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LINE

「へばの」監督の木村文洋監督から紹介された小谷忠典監督のドキュメンタリー映画「LINE」を、ポレポレ東中野のレイトショーで。

息子を持つ女性との将来を考えたとき、小谷くんが向き合ったのは、自分の父親だ。
それまでシナリオや演出のある劇映画を撮ってきた彼が、初めて自分でカメラを手にして、父親や、その父親の背景となる見知らぬ土地に足を運び、そこにいる人を撮った。

出来事ではなく、人を撮る。

それだけの映画だ。

撮りたいものもあったのだろうけれど、彼はきっと、そこにいる人から目を逸らせなかった。
恋人の息子。自分の父親。娼婦。娼婦。娼婦。
物語はない。
語ろうとするものもない。
それはきっと撮ろうとするものがないからで、それなのに撮った映画には何かが残っている。
そのことに一番驚き、感動し、悦びを感じたのは、小谷くん自身のような気がする。

LINEというタイトルは傷を表す言葉として選ばれているようだけど、小谷くんの人生というLINEなんだな、と思った。

映画の後、文洋とのトークがあって、文洋はただでさえ不器用な人だけれども、小谷くんも負けずに不器用な人らしく、二人の会話は労りと尊敬と信頼に基づいたぐだぐだなそれで、たまたまステージに一番近い席で見物することになった私が顔を伏せて笑っているのも見えていたに違いない。
彼らはほんとのことを話さなかったと、思う。
それでも十分に、小谷くんの人柄が滲み出ていた、という点において、文洋は大役をしっかり果たしていたとも、思う。

飲み屋で、映画を観て気になったことをいくつか、小谷くんに質問した。
「~であったなら、それでも撮った?」などと、不躾な質問もした。
彼は「撮らなかったと思う」と答えて、私はずいぶんほっとした。

映画に映されている傷への視線は、彼らしい礼儀正しい距離感で、なんだか物足りない。
刺激に慣れた私たちは、きっと、その傷の物語や、滴る血や、えぐるような視線を欲しているんだろう。
だけど、その傷に、小谷くんの指先が触れたとき、やっぱり私はほっとした。

映画を撮らずにいられなかった小谷くんの傷を思う。
触れたいとも、撫でたいとも、癒したいとも思わないけれど、
彼の人生で一つの点となった映画を観られたことは、幸運だ。

しっかり歩いてしっかり見つめている映画なのだけど、それが、
映画を撮る人の傷、小谷くんの傷であることを、彼自身が撮り始めてすぐに気づいて、
それでも、最後まで映画として仕上げたこと。

それを、もっとたくさんの人に見せたいと思う人がいたこと。
私が観たこと。

物語もなければ、思想もない。
もっと剥き出しの、生々しい何か。

この人には映画を撮っていて欲しい、と文洋が言っていた。
この人は、映画を撮らないと生きていけない人なのかもしれないと、私は思った。
自分は、曝してもらった傷に触れられるけれど、カメラはその傷に触れられない、と小谷くんは言っていた。
触れられない距離を埋めるのは、俗にいう演出ってやつなんだと思う。
だから、次は是非とも、演出のある映画にして欲しい。

台所が美しかった。
生きている場に見えた。
美しい台所はちゃんとパンフレットの表紙にもなっている。
それはきっと、小谷くんが誰よりも正しく、この映画を観ているってことだと思う。
自分がもう、そこにはいないことを、ちゃんと知っている。

映っていたもののことを語りたいとは思わないんだよなあ。
映そうとしたものや、描こうとしたもののことは、どうしてか語る気にならない。
何を撮った、どう撮ったってことよりも、
彼がこの映画を撮ったってことが、すごく大事なことなんだと思う。

そんなふうに思わせる映画だったことだけは、確かだ。

傷やトラウマなんかじゃない、もっと明るく強い、希望とか、現実とかの、そういう。
悲劇には目を向けないっていう、現実を生きていくための、強さそのもの。

正直、この映画は褒めるのも貶すのも難しい。
感想を言いづらい。

それでも私はこうやってたどたどしく言葉を選ぶ。
それだけでも、そうさせる何かがそこにあったことは、きっと伝わる。
LINEはそういう映画で、
彼がたどたどしく映したそれだけでも、彼に映画を撮らせる何かが、そのときにあった、と伝わった。

だから、LINEを褒めるつもりは、特にない。
いい映画だから、面白いから、などの理由で「観て良かった」と思わせるそれとは違う。
ただ、彼が撮り、誰かが観る、それで完結する。
LINEてタイトルは、そこの線のところなのかもしれない。



