仕事部屋

いつかのエロス。

穏やかなよい気候が続く、自分のベッドで眠っても夢と空想の入り交じった時間ばかりが続きもやもやとした目覚め、愛情だの友情だの恋情だの信頼だのなんだのの区切り線について考えながら眠ったせいか、いつかのボーイフレンドの夢を見た。

本名も、住んでるところも、勤めている会社も知らずにほんのちょっとだけ付き合っていた、お酒に強くて私がいくら酔っぱらってもちゃんと介抱してくれた、私の古い友人たちともすぐに馴染んで飲んでいた、泊まりに来ていた休日の朝は私が眠ってる間に娘を連れて食事に出かけたりして、読書好きで、PCメール専門で、背が高くて、言葉をきちんと使う人だった、「いつになったらオレだけのアサコになってくれるの」と夢の中のその人が言った。

あれを言われたのはどこかの店で飲んでるときでその時に知り合った男の子が「彼女すか?口説いちゃだめすか?」なんて酔っぱらってじゃれついてきて、その人も「別にいいよ。口説けるもんならね」なんてあしらっていて、私が迷惑しているのもお構いなしに五月蝿い男の子を面白そうに眺めていて、そのときに「この人は落ちないよ。オレだってもうずっと頑張ってるんだから」と、「いつになったらオレだけのものになってくれるのかな」と、冗談のように笑いながら言って、私はすっかりその人に夢中だったのに、どうしてそんなふうに思うんだろうと不思議だった。

夢の中では、その人は私がすぐそばにいることに気がついていなくて、私に電話をしていて、でも私の電話は鳴ってないのに、その人は私と電話で話していて、そんな言葉を口にしていて、私は「あ、彼はあの人と話してるんだ」と勝手に勘違いをして自分の電話を見たら、ちゃんと通話記録が残っていて、私は話した覚えがなくて、あーあ、またやっちゃった、と夢の中でがっくりした。

いつかのその人とは、とても短い時間を楽しむだけで終わってしまった。
「ずっと待っていたけれど、いつまでも自分のものにはなってくれないとわかったから」というのがその人が切り出した別れの理由で、やっぱり私はぽかんとして「大好きなのにどうしてそんなふうに思うのだろう」と思ったけどうまく伝えられなくて、「いやだ」とかなんとかちょっとだけ駄々をこねてみせるだけで、結局その人は「もう逢わない」と言って行ってしまった。

思い返せば、それがトラウマになっているのかもしれない。
他にもいくつかの虎だか馬だかがあるのだけれど、今日はたまたまその人のことを思い出して、そんな気分で、松江くんの新作「トーキョードリフター」の試写へ行った。

映画は面白かった。
静かで、猛々しくて、自由で、息苦しくて、暗くて、明るい。

前野健太が「ファックミー」と叫び上げる痛々しいメロディーを聴きながら、私は、あの人に抱かれる具合はとても良かったなあなんてことを、ちょっと思い出していた。

どうして不意にいつかのその人のことを夢に見たのか自分にはわかっている、曖昧なものを曖昧なままに抱えることや真ん中だけを信じることをその人が私に試させてくれたからだ、私は、あのときに私がぽかんとした、途方に暮れる気持ちをずっと抱え続けていて、そんな想いはさせるもんかと、意固地になって曖昧さにしがみついている、曖昧にしか見えないそれは、だけども実際に真ん中にあるときにはとても明確なもので、ただ言葉や形にできないようなそれで、区切り線の引けない類いのもののような気がするから、それをそのままに抱えていたいと思うのだけど、そんなふうに意固地なのは、いつかのその人との短い時間があったからなんだろう、それがどんなにしんどくても私はちゃんとここにいる、何かを待ったりせずに、ただいる。

今夜はうんと遅くなってから、ちょっと特別な人と逢う。
大学生の男の子に誘われるなんて熟女としても光栄極まりないのだけど、遠い昔に大好きだった人の息子である男の子だから、なんだか照れ臭くてニヤニヤしてしまう。
大人になるって愉しいな。
連城三紀彦の小説みたいじゃないか。

  1. 2011/09/29(木) 19:11:47|
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I'm Fine.

点滴痕に血の滲んだバンドエイド貼ったまま高木さんと某所に出向きお仕事の相談、合間の雑談でちらり近況伝えるも基本身内の笑い話、途中バーチャルダーリンから心配の連絡あって仕事終わりに出向いてもらう我が侭で夜半に合流、バーチャルなのに後ろ暗く感じたりするのはやっぱり立ち位置見えてないのか、お互い何かの不穏あってここしばらくの冷却期間、それでも久々に互いの近況報告ができて大きな安心、純情は恋愛感情の一種だけではない、純情な友情てえのもあるじゃないか、ま、そう言えるほど純情じゃないのもお互い承知してるけど、言葉が共有できる同志と飲み交わす時間にちょっとだけ付加価値、淋しさも切なさも共有していつかそれを大写しにしようぞのココロザシ、温かい気持ちで帰宅したのにツイッターには何故か恨み節が残されていた、大海を渡ろうと遠い世界に旅立っている極楽トンボに祈りを捧げて就寝。

