仕事部屋

7.23

猛暑。黙々直し作業の日々、暑いのは得意なはずの犬もへばっているので一日三回くらい犬とシャワー浴びて凌いでいたけど食欲湧かないし眠りは浅いしでエアコン直さないと死ぬと思っていたら友人が修理業者を派遣してくれることになって命拾い、豆腐しか食べてないと聞きつけた友人からは食事の誘い、十八で家出した頃の貧乏暮らしと同じ状況なのだけど、あの頃とは周囲の人たちの稼ぎぶりが違うからなあ、いつになったら返せる恩かわからないけれど、借りてる恩があるうちは関わっていけるのだと嬉しくもあり。

初参加の「黒い報告書」掲載号の週刊新潮、発売中です。
取材協力してくれた方に送るためいつも煙草買うコンビニで二冊買ったらコンビニの中国人ママが「同じの二冊でいいの?ほんとに?二冊とも同じだよ?」と暑さボケを心配してくれたので掲載記事を開いてこれを書いたと説明、これで「昼から犬とぶらぶらしてる人」の謎が解けたはず、台詞の方言指導までお願いした京子ママはちゃんと買ってくれていて「ほんとにあの団地で事件があったみたいに読めた」と感想もらい身内贔屓と承知でも嬉しい。

台本書きと取材旅行で割りかし余裕と思っていた8月も一転して雑務できゅうきゅうになりそう、9月から11月まではノンストップだから一息つけるのはもう一年が終わる頃と気づいて愕然、そして唯一じっくり書けるはずの今月も余すところ一週間でこの週末はWS、先の心配があろうとなかろうと日々は足踏みしてくれない、もうそういうふうに生きることになっているんだろうと今更ながら、こんな私が産んでも娘は来月で二十歳、兄弟なし実家なし頼る親戚なしの家訓において着々自活準備中、「娘のうち」ってなんだかすごく愉しみ。

  1. 2010/07/23(金) 04:23:56|
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7.17

なかなか仕上がらない短編、通算7回目の直しを終えたところで「人物表、作りましょう」という指示。
登場人物の履歴やエピソードなど物語の背景となるものを書き出した表で、小説教室では、テーマ→プロット+人物表→原稿という手順で受講生の皆さんに提出してもらうのだが、実のところ私自身は人物表をちゃんと作ったことがなく、結局、通算8回目の書き直し原稿を送った後におずおずと人物表を作成、人物一人につき3~5枚のものを3人分、やってみて始めて、これ書く間に原稿出来上がるだろうと思ったが、やっぱり書かないより書いた方がいいんだなあとも。

人物表の前にゲラチェック、文字数も行数も枚数もすべてが初めてのフォーマットで、小説誌と同じ感覚で書いて出したら改行増やすようアドバイスされ多少直したのだがゲラで視てなるほどと納得、更に改行をねじ込む、本文で行数ぴったりだったので苦心させることになってしまったが、あくまで希望として。
実のところ本文より、添えた写真が使えるかどうか心配だったが。
取材して、写真も撮って、初めてのフォーマットで原稿を仕上げるという、私にとってはかなり色々な面でハードルの高い仕事、それでも無事に本日夕方に入校との連絡、担当氏2名から感想も戴き、励まされた。

これは週刊新潮の「黒い報告書」という読み物シリーズの一本で、実際に起きた事件を基に「色と欲」の核を取り出して小説に仕立てる人気連載(因みに上記リンクは電子版で新潮社の上層部がセレクトした選り抜きが電子版になるのだそう、ダウンロードの人気が高いのはエグめのタイトルのものだとか、タイトルつけるのは記者なので扇情的なタイトルがずらり並ぶ電子版は圧巻!)、20名くらいの作家が持ち回りでやっている憧れのチームに、名誉の初参加、興奮の初掲載。
7/22発売の週刊新潮29号の「黒い報告書」、お見逃しなく。

「モグラ町」のチラシも最終チェックを終えたばかり、今回もエミー賞作品に参加の背景家・木霊くんによる描き下しイラストでポップに攻めます、お馴染みメンバー総出演の最終話、音楽と演奏はヤポンチカのヒロシ+フジッコによるウクレレとパーカッションから代わって、熊坂義人+スパン子がコントラバスとアコーディオンで参加、イラストにも新楽団が堂々登場!