予告編を作ったのは文洋。これはこれで別ものだ。



LINE

動員が思わしくないらしい。
レイトショーだけど、けっこうな日数をもらっているから、観てくれる人はいるはずだ。

  1. 2010/05/28(金) 04:01:09|
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5.23

昨夜はWS1日目、金曜夜のヤポンチカ練習で無煙タバコをひっきりなしに吸っていたからか朝起きたら声が出なかった、犬相手のお喋りを控えて劇場入りしたらちゃんと声が出て一安心、無煙タバコって周囲を気遣いながらの一服には最適だけど、結局は普通のタバコと無煙タバコでひっきりなしにニコチン摂取してることになる。

参加メンバー、レギュラーになりつつあった人の申込が少ない今月はこれまでで一番少人数になるかと思いきや、参加申込をしていない人が二人も普通にやってきてこちらも普通に「おはよう」とか言って、まあ結局は通常よりちょい少なめ、じっくりクラス、という感じ。
ヒロシが買ったばかりのカメラを担いで来て記録撮影係をしてくれたので、うまいこと編集できたらWSの雰囲気だけでも見て戴けるよう公開予定、肖像権、個人情報保護を慮って勿論参加者には撮影と公開の許可を貰った。

新規参加の一名はtwitterでの申込受付中告知を見て〆切数時間前にぽちっとしたっていう好奇心旺盛な大人男子、演劇経験ゼロ、という人がぽちっと申し込めるWSをやれてると思うと、嬉しい。
1日目のメニューがテキストを用いての「解釈について」と「読み合わせ」でディスカッション的な雰囲気だったせいか大人男子も積極的にのびのび参加してくれていた様子、2日目の「段取り合わせ」「立ち稽古」が楽しみ。


芝居の作り方や演じるという考え方、演じることの本質は、普通の人が学芸会や演劇鑑賞会を体験してイメージするそれとは多分かなり違うもので、誰にでもある本能の部分を拓いていくことなんじゃないかと思う。
オリンピックに出るスプリンターになることじゃなく、横断歩道の信号が点滅したときに小走りになるくらいのそれ、故に自己啓発に偏りがちでそこらへんを胡散臭く思ってしまうのだけど、どんなことでも「入門」には自己啓発的な要素が含まれるだろう。だから自己啓発が目的でもいいし、その先に拓ける未知なる世界へ突き進む覚悟でもいい、今いる足下の不安を解消するためでも、自分探しでも、暇つぶしでも、友達作りでも、「触れる」目的はなんだっていいと思う。

ただ、そこには人がいる。
自分の都合と満足度を基準に選別するのはまったく悪いことじゃないけれど、誰かが自分には不必要と思ったそれがまた他の誰かにはとても大切なものだったりすることだってある。
自分以外の何かに対する素直な敬意と、人に対峙する率直な拓き具合があればいい。

居酒屋の店員への振る舞い、どこかの客としての居方、道ばたですれ違う見知らぬ人に対する視線一つにだって、それが当てはまる。
年齢や経験によってできるできないの違いがあるわけじゃなく、振る舞い方を知ってるか知らないかの問題じゃなく、広い世界の中のどこに自分を置いているか、自分をどう捉えているかの自意識の在り方が大きく関わっているんじゃないか。

芝居に触れるときは、自意識に触れざるを得ない。他者の自意識に踏み込む場合もある。
それを面白がること=芝居の面白さでもいいし、芝居に辿り着かずに引き返してもいい。
他人との関わり合いを通して幾多の扉を一つずつ開いていくと、見知らぬ自分、もしくは本当に自分が思う自分自身に出会う、それを楽しむだけでもいい。

能力や魅力のあるなしは常に周囲が評価するもので、自分で決めることができない。
つまり、役者なんてのはなろうとしてなれるもんじゃなくて、必要とされていつの間にかなっていくもんだろうと思う。
だけど、芝居に触れることは、望めば適う。

飲みつつ深夜三時の部には晴れて妻帯者となったマツジュン、日に日に良く笑うようになってきたウッチーとミニマム&ディープな三人で、話題は部落差別からうんこまで相変わらず支離滅裂なれど、なんの話題になっても必ず芝居のことに帰結、その日のWSに出て来たことに照らし合わせ結びつけ、軸のぶれることがない、だから酔わない。

思うのだけど、私の場合、酔っぱらうのは酒量じゃなくて話題に酔うんじゃないか、若い頃は初デートでのお酒が鬼門でしょっちゅう記憶をなくしていた、言いたいのに言えない言葉を飲み込むと酔っぱらう。


  1. 2010/05/23(日) 15:51:15|
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あれこれご案内。