今朝は目覚めて活動しようとした途端に不意の変更連絡、ダメージは大きいけれど、自分が他人のあれこれをきちんと思いやれていないことを痛感させられたことの方が痛手、血を抜かれながら感じていた先々の漠然とした不安に加え目先の具体的な不安で、冷静に受け止めたつもりが後からずっしりのボディブロー、ひとまずサナエちゃん呼び出して日光浴びつつボヤき、日常の欠片を取り戻すべく帰宅、良いタイミングでデートのお誘いを貰って凹み度が軽くなるゲンキン、夕方からポレポレで福間健二監督「わたしたちの夏」、顔出していた加瀬くんに美装のパンフレット戴く、はてさて本編は好評しか念頭になかったせいかしっくりこない部分を今もまだ整理できない、ただ、まるであらかじめそういう形で生まれ落ちた何かのように完璧に美しい映画、学ぶもの多数。



IMG_1003.jpg 私はだいじょうぶ。

  1. 2011/09/29(木) 00:10:17|
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指切りできない。

たまの作家稼業に蝕まれたのか未来を覆う放射能のせいなのか、体調悪化で丸2日の検査入院、血を採られると頭がぼんやりするので本を開いてもすぐにうとうとしてしまう、妄想と夢の合間にトンボやらミミズやら、不意の入院は先々のことを考えさせられて凹む、救いなどないまま信じる力が尽きるまで、点滴の針の痛みにぽろぽろ泣きながら年初に入院したばかりなのにとまた不安が渦巻いての不貞寝、このまま出られなかったらきっと全部消えてなくなるんだろうとうっすらの悲観などもしてみたり、闇雲な人生がいつまでも続かないことわかっているから焦るのか、焦っているつもりはないけれどやっぱりちょっと焦ってるんだろう、身内もなく墓もなく、いっそ誰も知らないどこかで野垂れ死んだ方が諦めがつくだろうに、独りでいたがるくせに何を欲しがっているんだろう、もやもやと緩い思考のまどろみを断ち切るように起き上がってベッドを机に原稿作業、合間にこそこそ日報、空に円を描く死闘がどこに辿り着くのか見届けることを楽しみにこちらは日常的な格闘、他人の弱音に奮起するくせに励ましの類いは受けるのも送るのも照れ臭くて苦手、ちゃっかり脱稿して回線拝借しての送信、明日の打ち合わせ確認して業務終えた途端ぽっかり淋しくなる、同志でいられることが何よりではあるけれど、痛みに触れる時間を分け合えないのはやっぱりどこか欠けた感じ、それでも溺れる日々にありながらまだ飲んでくれるものがあってそれもぼちぼち限界だろうとは気づいている、甘え方も甘えさせ方も下手っぴでいつまでも寄りかかれない、それすら鏡に映してまた先の闘いに血走るばかり、血を分け合うような恋をしたいと望む自分を嫌うせいか、結局今も臆病についっと留る指先を見つけられずに羽がもげるまでぐるぐる飛んで、まるで画にならねえなと目を伏せる、空に向かって突き立てる指一本があれば、指一本だけ頂戴よと泣いてる鼻の頭についっと飛んでこないものか、何処にいるのかわからない、自分を見失う感覚は場所が違っているだけですっかり同じじゃないか、もしもこのまま私が先に逝ってしまったらあなたはきっと泣けない、無論どこにも逝かないけれど、それは約束するけれど、どうせ信じちゃくれないんだろう、何故計るのか探るのか何故何も決められないのか、きっと人はみんな明日なんか信じてないんだろう、指切りできない指なんて切り落としてしまえ。
  1. 2011/09/27(火) 17:09:02|
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秋に落ちる。

秋の季節はいつもいつもぴしゃりと冬がやってきたときに、あれ秋が終わってると気づくのだけど、今年は台風のお陰で、あ、秋だ、と気がついたんだなあ。

秋風はあれもこれもはぐらかす。
照れてんだろうとわかるけど、真夏の陽射しが黒々と影を焼き付けてみせるのとは違って、ただ飄々と変わり目を曖昧にはぐらかして、そのときにしかない美味しいものや美しい景色や束の間のココロザシを覗かせる。

長い人生の中に四季があるのだとしたら、きっと今は秋の始まりで、
春の穏やかな優しさや、夏の我が侭な情熱や、冬の突き刺さる痛みは、なんだか居心地が悪い。
この先迎えるだろう真冬の厳しさに備えて日々を重ねる、少しだけ身体が軽くなって、深々安堵できるような、実りの季節。

秋風は、照りつけたり吹きさらしたりせずに伝えようとする健気さが収穫をもたらすのか、うっかり気づいてもらえなかったときの寂しさを孕みながら、また恐る恐るにトンボを飛ばしてみたりする。