20100715moguramachi3_convert_20100718002556.jpg 多分未公開なので、こっそり。


  1. 2010/07/18(日) 00:30:12|
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学びの学習。

WSや小説教室での教える側、原稿のやり取りを挟んでの教わる側、両方をやっていると感じるのが、「教え方」ではなく「教わり方」だなあってことだ。
本当は、教えるのが巧いっていう基準は存在しないんじゃないか、あるのは「教わる側の巧い下手」という基準なんじゃないかと思う。

絶対にこう、という目安のないことをやっている私の場合は特に、そう感じる。
そこにいる一人一人によって、必要な技術や、学ぶべきことは違うから、教えるときには「~のような場合」を省略して「~すると良い」「~してはいけない」と言うのだけど、これを、必ずや願望を達成する秘術のように受け止められても責任は負えない。

言われたことを「この場合はこうである」と一点集中に飲み込んで、「そうなると、こっちのこれはどうすればいいのか」などと勝手な応用や方程式作りをしない人は、教わるのが巧い。
すべての問題を解決する秘術、これさえあればOKなんてものはない。
「この場合はこうである」を数重ねるしかない。

それでも、少しでも進歩したい、学習したいと思う気持ちが、一を見て十を知ろうとばかりに、勝手な解釈を生み出してしまう。
他人へのアドバイスに聞き耳を立てて「ふむ、なるほど」と取り入れることは素晴らしい学習姿勢なのだが、それを自分に当てはめることにはまったく意味がないし、間違った尺度で計ることになる。
秘術を求めているから、「~の場合に」の部分を取り落として、「それだ!」と独り合点してしまう。
解説を理解する努力をサボって「~すればよい」という「良い」と、「~してはいけない」という「悪い」だけを抽出しようとする人は、教わるのが下手な人だと思う。

演劇やら小説やらの絶対的な方法論のない「創作」において重要なのは、「良い」でも「悪い」でもない。
「~の場合」を考えていく過程、つまり「良くするにはどうすべきか」に取り組むことこそが「創作」なのに、「良い」「悪い」の目安に沿って考える労力を減らそうとしているのだから、学ぶものがあるはずがない。
もちろん、そういう人は何ヶ月経っても進歩が見られない。

きっと学校がそうやって教えてしまったんだろう。
「~は良い」「~は悪い」で物事を教えることは教育じゃなかろうに。
それを考える力をつけさせることが教え育てることだと思う。
「先生」と呼ばれるのは、先に生まれた人、その道の先を生きる人だ。
先を生きる人が、徒然と生きる人たちに、自分が知る限りの「良い」「悪い」をずらり並べて、「さあ、どうする?」と選択させる。
「悪い」を選んだ生徒にも「~の場合」を説明し、再び選択させる。教えることは、その繰り返しだと思う。

もちろん大変な時間と労力を費やす。「良い」と「悪い」を抽出して教える人は、それを惜しんでいるんだろう。
決められた時間内で必要な進捗を目指し、様々な条件による定員を抱えていては、ままならないこともある。
職業としてのそれは確かに技術があって、技術には「巧い」「下手」がある。

けれど、教える側に職務と責任はあっても、教わる側の職務と責任はない。
つまり、教わる側にはそもそもの選択肢がある。
教えるのが下手な先生だから、というとき、その正しい意味は「教わるのが下手だから」ということなのだ。

