仕事部屋

母娘監禁・牝。

「母娘監禁・牝」が、また、スクリーンで観られます。

渋谷シネマヴェーラの人気特集番組「官能の帝国4」で、チャンスは3日のみ。
上映日と上映時間を、きっちり確認してお足運びください。

なんと、最近は電子ブックでシナリオも読める…。
取り扱いは浪漫堂シナリオ文庫さん。
私、macのsafariですが、ブラウザでさくさく読めました。

そして、「へばの」睦雄と、「牝」前川が10年ぶりに共演する「台所純情」も、前売を開始しています。
私はがたがた立て込み続きで、DMの発送が大幅に遅れていて、ごめんなさい。
今週中にはなんとかお手元に届けられるよう、頑張ります!

  1. 2011/04/26(火) 02:38:45|
  2. 雑感
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へばの。

稽古したり飲んだり稽古したり働いたりしているうちに稽古回数は残り11回と聞いてびびった、まだ自分の場面は1回しか稽古していない、代役もツダマキちゃんからナツコに交代してがつがつダメ出しを入れていて、うっかりするとそのままツダマキとナツコのWキャストでの演出を考えていたりするし、睦雄さんや龍さんへの演出も自分が相手役であるということをすっかり忘れたままつけてしまっている。

いや、もちろん、私が出るのだが。

そんなこんなでどたばたと過ごすうち、住んでる部屋の更新通知が届き、ほぼ帆太郎の部屋と化している狭いワンルームに諸費用合わせて10万以上の更新料を払うことを考えた途端むらむらと引越したくなり、そんな時間もお金もすぐに都合つくわけじゃないのに、3軒の不動産屋と連絡を取り合ってメボしい物件の内見に出かけたりもしている。

渋谷なら南平台、恵比寿なら広尾寄り、「いいところ」と言われる住み慣れた界隈は、確かに「お値段のいいところ」でもあるのだが、それよりも私には故郷で、特に今のところは越して来てから父の生家が同じ町内であったと知らされて縁を感じているのもあり、ヒキタクニオに引越魔と呼ばれる私が珍しく1度は更新したのだけど、いかんせん手狭で、かれこれ2年ほど荷物部屋として借り続けている近くのアパートとの家賃を合わせれば、それなりのところに移れるはずと考え直したものの、この界隈で犬と暮らせて荷物が収まる物件は私の生活水準に見合うものが見つけられず、3日くらいぐずぐず悩んで、とうとう恵比寿からも渋谷区からも離れる決意をした。

メリエスでお世話になっていた高田純氏が亡くなって、「お墓と離婚」で主演されたスーちゃんが亡くなって、小劇場時代にさんざっぱら面倒をかけたぴあがなくなって、私が馴染んだ時代が着々と消えていく。
親もなく家もなく幼少期の記憶が染みた場所もなく何が故郷だとも思う。

マンションには知人が住んでいるし、隣りの部屋のカメラマンのお兄さんともよく話すし、すぐ近所には家族のような友人がいるし、通い慣れた店があるし、雰囲気が好きだし、お隣の家のおじいさんや裏の家のおばあさんとも仲良しだし、便利だし、お家賃据え置きで専有面積が倍増してくれたら住み続けたいのだけど、本当に狭くて、もはやここは私のうちではなく帆太郎のうちで、私は犬小屋に居候しているような気がしているものだから、これはやはり人としての尊厳を保つためにも、思い切って、より暮らし易い町へと越すべきかと。

住めばどこにでも馴染む自信があるのだけど、活動時間が決まっているわけでも勤務先があるわけでもないから、どこでもいいやと思うとどこに絞ればいいのかわからない、といって本当にどこでもいいわけではなく、新宿からタクシーで無理なく帰れるところ、阿佐ヶ谷からでろでろに酔っぱらって始発に乗っても無事に辿り着けるところ、人に会いに出かけるのが億劫にならないところ、などなど考えると、結局は町の真ん中を選んでしまうし、そもそも喧噪がないと落ち着かない町育ちだから、「!」とチェックすると恵比寿ほどではないにしてもそこそこの家賃がかかる物件だったりして、そうなると、広さを諦めて家賃を下げたいという気持ちも出て来るし、部屋探しはまったく方向性が絞られないまま、今日はぶらり近所で一件、明日は朝から不動産屋をハシゴして5件も見に行くことにしてしまった。