演劇ワークショップ~素の表現方法
5/22~23 18:00~22:00 @東池袋/アートスペース サンライズホール

会場は小劇場で、定刻に照明を吊り込む作業から始まります。
演技経験のない人、俳優として食っていきたい人、自分の劇団を主宰している人、演劇部だったのに今は芝居をする場がない人、上司から表情が薄いと言われて悩む人…など、様々な人が年齢・経験を問わずに参加し、毎月来てくれたり、ふらっと現れたり、です。

今月は、オリジナル・テキストを使用して、芝居を創るための「立ち上げ~仕上げ」プロセスを追い、一つの場面における「テキストの解釈」「テキストの読み合わせ」「段取り合わせ」「立ち稽古」の各ステップでそれぞれの「できること」「できないこと」を探っていきます。

このWSでは参加者の要望から毎月のプログラムを考えています。
「お芝居の楽しさを知りたい」「エチュードのコツを学びたい」「解釈って何をすればいい?」「人とうまく喋れるようになりたい」「仲間を探したい」「いい役者って何?」「演出の勉強をしたい」「前川と飲みたい」…
お申し込みの際には、是非取り上げて欲しいことのリクエストをしてください。

詳細・お申し込み・お問い合わせ 情報サイトをご覧ください
5月WSの申込〆切は5/21正午まで。
6月WS(6/19~20)のお申し込みは5/23より受付を開始します。


また、7~9月までは月に一回、朝日カルチャーセンターの短期講座にて
「はじめての演劇ワークショップ~素の表現方法」があります。

「台本の台詞を読むこと」(テキストの解釈)と「自分の言葉で演技すること」(エチュードの表現)に特化した、全三回のクラスです。
お芝居に興味はあるけれど、どんなことをやるのか、自分に何ができるのかわからない。
ワークショップに興味はあるけれど、いきなりいつもやってるところに入っていくのは怖い。
…という方は、是非こちらにご参加ください。

詳細・お申し込み・お問い合わせ 朝日カルチャーセンター新宿校(「はじめての演劇ワークショップ」ご案内ページ)
本日より申込の受付を開始しました。


小説教室は4~6月の講座が始まっていますが、7月の全二回、朝日カルチャーセンターの短期講座にて
「プロ作家が教える小説創作~実作編」があります。
描写、ディティール、エピソードの作り方に特化した、全二回の特別講座です。

詳細・お申し込み・お問い合わせ 朝日カルチャーセンター新宿校(「小説教室実作編」ご案内ページ)
本日より申込の受付を開始しました。


ワークショップ、小説教室ともに、8~10月は龍昇企画公演「モグラ町一丁目七番地」のため、お休みです。
WSの参加者は、稽古場の見学、制作手伝い、稽古場付き、劇場付きなど、希望により参加できます。


そして、未だ趣味活動は、ノルマという経済事情に縛られています。
ヤポンチカLIVE  5/29 @渋谷/WestedTime  
【宇田川音酒場】18:30open,19:00start 予約\2500(当日\3000) 2Drink tickets付き
出演 矢野あいみ/SandalSoul/鶴岡武雄/ヤポンチカ(21:00~21:30)(出演順)

音楽には長年の憧れがあるのですが、残念ながら楽器の才がないので、40になったら歌おうと決めていました。
巧くもかっこよくもない、みじめったらしくてみっともない佇まいがそのまんま曝せるような場所が欲しかったのかもしれません。
もっと深い覚悟で音楽をやっている友達が作った歌や、自分が好きな歌を借りて、自分の歌みたいな顔で歌っています。つまり、台本の台詞を喋る役者と同じようなことをやるだけなのですが、これがなかなか自由になれず、ケツの青い若造どもに呆れられながら、未だ飽きません。

ステージでは19:00から30分ごとに様々なアーティストの演奏があります。
お時間のある方は、是非早めにお足運び戴いて、どっぷりゆったり「音楽をやりたい人たち」の熱気を楽しんでください。
因みに、ヤポンチカの出番が21:00~と最後なのは、芝居と違って風格ある大トリの番付ではなく、単純にセッティングの都合上か、年齢順です。

ご予約戴くと、前売り料金の受付精算\2500になります。
←左側にあるメールフォームからお申し込みください。



最近、友人の男の子に「あなたはマグロみたいだよね」と言われてどきっとした。
ベッドの上での横着者を俗にマグロと言うけれど、生きてるマグロの方です。
ややこしいからクジラと言ってください。
  1. 2010/05/18(火) 16:16:13|
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創造と経済。

