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仕事部屋

よい新年を。

30日までコーチング3連勤してへろへろの大晦日だなあと思っていたら大晦日にまで打ち合わせが入って、しかもその打ち合わせで決まったのが新年2日からの仕事、来月はもう稽古入りでバイトもままならぬので絶望ひた隠しに笑顔で新しい現場をお引き受け、しょぼしょぼ帰宅してお雑煮の仕込みを終えたら微熱、甘酒飲んで仮眠するうち新年かしら、侘しいのは紛らわせるけどお飾りもできなかった年越しの淋しさだけはやはり涙が滲む。

本年もたくさんの方に支えられ助けられ励まされ教えられつつ生き延びての多謝、どなたさまも穏やかな良い新年をお迎えくださいますよう。
  1. 2011/12/31(土) 18:08:18|
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続・愛欲水平線。

振り返れば、この一年ほど「エロい」と言われたこともない。

自覚があれば役者としての道具にもなるだろうに、何がそう言われるのかがわからない。
「どこがどうエロいんでしょう」と親しい男の人たちに訊いても「だって普通にエロいよね」「わはははは」的なお茶の濁し方で役に立たないもんだから、女子に訊いてみたりもするのだけど、「一挙手一投足がエロい」などと言われる薮蛇。

どうやら「エロい」らしい。

初対面の人に「初めまして。エロいっすよねえ」と挨拶代わりに言われるようになると、いよいよ自覚せねばなるまいと焦る。
この頃は、ちょっと柄の悪い地域に出向くと電車の中で見知らぬおじさんに卑猥な仕草をされたり、労務者風の人にすり寄られて匂いを嗅がれたりなんてこともあり、いよいよ深刻に「エロい」ことになった。

平たく言えば「やれそう」ってことなんだろう。

思うに、「エロい」は、「色っぽい」と「いやらしい」の中間くらいなんじゃないのか。
「色っぽい」には品があるけど「いやらしい」には品がないというイメージ。
目黒じゃなくて錦糸町じゃなくて高島平あたり。

「エロい」と言われることは決して嫌ではないのだけれど、色っぽさは秘めるところにあるんだと思うから、自分のあけすけな資質がそこには通じてないと自覚してもいる。
「やれそう」「品がない」と思われているのは熟女としてどうしたもんか。

私の世代だと「エロい」は人妻系、女教師系、女子高生系の3種で、ワークショップの飲み会などではその場にいる女性を振り分けて笑い話にしてしまったりするのだけど、仕事の場でそれを密かにやってる男性だっていなくはないんだろう。

思うのは自由だけど、行動派がたまにいる。
そこがきっと「やれそう」基準なんだろうなあ。

一緒にいる男の人をうっかり発情させてしまっても、こちらにはその気がないからお相手ができない。
「ちっ、話が違うじゃないかよ」とがっかりする男の人の顔が視られない。
なんだか大変に申し訳ない気持ちになる。
期待に応えてあげられない自分にこちらががっかりだ。

熟女としては、欲情の対象に据えられればそりゃ嬉しい。
できるものならお応えしたいものだと心のどこかでは思っている。

だけどなあ、ただやりたいだけでモテたって楽しくもなんともないしなあ。
残念ながら好きな男の人がいるときにはそうそう器用に身体を明け渡せない精神構造になっているので、無駄な貞操観念でがっかりさせて気まずさの余り仕事を切られたりするのも「エロい」の弊害だったりするよなあ。

「エロい」のはことによっちゃ生き抜くための武器にだってできるだろうに、未だどうも巧く使いこなせずまったくの持ち腐れ、このまま錆びれさせていくのは惜しいような気もするけど、今から目覚めたら痛々しいことになりそうだしなあ。

こういうことボヤかなければもうちょっと品の良いエロさに昇華できるんだろうか。
黙り込んでいればただ不機嫌に見られるだけなんじゃないのか。
なかなかに微妙な問題ではあるが、ひとまず来年は猥談を控えようと思う。
  1. 2011/12/31(土) 00:56:06|
  2. 雑感
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愛欲水平線。

どんなことも話せて、一緒にいると気楽で、飲んで愉快、仕事で信頼、仲間の共有もできて、甘えたり甘えられたりするけれど、人としての気遣いだけはどんなときにも欠かさない。

そういう心地よさを与えてくれる男友達が数人、いる。
恋人には「愛してる」と言わないけれど、数人の特別に親しい男友達には素直に言える。
いつ思い浮かべても、温かい愛おしさが込み上げる。