伸びる奴は伸びる、という言い方がある通り、教わるのが巧い人は、どんなに職業的技術のない先生の下でも、自分に必要なことをちゃんと吸収して、力を伸ばす。
先生の言うことに「良い」と「悪い」を求めず、常に自分で「~の場合」を考えていけばいいだけのことであって、先生の言うことなど自分で考えるためのネタに過ぎないと思って取り組めば職業的な技術の巧い下手に影響されずに済む。
自分で考える人には疑問も生じるだろうし、質問が出る。質問には「つまらない質問」などない。
質問自体が「自分で考えたこと」に他ならないのだから。
となれば、本来は解答すらいらない。必要なのは、無理矢理にでも考えさせてくれる場所や時間だろうと思う。

「それはつまりこういうことですか」と概略を取ろうとする人は、わかっているようであって、その実、教わり方が下手で、まるでわかっていない人だったりする。
「それはつまり」にする段階で、そこに至るまでのことを省略しようとしている。
大体、先生にしたって「それはつまり」で括れる話は最初から「それはつまり」で話す。

「Aの場合にBである」と一例を話しても、「Aの場合にBであるなら、CのときにはDってことだな」と、先の理解したつもりで勝手な応用や解釈を作る人ほど、またしくじる。
けれど、自分では先生の言ったことを踏まえているつもりだから、しくじっていることに気づかない。
たちの悪いことに、それを指摘すると傷ついたりする。
自分の勝手な解釈なのに「先生の言った通りだから正しいはず」と思っているから、何にしくじっているのかわからない。自分でわからないことを頭ごなしに「それは間違い」と否定されて傷つくのだろう。

他人から間違いを正されることを否定と感じてしまう人は性質的な問題があるのだろうけれど、結局は自己肯定感
の薄さが要因なのだ。
他人から言われた、もしくは自分が勝手に作り上げた「良い」「悪い」だけを基準にして考えることをしないから、結果の価値が低くなってしまう。それでは、いくら経験を重ねてもなかなか自信がつかないし、自分の頭で考えたことの結果に確信が持てない。
確信もないままに「これは多分こうだろう」「こんなもんだろう」「これまではこれで問題なかった」という程度の判断をすることは、結局いくら重ねていっても確信に結びつかない。

もう一つ、教わるのが下手な人の特徴に「自分で判断する」というのがある。
判断するってことは考えてるってことだろうから、一概にダメの要因とも言えないけれど、考えるべきタイミングやポイントがずれているんだろう。
つまり、「指示に沿わない」。

「AをBに直しなさい」と指示されていても、「Aの方がいいと思う」という理由で直す手間を省いてしまう。
そのような指示がある場合には、そうした場合の結果を挟んで判断すべきところを省いてしまうのだから、Bが導く結果を知ることのないままに終わる。
指示する側の意図は、AとBのどちらが「良い」か「悪い」かを選ぶことではなく、Aに対してBを示すことにあるのだが、ここでもまた自分勝手に「良い」と「悪い」で自己流の判断をしてしまう。
そうなると何を示しても学習してはもらえないのだから、正直お手上げだ。


先生仕事をしながら、先に生まれた人から教わって、御陰さまのありがとうと思う。
つれづれに生きて、先を生きる人に学ぶことほど、自分に悦びをもたらすものはない。
私は相変わらず人から何かを教わるのが下手だけど、それでもわかる悦びなのだから、教わるのが上手な人はどれほどそれを楽しんでいるんだろう。

小説教室に通ってくれている最高齢の生徒さんのモットーが「技術」とあって感心してしまった。
その人は、私がどんなコメントをつけても何も疑問を差し挟まずにきっちり直して、誰より早く一番長い作品を書き上げ、「書くだけ書いて、自分でも読めなかったものが、読めるようになった」と言ってくれた。

なんてことはない、できる子わかる子のふりをせず、素直に「学ぶこと」を楽しむ人が、一番に実る。
そういや、同級生でも先生に恋をした子は主席で卒業したんだっけ。









  1. 2010/07/15(木) 16:58:37|
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マイナー志向。