昔話をしたいわけじゃないのだけど、書く。
創造と経済についての、超長文。


18で劇団を旗上げするとき、制作から予算組を見せられて、芝居をやるのにお金がいるなんて!と驚いた。
私は、それくらい、子どもで、世間知らずで、世の中の仕組みも経済のことも、何も知らなかった。
それより前に8ミリ映画を撮ったりしていたのだけど、そのときは、フィルムを買うお金がいると知ってなるほどと納得し、母の恋人にお金を作るにはどうしたらいいのかと相談したら14万円をぽんとくれて、「プロデューサーとして俺の名前を入れろ」と言われて、あっさり解決した。
だから、フィルムがいらない芝居で、何にお金がかかるのか、さっぱりわからなかった。

劇場費が高いと言われたので、「お金がないので安くしてください」と交渉して、今思えば乱暴なくらい安く借り、ついでに稽古場までタダで使わせてくれることになり、スタッフには監修をしていた先生のとこの生徒さんたちが強制的に集められた。役者は知り合いだったし、それまで舞台をやってギャラなんかもらったことがなかったから、当然ノーギャラのものと思い込んでいた。
が、制作のお兄さんがあれこれ教えてくれ、私は「そんなお金出せないよ」と悲鳴をあげ、「普通はみんなでチケットノルマをさばいてお金を作るんだ」と言われて、「ノルマ」という恐ろしいシステムがあることを知った。
1500円のチケットを一人80枚売ればいいとかなんとか、だったと思う。
これも今ならあり得ないと笑い飛ばせるが当時は鵜呑みで、同窓会の名簿を片手にあちこちに電話をかけまくり、街頭で見知らぬ人にチラシを配り、結局、一人で100枚のチケットを売った。
まだチケットぴあなんてなかったから全部手売りだ。

売りながら考えた。
私はお金が欲しいわけじゃないのに、と。
中学の同級生は、「そういうの、大変なんだろ。十枚買うよ」と言って、チケット10枚を買ってくれたけれど、十回観に来るわけじゃないよなあと思ったのだ。
チケットが100枚売れたって、100人のお客さんが来るわけじゃない。
あちこちの雑誌に電話をかけて、読者プレゼントで招待券を出すから告知の記事を載せてくれ、と頼んだ。
まったくのド素人がやる芝居なのに、編集部の人は快く記事を作ってくれ、漫画の週刊誌やサブカル系の雑誌や大人の週刊誌や男性向けのグラビア雑誌に「読者プレゼント、十組二十名」という記事が掲載された。
応募者はたくさんいた。全員に当選通知とペアチケットとチラシを送付した。

もちろん、他の役者たちは80枚のノルマなんてどうにもならなかったと思う。
旗上げ公演は7ステージをほぼ満席にして、大赤字を出して終わった。
制作は、役者からノルマ分を回収しようとしていたが、昼飯代もなくて袋詰めのパンの耳をもらってきて食いつないでいるような彼らに、そんな大金を背負わせられるはずがない。
ノルマは回収しないよう、座長命令を出した。
今度は制作が「じゃあどうするんですか」と悲鳴を上げた。
どうすればいいのか、私にはさっぱりわからなかったし、払わなきゃいけない、とも余り思っていなくて、
「そんなこと知らないよーう」などとふざけたことを言ってしらばっくれていた。
そして、その後、その赤字がどうなったのか、本当に知らない。
風の噂では、制作のお兄さんが貯金を叩いて支払ったなどとも聞いたが、怖くて確かめていない。

私は、100枚のチケットが売れるより、100人のお客さんが来てくれた方が嬉しい。
芝居なんてものは、100円でも200円でもお客さんからお金をもらう出し物で、自分が芝居をやるためにお金を払うなんて、絶対に間違っていると思っていた。


二回目以降の公演では、ノルマを廃止した。
チケットを売らなければ劇場費が払えないのだから、正しくは、「ノルマ」というのを廃止した、ってことなのだけど。
スポンサーを募って、歩き回った。一口五千円で、私たちの活動を援助してください、という厚かましい文書を作って、スタジオアルタで「笑っていいとも!」をやっていた横澤プロデューサーのところにまで行った。
一口五千円の援助か、「私は彼らを応援しています」という署名をしてくれとお願いして回り、わずかな援助金とたくさんの署名を集めた。
署名は、公演の企画書に添えた。

その頃、チケットぴあが大々的にシステムを稼働し始めていて、いくつかの小劇団の公演チケットを全部買えば割引価格、みたいな企画に参加して、街頭ステージでの宣伝イベントなどに駆り出された。
観客は飛躍的に増えたが、公演はやはり赤字だった。
役者を稽古場に拘束するなら弁当は出せ、仕込みとゲネプロの日にはスタッフ全員の弁当を出せ、などの座長命令を出していたからかもしれない。
私は相変わらずお金の扱いが苦手で、制作のお兄さんはとうにいなくなっていて、他の誰かがお金のことをやってくれていた。
赤字になった分を支払ったことも、支払わせたこともなかったから、赤字の分はどこかのスタッフさんが泣いてくれていたんだと思う。
私たちの劇団は、本当に厚かましく、世間知らずな、どうしようもない素人だった。

