短編「純情ビッチ」掲載の
小説現代10月号、発売中。初めてなーんにもないお休み日を過ごしての月曜朝から発熱と喉の痛み、一日様子を見て熱は下がりそうだったので名医と評判の耳鼻咽喉科で一時間待ちして受診、痛み止めやら抗生物質やらもらって稽古場、この時期稽古場に誰かが風邪を持ち込むと順番に感染することになるのだけど煙草も吸うし珈琲も飲むしダメ出しもするしでマスクは着けられない、でこに冷えピタ貼りながら稽古して飲まずに直帰。
体調悪いと演出が大雑把になってよろしくない、同じことを何度も言うのが億劫で意地悪い言い方になったりして、わかっちゃいるけどそこで気遣う余力は視る方に、モグラの稽古場では、立ち稽古に入った日から千秋楽までの日程を大きな予定表にして貼ってあり、役者のNGだとか入り時間だとかスタッフが来る日だとかを全部書き込んでいく、その中に、思いつくそばからいつどの場面を稽古するかを書き込むのが私、役者のNGがあるときには揃っているメンツでやれる場面をやるしかなく、台本の順番通りというわけにはいかないので、大体一週間先の稽古まで内容を決めておく。
というのも、当たり前のこととしてまずは台詞を入れてきてもらわなければ稽古にならないからで、台詞を入れるための時間が必要な役者は、その場面をやる日までに稽古の開始時間より早く稽古場に来てやっているようだが、勿論その時間だけでの付け焼き刃の台詞はまったく稽古の役に立たないので、台詞や段取りの確認のために一度はただ流してみて、次からは指示を入れてと、かなり親切な進行にしているにも拘らず、ろくなことやってねえなと思ったら容赦なくカット、変更ということになる。
今日の稽古では前半の場面1~6までをなんとなくつなげてみた、流れが見えると後半の場面の演出が自然と出来上がる、つまりこちらも毎度ノープランで稽古場に行くってことなのだけど、だって芝居は役者ありきなんだからそうするしかなかろう。
さっさと布団に潜り込んでも稽古の後は素面だと頭が冴え冴えしているのでいつまでも寝付けずに結局朝、今朝はそのまま思いついて差し替え原稿を書き、ついでに気合い入れてコインランドリーやら犬の散歩やら食料品の買い出しやら郵便局でのDM発送やらまで一通り済ませ、昼前から出発ぎりぎりまでにようやく一眠りだったが身体が軽かったのでもう峠は越したのだろう、それでも養生して直帰三日目。
明日は稽古休みだけど皆はDM作業で集まるらしいので、モグラ女子部と演出部にサムギョプサルのお誘いしたのだが皆稽古休みを有効に使うしかなく多忙でどうやらツダマキちゃんとの差し焼き肉、倒れてる暇のある奴など一人もいない、滋養つけて明後日からの後半部突入に備える次第。
- 2010/09/23(木) 02:18:52|
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稽古入りしてから初めての完全オフで朝から犬の機嫌取り、のんびり手を動かしてようやくDMの発送準備が完了。
WSの連中や自主映画の若い人たちをどんどん稽古場見学に誘っているので連日誰かしら見学者がいるという異例の稽古場、作っている途中を見せるのだから褒めてもらう必要はなくて、ああ見えたこう見えたと話してもらえると嬉しい、「あそこの場面のあの芝居はアドリブなのですか」などの質問をしてもらえるのも、やっていることがどう見えているのかが確かめられて有り難いし、何より魅力的な役者たちがどうやってホンに取り組んでいるのか、演出に立ち向かうのかを間近に視ることが、役者や演出を志す人たちにとって貴重な勉強の機会になるだろうと思う。
本読みを一日やっただけで一週間の病欠だった吉岡はまだ2日しか稽古していないのに、やっぱり誰よりも完璧にホンを読めているし、ちょっとした動きをつけてもすぐに自分の感覚で飲み込んであっさりこなしてしまう、かたや、どれだけ説明してもやってみせてもこなせるだけの日を置いても、段取りを覚えることだけに留まって演出を自分のものにできない役者もいるし、次はどこのシーンをやると予定を決めているのに台詞を覚えるのがようやくで何一つ自分の案を持ち込めない役者もいる。
劇団の稽古でもWSでもないので、何がダメかなんていちいち説明しないし、できるまでやらせる時間ではない、結局、その役者がやれることを使ってどう見せるかをその場で考えて組み立てる作業になるから、役者ができない場面はばさばさ切り落とされる、大概の役者は自分の場面が切られても内心傷つこうがしょうがないなと諦めるのだけど、それはホンに対しても他の役者に対してもスタッフに対しても本当はとても失礼なことで、切られてもいい部分など台本には一つもない、といってできないものはできないんで、時間がいくらあっても足りない稽古に無駄な努力を持ち込まれても迷惑する。