7月WSのお申し込みは6日正午前で定員に達したため受付を終了しました。



暑さで浅い眠りが続いていて今朝も早起き、と、WSのカズエちゃんから「扇風機が余ってるけど使いますか」という泣くほど有り難いメール、それだけで生き延びた気がして、午前中から気合い入れて掃除、洗濯と荷物部屋の整理、荷物部屋として借りているアパートの廊下や玄関の掃除もして大汗、夜になって渋谷まで出向き、カズエちゃんが実家から送ってもらったという大事な扇風機トミナガ1号を譲り受けた、食事しつつ芝居の話ちょろちょろ、いそいそバス帰宅して早速トミナガ1号を稼働して極楽、聡子さんが送ってくれたコーヒー飲みながら微風を満喫、ところが帆太郎はトミナガ1号の稼働と同時にタオルケットの中に潜り込み、しばらくして出てきたと思ったらベッドの上からトミナガ1号に向かって唸り声、寒いんじゃなくて怖いのかと笑っていたが、唸り声は威嚇しているふうじゃなくどこかぼやきふうの弱腰、二時間ほどしたら慣れたらしく眠り込んでいた。

今日もまた友人からなんちゃらというSNSの招待メール、mixiが趣味に合わないのでFACEBOOKに移行しようと思って始めたのにまったく使いこなせない私にはtwitterとブログで十分、すでにtwitterも管理しきれていない、日々増え続けるフォロワーを確認しきれないので「フォローしました」など直接のコメントをもらって慌てて確認するような状況、自分のフォロワーを辿ってコメントが連鎖することを考えると、ビジネスアカウントや見ず知らずの人をフォローできない、関わり合いに責任が取れるかどうかを基準にフォローしている、それでもフォローが100人を越えたあたりでタイムラインを追いかけきれなくなった、遊び感覚とはいえその向こうには生身の人がいるわけで、その呟きは必ずや誰かに向けられていると思うから目を通せないほどの情報を抱えようとは思えない、知らない人からコメントをもらえるのは確かに楽しいけれど、どんな人だかわからない相手に自分の意見はコメントできない、何より知らない人に真意の欠けた当たり障りのないコメントを返す必要を感じない。

となるとtwitterでフォローできるのも私には100人ちょいが限界、それでも私の場合は殆どがリアルでの知り合いだからまだ負担にならないけれど、まったく知らない人を何百人もフォローしている人は超人的な社交性なんだなあ、「ツイッター・ノミクス」という本を興味深く読んだけれど、広く浅い関わり合いでのウッフィーはなかなか増やせそうにない、もう十年くらい昔だったか、チャットで知り合ってハワイ旅行のお土産のチョコレートや自作Tシャツを送ってくれたあの彼女はどうしているだろうとか、人生相談ページに書き込みしてくれたあんな悩みの人やこんな悩みの人は毎日しっかり暮らしているだろうかとか、結局のところそうやって相手をしっかり判別できる範疇でしか関わり合いを抱えられない。

100人なら一人一人と言葉を交わせるけど、それ以上になるとどこかに限界がくる、「誰だっけ」と首を捻りながらの関わり合いには自信も責任も持てない、自分の言葉を向ける相手としても同じことで、いつかは全部ひっくるめての「みんな」を相手にするしか手がなくなる、私は「みんな」に向けられる言葉など持っていないし、いちいち「はーい」とか「どうもー」とか「よろしくー」とかのバリエーションを人数分使い分けるマメさもない。

ライブハウスでも「みんな」と呼びかけられると恥ずかしくなっちゃう、明るくなったら見渡せるようなハコじゃなくて武道館クラスのステージで言ってくれと思う、けれどそこは「みんな」とヌケヌケ堂々呼びかけられる人にだけ着々「みんな」の幅を広げていく才能があるってことなんだろう。