五年間の活動で十本くらいの公演を打ったのかな。
そのどれもが、同じようなやり方だった。
その当時には珍しくノルマのない劇団だったが、「チケットが売れていないので、皆さん頑張って宣伝してくださーい」と、その後制作を引き受けてくれた幼なじみがいつも稽古場で声を張り上げていた。
プロの音響さんや照明さんを雇うことになっても、ずっと泣いてもらっていた。
「それでもいいよ。やるよ」と言ってくれるスタッフだけが劇場に入ってくれた。
相変わらず客席は満員で、採算は赤字だった。


それは、きっととても正しいことだったんだと思う。
その頃の私たちに必要だったのは、お金より観客より「それでもいいよ。やるよ」と言ってくれるスタッフや役者だったのだから。
そういう人たちが集まってくれたから、私たちは楽しかったし、お客さんが気に入ってくれる芝居も何本かあった。
貧乏臭い素舞台の黒幕芝居しか打てなかったけれど、そうしかできないとわかっているから、ちっとも不自由には思わなかったし、お金のかかる大仕掛けをしたいとも思わなかった。
当時、スモークを使う芝居が流行っていて、それだけはどうしてもやりたくて、劇団員みんなで少しずつお金を貯めて、中古のスモークマシンを買った。劇団の備品はそれだけだ。
舞台監督がよそで仕事をして、廃棄することになったパンチカーペットや雑グロを貰ってきたりしていたから、それほど困らなかった。モッタイナイ精神で舞台をバラす舞台監督はよほど仕事が丁寧だっただろう。

当然ながら、五年間の劇団の活動は、まったく商売にならなかった。
けれども、毎回足を運んでくれるお客さんや、「いいよ。やるよ」のスタッフや、食パンの耳生活をしながら稽古場に通う役者たちや、満場の拍手をもらえる芝居があった。
足りないものがあったとは、思わない。

だけど、ずっとそれを続けようとも思わなかった。
今度はお金になることをしようと欲張って、劇団を解散した。
それまでの間に、プロデュース公演に参加したり、ドラマやCFに出たり、雑誌のインタビューを受けたり、広告のモデルになったりするとお金がもらえて、稽古場と飲み屋の往復をするだけなら十分に暮らしていけると知っていたから、そこに不自由はない。
劇団をやっていた頃に、すっかり有名になっていたお陰で、一時期は贅沢な生活をしていた。
世の中は小劇場ブームになっていて、安く使えて一生懸命な小劇場の役者は、皆とても重宝がられていた。
私はエリカ様よりもっと生意気だったから、すぐに干されたけれど。

それでもまだ私は、あちこちで知り合う小劇場の役者たちが皆アルバイトをしていると知って、「バイトしててよく稽古する時間があるもんだなあ」と感心するほど、無知だった。
アルバイトをしようと思ったことも、する必要があったことも、それだけ自由になる時間を持ったこともない。
学校も途中で辞めてしまっていたし、芝居をやることの他は何も考えておらず、芝居以外で自分にできることがあるとも思っていなかった。

それから、最初の結婚をした。
初代の旦那さんも小劇場の役者で、アルバイトをしながら一年に三本も四本も芝居をやって、いつもへとへとになっていた。
「あなたは芝居ができるのに、どうして他の仕事をするのか」と質問したら、「芝居じゃ食べられない」と言う。
言われてみれば確かにそうだった。
その頃の私は一年に十四本も芝居に出ていたけれど、ギャラが出る公演など一本か二本しかなく、その貴重なギャラ
も、次の芝居の稽古場に通う交通費と毎晩の飲み代になるかならないかの金額だ。

そうか、芝居じゃ食べられないのか、と、そのときにわかったはずなのに、お金を動かしてみたくて、それまで取り組んだことのない大きな企画を立てた。
経験浅く不勉強のままにやったその公演は色々なしくじりがあって、満席にもならず、黒字にもならず終わり、正真正銘の「払えないお金」がわんさか残った。
これまでずっと泣いてもらってきた人たちを今度こそ泣かせずに済むと思っていたのに、そうじゃなかった。
私は、赤字になったとき、誰がお金を払わなければいけないのかも知らずに、片っ端から力を貸して欲しい人を集めていた。
制作の人から、「赤字だけど、金払えるの」と訊かれて、「私が払うの?」と驚いた。
そして、劇団時代からこつこつ貯め込んできたその人たちの信頼という財産を、いっぺんになくしてしまった。