どうしてだか好きな電車とあんまり好きじゃない電車がある。
何が好きで何が嫌いなのかは自分でもわからないけれど、日比谷線と副都心線と有楽町線と大江戸線と東西線と山手線と中央線は好き。井の頭線と東横線と総武線と田園都市線と銀座線と丸ノ内線と京王線は嫌い。
他の電車はよく知らない。ま、基本、好きな電車はモノレール。ゆりかもめも大好きだ。
で、よい物件があっても、その電車に毎日乗るということを想像して、「無理」と思えばやめる。
乗って「嬉しい」と思える沿線で、様々な状況での利用を想定して、3つ以上「イケル」と思えば候補に入れる。

物件も、そんなふうに「無理」があればやめるし、「嬉しい」が3つ以上あるものを内見する。
思えば、買い物するときもそうで、洋服などは3通り以上の組み合わせを思いつかなければ買わない。
映画も、3つ以上、好きなところがあれば、好き。

原発に注目が集まる中、出遅れてる感のあった「へばの」が、ようやく東京での上映を決めた。



時間をかけただけあって、1日限りの上映なれど、座談会ありやら、英語字幕付きやら。
桑原プロデューサーは「今回の『へばの』上映、朝は座敷席で座談会あり、夜は普通の映画館、そして各上映と同時にUSTREAMで配信と、見る方にそれぞれ選んでもらえればと思っています。また、国内では初めての英語字幕版。ご存知の方もそうでない方も含め、より多くの人に『へばの』に出会ってもらえたら嬉しいです。」とtweetしていた。

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英語字幕版上映+USTREAM 同時配信 
木村文洋監督作品 へばの
2011年5月15日(日)モーニング&レイトショー上映

◎モーニングショー
【開場】 10時30分 【開映】 11時00分~ 【座談会】 12時45分~
【会場】 光塾 COMMON CONTACT 並木町(東京都渋谷区渋谷3-27-15 光和ビルB1)
※上映終了後に休憩をはさみ、その場で、参加を希望される方々と、監督・スタッフにより座談会を一時間程度行いたいと思います。参加は無料です。

◎レイトショー
【開場】 20時50分 【開映】 21時10分~
【会場】 オーディトリウム渋谷(東京都渋谷区円山町1-5 KINOHAUS 2F)
【各回入場料】 予約:1,000円 / 当日:1,200円
【ご予約・お問い合わせ】 E-mail:teamjudas@ss.lomo.jp
※各回共、映画上映と同時にUSTREAM 配信を行います。 www.ustream.tv/channel/hebano-goodbye
※経費を差し引いた収益の全額を被災地の義援金として寄付、もしくは物資を購入して届ける予定です。
送付先、届け先に関しましては現在検討中、終了後に会計収支とともにをHP上で告知します。
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このあと、「へばの」は旅に出るらしい。ゆっくりと動くあたり、監督の資質に見合ってる感じ。
鎮西さんに「へばの、どこが好きなんだ」と訊かれたとき「キャスティング」としか答えられなかったけど、ちゃんと3つ以上好きなところがある。大事だから言わない。

もちろん「台所純情」も、着々仕上げています。自分以外。
こないだはよっちゃんが稽古場で還暦のお誕生日を迎えたので、皆から巣鴨の赤パンツを贈呈。
ふんぞりかえった小娘からボケ老人だの脳軟化症だのアルツハイマーだのとダメ出しで罵倒されても「はい、わかりました」と言える60歳、愛されてんなあ。
しかし今回は、なんせ、睦雄さんが大変によろしい。
私なんかで無事にお相手が務まるかしら、普段殆ど話さないのに。

龍昇企画公演「台所純情5/13~19 @スペース早稲田でお待ちしております。
睦雄ファンは5/15に台所純情のマチネを観て、夜は「へばの」で「睦雄づくし」をお楽しみください。

そういや小説教室も次期講座の受付が始まっています。
WSもそうだけど、小説教室だって、年単位で黙々通う人はちゃんと「書ける」に辿り着くもんだなあと、ここにきて感心しきり。

大人になってからじゃないと身につかないことだって、ある。
大人になってから辿り着く故郷だって、あるよね、きっと。

間もなく初日が開いて、ばたばた千秋楽を迎えて、週末のWSと週明けの新規講座をやったら、「じゃあね」と故郷を出る。
映画「へばの」の英題は「Good Bye」です。

