仕事部屋

6.28

最近観たのは、小谷忠典監督「子守唄」、山崎樹一郎監督の「紅葉」、木村文洋監督「なしくずしの志」。
どれも面白かったけれど、公開期日の終わりにしかチャンスがなかったので紹介せぬまま、

「子守唄」、「LINE」と同じテーマを内包しつつより圧倒的な力強さで物語っていて、役者の力、物語の力を信じさせてくれた、「LINE」を観たときに感じた踏み込めない一線を越えるには「演出」しかないだろうと思ったのだけれど、それを確認できたことが嬉しかった。

「紅葉」、岡山で農業を営む監督が取ったトマト農家の話、トマト農家といえばついつい「遠雷」なので、閉塞感がエロスにならない不満はあれど、トマトと同じように、丁寧に誠実に作られた映画で、観ていて心地良かった。
上手に撮っているのになんだか気持ち悪い、と感じさせる映画もあるのだから、実はそういうことってささやかだけど大事な力なんじゃないかと感じた。

「なしくずしの志」、冒頭1分から笑いを堪え通し、「へばの」の文洋に笑わせられるとは思っていなかったのでちょっと驚いた、WSで芝居を作るときのやり方に一番近い手法だったのだろうと思う、何故「へばの」は吉岡だったのかもなんとなく察した気にさせられた、「パンの全体図」という台詞が猛烈にくすぐったので「食パンだよね?」と訊いたら「いえ、コッペパンです」という答え、浅はかに言葉遊びをしているわけじゃない、生々しい実感から生まれるどうしようもなく下らないそれがエチュードの原点なんだなあ、役者の文洋はなかなかいいのだけど、見せ場の芝居はダメだと言ったらこれも「あの場面は評判がいいんです」とヌケヌケ、語られていることの軸はまるきり「へばの」と同じだけど、ちゃんと群像劇。

原稿作業は50枚の短編のつもりで書き出したものがうっかり長編構成になってしまい、どうしたものやらという感じ、書ける状態からしばらく遠ざかっていたのだけど、これらの映画に煽られて、ぼちぼち手が動く。



  1. 2010/06/28(月) 04:54:46|
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6.21

二日間のワークショップを終えると、声が出なくなる。
演劇らしいことをやって喉を使うからではなく、WS終了後に朝まで飲んで吸って喋るせいだ。
痛みはないのだけど、眠って起きると声がまったく出ない。
尤も、話しかけるのは「おはよう」と犬に言うくらいだから特に不便もないのだけれど。

今月のWSは、演出志望の人がいたので演出する側のことも含めてのメニュー、外部企画の演出で稽古中にも関わらず、ちゃんとWSに参加してくれた。
自分の劇団の公演前後に参加してくれる俳優さんも増えてきている。
皆に自分の問題や疑問をフィードバックしてくれる人がいることはとても有り難い。

ずっと昔のWSに高校生の頃に参加していて、子育ても一段落した最近になってまた通ってくれる人と、今のワークショップはすごくいいね、という話をした。
教えるという姿勢が削がれてきて、一緒に考える、一緒にやってみる、出会う、関わる…というワークショップという言葉自体が持つ本来の意味に近づいてきたのだろう。

知りたいこと、学びたいこと、試したいことを持っている人は、それらを投げかけてたくさんの人の考えややり方を返してもらえる。
そういう人がいてくれれば、まだ何も見えていない、ただ漠然と何かを探している人にとっても、何かを持って返ってもらうことができる。

それは別にお芝居じゃなくてもいい。
目に留まったから、なんとなく、という理由で、まったく演劇には縁のない、関わる予定もない人がふらっと来てくれると、いつも参加している人たちは皆とても嬉しいらしい。
「演劇のワークショップ?へえ、どんなことやるの?」という興味のまんま、「じゃちょっと行ってみる!」と決心できる人はそう多くないだろうし、そういう人にどれだけその時間を楽しんでもらえるのかいつも不安があるけれど、異業種交流会ならぬ異人種交流会と思って来てくれる人がいても、やることがはっきりしている分、こちらは何も困らないし、ぶれない。

自己紹介をするとき「お芝居は何もやったことがありません」と言っていた人が、通ってくるうちに「お芝居はここでしかやってません」と言うようになる。
そういうのが、嬉しい。

異人種交流会でもいいし、秘密の趣味クラブでもいいし、勉強会でも反省会でもいいじゃんと思う。
ぐじゃぐじゃつるんだ仲良しサークルや、独自の規律が必要になる偏屈集団みたいなのは嫌いだから、「やります」「行きます」で、ただその時間にそこにいるってことをすべてにしてやっていけるのは、私にもラクチン。