基本的に異性として意識できなければ知人止まりで親しくできないので、親しい男友達は皆十分に男の人として意識して関わり合うことになり、異性であるがゆえにものすごーく淋しいときとかにちょっと助平な気持ちをすり合わせることもあり、それはたとえば、手をつないで歩くとか、抱きしめ合うとか、チューをするとかのことで、その心地よさをお互いが悪くないと思えば当然ながらセックスをすることもあるし、ごく稀に結婚したりもするのだけれど、居心地のよさだけを大切に抱えてセックスせずにいる場合もあるわけで。

もしくは、最初から恋心を携えて親交を重ね、いつかそうなると思っていながらどうにもそうならずに、いつしか自然と恋心が萎えて素晴らしい男友達の一人に昇華されてしまう場合もあったり。

何十年も親友のように付き合っていてある日突然「ホテル行かないか」と言われて「いいよ」ってなあれでセックスして、それからまた十年くらい何もなくて、とかもあれば、恋心的には熱愛のように常に一緒にいた時期があるのにセックスは一度だけ、というようなそれがあったり、知り合ったときから妙にウマが合うってんで仲良くなって、でもちょっと助平心もなくはないよねと話し合ってお試しに一度セックスしてやっぱり友達だわねと納得するようなそれがあったり、よーし今日はそういう気分だからちょっとホテルでも行くかと盛り上がってホテルに行ってビール飲んでがっつり眠って何もないなんてのがあったり、まあ、色々だ。

色々あるのに、いつも戸惑う。
とても親しくなって特別な男友達の一人と認識しているけれど、セックスがないから、これは恋じゃなくて友情なんだろうとか、ぐずぐず相手の気持ちを計ろうとしてみたりする。

相手の気持ちを計るなんて無駄と承知でぐずぐず考える、そのことが既に恋心を証明していても、まだ疑う。
セックスという確信がないから疑うんだろうけど、こういうときはセックスしたってどうせ疑うに決まってる。

だってセックスは誰とだってできるもん。
誤解を怖れずに言えば、同性とだってできる。したことないけど、たぶん。
できるから、特にいらないと思う部分もある。
だけれども、好きな人と抱き合う温もりや、ココロが満たされる感覚は、それとはまた違うことだと思う。

好きな人とはセックスしたい≠好きじゃない人とはセックスできない、という仕組み。

もちろん男友達とのセックスも、楽しい。
気取らないでいられるし、安心できる。

根っこの部分は、好きな人としたい、ってだけのことだから、その相手との関係性なんかは本当はどうでもいいことで、恋心だろうが下心だろうが「このひと好き」と思う気持ちの先に、一つの選択肢としてのセックスがあるだけなんじゃないかと思う。

男友達と恋人との区別がセックスのありやなしやなんて、どっちにも失礼なんじゃないだろうか。
寝る友達がいたり、寝ない恋人がいたりして、きっといいんだろう。

そもそも「友達」だの「恋人」だのの関係性は名刺の肩書きみたいなもんなんじゃないのか。
世の中には友達の一人を強烈に想い続けるような恋もあれば、言い争ってばかりの古女房と結ぶ友情もあるからで、人が誰かを想う気持ちやそれぞれの係わりをそういうふうに括るなんてのは随分と乱暴なことのように思う。

その区別はそれぞれの気持ちのとこにしかないってことだよなあ。
形で示すなんて無理があるじゃあないか。
だから、他人から視てわかることじゃないし、それはそのセックスの相手にもきっとわからない。

気持ちってのは、一緒にいるときに、つつう、と伝わるのが一番正確なそれで。
気持ちを言葉にすることは、届いたそれを確認して共通の認識にしようというまた別の作業だ。
セックスのときにそれが伝わってくることもあれば、セックスしなくてもちゃんと伝わることもある。

相手の気持ちが見えない、わからない、と思ううちは、きっと恋愛に対して未成熟で、そういう人にとってのセックスは、こんなふうに考えることの到底できない、もっとすごく大きな意味があったり、むしろ逆に意味がわからないただの気持ちよくなる運動だったりするのかもしれない。

恋愛の成熟は、経験人数だの年数だのじゃなく、度合いというか深みというか傷みというか、まあどれだけ真摯に自分の内面を覗いたり曝したりしてきたかって部分なんだろうから、年齢とは関係がないんだろうなあ。