寂しさにさめざめ泣いてる女のようにも見えるけど、はぐらかす狡さと隠せない浪漫主義を不意に舞散らす、「男」の季節だと思う。
あんな密やかな気配のどこに葉を真っ赤に色づかせるような力強さがあるのか、そこらへんが助平で「男」っぽい。

現実主義の生身の女としては、どっぷり身を浸すわけにもいかず、へえ、なんて面白がりながらの鑑賞を決め込む。
だって季節は移ろうからね。

夕暮れ前に陽射しがちょっとだけ強くなるときの青空で「そ」の字に紫煙くゆらせて、ついっと横切るトンボを眺めたりしたいのだけど。
  1. 2011/09/25(日) 08:10:31|
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そのときに、ここにいるかはわからない。

その人は、空の月を見上げて「遠いなあ」と言い、
私は、掌に掬い上げた水面に映る月を見て「遠いねえ」と言い、
それぞれの月を鏡にして、互いのこころが映るのをひたすらに待っている。

今のそれは穏やかで心地よい時間だけれど、たった一つ願うことは、掌の水面で静かな澱になって沈んでいく。

きっといつか私は、自分の空を見上げて掌の月を零してしまう。
そのときのその人は、飛沫に濡れても私の手を掴むだろうか。
私を引き寄せて同じ月を見上げさせるだろうか。

今はまだここにいる。
毎日それを確かめる。
私はまだここにいると、毎日そっと確かめて、眠りにつく。
小説じゃあるまいし、月は誰の空にも一つしかないと知っているから、
今はまだ、月なんか見上げない。

いつがそのときかわからない。
一瞬を掴み損ねたその人が永らく悔やんだりすることに、ちょっと同情したりする。
季節外れの草履履きじゃあ空を見上げるにも踏ん張れなかろうに。


IMG_0996.jpg ちくしょう、なんだか日々書き方がいやらしくなってくなあ。

  1. 2011/09/23(金) 03:45:56|
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颱風侍。

先週のワークショップは少なめの人数で重要なポイントをみっちり、せっかく配布したJKDテキストは難し過ぎるのか質疑応答に弾みがない、実感持ってる人にしか通じない書き方かもなあと反省、改訂したいのだけれどなんかもうがっちりした文章でなかなか割り込めない、土曜の宴席に内野がお世話になっているチーム高崎が合流してくれ、台所純情から昆虫系まで、最近観てもらった芝居の話が訊けて良かった、高崎さんとこの若い人たちは真っ直ぐで気持ちいい、朝方に高崎さんに失礼なこと言ってしまいひやっとしたけれど真意はちゃんと飲み込んでくれているはずと信じる。

朝帰りの2時間睡眠で桜木町13時開演の若手芝居、昆虫系で演出助手をやっていた中山くんの晴れ舞台は寺十演出佃作品で見覚えのある上ネタ、演出が透けるから何ができてないかってとこばかり見えてしまうのはどうしたもんか、なんかもう寺十さんのダミーで演出できるんじゃないかと思った、同伴勝呂と合流高木氏とファミレスで雑談して阿佐ヶ谷に向かう、ワークショップ2日目の試演会には飛び入りもあり、ワークショップに参加できなかったメンバー数人が見学してくれ、いつもとは違うパターンになったけれど「観られる時間」は作れたと思う、久々にテキスト実演してみせたりもしたけれど食いつけない内野は一から鍛え直す必要ありだな。

案の定帰れずに阿佐ヶ谷で薮さんとサナエちゃんと朝日を拝む、薮さん朝までしつこく同じネタでスイマセンいつもありがとう、ばたんと倒れ込んで意識喪失、朦朧と起き上がってバタバタと身支度し千鳥足のまま国立へ、モグラ町と台所純情の楽団・熊坂義人率いる大福の大録音ライブに駆けつけ、バッキーの息づかいを真横に、かおりちゃんのバンドネオン・アクションを正面に堪能、台所純情のサントラ名曲を生で聴いてぐっと込み上げるものあり、会場にはテルコやローザさん、裏方にはマツジュン、テルコもローザさんも帰ってしまっての打ち上げ参加で、薮さんからバトンタッチ状態でマツジュン相手に終電逃し、帰り際のバッキーに「マエカワさんの生き様のファンです」なんて言われて、んなカッコよく生きらんねえよ散々ジタバタしてんだよと阿佐ヶ谷までのタクシーでも延々、マツジュンいつもスイマセンほんとありがとう。

3日ぶりに夢の中で朝日を浴びて始まった再びの日常、雑務と資料読みと遅ればせのDVD、「花つみ」に続いての青春H2作品は佐藤佐吉監督の「半分処女とゼロ男」、しじみが素晴らしいのは勿論だけど役者はずらり達者揃い、コントに転がりそうで転がらない加減の難しいコメディーをやり過ぎずやらなさ過ぎずにすり抜ける役者たちが大変にスリリング、生真面目になれない照れも水を差さず、10/1よりポレポレ東中野でレイトショー公開。