なくしたものは今も取り戻せていない。
けれど、お金さえ扱わなければ信頼してくれる人たちにも、また出会えた。

大きなお金を動かしてたくさんの人を集める企画の面白さもちょっとは見知ったけれど、それはきっと私のサイズではないんだと思う。
人がいて、お金がない、というのが、私のサイズだと、実感する。
諦めるとか自信を失うとかじゃなく、それが私には一番自由だし、一番満たされる。


芝居をやろうと思ったとき、世の中に訴えたいことや、誰かに伝えたいことがあるわけじゃなかった。
商売をするつもりも、持ち出しを取り返すつもりもなく、ただ、私が観たいものを、やりたいと言ってくれる人たちと創るだけだった。
幸運なことに、今の私はお金のことを考えずに芝居と関われる。
しかも、台本を書いて稽古場に通った分のギャラも貰えている。
それはすごいことだと思う。
けれど、やっぱり私の中では、何も変わっていない気がする。

多分、最初から、芝居なんて河原乞食じゃないかと思っているんだろう。
自分がやりたいからといって自分がお金を出すことは、間違っているような気がして、できない。
お金をもらうんだと思わなければできないことがたくさんあるし、お金をもらうことでしか成り立たないのが、作り手と観客という関係なんだと思う。


お代は観てのお帰り、カンパ式、というのをやったことがある。
そのときは自分が舞台に立っていた。
自分が演出した本公演の後に、これからゲリラ公演をやりますのでお急ぎの方はどうぞお帰り下さいといって、どきどきしながら客出しをした。
本公演を観に来た満席のお客さんの、一人か二人は帰って行ったけれど、殆どのお客さんが席に座ったままだった。
出し物は、私と、手塚とおるという役者との、粗筋と台詞のない二人芝居で、三十分くらいだったと思う。
私は恥ずかしいのと緊張がひどいのとで、舞台上でスブロッカを丸ごと一本飲み干してからでないと、何も始められなかった。お客さんは、ぐびぐびとズブロッカのラッパ飲みをしている私を観て、くすくす笑っていた。
出し物が終わると、劇場の出入り口で逆さにした帽子を持って、お客さんを見送った。
帽子はすぐにお札でいっぱいになって、差し入れの入っていた紙袋に持ち替えた。
一度素通りして、ATMでお金を下ろして戻ってきてカンパしてくれた人も、2日目の終演時間にわざわざまた来て昨日の分ですとカンパしていってくれた人もいた。
劇場費さえかからなければ、これが一番フェアなやり方だと思う。

やりたいことをやってるくせにけちけち経費を回収しようなんて、みすぼらしいじゃないか。
やりたいことのために身銭を切るなんてみっともないじゃないか。
みっともないことを必死でやるのは、かっこいいんだけれどもね。


私は、自分の力でお金を生み出すことができない。結局は人にたかっているだけだ。
かっこつけたって、経済が成立しない創造の場では、どっかで誰かが身銭を切って泣いてくれているに違いない。
そうやって泣いてくれる人がいなくなれば、何もできない。
できなくなるのは嫌だから、「それでもいいよ。やるよ」と言ってもらうために、毎度毎度、必死になる。
作り手にとって一番怖いのは、自分がやりたかったこと、創りたかったもの、観たかったものに、届かずに終わることだ。
「いいよ、やるよ」の人たちに「お前、ほんとにこれがやりたかったのか」と言われたら、おしまいだ。
だって、誰が何を観たいか、どんなものを面白がるかなんて、他の誰にもわからないんだから、基準ははっきりしている。

自分が観たいもの、面白いと思うものを見つけた人が作り手に回る。
それさえあれば、どうしようもなく生意気でも、ひどく下手でも、「いいよ、やるよ」「やろうよ」「観に行くよ」と言ってくれる人がいる。
まったく、他人が何を面白がるかなんて、わかったもんじゃない。
「自分が何を観たいのか、やりたいのかをはっきりわかってる奴」を求める人には、私が必要に違いない。
そして、私にはそれを信じて「いいよ、やるよ」「やろうよ」「観に行くよ」と言ってくれる人が必要だ。


やりたいことのために身銭を切ることを覚悟と言うなら、
やりたいことのために身銭を切らないことも覚悟なんじゃないのか。
「やりたいこと」の中身が違うってだけの話だ。

働いてお金を作ってものを作って満足できずにまた働いてお金を作ってものを作ってというやり方は、そういうことをし続けていたいだけのマスターベーションに見えることがあるけれど、それがその人の明確なやりたいことである以上は、「やろうよ」と言う人に必ず出会うことになっている。

創造も、経済も、一人きりでは形にならない。




  1. 2010/05/18(火) 05:41:42|
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5.12

