本日、予定通りに「台所純情」稽古入り。
制作から避難時の通達と節電の呼びかけ、プロデューサーからは「制作費節約」の呼びかけ。
アテ書きだし役名を考えるのが面倒で「睦雄」とかそのまんまの名前にしており、台本にもキャスト表をつけなかったので、「キャスティングはこれから決めようと思ってるんですが」と言ったら皆一斉に不安な顔になったのが可笑しい。
通しての本読みを計3回、1回は睦雄役を龍さんに、平井役を睦雄にやらせてみたりもし、3回目に私も本読みに参加。今回は睦雄が苦心するような台本を作ったので、休憩中に小形と2人で「ちょっとハードル高くし過ぎたか」などと言いつつ本読みしてみたら相手役である私まで苦心しそうで内心ヒヤリ、内野はいつ削ってもいいような役なのだけど、相手役のよっちゃんが「お前が削られたら俺もなくなっちゃうんだからな」と釘を刺していた。
よっちゃん、龍さん、美術の井上さんとモグラファミリーでも年長組のお三方がいるので、飲みの席でもまずはガンだの年金だのの話題になる、年々そうした話題への参加者が増えるんだろう、「どうなっちゃうんだろうね、これから」と誰かが言えば皆が「ううん…」と黙り込むこと数度、どうせ誰も本気で不安がっちゃいないのだが、うっかりな軽口叩ける雰囲気じゃないのは確か。
それでも稽古が始まればやってくしかない、顔が揃ってほっとしたのは、私だけではないはず。
何が起きたって、役者の頼りは台本と体力だけ。
始まってしまえばいつか必ず終わるのが、芝居のいいところって、ずっと思ってきている。
始まったんだから、ちゃんと終わらせようと、改めて思う。
3月27日(日)15:00~21:00 ワークショップ「そのまま、そこにいるために」スプリング・クラス 、予定通りに開催します。 やむを得ずの申込キャンセルが出たため、申込〆切日を25日(金)まで延長することにしました。
「台所純情」のテキストを使って、お芝居の立ち上げ方をなぞっていく全一回のワークショップです。
参加費8,000円、会場は
水天宮ピット 、龍昇企画稽古場、残念ながら今月は非公開、見学不可です。
世の中の出来事はどうにもならなくても、自分の時間はどうにかできるもんじゃありませんか。
限られているからこそ、意味や目的のないそれも、大切にできるような気がします。
逃げる自由、助ける自由、闘う自由、まだまだあるのは、まったくましなことだと思います。
2011/03/24(木) 02:04:04 |
雑感
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3/26~青春Hシリーズ、榎本敏郎監督作品「再会」@ポレポレ東中野 は、 上映時間が連日19:00からに変更となりました。 トークは上映後20:25~を予定しています。 3/26 初日舞台挨拶 榎本監督、津田篤、森山さちか、小林晶
アフタートーク
3/29 井土紀州(脚本家)×榎本監督
3/30 前川麻子(作家・女優・演出家)×榎本敏郎 4/1 切通理作(文筆家)×川瀬陽太(俳優)×榎本監督
鎮西監督作品「ring my bell」も連日18:30~@ポレポレ東中野で上映中。
明日からはアフタートークがあるようです。
3/23 宇波拓×山形育弘
3/24 長島良江×鎮西監督 ☆『さらば、愛しき女よ』短編映画上映(監督:長島良江)
3/25 鎮西監督、月城まおら、山形育弘、瀬木俊、ちひろ
さてさて、明日より「台所純情」稽古入り。
35年の演劇人生の中で、バイトしながら芝居やるのは初めて、気力体力ともにどこまでやれるんだろうか不安はあるけれど、みんなそうやってやってきているんだから、私にだってと今更の奮起。
台所純情 ←クリックするとチラシのpdfファイルがダウンロードできます。
2011/03/23(水) 01:39:14 |
雑感
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金曜夜にYAPONCHIKAの練習、ほんとだったらライブ前最後の練習になったのだけど、この日は来られる人だけ集まってゆるっとやりませんかな呼びかけ、んでiPhoneからUstでだらだら垂れ流すという作戦。
バンマスは停電の影響で仕事が終わりそうにないと昼過ぎに連絡あり、スパン子はホウスケの体調が良くなくて欠席、フジッコが若干の遅刻ということで、20時の開始時間には私とイサクちゃんとiPhone要員でWS成田くん・吉祥寺在住が集合。