つまり「顔が見える範疇での関わり合い」などと思ってしまう私は骨の髄までマイナー志向ってことだな。

そんな自覚したって編集者をがっかりさせるだけで何の役にも立たない、「前川さんの小説はもっと売れてもいいと思います」と言ってくれる編集者がいることはとんでもなく有り難いことだし、私だってまったく同じことを思うわけだが、その先になると「売ろうと思ってください」と言う人もいれば「売ることは考えずに書いてください」と言う人もいて、「なんで売れないんでしょうねえ」「もっと売れてもいいと思うんですけれどねえ」に帰結する、大体において編集者との打ち合わせで「読者が」「読者は」「読者の」と口にするのが恥ずかしいってのもいい加減マズいと思う、この十年いつでも大きな課題としてのそれをずっと抱えているわけで、そこんとこの原因に私自身の根深いマイナー志向があるとしたら本当に申し訳なくて項垂れてしまうのだが、項垂れている場合ではないと承知してもいる。

ワークショップにしても、もうちょっと値段を上げたらどうか、初心者向けクラスを増やしたらどうか、積極的に宣伝したらどうかと親身なアドバイスをしてくれる人は大勢いるのだけど、やっぱり定員〆切とかやっちゃうんだよなあ。

マイナー志向でありながら「売りたい」なんてのは無茶な話で、「売りたい」んならきちんと「みんな」に向けたことをしなければならない、それができないんなら「売りたい」なんて考えずに100人くらいのオトモダチ相手に偉そうなこと言ってればいいってだけの話じゃないか、小説現代7月号の「まなざし」を読んでくれた若き映画人が「何者になりたいかを考えていたわけではないのに、いつの間にか何者かになろうとしていたのかもしれない。何をやりたいかじゃなくて、今何をやるかどうやるかを考えて、とにかく続けていきたい」というようなことをtwitterでコメントしてくれた、まったくその通り、私がすべきことははっきりと見えている。

もしかしたら私は「みんな」と呼びかけたときに100人の返事しか返ってこないことを恐れているんじゃないだろうか。

だとしたら、すげえ切ない。

ここ1週間食欲がなくて豆腐しか食べられず頭も身体も動かずでこのまま野垂れ死ぬんじゃないかと思ったが、トミナガ1号のお陰で熱中症の熱疲労症状から脱することができた。

さて、何を志すでもなく、すべきことを黙々。
  1. 2010/07/07(水) 04:41:10|
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WSのお知らせ。

7月WSはじっくりメニューを考えているので、申込先着10名で定員とさせて戴くことにしました。
現在、7名の申込がありますので、あと2名の申込がありましたら〆切とさせて戴きます。
8月~10月のWSはお休みで、再開は11月の予定です。

朝日カルチャーセンター主催の短期講座「はじめての演劇ワークショップ」全3回は、第1回目を終えましたが中途からの参加も可能です。詳細は朝日カルチャーセンター新宿校まで。

また、10月の龍昇企画公演「モグラ町1丁目7番地」の公演中、公演の舞台セットを利用した有料の単発ワークショップも企画しています。出演者の強制参加も有り。こちらも申込先着順の定員制で、お申し込みは公演期間中の劇場受付となる予定です。詳細が決まり次第お知らせ致します。



日曜夜に高円寺ジロキチにて面白スゴいバンド、大BoogieChaffの2マンライブ、どんなに体調や心調が悪いときでもBoogieChaffの演奏が始まると3秒でご機嫌になるのだが、この日の1曲目が「ひょっこりひょうたん島」のテキーラ・アレンジ、もちろん3秒で笑顔になったけどサビで思わず落涙、お別れできなかった井上先生を泣き笑いで一人追悼。

何かを作るってことはその実たいそうなことじゃなくて、結局のところ誰もが何かを作って生きているってことだと思うけど、誰かの人生に何かを残すってことが本当の意味での何かを作るってことだなあと思うと、それはやはり出逢いの奇跡と才能の偉業に負うところが大きいってことだよなあ、としみじみ。