つまり稽古場には「できない」ことがあっちゃいけない、稽古場で「できる」役者が普段どれだけの勉強や努力をしているか、「できない」役者は結局はただの怠け者で、いくら努力をしているつもりがあっても結果が出せない努力は自分を慰めているだけで何の役にも立たないのが稽古場、役者がやれることで組み立てるというのは演出の発想であって、「やれることで作ってもらおう」と思ってる役者など皆死ねばいい。
加齢によって身体も思うように動かなくなり記憶力も落ち、これまでできていたことができなくなったりする、そういう人たちがそれこそ骨身を削って努力し、散々な気持ちの落ち込みを奮い立てて踏ん張ってるんだから、まだまだ身体も頭も使える奴らがそれってのは人としての大きな問題だろうよ。
熟年チームのとある役者が「稽古場で調子悪くてダメだなあってときでも、昼間にバイトしてると、自分が最低の人間だって思わずに済んで救われることがある」と言っていた、「バイトしないで芝居だけやってると、稽古場でダメだったときに生きてる価値のないダメ人間だって思うから」ということなのだが、じゃ芝居なんかしないで一生バイトだけしてろよと、尤もそう言ったその人はまったくダメなんてことのない人だし誰かのことを話していただけなのだけど、どんだけしっかり働いていようがぶらぶら遊んでいようが芝居の稽古場で芝居ができなかったら生きてる価値などありゃせんのだ。
この数年でWSを復活させて、生温いアマチャンにお芝居の楽しみ方を伝えていたから、自分の中の芯であるそういう確固たる意識がぼやけてきてやしないかとわずかな不安があったけれど、ぼやけるどころかより深い部分でくっきりしてたってことだと判った、やりたいことのない人、やれることのない人に「何かができる」と感じさせるのは難しいことで、そういう人たちにだって「期待に応えよう、責任を果たそう、礼を重んじよう」という人としての気持ちはあるはずと信じるしかない。
反面、大昔の片腕に言われた「人が自分と同じようにできると思ってはいけない」という言葉、演出の役割になるといつでも反芻してしまう、「できない奴は努力が足りない」、才能だのなんだのに関係なくただ考えが甘いのだと昔から喚いていた私に「でも、本当に目一杯の努力をしたってできない奴っているんだよ」と片腕が言った、「そんなバカな」と思ったし正直今もそう思うところが大きいけれど、それは真実なのだと承知している、「結果が出せない努力は努力じゃねえよ」「結果が出せることは努力じゃなくて才能なんだよ」「じゃあみんな無能だ、死ね死ね」と、演出の技術がない私はやはり喚くだけだった。
「この人の魅力を見せたい」と感じられるようになってからは考えも変わったしやり方も変わったのに、未だ根っこにはそういう乱暴さがあるんだろう、だけど「人として素敵」であることは技術で見せるものではなくその人が死ぬ思いの努力をしているとかぶれない熱意があるとか芝居に深い愛情があるとかってことが「人の魅力」として輝くのだから、やっぱり私の思うことはそうそう極端に間違ってはいない。
「人を見せたい」と思うとき、ありのまんまに立つことができるのは紛れもない天性の資質だから、普通の人のそれをしようと思うと、何かの形に流し込んで、そこからこぼれ落ちるものの輝きによって観る人に気づかせることになる、私が作る芝居の本質はそういうことなんだろうと思う、役者として努力の結果を出すことは確かに才能なのかもしれないが、人が必死に何かをやる、その努力の結果を出すのはその人の人生の問題なんじゃないのか、それが見えるから「芝居って面白い」んじゃないのか、間違った方向での無駄な努力で勝手に諦められても困る。
「そういう人に見える」ことが一番の巧さってことを知らない人はまだまだ多くて、そういう人たちの目にはモグラの役者連中は皆芝居の下手な人に見えるというのも事実、草の根運動はまだまだ続く。
- 2010/09/20(月) 02:28:52|
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解放のニュースが流れて以降、常さんの一友人である私にも色々なメールを戴く、もちろん、順次お返事させて戴いているのだけど、大変申し訳ないことに、芝居の稽古に入っていてなかなかまとまった時間が取れず、返信が滞りがちであることをご容赦くださいますよう。