芝居を観ることは動物園に遊びに行くのと同じだと思う。
私がやっていることは動物園の飼育係みたいなもんで、サーカスの調教師じゃあない。
サーカスで火の輪くぐりをするライオンに憧れて「どうしたら火の輪くぐりをするライオンになれるのか」と悩んでいる猫とか、象のふりをしている亀とか、キリンとか、カバとか。

うふふ。

動物園だな。







  1. 2010/06/21(月) 23:51:58|
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5.19

このところ裏稼業が優先で本業を後回しにしがち、よろしくないことではあるがどの名前でやろうが仕事は仕事だ。
つくづく、仕事ってのは愛情、信頼、尊敬のどれかがないとさまにならないもんだなあと思う。
やるべきことへの愛情、約束事への信頼、一緒に仕事をする人への尊敬。
わかるわからない、できるできない、愉しい愉しくない、それぞれが基準になりうるのに、仕事としてさまになるかどうかってのは案外と疎かにしてしまいがちで、それでも実のところ「さまになる」ってところに全部ひっくるめての基準があるんじゃないか。
生き様が無様なのはよろしい。
だけど、お金をもらって引き受ける責任や役割で無様なことは、もうしちゃいかんのだと、今更に覚悟した。
AVからオペラまで、呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーんと、ひらひらしていたい。

22日発売の小説現代7月号【10分で読める超短編官能小説】特集に、「まなざし」という超短編が掲載されます。

朝日カルチャーセンターでの短期講座【初めての演劇ワークショップ】も、申込を受付中。

今日明日はいつものワークショップ、いつもの酔わない大宴会。
格安に入手した折りたたみ自転車が気に入っているのだけど、乗り回すチャンスがない。
お医者からの自転車禁止令も解けたし、帆太郎も完治宣言だし、さっそうと並走する姿を夢想していたのだけど、相変わらず乗ると転ぶ。

  1. 2010/06/19(土) 15:27:42|
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常さーん。

ダイエット中なのですね。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100617-00000008-mai-int
  1. 2010/06/17(木) 03:27:31|
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私のゆくえ。

人に何かを教えることはとても難しい。
教えられるものなど、実は一つもないのだろうと思う。
結局、私にできることは、そこに居続けること、目の前にいる人と関わり続けることだけだと、いつも思わせられる。

学ぶ気持ちのある人は、同じようにそこに居続けて、関わり合っていく。
その結びつきに、また人が集まる。
学ぶものがないと感じる人は、気ままに立ち去っていく。
私はそこに居続けて、それを眺めている。

払いのけたいほどうっとうしいものも、時にはある。
私一人が思うそれには、耐える。
だけど、そういう何かのいいようのない根深さ、図太さに、負けることもある。
心地よいものはいつでもかすかで、不快を感じさせるものほどたやすくまとわりつく。
空気や空間やこころにじくじくと充満していく。

そういう毒素の主成分は、エゴ。
エゴは、他者と自己との関わり合いの中に生まれる化学物質だ。

演劇には「ダメ出し」というシステムがある。
見た人だけが「あれがだめ、これがだめ」と一方的に言う、あまり平和的でないシステムだけど、ダメ出しが「どう見えるか」を基準にしている以上、見た人の言うことがすべて正解になる。
見られた人がどんなつもりでいようが、まったく関係がない。
言い返す権利も、説明する権利もない。
まったく不平等なシステムだ。

けれど、実際に、我々の暮らしはそうやって成り立っているではないか。
私の思う私など、どこにも存在していない。
すべては関わる人との間にあって、私という存在は常に、関わる誰かの思う私、という形でしか存在していない。

お芝居のシステムは、そんなに難しいことじゃない。
他者と自己の関わり合いをうっすら把握していく幼稚園児くらいの理解力があれば、飲み込める。

「あなたはAです」と言われたとき、Aと言われた人にそれを否定する力はない。
「いいえ、違います。私はBです」と言い張って、すっかりBのつもりであっても、他者が「Bと言い張っているAである」と認識していたら、そこをひっくり返すことはできない。
Aと見られることを否定するには、「他者にとってAにみえる自分の中の何か」を見つけ出して排除し、「他者にとってBにみえる自分の中の何か」を取り入れるしか手段がない。