ライブのご案内をすると「どんな曲をやってるんですか」とよく訊かれるのだけど、まあつまりこんなふうに人の曲をしれっと自分の歌みたいな顔して歌ってます。
この日は2週間ぶりの練習だったので、ギターと2人黙々おさらい、途中フジッコが合流してライブでやるつもりだった全曲をゆるゆるっとおさらい、Ust画像の保存はここまで。
この後、一服休憩を挟んで「じゃちょっとその気でやってきましょうか」と曲順決めて、ライブ同様にMCなしのメンバー紹介入りで全曲、リアルタイムではUstに流したんだけど、休憩中にわたしのiPHoneがおかしくなってしまい、iPhone成田号での撮影となり、保存し損ねた幻の「その気バージョン」、案外イケてたはず。
お客さんの前に立つ楽しさには敵わずとも、歌うことに集中できた気持ち良さがあったなあ。
自分の歌声と歌い方、ようやく好きになってきた。
23時に練習終わって、落ち着いたらリベンジさせてくださいとお願いして解散、この時点でわたしのiPhoneは復元必須なムード、帰宅してiTunesからの復元をケーブル変えたりポート変えたりしつつ何度か試みるもエラーが出てしまい復活せず。
移動指示がある仕事なので電話は必須、土曜朝に開店時間待って携帯ショップに駆け込み、仕事用の新規回線とiPhone4を購入、一旦戻ってなんとか最低限のデータだけ同期させて仕事へ行き、前夜から微妙だった風邪症状が悪化したのでちょっと早めに切り上げた。
はしゃげないムードが続いて、街が静かになった。
その分、人の話し声がやたらと耳につく。
若い女の子のべたっとした作り声、きんきん響いて弾ける笑い声、殊更の悪目立ち。
ほんの少し自分の声を意識してみたら案外気持ちの部分も落ち着くだろうにね。
ぼかんと膨らんだお月様に、また「なんのためでもなく」暢気に歌えますようにと、願う。
あ、「黒い報告書」掲載の週刊新潮も出てます。
2011/03/20(日) 01:43:37 |
雑感
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小さな揺れが、ふと気の抜けたタイミングに湧いて、身を硬くさせる。
最初の大きな地震がきたとき、わたしはまず滅多に行くことのない汐留の、初めて訪れた電通本社ビルの16Fで、暢気に映画を観ていた。
映画は「スコット・ピルグリム vs.邪悪な元カレ軍団」、アメリカの人気コミックの映画化だそうで、強く支持する知人の計らいで試写に呼んで戴いた。「ビデオゲームの要素をふんだんに取り入れているのでお好みかどうか」と言われていたが、インベーダーゲームに夢中になった世代でもある。
しょっぱなからワクワクさせられ、夢中で話を追いかけていよいよクライマックス、という時だった。
がたがたがた、と椅子が鳴るほどの揺れだったが、大して気にならなかった。
それが、長く続いて初めて、おや?と思った。
小さな試写室だから、場内が暗くてもスクリーンの明るさで、中にいる人の動きは判る。
私の他にも「おや?」という顔で周囲を見回している人はいた。
だが、試写室の係が来るでも、映写が止まるでもない。
ビルの上階って揺れるんだよなあと再びスクリーンに目を戻したとき、ジェットコースターが走り出すときのような音と共にもっと大きな揺れが、起きた。
最新の建築物の構造は、地震の揺れを水平に保つのだと聞いたが、まさに、遊園地のアトラクションに乗っているような、不思議な揺れ方に感じた。
場内のあちこちから「地震」「地震」と呟きが出始め、皆、中腰になりかけたが、それでも映写は止まらない。映写技師というのは、職人である。
わたしは、コートを腕にかけて、荷物を背中に背負い、いつでも立てる体勢のまま、スクリーンを視ていた。
館内放送が流れ始めたのと同時に、係の人が入ってきて映写が止まる。
「地震が起きたので、上映を中止させて戴きます。作品は4月29日からシネマライズにて公開です。DVDをお配り致しますので、続きはご自宅で視てください」云々、すぐにドアが開け放たれ、DVDが配布された。
「エレベーターは使用禁止になっています。ここは安全ですので、しばらくお待ちください」と言われ、皆、退出できない。