夜半からの豪雨と暴風にわくわくして資料読み耽りながらのベッドイン、この季節になるともう犬は布団から殆ど出てこない、目覚めれば暴風圏、ツイッターで情報拾いつつ大はしゃぎ、どうしても外に出たい欲求が抑え切れずフォロアーさんたちから必死に止められたにも拘らず長靴とヨットパーカーで傘を持たずに近所を徘徊、この先何十年台風のたんびに相米監督を思い出すんだろう、相米さんに「鞄屋の娘」やってもらいたかったなあ、ずぶ濡れでうひゃうひゃ戻ってまた資料読み、書くべき原稿あっての作業日設定だったけど台風なんだからしょうがない、遅い時間に台風侍からようやく帰路の報、心配しているつもりなかったのに随分ほっとしたからきっと心配してたんだろう、はしゃいでいたのはそのせいかと気づき一人赤面。

何より今日一番に嬉しかった報せは、「へばの」桑原Pがキャプテンを務める山崎組「ひかりのおと」が東京国際映画祭に出品の情報解禁、岡山で撮って岡山での上映が続くと思っていたからこんなに早く東京で観られるなんて本当に嬉しい、「へばの」文洋監督が手がけた予告編も素敵、山崎樹一郎監督は岡山・真庭で撮った前作「紅葉」の匂いが好きで、百姓描くならもっとエロく!と切望していたのだが、「ひかりのおと」予告編の牛は確かにエロティックに映っている、本編にぞくぞくさせられるのが待ち遠しい。


日々を歩む、立ち尽くしても踏みしめる、力強さに焦がれる。
強風にばたりと倒れて這いつくばるしかないのだとしても、足蹴にされてひっくり返れば空が仰げるじゃないか。
揺れたり俯いたりしてるところなんて掌の鏡に映っていればいい、鏡の中に映る景色は私に真っ直ぐ見えている。
雨に負けても風に負けても、鏡一枚を胸に抱いてばったりと倒れてやる。
切り落とされて転がった頭で見上げる台風一過の秋空は、さぞかし美しいんだろうな。


短編連作小説「モグラ町~三樹の場合」掲載の小説宝石10月号、本日発売。
  1. 2011/09/22(木) 01:54:05|
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鏡向こうのG。

このところのぐずぐずした「らしからぬ」心情、結局はそのまんま吐き出して伝えるしか手段がなく、もうどうにでもしてくれな開き直りの一方で雑務、雑務、雑務、隙をみて芝居と恋愛の話のスタメンにがっつり食いついてこびりつく残滓を丁寧に拭ってもらうような甘えぶりも「なんかいつも同じことしてる気がするので、うまい返答を用意しておけそうなのに、それができないのはなんででしょう」などと嗤われつつ慰められ、同時にひっそり続くそれが一番の現実、打てば響く誠意にますます怯え、焦がれそうになるこころを雑務に追いやって力ずくの一人上手、「絶対に幸せになれない」と言われる都度「幸せになりたいわけじゃない」とまた思う、手前勝手な理由を見つけたせいだけど、泣けてくるほどはっきりしたそこんところに逆らう術はない、その昔に送られた一文「ジャックナイフ突きつけてまで君の愛乞う雨の真夜中」を超えての十徳ナイフもしくはサバイバルナイフ、これまで信じられずにいた形をこれほど信じたくなるなんて自分にも心構えができていないもんだから、生活の隙間に感じるささやかな幸福を見つめる勇気がない、「ただ想うこと」や「そのままそこにいること」にはそれなりの修行が必要で、成果があろうとなかろうとできることは結局得ているものが揺らぐ感覚に耐えて意固地にただそこにいて想うだけだけど、辿り着きたいところや欲しいものに手を伸ばすことができているのか、私の指先はちゃんと届いているのか触れられているのかもう何も計らない、不意に再会したり近況を知ったりできるあの人やこの人を想うことと今のこころを比べることもしない、懐かしいなあ元気かなあ逢いたいなあとじんわり滲むそちらが愛で焦がれるそれが恋と知ればうっかり手放してしまいそうになるから、逢いたい人はたくさんいてその人のことを想うと本当に胸が温かくなって好きだなあ愛してるなあと感じたりするわけで、だけどそういう自分の気持ちをできるだけたくさんコトバで知らせてしっかりと飲み込ませたくなるような人はそうそう転がってやしない、現実からいなくなった人を想ったりちょっと約束すればすぐに逢える人を想ったり過去の私を想ったり未来のあなたを想ったりするそれぞれの時間を一緒に飲み込めたら、絶対にない幸福だって少しくらい感じられるかもしれないし、いつかすべてを失って切腹しなきゃなんないときには首を切り落とさせてくれと言えたらいいのだけれど、まあもう少し穏便に骨を拾ってくださいくらいのことしか恐らくは言えないのだろうけれど、これまでにそうしたこころによく似た何かを与えられては踏みにじった自分は未だ臆病で、いくら運命めかして一人分の覚悟をしてみたところで現実を動かすだけの力はなく、人のこころなどもっと動かせず、日常で必要とされることなんて仕事で必要とされないときの言い訳に過ぎないじゃないかなどと拗ねそうになりながら、だからこそモノを作る性をほんのひと時慰めたり労ったりする隙間をねじ込みたいわけで、もうドキドキしたりそわそわしたりする不安定な恋心に生き甲斐を感じられるほどタフでもないし、ただそこにいる私を信じたまま死んでってくれと願うばかりで、甘いもんとかくすぐったいもんとか、そういうのがちらり覗けると怖くなるのが正直なところ、なんせハードボイルドな人生だから、何かの間違いで可愛がられたりしたら壁から落ちた卵みたいになっちゃうんじゃないかなんて、心底怯えるそっちへと微妙な力加減で引き込まれているような気がして、全力で幸福を否定した先にしかひと雫の幸福を垂らす隙間がないのだけれど、今はそんな屈折すら真っ直ぐになってしまうような人生のGに屈して、ただそこにいる、そこにいて想う、豪雨、豪雨、豪雨。
  1. 2011/09/21(水) 02:12:22|
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からっぽ。