「あの時あなたはこう言った」的なことにお返事するには、自分のそれを思い出さねばならないのだが、私は本当に記憶力が悪くて、面白いほどに色んなことを忘れてしまっているなあと改めて思った、検索すれば色んな情報が出て来るのは幸せなことなのかどうか、忘れたまんま、都合よく記憶をすり替えたまんまの方が胸を張っていられるのになあとも思う、「公開恋愛」に関しては特に、久々に常さんの書いたものを探して読んで、当時の様々な気持ちを思い出したりもしたけれど、終わった恋愛は結局のところ他人事にしか思えず、恥じ入るどころか自分を嗤う始末。
人が感じることや考えたことを自分のそれとは違うからといって否定するのは無意味に感じるけれど、今になって思い出したように私にメールを送ってくる人たちの中には、常さんが思ったことや考えたことを文字で読んでそのまんまに、まるで自分が思ったことや考えたことのように飲み込んでしまっている人がいるんだろう、考えてみればそれはそれでその人の思うことであり考えることとも言えるわけだから別に構わないんだけど、そうやって知らないことを知ったつもりになって実際には知らずに人生を終えるのは如何にも勿体ないわなあ、そういう人はきっと余程のことがなければ私とは出会いたいとは思わないのだろう、私は是非とも出会って、出会った上で同じことを思うのか、訊いてみたいのだけれど。
「公開恋愛」は失敗だったなあ、策がなさ過ぎたなあ、ただ中途半端に曝すだけで挫折してしまったなあと思っているけれど、恋愛が失敗したと思ってるわけじゃない、当事者同士だって他人と同じように知らないこと、わからないこと、推察するしかないこと、想像するしかないことを抱えるのがごく一般的な人との関わりだろうと思う、だからこそ、その人の思うこと、考えることがそれぞれあるのだし、結局どんなことでも共有できる「出来事」は些細なことで、固有する「思うこと」「考えること」が関わり合いの殆どを支配しているからややこしい。
とはいえ、ややこしいことになるのはそこに重きを置きたがる人との関わり合いだけで、私など意図せずとも日に日にそこらがいい加減になり「誰がどう思ったって別にいーじゃん」が基本になって、他人の考えを理解しようとか理解してもらおうとかの意欲は仕事をするときに振り絞るのが精一杯になってしまった、「わかろうとしていない」という批判には「わかろうとしなければわからないもんは、わかったってわかったうちに入んねえよ」と返したい、だって実際に「わかろうとせずともわかるもの」はあって、それは「知る」より遥かに容易く飲めたりする。
わかんないものには近づかないのが無難だろうに、「わからない」ということを特権のように振りかざすタイプの人は、きっと「わかるつもりはないけれど、わかってほしい」だけなんだなあと思う、それはまったくフェアじゃなくて、わかってほしい人はわかってあげることにも心を砕くのが正当なんじゃないのか。
考えてみればそもそも「わかりあう」なんてことはずいぶんと他人行儀な気がする、友人や家族や恋人や仕事仲間であればわからなくともそのまんま「そういうもの」として飲み込むんだから、「わかりあう」必要がある時点でそれはそういう距離じゃないってことで、私はたまさか、そういう距離じゃない人と「わかりあう」ために労力を費やせるほど自分の暮らしに余裕がない、但し「知る」から始まって「知り合う」ことは多分いくらでもできる、すぐ忘れたりもするけれど。
私の恋愛感覚の原点は「知らないもの、わからないものに惹かれる」ことなんだろう、だから私の場合は誰かと出会って知りたいと思うことと恋愛感情の区別がつかない、同性愛の自覚はないけれど知り合った女性に夢中になったりするのはそのへんの仕組みなんだな、仕事が立て込んでいるときに恋愛モードにならないのも、恋愛してると仕事する気がなくなっちゃうのも、もしや自分にとってよりわかり易いものを求める結果なのかもしれない。
モグラ町稽古場は最初で最後の2連休が明けて役者が出揃った、まだ本読みしかやってないのに「どうしていいかわからない」とボヤく役者もいるけれど、「わかる」という傲慢な幻想を捨て去って「知る」ことにもっと尽力すればいいじゃないかと思う、稽古場での「わからない」は怠慢の逃げ口上と言い切れるから好きなんだよね、芝居。