しかしこれまたセックスの成熟は人数だったり年数だったりする。
相手を楽しませることが巧いとか下手とかじゃなく、自分が楽しむことが巧いか下手かの差はあって、その下地に、相手の気持ちを計る、ということは関わっているように思う。

恋愛でもセックスでも、相手が自分をどう思っているかなんてことを計り始めたらたちまちに目の前のその人を見失う。
自分の気持ちと目の前にいるその人をしっかり視ていれば、タイミングは見える。

見えたそれを言葉にして共通の認識にするか、ニュアンスだけを拾って流れに任せるか、見て見ぬ振りをして意図するところへ誘導するか、時と場合によって様々な選択肢があれど、結局のところ、今この人と寝ても私はこの人の気持ちをそのことで計ったりはしないし、自分の気持ちの何かが変わることもない、という確信さえあれば、セックスは誰とでもできる。

確信があるってことは、友達とセックスしても恋心は持たないし、恋人とのセックスがどういうことになっても恋心は変わらないってことだから、「何も変わらない」という一点のみが、私がするかしないかを区別するときのそれなんじゃないかと思うし、それも含めてのタイミングということなんだろう。

「やりたい」はまっしぐらに「やりたい」だし、「やりたくない」はどう転んだって「やりたくない」わけで。
気持ちがどうしたこうしたなんぞ、それとはまったく別のこと。
いつも自分にそう言い聞かせるくせに、同じ無駄を踏んで、同じ失敗をしたりするんだよなあ。

俗に、セックスした相手に対して極端な依存に陥る女の人のことを地雷と呼んだりするけれど、男の人にもそういう人はいる。
こればっかりはドッカンとやられちゃうとまあ手足の5,6本はもげるわけだし、痛い目に遭えばうかうかふらふらもできなくなるから、一回くらい吹き飛ばされておくのもいいんじゃないかと思うけども。

こんなことぐずぐず考えてないで、いっそのこと片っ端から男友達とやっちまいたいんだけれど。
それもあんまりだと思われるだろうから、やっぱり好きな人と素直に抱き合えたら、それが一番いいんだけれど。

つまりあれだ、すべての情欲は健康だし、恋心のないセックスは2度までが良いし、恋心でのセックスはしみじみ大切だ。


男の人の方が、概ねそこらへんは純情ですわな。
意固地ともいいますけどもね。
それくらいわかってますってば。



  1. 2011/12/26(月) 02:56:05|
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素晴らしいわたし。

思えばいつだって大人のふりをしていた。
我侭は言わないよう、愚痴は飲み込むよう、時間を無駄にさせないよう、心配をさせないよう、疑いを持たせないよう、いつだって、思いつく限りには。
クリスマスに特別な何かを期待するほどウブじゃないし、これでもまだちょっとはクリスチャンだったりもするから、どうしても今日逢いたかったわけじゃない。

だけど、なんとなく人並みに、今日は逢いたいと言ってみた。
駆け引きできる器用さがないことを武器に、ただひたすらに逢いたいと言い続けて、世の中の恋人たちに比べたらほんの少しの時間だけれど、今の私にとっては何にも代え難い貴重な時間として、隙間を分けてもらった。

逢う時間はただ楽しく切ないばかりだけれど、一人帰ってきてからも、やっぱりどこか申し訳なさがこびりついていて、ちょっと悔やんだりもする。
時間をくれてありがとうと思うけれど、それはあなたが必要とした時間ではなかったのじゃないだろうかなどと、ぐずぐず。
「ありがとう」で済ませばいいことだろうに、なんだか貧乏性だなあ。

想像力とは厄介なもので、大切な人を思いやる暖かさを持つこともできれば、大切な誰かや自分さえも苦しめる何かに変質したりもする。
知っているから使わない。
使わずにいることが理由で、ついつい相手の様子を窺う。

大丈夫と言ってくれれば良いし、ダメと言ってくれれば良いのだけど、それが返されるまでの間、封じた想像力じゃない別の何か、自分にもその人にも役立つだろう何かを探す。
そんな都合のいいもんはなかなか見当たらない。

こちらに都合のいいことはあちらにご迷惑やもしれず、あちらに都合のいいことは大概こちらが何かを飲み込まなければならない。
そんなことをお互いに、そのときそのとき、押したり引いたりすればいいんじゃないかと思うので、日頃はあまり気にかけない。

