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仕事部屋

素の表現方法

本日、ワークショップ試演会です。

東池袋アートスペース・サンライズホールにて18:30開場。
申込不要、無料。

ぶらり覗きに来てください。

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画像は先月の試演会から。              撮影/高橋和博
  1. 2011/02/27(日) 12:33:54|
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終わってる

青春Hシリーズ、うかうかしてサトウトシキ作品の試写に行けず歯ぎしりしていたら、もう第五弾、
今泉力哉監督の初長編ドラマ「終わってる」をみせてもらった。

画がきれいだったなあ、押さず退かず動かずが漫画のように物語を運ぶ、その分役者のゆらゆら感が生々しい、画の色も好き、女優三人が抜群に良くて青春Hシリーズ全体グレードアップした感じ。

何より、こういう役者(こういう芝居ができる役者)の時代になってるんだよなあと、「今」の映画だなあと。
なんだろうな、にっかつロマンポルノに中原俊監督が登場したときのような、そんな感じもするし。

今泉監督が榎本俊二漫画のようなキャラで現れるワンシーンも、ぎりぎりのところで嫌みにならず、てのはセンスなんだろうなあ。

うんざりするほどの愛と恋を緻密に黒々描いていながら、それらは物語の中で無重力だ。
ただ、ずしりと命だけが重い。

これほど明確にテーマを伝えられる映画、久々に観た気がする。

退きの時代。揺らぎの時代。
薄もやをかけたような現実の切り取り方、甘いだの柔いだの生温いだの思う人もいるのかもしれないけれど、私は好きだなあ。




青春Hシリーズ 今泉力哉監督作品 「終わってる」 は3/5~18 @ポレポレ東中野にて公開
  1. 2011/02/21(月) 02:01:37|
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ざくざくと、あの人が米を研ぐ音がする。

ここ数日バタバタで、私が暇なときには周囲が動かずじりじりしたのに私が身動き取れなくなったら急に周囲がテキパキ動き始めて焦ったり。

日曜に渋谷でドルテの「楽屋」、そりゃホンは面白いのだけど、靖子ちゃんのやりたいこともわかるのだけど、狙い所とセンスは少しも悪くないのだけど、やはりううううううううーむなところ多し、懲りるな凹むな突っ張るな、てところでしょうか。
芝居の後は一緒だった小形くん相手にだらだらバカバカしいガールズトークを聞かせながら十数日ぶりに固形物を口にし、その翌日にはまた水分のみで胃袋を宥めすかしつつ、食生活を取り戻す試み。

帆太郎の診察も1週間勘違いしてサボってしまっていたのだけど今日ようやくに連れて行った。
経過は順調、ギプスもまた短くなってリハビリ散歩の許可も出たのに、散歩してやる時間がなかったもんだから帰宅してしばらくすると部屋中飛び回って大暴れ、診察のときにも院長に「やっぱりお調子ものなんでしょうか」と言ったら院長が「まあ、そうなんでしょう」と答えたお墨付きのお調子もの炸裂、そりゃまそうだろう、何ヶ月も一歩も外を歩けずに引きこもってたんだからね、散歩=早起きしなきゃね。

水曜はACCの小説教室、長く続いている人の技術向上が目覚ましいのは書く習慣と読まれる自覚が身に付いてきたからだろう、そういう時期の原稿を読ませてもらえて嬉しいと思うし、出来不出来ではなく毎月の課題で提出してもらう作品はそれぞれの感性や目指すところ、ひいてはこれまでどんなふうに読んできたか書いてきたかまでが透けて見える気がして楽しい。
来月が今期の最終日、次シーズンは引き続きで4月から、初心者向けに同じテーマのものを皆がそれぞれに書いていくワークショップ形式で小説の書き方をおさらいするプログラムを予定している。詳細発表は今月末の予定。

小説教室が終わってからダッシュでYAPONCHIKAのドラマー・フジッコ(「モグラ町」「モグラ町1丁目」におけるモグラ楽団パーカッション担当)の韓流セレブレイトのライブ、CDで聴いたときライブ観たいなーと思った勢いみたいなもんを間近に観てファンになった、フジッコは昨夏にポール・ギルバートのサポートで全国を回っていたからか巧くなっていて、力も抜け活き活き伸び伸びでかっこ良かった。
YAPONCHIKAのライブ当日にフジッコがダブルブッキングしているので、出番の時間を調整してもらうべくその足でWastedTimeに寄ったら、いつか対バンしてくれた藤元涼子ちゃんが来ていて久々なのが嬉しく大興奮してお喋り、居座りそうになる程度に酔ったので引き揚げて電車帰宅。

YAPONCHIKA LIVE 3/19 @渋谷WastedTime 出番は21:30~ と決まりました。どうかご予定ください!