BoogieChaffのスゴさは、そういうことを気負わずに純粋な結果として成し遂げているってことなんだけど、音楽的なセンスや図抜けた技術に頼ることなく、人前に立つこと=みせるべきものとみせずにおくもの、のバランス感覚がやっぱり特別にしっくりくる感じ、歌詞一つとっても、日常感覚のまんま飾らずに歌い上げて笑えたり泣けたりってところ、音楽による「素の表現方法」(素だからといって何もしないわけではないという私的に正しい解釈としてのそれ)が成立しているバンドの抜きん出た一つだと思っている。

マザーという曲のことは前にも書いたと思ったけど、三人のメンバーがワンコーラスずつ歌い継いでいく構成で、
出だしはジョー山中なんだけど「僕のママは 敬う子と書いて敬子と申します」とモミーパートがくるから笑っていいのかしんみり聴き入るべきか惑わされる、続いてのモリヤンパートで「僕のママも 敬う子と書いて奇遇にも敬子です」とくるから笑うしかない、ルイパートでは敬子ではなく「栄える子と書く 栄子です」とあって、サビには「敬子、敬子、栄子~」の連呼、二番の歌詞はしょうもないママの特技自慢でまた「敬子、敬子、栄子」…笑ううち泣けてくる名曲、いい年してバンドなんぞやってるしょうもない息子たちが母親の名前を歌い上げる姿には「やり続ける凄み」があって若いバンドには真似できないセンチメンタルになっている、私はこの曲を聴くと、ああ息子が欲しかった、と思う。

敢えて笑いを取る姿勢に踏み込むとキワモノになってしまうぎりぎりのラインだなあとは思うけれど、このギリギリ線上ってところは意思がなければ乗っかれないものじゃないかしらん。
好きなバンドや仲良くしている音楽系の友人はたくさん、でも、心からの尊敬と、純粋に楽しめる信頼が寄せられるのは、Boogieと寅蔵のJPBだけ、どちらも息が長くリハをしない、圧倒的な技術と面々の個性の強さ、ってあたり、私が芝居でやりたいことと同一線上にあるような感じがする。

お芝居も音楽も、技術の巧い下手が普通の人には判りづらい、「わかんねーよ」と思う人にこそ見てもらいたいのがBoogieChaffやJPBや「モグラ町」で、そういうことを自分もやってみたい、と思う人はうちのWSに来て「そうそうできるもんじゃねー」ってことを思い知ればいい。

面白いものに出逢ったときの心地よい敗北感、これが楽しめない人には、何かを作ることなど楽しめやしない。
意味があること、カッコいいこと、もっともらしいこと、にしか「スゴさ」を感じられない人がたくさんいて、私にはそういう人たちが良しとする「何か」を良しと思えないし、そういう人たちは私が「良し」と思うものを「良し」とは思えないのだろうけれど、好き嫌いを超越した敗北感を素直に感じ取れるようにならないと、何かを作ることなど始まらないのだと、こればっかりは心から思う。

興奮のままにぐちゃぐちゃになっている姿のカッコ良さは、やっぱり音楽にしかやれないのかなあ。
悔しいなあ。
  1. 2010/07/06(火) 01:03:50|
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7.3

月曜に観た流山児事務所のスズナリ公演、観るたび思うのはこのスタイルをずっとやり続けていることの圧倒的な力、演劇やりたい若い人は必ず観るべき完成したスタイルだと思う、たまたまウッチー来ていたので「入りたいなら紹介する」と煽ったのだけど「あんな大きな声出せません」とウッチー、チャンスがあれば飛び込めばいいのにと若い人の及び腰に顔を顰めることは簡単だけど、まあつまり、そういう人たちの受け皿の一つにWSみたいなものがあるわけで、それはそれで「僕はこれからどうしたらいいんでしょうか」と言っていたウッチーが段々自分のこと判ってきたことやもと妙に納得。