帆太郎、ようやっとギプスから解放されるも完治宣言はまだ、腱が萎縮してしまっていてまだ足を庇うのでリハビリ散歩一ヶ月、ドッグランもまだダメだって、それでもやっぱり身軽になったのか嬉しそう、動物病院からほど近い緑道公園に寄り土の上を歩かせた、都会の舗装された道は足に悪そうだなといつも思う、ときどき肉球に瘡蓋できてたりするのは帆太郎が間抜けなのだとしても。


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  1. 2010/05/13(木) 02:10:49|
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5.9

金曜の打ち合わせで初めて取材のための出張費なる大金を預かってからそわそわどきどき、すぐにも出張したい気持ちで明日出発だな、などと考えていたが、一夜明けて冷静に検討したらとてもじゃないがすぐに行けるような状況ではなかった、結局小説教室とWSとライブ終わっての月末とかになるんだろう、その分、あれこれ計画立てなきゃと思うのだが、実は計画を立てる、というのが何より苦手、次に苦手なのは旅。

今日は近所の東京都写真美術館で「森村泰昌展」最終日に駆け込む、あらゆる人物に扮する自分インスタレーションというか自画像アートというか、何かを再現しようとする作品群は本当に素晴らしく、背景や小道具、共演者に至るまで徹底していて、誰かに扮しているのに強烈な個性が滲むことが興味深い、なのに映像作品で喋る彼には興ざめしてしまった、下手なアングラ芝居みたいに見えてしまう、なんでだろうなあ、同じ場面の写真はぐっとくるのに、声なのか台詞なのか、ともかく喋らない彼の方が断然素敵なので目録を購入して帰宅。

すぐさま犬連れて散歩に出たら鍵を部屋に忘れてきてしまった、生憎日曜は常駐の管理人さんの定休日でオートロックのマンション玄関にすら入れず、ぼんやり膝を抱えて誰かが出入りしてくれるのを犬と待った、いつも挨拶する近所のおじさんが心配して声をかけてくれたりで十五分ほど、マンションで何度か顔を合わせたことのある年配の男性がぶらぶら帰ってきたので「すいません、鍵を忘れたので一緒に入れてください」とお願いし、マンションの玄関を無事通過、自分の部屋は通気のため鍵どころかドアを開けっ放していたので大丈夫だったが、穏やかな天気の日曜の夕方で良かった。
  1. 2010/05/10(月) 01:58:44|
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5.4

六本木の国立新美術館へ「アーティスト・ファイル2010~現代の作家たち」を見物しにぶらり。

鮮烈な印象でたまらない愛おしさを感じたのは福田尚代の文庫本を使ったインスタレーション、つい先日twitterにて「まんが農業」というインスタレーションを紹介したところ、漫画家さんたちが「なんかいやな気持ちになる」と大ブーイングだったのだけど、福田尚代の作品群はそれどころじゃない、もっとぎったんぎったんに文庫本を切り刻み、彫り、折り曲げ、ぶっ刺しているのだが、なんだろう、愛を感じてちょっと泣きそうになった。
つまりはコンセプトの問題じゃない、人に何かを感じさせる力、これが才能という奴なんだろう。圧巻。

展示室に飾られた絵画作品を封じ込めた透明のフレームに、それを眺める人がぼんやりと映り込む。
途端、作品が持つ物語はぐいと内側に飲み込まれ、作品の上に被さった透明の板に映る人の姿こそが、その作品の物語として浮かび上がる。
ここにある絵。ここにいる私。今。今日。このとき。

もう一つ印象深かったのは、恵比寿映像祭を元とする大久保賢一氏のキュレーションですっかり作風を記憶してしまった石田尚志の映像作品、おお、やっとるやっとると思いながら眺めていたのだけど、三つのスクリーンが並んだ展示室でどきっとした、両側のスクリーンに映し出される水面、線描などに挟まれた真ん中のスクリーンには、また別の映像を映しているスクリーンとそれを映写する映写機が映し込まれていて、それこそが、絵を視ながら感じたことそのまんまを反対側から象っている。
ここにある何か。創る私。映し出す私。見せる私。いつか。そのとき。あのとき。

今朝はたまたま物語について考えていたのだ。
いつ誰が何をしたと語ることが物語じゃないだろうと。
それを語る誰かの、眼差しや、そこに映る何かや、ビールの空き缶や、窓の外の温い風や、街灯の光が染みたアスファルトの色や、その言葉を受け取る誰かの、ぎりぎり締め付けられる胸の痛みや、顰めた息づかいや、返す言葉や、それを選び出す間の沈黙や、指先や、なんや。
それが物語だろうと思う。
それらは、それぞれそこにしか存在し得ない。私がいれば私だけのもので、誰かと共有することはできない。誰かのそれも、同じときに同じ場所にいて同じ体験をしたからといって共有できるものではない。
だからこそ、それを語る言葉や、映像や、音楽を、欲する。
それらは皆、誰かの物語から切り取られた断片だ。
私が小説を書く、そのことは物語であるけれど、それは誰にも読み取ることができない物語で、ただ、その小説を読むことで私の物語の断片に触れることができるというだけなのだ。
ならば、その媒体は、言葉でも映像でも音楽でもいい。語るものが本当でもウソでもいい。
「物語る肉体」と言ったのは、二十七年前の今日死んだ人だったかしら、そういう存在でありさえすれば、物語はそこに生まれる。