【モグラ町1丁目7番地】アゴラ劇場のサイトに詳細があります。
- 2010/09/12(日) 06:32:17|
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モグラの本読み稽古2日目、ちょぼちょぼホンに書き込み出てきたりもしつつ、役者の顔が揃うのも待っている感じ、2時間で焼酎のボトルが1本空くペースの飲みも2日目、帰宅したら【純情ビッチ】編集氏から「終わったと思ったところにホラー映画のようにメールしてすいません」とメール、一点だけ確認してやり取り終了したが、今回は掲載誌が発売されて手に取るまで安心できない気がしてきた、稽古場でも「編集者はどんな人?」と話題沸騰、OKもらえたらやることなくなっちゃう役者は身につまされるのか「食い下がってもらえる幸福」についての理解は深い。
常岡さんのニュースが流れるとブログのアクセス数が跳ね上がるのだけど、無事だったとは言え帰国早々からあちこち引っ張り出されて、日本の方が危険な国だなあと思ったり、常さんのtwitterの呟きも既にあちこちで流されていて事実がきちんと報道されていないと憤慨する人もいる模様、自分が見知らないことの何が事実なのかそれだって結局は鵜呑みの一種じゃないか、Ustreamなどでも報告会見が流れているが、リアルで顔を合わせないとなんとも落ち着かないのは稽古場にいない役者と同じ、年内に会えるチャンスがありますようにと願っている。
事件だからジャーナリストだからで責任の果たし方を求めるのも世の中の必然とはいえ、それだって枠のこっち側は個々の関わり合い、せめて言葉だけでもいいから温かに労ってくれていればいいけど、名前を出さない立場の人や直接の関わりのない人がインターネットの闇に姿を潜めたつもりで無礼な振る舞いをしたり、名乗るだけで堂々としたつもりで過激な物言いになりがちな悪癖、自分と関わりのない出来事に対して「自分みたいな一般人がちょっとなんか言ったって大したことじゃないでしょ」と思ってしまう厚かましさはどこから出てくるんだろう。
すべての人がすべての出来事を自分のリアルな暮らしの中で起きていることだと真っ当に受け止めることができれば社会が変わるのに、twitterによって広がったように思えるそれも、結局のところ一人一人がリアルに受け止められる範疇が変わらなければちっとも広がってないじゃないか、いつどこで誰に対しても個として向き合えるかどうかが社会性だろうと思う、世の中にその他大勢は一人もいない。
- 2010/09/08(水) 12:02:44|
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【純情ビッチ】ゲラで出た直しを作業しているところ友人知人から続々常さん解放のニュース流れたと報せてもらい、興奮しながらも何稿かやり取り、深夜まで更に粘って、稽古入りの月曜にも朝から何稿か送って、荷物部屋の片付けやらコインランドリーの往復やらを娘に手伝ってもらいながら担当氏と電話打ち合わせ、電車内でiPhone使って修正部分のやり取り、稽古場に着いて電話打ち合わせ、担当氏「ヒルのようにしつこくてすいません」と言ってくれるのだがこちらもここまでやって「じゃあこれで」と妥協されたら虚しいので、もはや狂気の域で延々。
後は深夜にとやり取り中断して時間通りにモグラの稽古入り、井土組撮影中の吉岡代役はウッチー、本番中の塩野谷代役が小形でざっくり本読み、一巡で終えて新楽団メインでスタッフ会議もざっくり、休憩中の雑談でも短編の直し作業が延々続いていることが話題にされるほど、書く仕事はざっくりとはいかない、その反動かいつにも増してモグラはざっくりムード、稽古場退出して居酒屋でスタッフ歓談、この歓談の方が肝心な話になったりする、台本は大好評、スタッフ気合い満々、しかしやはりざっくりなのがモグラだなあとしみじみ。
帰宅して速攻でゲラ作業、差し込み原稿にどうしてもOKが出ず何度かの電話打ち合わせと差し込み10稿以上のやり取りして、最後の一言を三択から満場一致で「果てしないわねえ」に変更、朝5時半に差し込み原稿最終版を送信、もはや何稿目なのか数えられない、夜のうちに終わったら【桜の園】千秋楽に行こうと思っていたのだけど無理です、ゴメンナサイ、担当氏から「受け取りました。ひとまず帰宅します」との電話もらって本日終了。
- 2010/09/07(火) 05:51:17|