お芝居と、日常で他人と関わる方法に、違いはない。
だから、演劇が自己啓発的な部分を持ってしまうことは、避けられない。
違うのは、目的だ。

よりよい私になるために手段を学ぶのではなく、よりよい作品を作るために私を犠牲にする。
手段は同じなのに、目的が違うだけで、すべきことがまったく違う。
故に、誰にでも簡単にお芝居ができるわけではない、ということなのだろう。

舞台の上で「美しい人と思われたい」と願う人は、その人が感じるところの醜いことをやれと言われると、尻込みする。つまり、「できない」。
誰だって、やりたくないことをやるのは難しい。

それは、自己の基準を持ち込むからできないってだけのことで、それを解消するために、「ダメ出し」が存在する。
美しい人と思われたいのに、作品のためにやりたくもないことを顔を歪めて唾を飛ばして汗まみれになって必死になっているあなたは、誰よりも美しい。
そう言ってくれる「ダメ出し」があれば、その人は自分の基準を棄てることができる。
「いいえ、そうではありません。たとえ作品のためであっても、顔を歪めることは美しくないのです。何故なら私がそう思うからです」と言い張る人は、芝居にはいらない。

でもきっと、こういう人って、世の中にもいらない。
社会的にという意味ではなく、我々の日常の関わり合いの中、という意味の、すごく狭い定義での世の中。

他者が見る私を認識することでしか他者との関わり合いは持てないのだ。
自我とは、私が思う私ではなく、他者に映された私でしかない、という本質に気づけない人は、生きることが苦しいだろうと思う。

だって、私が思う私をそのままに映してくれる人など、この世のどこにも存在しない。
鏡に映る自分だって、反転しているじゃないか。
写真や画像に残された自分は、粒子が作る幻だ。

理屈にすれば当たり前のことを、日常の感覚で見失ってしまう。
他者に認められたい、と思う気持ちが、他者からの否定を飲み込めなくする歪み。

何故、それほど他者に認められたいのか。
自己肯定感が不足しているんだろうと思う。
自分で自分を肯定できないから、他者に認められることで、肯定したい。
ならば、「ダメ出し」が最も有益なはずなのに、そういう人ほど、ダメ出しが飲み込めない。

美しくありたいと願う人は、素直な志として自分の努力を厭わない。
だけど、美しい人と思われたいと願う人は、それができない。
そういう仕組みなんだと思う。

歪みは、願いそのものにある。
他者が何をどう思うかは、他者の自由だ。
それを操ることはできない。
いくら「Bに見えるように」振る舞ってもだ。

結局のところ、「私はBである」と自己肯定するのが限界なのだ。
そして、その自己肯定が成功していれば、他者に「この人はBである」と認めてもらう必要はない。
「私はBである」と自己肯定していれば、他者から「Aである」「Cである」と認識されても、「私はBである」が揺らがないはずだ。

自己肯定なしに他者からの定義を代用して自我を形成しようとする人は、「誰も本当の私をわかってくれない」と苦しむ。
自分にとって望ましい他者の定義だけ、つまりは自身の定義だけで形成されるものが、エゴの正体だ。

真実などどこにもない。嘘すらどこにもない。
あるのは、事実を挟んだ、それぞれの解釈だけ。

理屈でそうとわかっている人が、自分自身のことになるとトチ狂う。
自分を他者に認めさせようと、やっきになる。
その部分は、確かに面白い可笑しい。
それが人間て動物だなあと思う。

だけど、未来がない。
つながる間口がない。
何かを作る隙間がない。
何よりつまらない。

他人にどう思われようが関係ない、という言い方をすると、悪い意味に誤解されることがある。
他人の意見は聞かずに好き勝手やります、というような悪い意味に受け取る人は、そういうやり方しか知らない人なんだろう。

そもそも「思われる」という受け身が歪んでいる。
他人が「思う」ことはそこで完結していて、こちらには関わりようがないんだから、本来は「思われる」という形での「思いを受ける」ことは成立しない。
「思う」「思う」「思う」「思う」の、それぞれがあるだけ。
だからこそ、そこに「ありがとう」「ごめんなさい」的な、それぞれの「思う」ものとは個別の「関わり合い」が必要になる。

お芝居では「台詞」や「段取り」が、関わり合いを作る。
守らなければならないもの。
単に、決まり事として捉えても決して間違いではないけれど、それは本来、関わり合うために必要な礼儀に近いんじゃないかと思う。

お芝居をするとき、台詞が自由に喋れない、段取りがぎこちないと感じている人は、一度、自我のところから掘り返していくと、案外あっさり解消するかもしれない。

日常で他者との関わり合いがうまく結べないという人は、「ありがとう」や「ごめんなさい」を台詞や段取りとして使ってみればいい。

真心? 本心? 