その1時間後には、こないだ買ったばっかりの加湿器が故障したと昨夜呟いたのを聞いた女神さまが加湿器を届けてくれ、ばりばり稼働中。
女神さまから差し入れでチーズのチャウダーとトマトライスなる御馳走を戴き、今日は絶対に無理矢理にでも固形物を食べるのだと決意していた通り、おいしく戴いた次第。

バイトはどこにも決まらずで絶望していたのだけど、良いタイミングでのご縁あって明日から新しい仕事をする。
これが体力勝負になりそうなんで、今月も残り10日になって今更の気合い、合間に龍さんとチラシのデザイン確認やら稽古時間の調整やら、ガンホ会では翻訳する作品の版権の確認やらウェブのデザインの意見交換やら、こそこそやってる柄じゃない計画では頭だけ悶々のフル回転だけど出向くべきところには立ち会えないままCばかり動かすやら、ヤポンチカにはスパン子(「モグラ町1丁目7番地」におけるモグラ楽団アコーディオン担当)が数曲だけ参加してくれることになり、久々原稿仕事が回ってきたりもし、諸々もろもろが動いているのだけど、身体も心も一つきりなのでひとまず稽古入りまでは黙々無休で働く覚悟。

が、「台所純情」の台本はいつ書こうか、一応、今月末は無理宣言しといたのだけど。


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目まぐるしい忙しなさって、悪くない。
暇だと自分自身の内側ばっかり覗き込んで、どんどん腰が重くなるから。

1年先やもっと先のことはいくら目を凝らしても見えないけれど、3ヶ月先はなんとなく朧に想像できる。
きっと今とさして変わらず、それでいて、新しい結びつきや術なんぞもいつの間にか覚えていて、でもまだそういうことには気づかなかったりして、ただただ同じ目まぐるしさの中を足踏みしているんだろう。
そうやってまた次の3ヶ月に向かっていく、その繰り返しと考えると、臆病も少しは霧散する。

割り切りたいわけじゃなくて、ただ、怖い。
そんなときに、そうだよねって一緒に肩を竦めてくれる人がいれば、もっといい。

すっかり腰が重くなっているから、恋だのなんだのはおっかない。
おっかないから、ずしんとお腹の底に響くくらいのものでないとびくともしなくなる。
腰が重くなってるというより、ただ怖がって自分を動かせないだけで、誰か力強い人にどんと突き飛ばされたいと思っていたりするのか、ふわりと動けない。
でもさあ、もう正直それはそれでもっとしんどいんじゃね?とも思ったりしていて、なんだかなあと愚図つく。

だから、そのまんま自然に、「ふわり」でも「ずしん」でもなく、誰かに寄り添ってみたかったりして、そうやって力を蓄えるまでの間を過ごす誰かは、きっとそれからも本当に大切な人だろうと思うし、それがその先に「ずしん」と響くのか、それとも「ふわり」「ひらり」でいつの間にかなんだよちゃんと恋してんじゃんとかになるのか、そこまで考えるより先に、もっと何も考えずにぬくぬくと目を閉じたい。

つまりまあ「台所純情」はきっとそんな話になる。
そんな話にしたい。

  1. 2011/02/17(木) 03:57:30|
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貧乏暇無しとは言うけれど、これはまたちょっと違ったところで。

井土さんの映画一揆のとき、トークのゲストで高木登(脚本家・劇団鵺的主宰)さんが出演され、宴席で初めてのご挨拶をさせて戴いた。
というのも、鵺的唯一の所属男優である平山くんが、かつてうちのワークショップに参加してくれたことがあり、そのことをお話したかったのだけど、蓋を開けてみれば、高木さんこそが「モグラ町」を気に入ってくれ、平山くんにワークショップを薦めてくれたという話。
次回作のキャスティングを聞いたら平山くんは勿論「モグラ町1丁目」に出てくれた栗ちゃんはいるわ、旧知の宮島さんはいるわ、広尾COREDOで共演したテッタさんはいるわ、主演作で目を惹かれてチェックしていた神農さんはいるわで何より題材が埼玉県本庄市保険金殺人事件に材を取ったものと興味深い、速攻何かやらせてくださいとお願い、宴席だからなあお愛想に思われたかなあと微妙に反省したのだけど、後日改めて高木さんよりオファー戴いて無事出演が決まった。