だから、言葉を飲み込むなよ。画を選ぶなよ。音楽をこそこそ聴くなよ、と。
けちけちしたってしょうがない。
そのまんまにいれば、ぎくしゃく生きていれば、それだけで物語が芽吹く。
語らない人には「語らない物語」が、描かない人には「描かない物語」が、演じない人には「演じない物語」がある。「生きていく私」が物語であるなら「生きていない私」だって物語になり得る。
押し当てられるそれだとしても、ざらっと触れたそこに何かが蠢けば、そこには物語がある。

そもそも物語ってなんなんだ。
おはなし、あらすじ、すじがき、すじみち、出来事、起承転結、時間の流れ、云々。
一冊の小説の、中に書かれていることは、物語なんかじゃない。
一本の映画の、中で描かれることは、物語と思えない。
物語はいつも創られたものの外側に、現象として作り出されるもんなんじゃないのか。

出来事は形象もしくは具象に過ぎず、それを受け止める感受性は脳細胞の活動に過ぎず、表現はそうしたことの記録に過ぎない。
それでも人は何かを語ろうと、言葉や映像や音楽を紡ぐ。
きっと、本当のところは、小説や映画や楽曲を創りたいわけじゃなかろう。
創ることでもぞもぞと蠢かずにはいられないこころや、創りだして誰かに差し出すときの、微かに覗けるこころの揺れを捉えたいんじゃないのか。

人生は歩き回る影法師、消えろ消えろ!

なんてことをもやもや考えての六本木。
考えるより感じた方が早い。

アーティスト・ファイル2010~現代の作家たち』の展示は明日が最終日。
  1. 2010/05/04(火) 19:09:23|
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5.2

昨夜はI氏と恵比寿横町で企み飲み、携帯小説の展望を語り合った日からまだ二年も経っていないのに、市場も業界も激変しつつある、「もう今すぐ動かないとね!」を合い言葉に深夜の解散、帰宅後に届いていた「へばの」新ビジュアルのチラシをせっせと数えて折り込み準備、宅配便集荷の手配など済ませてどたっと倒れるように就寝。

今朝は早起きしてせっせと原稿作業、ちょいとブラッシュアップのつもりが思ったより捗ってまだ陽があるうちに完成したので送信、光文社文庫から出る神崎京介先生の「ぼくが知った君のすべて」の解説、前夜の飲みがヒントになってちょっと面白い切り口にできたと思うのだけど、神崎先生が気に入ってくれたらいいなあ。

原稿終わったので気分良く散歩に出発、先日リハビリのつもりで帆太郎にコインランドリーの往復を付き合わせたのだがギプスの端っこが足先の皮膚に当たるらしく、人でいう靴擦れ状態になって歩かなかった、2日経って傷が治ったのでギプスの調整して再出発、それでもものの十分で足先の皮が擦り剥けて血が滲んでしまう、包帯巻き直したり工夫してみたのだがやはり痛そうでちゃんと歩けない、骨折後使わずにいた足の腱が萎えて縮こまってしまい足が歪んでいるので歩かせるよう指示されているのだがギプスの足を使わないんじゃリハビリにならない、痛そうな顔するので甘やかして帰り道は殆ど抱っこ散歩。


photo_20100502231739.jpg それでも久々の本格散歩で大変に満足そうでありました。


しかしもう五月なんだなあ。あと一ヶ月で一年を折り返す。
バンドの練習も始まったし、ちょっとあれこれ気合い入れて取り組まなきゃいかん。
したいこと、すべきことが山積みで、それはなんだかクリスマスツリーの下に置かれたプレゼントの箱みたいなもんで、お楽しみとしてその時まで取ってある感じなのだけど、肝心のその時をどうやら逃してしまっているような気がしないでもない、さっさと手を伸ばせばいいんだけど、ぐずぐずしているうちにプレゼントの箱が次々届いてどれから開けたらいいのか。
なんてこと言ってるうちにまた次の箱が届いて…ってことになるに決まってるんだから、ほんとにやろう。
やる、やります、やりますともさ。
  1. 2010/05/02(日) 23:28:40|
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