  1. 2011/04/24(日) 04:58:50|
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「せつないかもしれない」後半がアップされています。

こちらは#21で前半。



後半の#22もニコニコチャンネル「ゴー宣ネット道場」でアップされています。
後半部分には小林よしのりさんの笑い声や突っ込みが微かに入ってます 笑

しじみ嬢は大変に可愛らしく、会話も面白く、収録のときには「今度飲みに行きましょう」なんて言ってるのですが、もう収録が終わったその日のうちに飲みに行ってしまいました。
しじみ嬢出演の「終わってる」が5/7~13に再上映、青春H2シリーズ新作「超・悪人」(白石晃士監督)も5/14~、ともにポレポレ東中野。
「超・悪人」は試写に行けずでしたが、予告編にソソられてます。

「台所純情」、もやもやぐずぐずと稽古中、代役を務めてくれている津田牧子の代役として、京都の大学を卒業してすぐにやってきた稽古場付きのナツコが奮闘中、やっぱり脳みその若さには敵わない、おじさんたちは稽古中常に小脳梗塞を起こしているような状態だし、ウッチーは見事なでくのぼう、それぞれ反省もして改めようと努力をしているのは見て取れるのだけど、いかんせん結果に結びつかない焦れったさは、こちらより本人の方がジリジリ悔しいんだろう、人の身体能力は嫌が応にも衰える、できることでやっていく覚悟をするには衰えの現れが急速過ぎて切り替えるタイミングが掴めないといったところか、今回は頑張って貰うしかない。
でもさ、来年はもっと楽なことしようね、龍さん。

この十日ばかり体調が良くなかったのでコーチングはお休みを貰っていて今日からまた緩めに再開、コーチングとは演技指導のことで演出とは違う役割なのだけど、海外ではそれぞれの俳優にコーチがつくというほどポピュラーな仕事でありながら日本ではまだ職業として認識されていないので、プロ俳優に雇われて現場に入っているコーチは恐らく私が日本で初めてなのではないかと思う。
契約スタイルも現場での時間の使い方もまだ手探りだけど、一俳優が様々な現場を通して自分のポジションを考えるようになれば、もう少し普及するんじゃないだろうか。

芝居の稽古場でも同じことなのだけど、「できない」状態で稽古場(=現場)に入るという甘やかされた役者が多いと、当たり前ながら現場が滞る、役者のためだけにある時間じゃないのに皆が同じように時間を使うことができないのだから、必然、モノ作りのクオリティを引き上げづらい。
演出や監督という役割は、その現場を指揮する役割なので、役者にかかりっきりとはいかないし、役者にできることを基準にモノ作りをさせられるなんてのは、本来あっちゃいけないことなんじゃないのか。
てなところにコーチがいると、現場では「これをやってくれ」と発注するだけで良く、それをやるにはどうすればいいのか、どうやればできるのか的なことをやらずに済むわけで、支配したい、影響したいという我欲の強い演出や監督にはそうした割り切りが難しいだろうが、現場では大変に重宝される仕事だったりする。

事務所契約で3人という枠から始めて、今1人だけ個人契約に変更してもらったので多少調整がし易くなった。
ワークショップではそれぞれ個別で相談に乗っているけれどみっちりべったりつくことはないし、どの程度の労力が必要なのか、この二ヶ月でやりながら飲み込んでいるところで、まだまだ掌握できないこともある。
そもそも、要求に応えるという役割が好きなのか、事務所の要求+俳優の希望+現場での注文をクリアするための手段を瞬時に弾き出してできるだけ短い時間で確実に遂行させる、というお仕事の、「よし、これでいこう」と思いつく瞬間は、自分が演じることより、演出をつけることより、充足が大きいかもしれない。

人並みになることは難しくとも、なんだかんだと自分の能力を活かせる機会に巡り合えて、それなりのお金を稼げるというのは、本当に幸せなことだ。

それが食うためであれば、どんな仕事だって「食うための仕事」に変わりないと思ってはいても、どれほど飢えていたって能力のないところでは雇ってもらえないからなあ。
池袋のスナックの面接で落とされたところに、コーチングの仕事が決まったんだから、やっぱり神様はそれなりに人の使いどころを考えてるに違いない。
震災以降のスケジュールがガタガタで、稽古もあるし、日雇いの身としては待機しても実働にならず撤収という流れが続くならコンビニで働いた方が確実だよなあなどと真剣に悩んだそれも、個人契約という形で解消したし、ああなんだかちゃんと生かされてるなあ、活かすための能力なんだなあと、今更ようやくに、自分にも生きる術があるのだと思える。