出張取材から戻った夜には小形くんとサナエちゃん寄ってくれ、旅の合間に溜め込んでいたしょうもないあれこれを吐き出させてもらった、お土産は沼津の干物、茗荷やレバーの糠漬けをツマミにビールの気楽な家飲みが続いていて楽しい。

翌日もサナエちゃんと近所のとんかつ屋でお昼ご飯、何故か昼間は喋る気にならないんだよなあ、午睡してから今期最後の小説講座、入門編だったのだけど半数以上の人が書き出してくれた、後はコツコツしか道がない、しんどいときは立ち止まって、焦らずに続けてくれたらと願ってます。

その深夜に動揺した声でサナエちゃんが「今から行ってもいいですか」と電話してきたもんだから愛人抱えた不良中年の気分、「どうしたのさ」と話を聞けばその日に観た映画の感動を吐き出したかったということらしい、結局私の愚痴もたんまり聞かせて朝解散。

木曜は家の雑用だけ済ませて夕方早々から昆虫系女子によるサムギョプサル会、流れて二丁目で恒例デトックス、これまた記憶なくして翌朝にがっくり、サフラン効かないじゃないか。

久々のコーチング出勤ではバタバタ移動しつつで現場二つ、三つ目が入りそうになって午前2時終了と目安したら変更になってその日のうちに帰宅できた、WSで使う資料を用意してもらうためゲリラ豪雨にやられながら成田くんが到着、原本渡して傘あげた。

吐き出し続けているせいなのか、代謝が悪くて言語物質が生成されなくなったのか、帰京したあたりから不意にぽかんとカラッポになってしまった、一週間ぐずぐず考え続けて、ぽんと出た答えみたいなものに自分の足を取られてしまったのか、こころが動かない、まるでプチプチとかアミアミとかで何重にも包まれてしまった感じの鈍り方、待つのは下手だからそうじゃないつもりで過ごそう、こころをブレさせずにただそのままそこにいようとしたことで、自分のこころを縛り付けてしまったのかもしれない、じっとしてるのが怖くて一度はボツにした恋文を書き直さずに投函したりもしてみたけれど、ヘリウム抜けた風船みたいに重力に負けて項垂れる、頑張れるのか私って頑張んなきゃいけないようなことじゃないんだけど、むしろ頑張らなきゃならないくらいだったらそこにいる必要は少しもないわけで、こころん中にあるものは少しも違わなくて前よりずっと安定していて何も不安じゃないしむしろとても穏やかな気持ちなんだけど、なんだかカラッポになってしまった気がして仕方ない、きっと退屈してるんだと思う、だって片想いなんてつまんないじゃん、自分の恋心は愉しめるんだけど片想いはつまんない、だからもう片想いはやめる。


IMG_0985.jpg ちぇっ。
  1. 2011/09/17(土) 05:23:56|
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センスとセンテンス、または、満月としじみ汁。

恋人でも夫婦でも親子でも、基本的にメールでは必要事項以外のやり取りはしない。
特に携帯メールは文字を打ち込むのが面倒で、ついつい返信も遅れる。
返信が遅れると不機嫌になる人がいるけれど、仕事の用件ならともかく、そんなに早く応えて欲しいことがあるなら電話してくればいいじゃないかと思う。
私も確認や即答が必要な用件であれば電話をするけど、基本、電話は人の手を止めてしまうから、メールはご様子伺いにとても便利で、だからなのか尚更に、電話で無駄話をしたり「声を聞く」ってことすら、もう滅多にしなくなった。