携帯やiPhoneで情報を確認して、場内に伝え合う。その場にいた人数はそれほど多くなかったので、混乱が起きることもない。
「最新型だし、このビルにいた方が安全かもね」と誰か。そうかもと誰もが思い、椅子に座り直す。
余震なのか、小さな揺れがまた来る。館内放送は「状況を確認中」というようなことを短く言うだけで、避難を薦めてはいない。
年配の映写技師が出て来て「残りもう少しなんで、回しておきます」と、室内の電気を点したまま、映写が再開される。
ドアも開けられたままだが、係の女性二人はロビーで上司らしき男性と何やら相談の様子。
本当にラスト近くで止まっていたので、スクリーンに映ったのは残り数カットとエンドロール。それを見届けて、さてと思ったが誰も席を立とうとしない。
一人試写室を出て、「非常階段使えますか」と訊くと「多分使えると思いますけど」とロビーにいた主催側の人が案内してくれた。
まだ誰も降りてきていない階段は、ひたすらがらんとしている。911WTCの大惨事は非常階段で起きたと知ってはいたけど、それほど一刻を争うわけではないし、押し合いへし合いの混雑もない。
「気をつけてください」と言われ「あ、のんびり行きます」と御礼を言って、とぼとぼ降り始めた。
じっと待つのが嫌だっただけで急いでいたわけではないから、本当にのんびり降り始めた。
合流する人は誰もない。余震のたび、みしみしかたかたと、壁が鳴る。
真新しいカーペットのあちこちに、壁材だか塗料だかが剥がれて落ちている。
火が出るようなビルじゃなくて良かったなあと思いながら、とぼとぼ一階に辿り着く。
1Fロビーにはさすが大勢の業界人が避難してきていて、中には防災ヘルメットを被った女性も。
だが皆、談笑していたり、書類を見ていたり、半笑いの顔でぼうっと立っていたりで緊迫感がない。
受付できちんと入館証を返却して表に出、灰皿前で一服。
通りの車もひとまずは停車している様子。
うちの本棚倒れてないだろうか、犬がビビって飛び跳ねてまた骨折ったりしてないだろうかと気になり始める。
止まってるだろうなと思いながら地下鉄の汐留駅へ行き、ホームまで降りたが、運転再開の見通しはない、JRも全線止まっていると情報が流れたので、待つのを止めて地上へ。
JR新橋駅に出てみると、汐留のどこか長閑な風景と違って大混雑、大混乱が始まっていた。
都バスの停留所は終電後のタクシー乗り場を五倍十倍にしたような行列ぶりで到底並ぶ気になれない。
駅周辺をぶらぶら歩いていて、港区のコミュニティーバスがお客を乗降させているところに遭遇、するっと乗って着席、幸運にも田町まで行くバスだった。
車内からtwitterなどで情報を確認、電車動かなかったら夜のスタジオ練習は中止だよなあ云々と共に犬の安否が気がかりで気が急く。
田町も新橋同様の混雑だったので、うちまでのバスの行列には並ばず、歩き始めた。
ぞろぞろ歩く人が大勢いて、皆、帰宅難民とわかる。
打ち合わせをしながら歩くビジネスマンの二人連れ、電話であれこれ指示を出すスーツ姿の人、必死に迎えの車の手配をする人。
部活帰りの中学生らもいて、「参ったなあ」な雰囲気ではあってもそれほどの緊張はない。
黙々歩いて、途中で一服休憩もして、30分ほどで自宅そば。
うちのそばでやっている解体工事と、また他の建設工事と、どちらも現場で人が右往左往しており、それを見たらまた不安になった。
一歩一歩覚悟を決めて、マンション前。エレベーターが止まっている。
祈る気持ちで3Fまでの階段を昇り、鍵を取り出す。吠える気配はない。
ドアを開けても、出迎えの姿がない。室内は異常なし。倒れそうなものは本棚くらいだが、倒れてはいないし、棚の物も落ちていない。なのに「ただいま」と声をかけても犬が姿を現さない。
布団の中にいるらしいのが布団の隆起でわかるので、布団の上から名前を呼びながら揺さぶった。
ようやくもそもそと出て来た帆太郎、無事。
安堵して見れば、台所のワゴンの上のものが、いくつか落ちていた。
室内の被害はそれだけ。
早い時間に帰り着いたので、スタジオ練習どうしましょう連絡、娘や元夫、一人暮らしの友人たちに情報を流して安否確認などなど、携帯は長らく不通だったしメールも遅れていたけれど、twitterは確実だった。
TL上に帰宅難民の声が徐々に上がり始め、避難所開放の情報、運行情報など回すうち、深夜。