水曜にアップリンクで板倉善之監督作品「にくめ、ハレルヤ!」、「へばの」同様に最初の公開から時間と手間隙をかけて再公開をもぎとった映画、それだけの力強さ、観るべきもの勿論そこここにあるのだけど、私は満足できなかった、トークゲストの七里圭監督がPFF同期なので宴席でもジェネレーションバリアを張って七里氏独占という無礼を働き猛省、映画とか芝居観た後にいそいそ飲み屋についてくの、ほんともうやめたい、いい歳して恥ずかしい、愛想よく挨拶してさくっと引き揚げていつかもっとお話したいと思わせるようなカッコいい大人になりたい。

朝日カルチャーセンターでの短期講座「はじめての演劇ワークショップ」初日が木曜、申込数が少なくてあわや開講できないかも、という状態だったのだが、通常WSに参加している面々が助っ人申込してくれたのもあって、蓋を開ければそれなりの人数、一時間半しかないからこれ以上人数が多いとどうにもならないし、これ以下の人数だと継続は難しいしで悩ましいが、「ダメ出ししない」「演劇経験ゼロ前提」をモットーに、同じ指針を通常よりわかりやすくやれた手応えはあり、仕事を抜け出して参加してくれたり、関西から日帰りコースで来てくれたりありがたいです、残り2回もよろしくお願いします。

たった今DVDで「レイチェルの結婚」、ホンも演出もカメラも音楽も素晴らしい、丁寧に真摯に作られた作品と思う、だからこそ、描かれている人物に身をよじるほどの嫌悪感、単純に、個人的な趣味とか性質とかの問題なのだけど、ああいう人(レイチェルじゃない方)本当に嫌いだし近づきたくない、可哀想とも思わないし、痛々しいとも思わない、それでも嫌悪を認識しつつきちんと観られたのは、作品として秀逸なのは可哀想とか痛々しいとかに偏った描き方をしていないところで、作り手の視点がどっしり重心低い感じがすごく好きだった。

取組中の短編がうっかり構成ミスで長編の作りになってしまい66枚で中断中、短編として新プロットを作り直したがこれでまた書き出すまでに時間がかかってしまうのだが、萎えずに意識だけはがっつり集中していられるのは幾分マシな感じ、この気力があればディティールとエピソードが出揃えば一晩で仕上げられるだろう過信もあって、書き出してもいないのに煮詰まり待ちという暢気。

原稿の仕上がりは見えず掲載の見通しはなくもうお金を借りるあてもない、今年は書くべきものを書く一年、辛抱の一年にしようと決心してはいるものの、お金にならない原稿作業を続けるには精神力が弱すぎるんだろう、不穏要素やあ不安要素があると書けないのでじっくり時間をかけながら慎重に一つずつ排除してようやく書ける状況を整えたのに生活不安だけは取り除けず、書かなきゃどうにもならんのにどうにもならない状況の最中では書けず、書けないからますますどうにもならなくなるという深刻、それでも、食えないとか暮らせないとかには漠然とした不安だけで身に迫る危機感を感じず、何が理由にしろ書けないということばかりが気持ちを追い立てて絶望の淵を彷徨わせる、生まれついての怠け者なのだなあ。

梅雨がどうなったのか知らないけどむしむし暑苦しい毎日がしんどい、娘が「壊れてる」と指摘してった際にはリモコンの乾電池取り替えて通常運転ができるようになったから壊れてないやいと思ったエアコン、確か引っ越した当初は部屋が狭いとエアコンの効きが早いと感心した覚えがあるのに、効いてるのか効いてないのかもはやわからないのでやっぱり壊れているのかもしれない、ヌルイ風がぼーぼー出るばかりのエアコンでも冷たい風が嫌いな犬には心地よいらしく、安眠しているのが憎たらしいのでつい突っついて起こしてしまい、仕返しのようにべったりくっつかれて更に暑苦しい思いをする。

ああ、もう7月、まだ7月。


7月WSの参加申し込みを受付中です。
8~10月は龍昇企画「モグラ町1丁目7番地」公演のためWSをお休みし、再開は11月の予定。
モグラ町公演期間中に、上演劇場の舞台を使った単発WSをやる企画があります。詳細は後日。



  1. 2010/07/03(土) 02:52:27|
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