中には「調子はどうよ?」的なことをしょっちゅうやり取りする特別な人がいるけど、それはその人がとてもマメに返信をしてくれてストレスなくやり取りができるからで、思いついたときにぱっと送ってさっと返ってくるから、自然とそうなったんだと思う。
会話のリズムが人それぞれ違うように、メールの返信にもそういうのがあるんだろうなあ。
そのリズムが合えば、やり取りが弾む。

メールで「どうよ?」と送って「シンドイす」とか返ってきて「なになにどした?」と送ると、それらのやり取りと同じリズムで携帯が鳴って「それがですね」と続きが始まって、ひとしきり話して「じゃあまたね」と通話を切って、一拍おいたくらいで「ありがとう」「おやすみ」なんてメールがある。
そのリズムがしっくりくるから、きっとこの人とは会話のセンスが合うんだなあと思っている。

けどそれは、携帯なりPCなりの、文字を入力する機能のついた端末を使い慣れている人同士にしか通じない法則なんだな。
龍さんなんか、どんなメールしても「メールみました」と律儀に電話をくれるけど、やっぱり文字を打ち込むのが面倒臭いんだろうと思う。
鉛筆削って手書き原稿を書いていた私の師匠から携帯メールがあったときには、もしや病床におられるのではと妙な不安に駆られた。
もちろん無駄に元気だった。

編集者でも、メールの連絡に夜中だろうが明け方だろうがすぐに電話をくれる人もいれば、忙しい最中だろうに丁寧な長文を返信してくれる人もいるので、やっぱりそれはシャープペンシルを使うのかボールペンを使うのか、シャーペンの芯やボールペンのボールの直径は何ミリかってくらいのことなんだろう。
油性マジックがいい人だっているわけでさ。

まあ、つまり、何が言いたいかっていうと、そんな私が気にかける人にだけ用件のないメールを日報のようにせっせと送るのは、その人に宛てる言葉、センテンスを組み立てることが楽しいからで、そんな私でもそうやって送ったメールに返信があればむしろ空メールでも嬉しいわけで、だけどそんな私なので返信がないときにもなんとも思ってないから気にしないでください、と言いたい。

お、今日は返信早いじゃんとか文字数がいつもより多いじゃんとか絵文字がついてるじゃんとかで面白がるのは、自分が女子中学生のようで気恥ずかしいのだけど、事実だ。
基本、その人の感覚には発信機能がついていないものと思っているので、三文字しかない返信すらなんだか特別な気がしてしまう。
もちろん、気がしてしまうだけで、特別と思うわけではない。
メールの数や返信のタイミングで、人との距離を計るなんて無意味だと思う。
思うけど、ついつい嬉しくなってしまうし、嬉しくなってしまうと、その反動のがっかり感がなんとなく漂ってしまうときもある。
それも、発信機能ばかりフル稼働させている側としては致し方がない。

私の友人のローザさんは、自分の愉快な顔写真を添付したメールを知り合った人全員に送る。
それを面白いと喜ぶ相手には、そこから次々とローザさんの愉快な顔写真シリーズが送られることになる。
ローザさんは、それにうっかり面白いコメントを返した人と結婚した。

そんなローザさんは、ときどき私にお手紙をくれる。
ポストに届けられた封筒を開けると、某タレントのインタビュー記事をコピーして蛍光ペンで線が引いてあるものだけがぺらっと入っていたり、お茶のティーバッグが入れられていたり、のど飴が入っていたこともあったし、節分のときには豆の小袋が入っていたんだけど粉々になってもはや豆ではない粉末状の何かで、ローザさんに苦情を言ったら、次にはクッション封筒に入れられたひなあられのミニパックが届いた。
私はこれらローザさんからのお手紙を「嫌がらせ」と呼んで、心待ちにしている。

実はちょっと真似をした。
WSの成田くんが青森に帰省したとき、【日本の作家50人のお取り寄せ@講談社】に掲載されていたインスタントのしじみ汁を買って来て欲しいとお願いしてお土産に戴いたので、ローザさんの真似をして、味噌パックとしじみの真空パックを入れた恋文を郵送した。一応、パックは二つともプチプチに包んだ。

私にとっては、そのインスタントのしじみ汁(かなり美味しい)が、恋文の本文より大切なことだったりするんだけど、受け取った人は、きっと「なんじゃこりゃ」と驚いたと思う。
「何故しじみ汁なのか」「どんなメッセージが秘められているのか」と煩悶したかも知れない。
しないか、本文秘めてないし。

恋文の本文は、何日も前から少しずつ下書きを進め、推敲してはセンテンスを入れ替え、また推敲しては書き直しと、2日がかりで書き上げた。
正直に言えば、小説を書くときよりずっと慎重に推敲した。
丁寧に手書きで清書するのだけど、なんだか気取っていて文字が他人行儀な顔になってしまうので、仕事用のボールぺんてるでちょっと乱暴に書き直してみたりしてどんだけ小心者なんだという具合で、しかも投函する前に「恋文を郵送します」とメールで知らせておく弱腰。