そんなもんは豚のケツだ。
どうせ誰もあなたのことなど、どうとも思っていない。
それが大事だと思うなら、胸のうちの宝箱にしまって鍵をかけておけばいい。
こころなんて、脳細胞の活動を自分に都合よく形成してるだけの妄想じゃないか。


…なんてことを、ぐだぐだ喋る飲み会が、もれなくついてます。
6月ワークショップ お申し込みは6/18正午まで。
詳細はこちら
  1. 2010/06/10(木) 15:08:45|
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~6.6

ライブの翌日にアップリンクで「へばの」、切通さんと打ち上げ宴席にお邪魔してまたも吉岡について語り合う、我々はどんだけ吉岡が好きなんだと呆れるがこの日は西山嬢に初めてお会いできたので次からは西山嬢について語り合いたい。

翌朝はバタバタとセンキに鍵預けに行ったりしてぎりぎりな旅立ちで西舞鶴、滋賀からWSに来てくれている童貞のAV監督が会いに来てくれ、ホテルの前で出迎えてくれる厚待遇、まずは近場で腹ごしらえ、続いて悲願の「樹」京子ママと三年ぶりの再会、二人懐かしがっていたらカウンターの隅にいたお客さんも私を覚えていてくれた、三年前にも同じ席に座ってたお客さんだったから私も覚えていたが、他にも背広姿で雰囲気似てるお客さんがいらしたのでこれまた三年ぶりの再会かと思ったら部下の方だったりして、ママに店閉めさせてみんなで餃子食べに行き、最後はカラオケスナックで二時帰還、それでも西舞鶴の夜は早仕舞。

2日目は一日中取材、前夜のインタビューのお陰でとてもスムースに目的地を回れた、タクシーの運転手さんに「お詳しいですね、ずっとこっちにいらしたんですか」と言われるほどの情報量で一人にんまり満足、宿に戻って移動の時間や宿の手配など済ませて夜は樹、ママとも前夜知り合ったお客さんともゆったり話して早めに引き上げ、翌朝チェックアウトして京都へ。

京都は夕方着だったので少しのんびり、ぶらっと入った店でちょっとしたリサーチ、翌朝六時過ぎからタクシーで目的地、戻って朝マックして昼はチェックアウト後に高瀬川で一人の昼食、九条ネギ山盛りの湯葉とろろ麦飯なんて贅沢してしまった、そのままサンダーバードで移動して富山へ。

富山では芸文ギャラリーに立ち寄って搬入直後の羽田くんの作品を鑑賞、深谷先生とWS来てくれている大学生の片桐くんと美味しいひと時、ホテル戻って目覚ましもかけずに寝てしまったが、翌朝は奇跡的に目覚め、無事に空港行きのバスに乗れた。

飛行機で一眠りするまでは二日酔いと寝不足でふらふらだったが東京に着いたらなんとかなると思うと心強い、帆太郎を犬実家から連れて来てくれる親方とちょうど同じ時間に戻って帆太郎先輩と涙の再会、が荷物片付けて小一時間眠って唖然とする帆太郎の顔から目を背けながら再び外出、センキのとこ顔出してから「へばの」最終日のアップリンクで小谷くんの「子守唄」。

「子守唄」トークに続いて上映された「へばの」はWS関係者の出席率良し、後ほど監督に聞いたら他にも観に来てくれていた連中いたとのことで一安心、私自身が不義理で恥ずかしい思いをしているからこそ連中には義務だろうが強制だろうが義理を果たせる人であって欲しい、不勉強や至らなさを自覚して実感とともに伝えることが「教える」ことだなあと吉岡が私に教えてくれたのだ。

相変わらずのお喋りで長居して早朝に徒歩帰宅、帆太郎先輩はやっぱり口利いてくれなかった。

気がついたらもう六月で、静かな土曜日、さっさと片付けなければならない雑用はわんさか溜まっているのにライブ後の非日常感覚から抜け出せずひたすらぐずぐず、頭がまったく回らなくて読書もできない、日曜になってようやく洗濯やら買い出しやらお礼状やらの日常をじわじわ取り戻した感、明日からはまた切り替えてフル回転、まずは出張費の精算からやんないと、不安でしょうがない。



  1. 2010/06/06(日) 22:18:19|
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