もちろん、スタジオ練習は中止。そもそもスタジオの休業判断が早かった。
こういうときって、誰かの決断の早さがものを言う。
以降、皆がそれぞれに節電の呼びかけ。
散々電気使って原発反対じゃあ筋が通らんだろと思うわたしは、練習ないから加湿器も切り、乾燥やだから暖房も切り、アロマキャンドルを控えめに灯して、霜取りついでに冷蔵庫まで切って、ささやかに。
途中、バイト先のチーフMが「大丈夫ですか?安否を確認したいので連絡ください」とメールをくれた。
それだけのことが、本当に嬉しかった。
この間まで、一緒に暮らす人もいない、毎日出勤する会社もない、倒れても見つけてくれる人がいないと俄に孤独死を感じ取っていたのだけど、今は違う。
どんな仕事であろうと、働くことは、世の中とつながることなのだなあと、実感できた。
翌日には原稿のゲラが届いて「明日昼までに」だったりもしたし、勿論これまでだって働いているわけだが。
それにしてもtwitter上で回されるデマのなんと多いことか。そして「あれはデマ」と更に回されてくる。
「デマだろうが1%でも真実の可能性があればRTします」という人もいる。
「もうソースのないRTはしません」という人もいる。皆それぞれでいい。
受け取る人が判断すればいいと基本的には思うから。
何より批判だの非難だの意見だの要求だのをこねてる場合じゃない。
原発事故は大ごと。地震・津波被害に遭われた方には慰めの言葉もない。
まだまだ誰もが不安な気持ちの数日を過ごす。
公演やライブの中止も相次いでいて、その中で「やります!」もあって、それぞれのデメリットの中での決断は、どれも正しい。
東京は人が多いから混乱も生じ易いのだけれど、人がたくさんいるってことは、力がたくさんあるってことだ。
芝居やライブは、電気がなくたってやれる。
世の中に向けてものを作ってる人たちは、それが受け入れられない世の中のタイミングがあることも承知すべきだし、より楽しんでもらえる状況でのそれと考えれば自ずと判断もつく。
誰かを助けたい、役に立ちたい、皆で心配したい、がんばろうニッポンは、サッカーの応援みたいに「連帯」を齎す快感ではあるけれど、一人一人ができることを怠らずに「i'm OK」を保つのが原則のはず。
「私」が大丈夫であれば、「私」を助けてくれる誰かの手が、他の誰かを助けられる。
もちろん「私」の手も空いている。
犬を膝に乗せて黙々ゲラをチェックし、先日短めに書き上げて直しをしていない「台所純情」の台本も混乱なく送信できるうちに送信を済ませ、今日は通常のバイト業務で出勤、こんなときに働いたって誰の役にも立たないかもしれないけど、また無事に帰って来られれば、それでいい。
「スコット・ピルグリム vs.邪悪な元カレ軍団」 は楽しかったし、隙なく面白かった。
多くの人が、映画館でバカみたいに大ぐち開けて笑える日々がまた続くと、信じている。
2011/03/13(日) 12:02:24 |
雑感
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青春Hシリーズ、鎮西尚一監督の「ring my bell」をサンプルDVDで観せてもらった。
もうね、そもそもわたしは鎮西さんという人が(鎮西の映画が、ではない)大好きなものだから、始まりからドキドキしてしまうし、わたしはただ鎮西さんの見ている世界が視たいのだと、3分くらいで確信してしまった。
野暮なワイルドさ溢るる男子2人と短い合宿生活を送る幼なじみの女子1人、その3人を中心に、少しもエロくない人たちがまったくエロくない日常を送る、その「エロの気配のなさ」にものすごくドキドキした、これは単純にわたしのエロのツボってことなんだろうけど。
いくつかある「水辺の二人」の距離がどれもいい。
いつもの朝練に異物が混じった瞬間の、うっすらしたやる気の見え方がいい。
自転車仰いで抜ける空がいい。
朝と昼と夜があるのがいい。
俳優たちは皆、一挙手一投足がぎこちない。
恐らく演技の技術などは欠片もなく、「演技をする」という意識に支配されて日常的な感覚を見失っていたりする。
映画出てよと言われてのこのこやってきて、「そのまんまそこにいる」人たちに見える。
そこに、「演じる」というフィルターがしっかりと置かれている。
つまり「自然な演技」という一番たちの悪い大ボラがない。