チラシの写真撮影は詩森ろばさん。
マイクを握っているのが平山くんで、これは本当に丸々1曲大汗かきながら歌ってくれた。
私が出演することになって誰よりびっくりしたのは平山くんだったろうと思う。
これは仮チラシなので短期間にしか配布されない貴重版です。

ご縁があって、高木さんの演出助手をしていらした武田浩介さんが現在稽古中の「愛する生活REMIX」公演にはウッチーが出演、津田牧子が演出助手でついている。

その前には龍昇企画「台所純情」公演@スペース早稲田があるけれど、こちらは本チラシを鋭意製作中、井筒さんに仲介して戴いて灘本唯人先生のイラストを戴くことができたので、週明けの上がりが待ち遠しい。
もちろん出来上がり次第にアップします。

ワークショップの連中は今からすでに龍昇企画の稽古場付きを狙っていて嬉しい限り、鵺的の稽古場も見学させてもらえるかもしれないし、そういや「モグラ町1丁目」に稽古場付きしていた靖子ちゃん(WSスイーツ女子部)がこのところ精力的、昨日初日の幕が開いてあっという間に日曜が千秋楽だけど、楽しそうにやっている。

プロデュース・ユニット ドルテ 第2回アトリエ公演
清水邦夫作「楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき」・佐藤靖子演出
2011/2/10~2/13 @渋谷・スペースTRE
2/12(土)14:00/19:00
2/13(日)14:00

津田牧子とヒラケイと私は今月から来月にかけて映画美学校・古澤組の撮影に参加、これまた私にとっては十年ぶり以上久々の体験なので恐ろしい。

みんなそれぞれいろんなところでいろんなことやって、月一回きゅっと集まって何か新しいこと試して、またそれぞれどっかに行くっての、いいなあ。
劇団やってたときにはうまくできなかったことが、今ようやくそれっぽくなっていて嬉しい。

というわけで、2月のワークショップは出稼ぎで不在のレギュラーメンバーがぽつぽつ、新規参加の方を丁寧にみられる希少なチャンスです。今月も日曜には申込不要で見学可。
観られる自分を知ることから始めましょう。

2月ワークショップ 「素の表現方法
2/26(土)~27(日)@東池袋・アートスペース サンライズホール
(土)15:00~21:00
(日)18:00~22:00 ※見学は18:30~可能です
お申し込み・お問い合わせ http://www.maekawa-asako.com


ぼちぼちYAPONCHIKAの練習も始まる。
今回からギターでのサポートに鈴木伊咲(-TAYUTA,-THUNDER BEAT)が参加、先日ソロCD「Musica Graphica」をリリースしてラッシュ時の中央線よりライブハウスにファンを詰め込んでいた彼の胸を借りて、飛べるかヤポンチカ。

YAPONCHIKA LIVE 次回は3/19(土)@渋谷 WastedTime
出演時間が決まり次第お知らせします。

今月、来月は公開セミナーもあります。
「小説に学ぶ、文章コミュニケーション力」
企画書、メール、ブログ、ツイッターなどの文章におけるコミュニケーション力の向上を目指すワークショップ形式の単発講座、手取り足取り教えます!
2月19日(土)13:30~17:00 渋谷商工会館 第三会議室
3月17日(木)18:00~20:30 渋谷商工会館 第三会議室
お申し込み・お問い合わせは 株式会社 キューブルーツ


オンラインで観た「女優たちの宴」に頭が痺れて何日も地団駄踏んでたけど、今日は、座・高円寺のドキュメンタリーフェスティバル宮沢章夫セレクション「ねじ式映画~私は女優?」(1969/岩佐寿弥監督作品)を観た。
木村くんに薦められて読んだ遠藤浩輝の「神様なんて信じていない僕らのために」と重ねるのは乱暴かもしれないけれど、あそことここの隙間んところ、狙えたらいいなあ、と思ったりする。

人だからね、愚痴もこぼすしついつい泣き言も出る、もちろん生きてくことに対して自分なりの苦悩があって考え込んで鬱になったりもするんだけど、それでもねえ、やっぱりねえ、「凹んでる場合じゃない!」と思ったときに、こういうことばっかりほいほい先に詰め込んでしまうんだから、なんかもう自分に申し開きができないやね。

帆太郎募金、引き続きご厚意ご心配お寄せ戴いており、本当に心底有り難いです。
帆太郎はもうさすがにギプスでしょんぼりな自分に飽き飽きしたのか、活発になってきて、寝ているとギプスでぶん殴られたりします。