「すべきこと」として出向いた投票の結果は望むものではなかったけれど、この年になって、こんな世の中になって、本当にやっと、自分が生きることと、自分が生かされていることについて、少しばかり考えるようになった。

怯えず、畏れず、諦めず。
ただ常に個を見ることで想像していけることがまだたくさんあって、東京とか日本とか世の中とかって漠然とした何かにすり替えず、あらゆる物事を個の先にあるものとして捉えれば、向き合い方が見えるんじゃないか。

そしてやはりどんなときも、私自身は私の感情を、仕事の道具以外では使いたくないと思う。

  1. 2011/04/13(水) 23:51:15|
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無知の涙。

「原発は危ない」という認識はあっても、事故が起きなければ、このまま「何がどう危ないのか」「何故危ないのか」を知ろうともせずにいただろう。
日常における大きな怠慢の罪。

といってデモにはいかないし、これという主張をしようとも思わない。

だけど、いつか自分が選んだことへの責任として、今一度考えることがあるのは確かだと思う。
「知らないから」「わからないから」「どうせ何も変わらないから」という理由はもう通らなくなった。
国でも地域でもない、自分の暮らしに対する、自分自身の責任を果たさなければ。

各候補者による、「原発」はじめいくつかの問題に関するアンケートへの回答。
http://www.webdice.jp/dice/detail/2998/ 
http://www.webdice.jp/dice/detail/2995/ 

たとえばこういう情報が、探すほど手に入るのに、何故、知ろうとせずにいたのかと悔やむ。
調べて、知って、考える。
その怠慢のツケが、遠くの誰かの暮らしを奪ったのかと思うと、いたたまれない。

「今、わたしにできること」は「自分の無知を恥じること」だろう。
涙などなんの役にも立たない。
無知は罪だ。

確かなことは何も選べないのだとしても、それくらいは悔い改めたい。
  1. 2011/04/09(土) 12:57:22|
  2. 雑感
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追記

「嘘」と「ほんと」は、出来事を測る「縦」と「横」みたいなもんなんじゃないか。
縦と横だけじゃ二次元計測しかできないけど、そこに「高さ」として「人」を入れると三次元だよね?
測るべきは広さじゃなくて、重さ、てことでもある。
  1. 2011/04/02(土) 12:38:22|
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人は嘘をつく。

「入籍しました」という嘘に、暖かい祝福の言葉が続いた。
それってお正月にお雑煮を食べて「あけましておめでとう」って言うのと同じだと思う。

「まじすか?エイプリルフールでしょ?」という反応には何故信じないのかと腹立たしく、「嬉しい!」と我がことのように歓んでくれる人にはまったく申し訳ない気持ちになる。
だめ押しで「妊娠しました」と呟いたあたりでさすがに嘘とわかってもらえたが、嘘と白状する嘘ほどつまらないこともない。

「本当に嬉しくて、束の間幸せな気持ちになりました」と言ってくれる人もいるのだけれど、皆、「騙される」ことに元来抵抗があるんだなあと、ちょっと驚いた。
「騙されませんでした!」と得意な人もいて、それぞれの、嘘の概念が面白い。

自分の身に拘ることであればともかく、他人事の真偽など、そもそも計り知れないものではないのか。
平たく言えば、嘘だろうが本当だろうがどうでもいいことなんじゃないのか。
つまり、自分が騙されようが騙されなかろうが、大したことじゃないんじゃないのか。
嘘をついた身でそんなことを言うと盗人猛々しいようなあれだけども。

嘘に傷ついたのならともかく、歓んでくれたのなら、たとえ嘘と知れてがっかりしようが、嘘をつかれたことには何も損などないんじゃないかと思うのだけど、世の中の人はそうではないのだろうか。