当たり前に「演技」ができる人なんて、日常では圧倒的に異質なわけで。
そういう人たちがずらり並んで「自然な演技」なんぞお披露目したりするともはや魑魅魍魎の世界じゃないか。
宝塚歌劇団のように作り込むことで完成された非日常世界であればともかく、「そのへんのものを借りてきた日常世界」(の延長であるローバジェット映画の物語世界)にそういう人がいると、わたしなど猛烈な違和感を持ってしまう。
そういう「日常との違和感=演技」みたいなおかしな理屈を飲み込んでいる人たちが作り手側にも観客側にも存在するのは事実だ。
だけど、その手の俳優は、つまるところ、「日常に生きられない」=「そのままそこにいることができない」不正直な、中途半端な技量の、ろくでもない役者なのではないか。
ほんっとーっうに徹底した巧さを持つ役者なら、そうはならないんだと思う。
この、至極曖昧な持論における「そうはならない」という立ち位置を意図的に目指すのは至難の技だ。
演技がもの凄く巧いか、演技などまったくできない(もしくは演技しようとしてしまうぎこちなさが残るような)ものすごくそのまんまか、どっちかしかないんじゃないかと思っている。
「ring my bell」の役者たちは、言わずもがな後者だ。
彼らは、「演技をする」意識を持たずに演技ができてしまう人には絶対に辿り着けない向こう側に、生きている。
鎮西さんは、絶対にそういう人たちを「そのまんま」撮りたかったんだろうと思う。
そういう人たちを「そのまんま」いさせるには、コツがある。
そこんとこがものすごく徹底しているから、「巧い!」と手を打ちたくなる。
絶賛公開中の「終わってる」は鎮西さんがやったこととはまったく別の手段によって構築された世界で、あの役者たちを「自然な演技」(わたしの理屈ではまったく不自然なわけだけど)と評価する人も多いんじゃないかと思う。
もちろん、「終わってる」の役者たちは皆どうこうの理屈じゃなく「いい」わけですが、それは俳優のお仕事としてのやるべきことがきちんと過不足なくこなされているってことで。
でもさ、やっぱり「そのまんま」には敵わないよなあ。
「そのまんま」を要求されている以上、それができるのは同じように過不足なく役割をこなしているってことなのだし。
彼ら、きっと自分たちの手で向こう側のドアを開けたんだと思う。
「演じる」ことの本質を、体感したに違いない。
わかんないけど、少なくともこの映画には、そう映ってる。
いけねー奴にはどうあがいても一生いけねー世界があるんだよ。
その瞬間を、映画としてそこに切り取れるのは奇跡だと思う。
だから、わたし観終わって「おめでとう!」と思った。
この映画が撮れたこと、観られること、関わった人たちみんなに「おめでとう!」と祝福したくなった。
青春Hシリーズには、エロに頼った挙げ句すってんてんになった過去を忘れたのか、という意見もあると聞くけれど、わたしは青春Hシリーズの価値はエロじゃないと思うんだよなあ。
井土監督の「ピラニア」と今泉監督の「終わってる」があり、古澤監督の「Making of Love」と鎮西監督の「ring my bell」がある、その幅の中にも外にもちゃんと未来があるじゃんと。
鎮西さん、「モグラ町」好きと言ってくれていた。
へえー、ああいうの好きなんだってちょっと不思議な感覚だったけど、わかった。
わたし、多分ちゃんと鎮西さんが見ているもの、視えたと思う。
ま、実際のところ、作り手が何を思ってどう撮るかなんてこと、わかりっこない。
だけど、こんなふうに「!」と、きっと観る人それぞれ好き勝手な「!」を某か思わせるってことが重要なんだから、全部誤解と笑われてもいい。
ああ、やられたなあ。
ぐいっときました。
鎮西さんがこれ撮った、てことを考えるだけで、胸が熱くなる。
泣きそうだ。
「終わってる」があって「ring my bell」があって、「再会」。
榎本さんとトークで話せること、たくさん浮かんできた。
青春Hシリーズ 鎮西尚一監督作品
「ring my bell」3/19~3/25 榎本敏郎監督作品
「再会」3/26~4/1 ※3/30 アフタートークに出演します
ポレポレ東中野にてレイトショー公開
2011/03/11(金) 03:40:12 |
雑感
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