ずらずら告知ばかり並べましたが、どうか皆さんとどこかでお目にかかれますよう、お留め置き戴ければ幸いです。

  1. 2011/02/12(土) 00:09:36|
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情報解禁。

初めての人たちと芝居をやるのは何年ぶりだろう、そもそも最後にそんな形で板に立ったのがいつだったかも覚えていない、ものすごく楽しみ、そしてものすごく怖い。

劇団鵺的 7月公演「昆虫系(改訂版)」に出演します。

鵺的仮チラシ
  1. 2011/02/11(金) 22:50:30|
  2. 雑感
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告白はしません。

相変わらずうかうかぼやぼや…、新しい恋人ができた女友達から届いた惚気メールが嬉しくてにやにやするとか、そんなんばっかりだなあ、どうしてこうも恋愛が下手なのか、片想いキャリアばかりが積まれて最近はもうただの意気地なし、もとからエンジンかかるの遅くて付き合って3ヶ月くらいしないと自分の気持ちが定まらないタイプなのに出足で臆病になったんじゃ殊更気持ちが動かしづらい、デートとサシ飲み言い換えたところでどう違いがあるんだかわからないけれど、最近デートに誘って喜んでくれるのは女友達ばかりで、女友達とのデートは大概が愚痴の零し合いになるもんだから、それはそれで楽しいんだけどどこか小さな穴が繕えない感じもある、男友達とのデートの場合はしゃぎ過ぎて翌日に凹むことしばしば、やっぱりデートは好きな人としたいと思うそばから、そうかだからデートって言うと断られるのかと納得したりもする、きっと好きな人カテゴリーが幅広過ぎるんだろうけれど、なんだかこの年になって自分の恋愛感覚が危ぶまれてきた、昔のバイト先のマスターとの会食もデートだし仕事の話抜きにした編集者との会合もデートだし龍さんとの打ち合わせだって二軒目になればデートだし娘と食事に行くのもデートだし女友達の手料理御馳走になりに行くのもデートだしWSの誰かとWSの時間以外に会うのもデートだしって言う私にとってはサシ飲みなんてデートそのものなんだけど、そこに区別が必要になるってのはつまるところ認識の違いを避けて折り合いをつけておきたいという消極的な好意なわけだから、それを無視して突き進むのは折り合いがつく消極的な好意を放棄するってことのような気がして選択肢がない。

結局のところ人はいつも自分の気持ちの押し付け合いや領分争いみたいなことをし続けるしかないのかしらん、こころって面倒よねえ、自分のそれだって扱い損ねることがあるのに人のそれなんて推し量れるはずがない、思いやりという言葉で推し量ったつもりになる奴が気づかぬまま誰かを踏みにじってたりもするんだし、傷ついたり傷つけられたりすることは関わり合いだからまったく問題じゃないのだけど、判って欲しいとか判ってあげたいみたいな折り合いの付け方がどうしても巧くできない、といって開き直れやせずに「判ってあげたい」に捉われて自分を押し殺すことばかりになったりして、物わかりがよくて付き合い易い熟女にはやっぱりなれず、駄々こねて我を通す自信もなく、それらは決して恋愛感情だけのことではなくて人付き合い一般に、もっといえば自分自身との向き合い方に透徹した欠陥で、そういや自分から好きになった人と付き合ったことなんてこれまで一度もないじゃんとか、死ぬまでに一度は思ってることをそのままに口にしてみたいもんだとか、誰もがそうやって当たり前にやってきていることに対してわざわざの意識が向いてしまうことが不自由で、そのへん私ってバカだよなあ、女はバカな方が可愛いと言うけれど自分をバカと判ってるバカは可愛げがないよなあ、しかもバカじゃありませんと取り繕って陳腐な理屈を並べるなんて、それを好きな人も目にするようなこういうとこに書くなんて、手の施しようのないバカである割に何か策があるように思われがちなところが可哀想だ、私。

私の心のボスが、究極の恋愛論を出版することになっている。
バレンタインデーが発売らしいのだけど、ちゃんと間に合っているのかしら。
パイロット版を読ませてもらったけれど、本当に素晴らしい恋愛論で、皆に配って回りたいと思うほど。
この数年、その恋愛論の構想ありきでボスと対話する機会が多かったから改めて文章になったものを読むと、思考が促されるのがわかる。
そしてまた、口にして喋っていることと、頭の中でこねあげる思考と、こころの奥底で思うことはすべて違うんだなあと気づく。