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試写で見せてもらった知人の仕事を生意気交えていくつか紹介。
昨日は瀬々監督の新作「
ヘブンズ ストーリー」@松竹試写室。
瀬々さんとはどこで知り合ったんだっけ、ピンク四天王としてその名を轟かせ、順調にベテランへの道を歩んでいると思っていた瀬々さんが今になって自主製作映画というから何事かと思った。
上映時間4時間48分という超大作、犯罪被害者の遺族と加害者の十年越しの屈折愛というのは極端な紹介か、犯罪をキイに、様々な形で巻き込まれた人々のそれぞれの時間を、四季に渡って全9章でじっくりじっくり描いてのこの分量、佐藤浩市、村上淳、柄本明、菅田俊、渡辺真起子、山崎ハコら豪華キャストで見飽きることはまったくなく4時間48分をぐいぐい、個人的には片岡礼子と江口のりこにぐっときた。
試写では2時間のタイミングでの休憩あり、劇場公開の際にも同様の休憩があるそう、それでもこのご時世に映画一本を観るためにおよそ5時間の時間を創りだせる人はそうそういないだろう、中身の問題ではなく時間拘束の問題として長いのは確かで、書き上げた75枚を42稿55枚まで削ってようやく入稿した直後の私の感想としてはもっとホンが粘って15分の9章でいいじゃないかと思ったのも事実だけど、映画を体験するイベントとして覚悟の上で来いという意味合いでか自主製作、つまるところ、瀬々さん長いと言われるのも承知でどうしてもこの分量で勝負したかったんだろうと思う、今の瀬々さんが自主製作でしかやれない形として自分の子供のように慈しみ育て上げたことはがっつり伝わってくる。10/2~ 順次公開。
続いて本日は福島拓哉監督「
アワ・ブリーフ・エタニティ」@映画美学校試写室。
主演の草野康太くんが友人でご案内戴いたが、監督とも大昔に会っていたと判り、なんだか良縁。
ウィルスによる奇病の流行でパニックになった東京を舞台に「失くしたくないものは何か」を問い続ける恋人たちの物語。
草野康太と呂美のカップルの存在に「ゆらぎ」があってとても良かった、友人役・飲み屋のカップルを演じた俳優さん達も素敵だった、けど誰よりキツネ役の福島拓哉の存在がしっかり立っていて素晴らしかった、思うに、俳優たちは監督が描こうとする世界観に演技を通してしか存在できないから「ゆらぐ」のであり、俳優としての福島拓哉はこの作品の監督として世界観をすっぽり飲み込めているからこそ「ゆらがない」のだろう、そのゆらがなさは役どころに必要なものだったから、この作品においてキツネは彼にしか演じられなかっただろうと思う。
俳優・草野康太の「ゆらぎ」は、全編随所に入れられるナレーションでの決してうまくない「語り」と、物語の中で(イキイキした役柄ではないのにも拘らず)いきいき「存在」することの間にあって、キャリアのある俳優さんなのに不思議と新鮮だった。呂美の自然な存在感と草野康太の(決していい意味ではない)「演技」との間に物語の「ゆらぎ」があったようにも見えて、それを写し込めたことは、ちょっとした奇跡に近いのかもしれない。だからこそ、ひっきりなしの音楽が煩い。いや、音楽自体は全然悪くないのだけど、音楽のない時間がもっと欲しかった、息づかいを覗きたかった。10/16~新宿にて公開。
奇しくも、どちらの作品も独自の世界観を持つものだった。
瀬々作品には人殺しすら請け負う復讐代行屋が登場し、福島作品は架空のウィルスが世界を襲うという設定、それらを語るには当然ながらあれこれの説明が必要になるわけで、どちらもナレーション(独白)が挟み込まれる。
公開前に偉そうな批評をするのは知人として甚だ失礼なこととは承知で、あくまでも個人的な見方をした上で率直に思うのは、そこんとこディティールで見せてくれよ、と。監督の世界観を観たいわけじゃない、人が観たいんだ、と。どんな世界でも構わないから、そこにいる人を魅せてくれ、と。
人間関係や時間経過や設定、小説でも芝居でも、作り手が想定する世界観であるそこをついつい書き込んでしまうのだけど、それってそんなに大事だろうか。
人を描いて、人の背後にうっすら透けて見える世界じゃ、成り立たないんだろうか。
これは、自分の小説や芝居においても、常に考えてきたことだから、敢えて言う。