それだけ気持ちを込めたのに、なんだか、これじゃあ何も伝わらないなあと、封筒に入れる直前に読み返して、送る勇気がなくなった。
そこではたとローザ方式に思い当たり、「これしかない」と確信して同封したのが、青森土産のインスタントしじみ汁という訳で、郵便局の窓口で「中身はなんですか」と訊かれなくて良かった。
ローザなら「しじみ汁です」と堂々答えるだろうけど。

その後、その人は、私がせっせと送るメールのうち、十五夜の前夜に送った旅先からのおセンチなメールに、月の写真を添付して、返信してくれた。
本文はたった6文字でそのうちの一つは句読点だし私が送った本文に応えてくれてはいないのだけど、もう、私なんかきゃっきゃとサンタが来た子どもみたいに喜んでしまい、鄙びた温泉宿で一人身悶えして嬉しがっていた。
その月は、満月よりちょっとだけ小さくて、私が旅先の露天風呂から見上げたほろりと落ちそうな月よりも大層にショボかったのだけど、旅先のその町の侘しさを眉間に皺が寄るくらい目一杯に吸い込んで寂しくなっていた私には、本当に沁みて、嬉しくて笑いたいのか切なくて泣きたいのかわかんなくなった。

しじみ汁、食べたかどうか、そういや訊いてない。
いや、訊いたっけ。訊いた気もするなあ。いやいや、気がするだけでそんなこと訊かなかったのなあ。
だけど、酔った朧な記憶の中でその人が「美味しかった」って笑ってた気がするんだよなあ。

ローザさんの豆みたいに粉々になってしまった記憶だけど、日常で、ふっと過る。
記憶でも事実でもなくなってしまったけど、そのとき自分のこころが感じたことだけが、ぼんやり滲む。
センスとかセンテンスとか、ひっくるめての。


ヤポンチカ、1年半ぶりのライブやります。
11月3日(祝)
@渋谷WastedTime

熊坂義人の名曲「満月」、歌います。
料金、時間などの詳細は後日に。

こっちの月に映せたらなあ。
私、満月とても嬉しかったってまだ言ってないから。





  1. 2011/09/13(火) 21:36:55|
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私だけのものとしての、それら。

今日どうしてる?と何気なく訊いたときに答えてくれる人がぽつぽつと増えてきて、なんだか嬉しい。
その人の予定を知るだけで安心してしまうのは、そこを前提に思いやれるからで、自分がどうするのが良いか行動を決められる安心感なのかもしれない。

それは、行動だけではなく状況でも同じことですわな。
どうしたらいいんですかなんて子どもみたいな泣き言は口にしたくないし、自分の判断が正しいのか間違っているのかを人に決められたくない。

判断するという行為には、判断を誤るという可能性が常にあるわけで、つまりその間違いを楽しむことも含めて「判断する」ということになっているんだと思う。
考えてみたら、やっている仕事の全部がそうなのだけど、そこには誰かしら判断する楽しみを共有してくれる人がいて、恵まれているときには結果の責任まで一緒に背負ってくれるから、あんまりそんなふうに思わなかった。

仕事が楽しくないという人はもしかしたら自分で判断をしていないんじゃないかしらね。
現状を理解する、少し先を予測する、より良いもしくは自分が望む展開のために、判断して行動する。
明日の朝は起きられないからしんどいけどゴミ出しは今夜のうちにやっとこう、とか。

私は人のことを思いやるのが巧くできないから、たいがい自分の状況を先に開示することになる。
そうすれば少なくとも、相手にとって「よりよい判断と行動」ができる可能性には結びつくだろうから。
だから、自分に対しても、「よりよい判断と行動」ができるように情報が提示されるだけで安心できるんだろう。

判断の段階では何も確認できないけれど、それが行動になったときには、ある程度、形として目視できる。
だから、自分の判断に自信が持てないときや判断することを楽しめないときには、判断なんかしない。
ただ、判断したつもりになって行動する。
行動すれば何かが返ってきて、判断の輪郭が少しだけ、見えてくる。

わからないからできないって皆さんしばしば仰るのを耳にするけども、しないと判らないことの方が世の中には多いもんなんじゃないのか。
自分で判断する、判断したつもりで行動するってことを積み重ねていけば、誰のせいにもせずに済むんじゃないのか。

そんでそれが続くうちに自分の判断なんてまるきり充てにならんなということを思い知って、痛い目にも沢山遭って、やっべえ判断こええとか思うようになると、きっと判断することがちょっとばかり楽しめる。

考えることは、答えを出すためではなく、考えるという行為を楽しむこと。
ずっと昔の小説にそんなことを書いたっけなあと、今思い出した。
判断することも考えることも似たような行為だから、やっぱりそういうことなんだと思う。

好きな人のことをぐるぐる考えるのは楽しい。
ああだろうこうだろう、ああでもないこうでもないを、わざわざ一晩かけて味わったりする。
そんなふうに、全部を楽しめたら、いいなあと思っていて、なんとなく、そんなふうになっている。