私の場合はそこに演技があって更に文章を書くという技術があって、自分の中にあらかじめ与えられた本能としての前述の三つより更に二つ多くフィルターがあるもんだから、自分でも自分の何が真実なのか本質なのかがわからない、小説を書くときは思考より感情より文章がより真実に近いと思うのに、好きな人に宛てて書くメールなど書くそばからまったく真実ではなくなっていくし、と言って会話や対話であればその不安が解消できるかというと文章より更に根深く自分が何も本当のことを口にしていない、何が本当かなんてその場では選び取れないと感じるのが常で、その不安を麻痺させるためにお酒の力を頼っているという自覚もあるけれど、飲めば飲むほどにべらべらと思ってもいないことや思ってるのとは違うことを喋るばかりで真実の夜明けに辿り着かないまま朝を迎えただ体力を消耗するばかり。

だから芝居をやってきたんだと思う。
演じるときには思考しなくていい、自分の言葉を選ばなくていい、与えられた言葉と思考と性質を身体感覚で立体化するだけで束の間真実が生み出せる。
演じる私には感情があって思考があって適切な言葉がある、それは普段の私にはないものだと承知している分、圧倒的に信頼できるもので、演じていないときにも小説の人物を通してそれをやってきたから生きてこられたんだろう。
7歳から芝居を始めたことで自我を形成する前に「演じる自我」を持ったのだと精神科医に言われた、その通りのことをまた改めて思う。

日常の私はどんな役をどう演じるかわからなくておろおろするばかり。
「日常の私」を確立している役者は演じるときに振れ幅が大きく観ていて痛快なのだけど、私の場合はどう演じても自分に閉じ込められているから観ている人にもきっと息苦しかったりするんじゃないだろうか。
その「演じている私」がどれほど窮屈であっても、そのときに一番生きている実感があって呼吸が楽にできているってのが事実だからどうしようもないのだけれど、それが私にとって演じることの限界なんだろうとも思う。
「私ではない私になるために演じる」ことと、「私が私になるために演じる」ことでは、前者の方が圧倒的に間口が広いはずだから。
それでも観てくれる人がいるうちは演じることをやめられないし、やめたら私はまた自分の消失を感知して発狂するだろう。

家族や恋人の存在に縋るのも、演じていない私に役割を与えて確立させたいからなのだと判る。
別に、そのために恋をしようとするわけじゃないんだけどそれも否定しきれない、けど誰だって何かしらそうした心底があって誰かを必要としているに違いない。

ボスは、このことを心の穴だと書いていた。
誰にでもある、それぞれ違った形の穴。
恋をするのは、相手が持っている何かでその穴を塞いで欲しいからだと。
穴のない私になりたいからそぐわない相手に恋をするのだと。
だから、相手の穴が視えたら気持ちが醒める。
自分の穴の形を自分でしっかり受け止められたら、そういう恋はしなくなるだろうとも書いてあった。
穴のあいた相手を、穴のあいたまんまに受け入れることができるようになる、そのことが愛だとあった。

ふううううむ。当たり前にそうと感じていたことをそうやって文章で読むと、やはり色々と考える。
正しい。まったく正しい。正しいのだけれど。
論はやっぱり論なのだ。

感触とか、感覚とか。

関係や信頼は恋をしなくても得られる。時には恋よりうんと。

感触や感覚としての心地よさを信じるだけでも関わり合いは生まれるし、本当に必要なものは、その先に芽吹いたり芽吹かなかったりするんじゃないんだろうか。

ボスはそこんところ別腹でやっちゃってるからなあ。

感触や感覚で得たものを信じずに理屈をこねてる私は、やっぱり「わかって欲しい」と「判ってあげたい」に捉われているんだなあ。
その先には、ごくごく陳腐な「確かめたい」とか「安心したい」とか「信じたい」が待ち受けていて、そこに追い込まれるのが嫌だから踏ん張るんだけども。

もはや人生の演出助手になった小形くんには「告白しなさい」と指令されている。
「泥酔せずに」という条件付きの指令だから、難しい。

しないよーだ。

だって一生懸命に折り合いつけて今あるものを保ってくれてるのに可哀想じゃないか。
言い訳だけど。

自慢じゃないが私はほんとに好きな人にはまったく近づけないし、何も言えなくなってしまうタイプなのだよ。
そんで泥酔して醜態曝して自分だけ記憶リセットするパターン。
昔っからそうだから、多分もうずっとそうなんだろう。

あーあ。もっと堂々とした大人になってるはずだったのに。






  1. 2011/02/01(火) 15:28:41|
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