瀬々作品は意図してのそれとわかるけれど、それでもやっぱりもっとホンが粘ってたった一つのディティールでぐいっと切り込めていたら、監督作詞のメッセージソングがなくてもよく尺だって詰まっただろうにと思ってしまったし、福島作品においては、主人公の語りも世界の状況を説明する文字もいっそなしにして「何か異常なことが起きている世界での、恋人たち」であればもっとじんわり怖さやら希望やらが沁みたんじゃないかなあ。
以前、感想を書いた小谷忠典監督「
LINE」も、アンコール上映が決まった。
作られた世界観ではなく、生々しい世界観を掬い上げるドキュメンタリー、「LINE」を観た後に「子守唄」というそれよりもっと昔の小谷作品を観て、「LINE」で足りなかったものはそこにあるじゃん、こっちの方が痛いじゃん、と思った。
「子守唄」は、役者が演じる劇映画であるにも拘らず、監督自身の傷を曝したドキュメンタリー「LINE」よりもずっと鮮やかにそれを描いていた。
それでもやっぱり、今になって小谷監督が「LINE」を撮ることは大切な意味合いがあったんだと思う。
そこを覗けるという一点において、観て良かった。どうしたことか公式サイトに再上映の案内が載っていないよう。9/4~10 19:00~, 9/11~17 17:00 @UPLINK X にて再上映。
井土紀州監督と話していて「監督ってのは役者の演技を演出することにあんまり興味がないんじゃないのか」と訊ねたのだけど、映画の監督は芝居の演出家とは違うしどう画を作り込むかが仕事だってのはある、もちろん芝居の演出家だって色々な世界観があって色んな手法をそれぞれに持っている。
けれど、少なくとも「物語」において描かれるのは「人」なんじゃないか。
それは、軽くやれば味がでるってもんでもなかろうというような芝居を延々長回しすることでも、リアルな時間経過を反映させることでも、生々しいものを写し取ることでも、印象深く美しい画の中に人物を置くことでもなく、といってそれらがよろしくないというわけではなくて無論映画には必要なものだからそこにあるわけだけど。
もう一つ別のところでの、「何か」が、ほんのちょっとあればなあ、と思う。
少なくとも観客としての私は、描かれている物語の向こうに、私の世界を透かし見たい。
「アバター」みたいな映画で、まったく想像もできないような世界観に圧倒されたい、という欲求も判るんだけど、あの世界をどう読み取るのか、思想の部分にまで追い込まれたら、やっぱり私はしんどくなる。
こうやって人の作ったものにケチをつけるのは、自分のことを棚上げするみたいで恥ずかしいのだけれど、恐らく私にも同じ課題があって、常に脅かされながら取り組んでいるせいで、そう感じるんだろう。
42稿を重ねた短編も「読み違いのないよう」「伝えたいことが的確に伝わるよう」と繰り返しチェックが入って言葉を絞り出した、つまり、私自身が今まさに突きつけられている課題なので、成果など恐らくまだまだ当分出せやしない。
短編の作業を通じて「読者に甘えちゃいけない」と切実に思わされた。
「わかってくれる」「こう読んでくれる」の先にある「わかんなくてもいいや」という甘え、曖昧さ。
そこを消そうとして説明に走り、いらぬ解説を書き加えた挙げ句、最後の最後に「これいらないや」と削った。
人だけを残したかった。そうできているかはわからない。
多すぎると少なすぎるは、結局のところ同じことで、芯に触れていないってことだよなあと思わされた。
作り手が提示する物語の端々に透けるほんのちょっとの世界観を、映画や芝居であれば観客が、小説であれば読者が、自分の日常と結びつけて更に違った画を作る、そういう感覚は、演劇的に過ぎるだろうか、決して何かの確信や自分の成果があって言うことじゃないけれど、そうありたいと思うし、思うからこそ、こんなに情熱やらなんやらの必要なものをみっしり詰め込んで完成された映画でもまだやっぱり「何か」が足りなく(もしくは過多に)感じちゃうのか、というところで、自分がやろうとしていることの果てしなさを見通して、小さな刺が残った感じ。
なんせ、応援戴いていた短編、無事、掲載が決まったので、棚上げしてられない。挿絵は宇野亜喜良氏。
9/22発売 @小説現代10月号 短編【純情ビッチ】悲願の掲載!9/6~10 @シネロマン池袋【母娘監禁・牝】再上映!10/27~11/3 @こまばアゴラ劇場【モグラ町1丁目7番地】三部作完結編!しっかしまあ、行く手は果てしないよなあ。
果てしないよねえ。
- 2010/09/01(水) 21:47:58|
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