助けてよ、しんどいよ、悲しいことがあったんだよ、泣きたい気持ちだよと人に甘えたい気分なのに、
よくよく考えてみたら、泣きたくなるほどの悲しいこともしんどいこともなくて、がっかりした。

こないだまで、ぐずぐずぐるぐるしてしまう自分が、自分の「考えてしまう性質」が苦しくて、ぎゃあぎゃあ言っていたのに、ほんの少し状況が見えただけで、あっさりとそうなる。
夜ごとの私の愚痴を聞き流しながら適当な相づちを打ってくれた人や、率直な感想を言ってくれた人や、励ましの言葉をくれた人や、貴重な情報をくれた人や、真摯に打ち明けてくれた人たちのお陰で。

今の判断は大したことじゃなくて、まだもっとこの先にうんとしんどい逃げ出したくなるような判断が待ち構えているのかもしれない。
悲観して思うのではなく、私の人生がそうなっているというデータ上での予測だけれど。

ああ、きっとしんどいんだろうなあとは、ちゃんとわかっている。
判断したつもりで行動できることだって、今はまだいくつか見つけられるけれど、いつか手の内がなくなるかもしれないし、今だって大したことはできやしない。
状況が見えなくなったら、すぐに立ち往生するんだろうとわかってる。

だけど、私はそれを楽しめるような気がするんだよね。たぶん、今なら。
恥ずかしいことになっても痛い目に遭っても何かを失くしても、判断する楽しさだけは得られる。
ま、実際のところ、行動するにあたってじっくり考え抜いて適切な行動を、というふうにはならないし、できないんだけども。

なんだかここ1年くらい、しくじることが怖くない気分で、それまでに怖がっていたことや自信が持てなかったことやそそられなかったことや面倒臭く思っていたことに手が伸ばせそうな気分で、そのときの結果や責任はまたちょっと先の別問題なわけだけども、そうやって考え無しに行動してみると、それなりに知恵がついたりもし、またそれが何かの判断に役立つようになるんだから、ありがたい。

昔から、自分でこうと思ったら絶対そうしてしまうと言われていたんだけど、自分自身ではきっちり臆病なところも承知していたし充分に小心者で、ただ苦手なことには手を出さないというええかっこしいなところだけで、意思ある人のように見せかけていたんで、今、自分のこころの内側で判断を怖がっていないことに気づいて、何より私自身が「お、すげえじゃん」と思っていたりする。

何故それほど信じることができるのかと言われたら、他に信じるに値するだけのものがないからだし、
そこにあるだろう真実は結局どれだけ楽しみながら考えたって、わからない。
だって本当に、真実なんて、わからないものだと思う。
わからないものだけが真実だと言ってもいいし、わかったとしてどうにも動かせないのが真実なわけで。

そこに、解釈。
「こう考える」「こう判断する」は目に見えないけれど、そうした解釈を元にした「行動」は形にできる。
「こう考えたことを伝える」「こう判断して動く」があれば、人とそれを共有できる。
もちろん、真実はそこにすらないのだけど、共有できるそれは出来事としての事実になる。
人の言葉に意味としての真実を見つけることは難しくても、その人がそう言ったという出来事としての事実だけは、手にできる。

だから、なんかもう、簡単に言えば、どうでもいいってこっちゃ。
みんな、自分の信じたいものを信じればいい。
みんな、自分のやりたいことだけをやればいい。
誰もがみんな、それぞれに。

つまり、人の考えること思うこと判断することなんてのは、どんだけ確信しようがその人だけが信じる思い込みの一種であって、それは誰にとっても同じなんだから、あとはもう、エチュード芝居の稽古をするみたいに、捨てたり拾ったりぶつけたり逃げたりしてやり合って、ただその時のそこに事実だけを引き出してこねくり回して組み立てるしかないんじゃないのか。
それだけのことなんじゃないのか。

まあちょっとややこしい話だけれども、ここでいうところの真実と事実の区別がつかないと演じることの本質は飲み込めないからワークショップの人には有意義な課題かも、などと思い至った途端に、だからこそお酒で記憶なくしてたらそこにあっただろう某かの事実を拾い損ねてるばっかりじゃんと、肩を落とした次第。
ほんとすいません。申し訳がたちません。がっかりしないでください。


9月のワークショップは久々の阿佐ヶ谷会場、過去のWSで配布したテキスト「Actor's JKD(アクターズ・ジークンドー)」が資料から出てきたので、配布します。

素の表現方法「そのまま、そこにいるために
9/17(土)~18(日) 18:00~22:00 @阿佐ヶ谷 ひつじ座

参加費10000円 申込〆切は9/16正午
★18日19:30から試演会をやります。申込不要・無料、どなた様もぶらりとお越し下さい。
お申し込み・詳細はコチラ


記憶障害に効果があるというサフランのサプリをまた飲み始めました。
効いてくれないと諸々困ります。




  1. 2011/09/11(日) 03:55:14|
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