ここで言う「嘘」も「本当」も、ただの言葉なわけだけど。
嘘の本質には「何故嘘をつくのか」があって、大抵の場合、重要なのは真偽ではなくそこのところで、エイプリルフールというのはそこのところを皆が共通して推察せずに済む大変に開放されたイベントだと思うのだけど、世の中の人はそうではないのだろうか。

私は、嘘を罪とは思っていないのかもしれない。
嘘をつくことと演技をすることは同じだから羞恥は感じるし、嘘をつくという行為に罪を感じる場合はある。
それは、嘘が、事実を誤摩化すために利用されるときで、嘘そのものを罪とは感じない。

そもそも、他人の言葉を疑ってかかるということ自体、とても奇妙に感じる。

「嘘なのでは?」と疑うって、どういう気持ちなのだろう。
「東京湾にゴジラが」と言われたとき、信じる人も、信じない人もいる。
受け止める側が「信じる」か「信じない」か選択するだけじゃないかと思っている。

吉岡がワークショップを辞めたいが為に「インドに自分探しの旅に出ます」とついた嘘も、「ああそうなんだ」と思ったし、帰ってきた吉岡が「すいません、嘘でした」と白状したときにも「ああそうなんだ」と思った。
なんでそんな嘘をつくのかと考えることもなかった。
だって、その場合には吉岡がどうしたいかが重要なんであって、私にとってはインド自分探しの旅などどうでも良いことだったから。

誰かが私に嘘をついて、私がそれを「嘘」だと知ったとき、私にとって問題になり得るのは、それが嘘か真かではなく、「嘘をつくその人に対する、何故という興味」とか、「嘘をつこうとするその人と嘘をつかれる私の関係性を認識すること」とかなので、そこにある「嘘」がどんなに些細なことだろうが関係がない。

電話したとき「寝てた?」と訊いて「起きてた」と答えるそれと、「実は僕は宇宙人なのだ」と言われるそれと、私にはなんの違いもない。

「もっとましな嘘をつけ」とよく言うけれど、もっとましな嘘なんてものはなく、もっと真面目に嘘をつけ、と思う。
「やさしい嘘」などと言われても、やさしい嘘なんてものはなく、優しさと嘘はそれぞれ別のものだと思う。

恐らく、私は日常的にあらゆる物事を疑っていて、同時に全てをそのままに信じていて、それはつまり、「本当か嘘か」という区別をつけることなく暮らしているのだなあ。
だから、ミステリー小説を読んでも何も面白がれない。

嘘の中にあるたった一つの真実は「嘘をつく」という行為なわけで、そこのところを見せないのは「騙す」という行為で、事実とすり替えられてしまう嘘は「ごまかし」という類いのもので、すべてが嘘でありながら「嘘じゃありません」と主張する厚顔無恥な行為が「演技」だと思う。

一番シンプルな嘘は「私は嘘をつかない」という嘘だし、一番複雑な真実も同じそれなわけで、それはやっぱり「嘘」というものが本来は受け止める側の選択で存在するものだからだろうと思うし、演劇なんてものは、その仕組みの上にしか成立しないわけで、「事実ではない=嘘」ではない、「嘘ではない=事実」ではない、という仕組みが飲み込めない人は、きっと演劇やら小説やらの枠組みそのものを楽しめないんだろう。

たとえば芝居を観て「巧い嘘だな」と思うより、「こんな世界がどこかにある」と思う方が、より豊かな受け止め方なんじゃないかと思う。

「せつないかもしれない」でも、そんな話、してたな。グレーゾーンてやつ。
嘘かほんとかを見ようとする人は、グレーゾーンにあるものを見落としちゃうんだろうなあ。
言葉は嘘だけれど、嘘をつく人は真実である、そこのところに「劇」が生まれるんだし。

だってさ、ニュースだって新聞だってネットの情報だって、つまるところは言葉じゃん。
目の前で起きること、遠くで起きることに事実はあっても、それを伝え聞く時点で、事実とは違う。
「伝え聞いたことを事実として受け止める」かどうかだけじゃん。
事実を見極めているつもりの人は多いけど、そんなのただのチョイスじゃん。

嘘はどこにだって生じるただの現象だ。
人はみんな、グレーゾーンの中で息をしている。
ああ、そうか。
みんな、こっちが白でこっちが黒と区別することで自分をグレーゾーンに置いているのかもしれない。

ま、どうでもいいんだけど、そんなこと。


  1. 2011/04/02(土) 09:57:15|
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