けれども。

しんどいときは誰にだってある。
うんざりするときだってある。
何もかもが面倒で逃げたくなることだって、ある。

そんなタイミングに、気がかりなそれ以外の押したり引いたりは面倒じゃないか。
私は面倒だ。
労力が惜しくなったりするだろう。
私は惜しい。

と思うので、いつその人にそういうタイミングがあるのか判らない以上、日頃から押したり引いたりしないで済むよう心がける。
それは、ただ自分の居場所を護りたいがためにそうする。
ただ、本当に自分がいるそこを護りたいから、頭も心も身体の余力も振り絞る。
それだけなんだと思う。

私は私のために、私を思いやって、そういうことをするだけで、それをたまたまその人が気に入ってくれるのなら素晴らしいことで、万が一お気に召さなかったとしても、それは私のために必要なことなのだから、気に入らなくて残念だわねと笑える。

世界中の人はみんなそれくらい身勝手になればいい。
私は大丈夫。で、あなたは?
そこの隙間んところが大事だろうと本気で思うから。
たった一人の大切な人に優しくするには、まずは自分が大丈夫でないと。

私が大丈夫になるには、あなたの時間がほんのちょっと必要。
それだけのことに、駆け引きもへったくれもない。
背伸びし過ぎて疲れ果てた挙げ句に大人ぶることをやめて、情けない自分にうんざり飽き飽きしていたけれど、今はそんなふうに開き直れて楽ちんだ。

一緒に過ごした甘ったるい時間に、あ、これって私が甘えてるんだと気づいた。
恐る恐るに見上げたその人は、まるきりデレデレとシアワセそうな顔をしていた。

どうやら、世の中はそういうことになっておるんだなと。
今日がそういう日だからじゃなくて、男の人ってのは女の人のそういう逃げ場のない甘ったれを受け止めてくれる器を持って生まれついているんだなと。

これは大変に素晴らしいことだ。



どこの神様にも、穏やかな休日が訪れますように。
  1. 2011/12/25(日) 02:49:53|
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大人失格。

15歳の私を観ていてくれた大人がまた一人いなくなってしまった。
どれだけ間が空いても、会えばその人の前では15歳の小娘になれる。
そういう場を持ち続けていられることは、ぎくしゃく大人になる過程での拠り所だと思っている。
振り返り振り返り歩いて行けることが、どれほど呼吸を楽にしてくれるか。

葬儀には出ない。
恩人の葬儀にも親友の葬儀にも出なかった。
ぬけぬけ胸を張って言えることではないが、きっとこの先も、葬儀には出ない。
安らかにと祈る気持ち、ありがとうと見送る気持ち、そのときに伝えたい胸の内がないわけじゃない。

調整しづらい仕事の予定もあるけれど、どうしてか葬儀のときに何をさしおいても駆けつけるということができない。
驚き戸惑い悲しむ人たちが、その気持ちはひとまず飲み込んで、遺された人の力になるため駆けつけるべきとわかっていても、どうしてかできない。

初めて葬儀に参列したのは父の葬儀だった。
15歳、映画の出演が決まったと報告しようとしていた矢先で、父がもう別の家族を持っていたからか、私は親戚の子という名目で親族席の末席に座らされた。
その時の屈折した残像のせいか、葬儀にはどうしても足が向かない。

生きている我々と思うと死にたくなる。
嗤われるような理由だけど、その気持ちは本当に根深くて、どれほど親しい人たちと慰め合ってもなかなか消えてくれない。
引き寄せられる自分を留める術がない。
恐ろしくて仕方がない。

散々可愛がって戴いた斉藤博さんのときも神代監督のときも、行かなければ行かなければと申し訳ない気持ちで身悶えしながら引き蘢っていた。
親友の葬儀のときも、友人たちから何度も電話をもらいながら出向けなかった。
無論「どういうつもりだ、何やってるんだ」と叱られる。

いつのときも、用意はする。
今朝も喪服と袱紗を出して、ずっと迷っていた。
お通夜は失礼するとして告別式にはと、一日延ばしに迷う。
そして、やっぱり行かないのだ。

きっと皆同じ思いなのだろう。
そこを踏ん張って、礼を尽くしているのだとわかる。
自分の葬儀のことを考えれば、やはり駆けつけて欲しいものだろうとも思う。
それでも、やはり行けない。

大人として失格だと思う。
そういうことができない自分が恥ずかしいし、周囲に向ける顔がない。
だけど、まだ生きなければならないから、どうか赦してください。




  1. 2011/12/23(金) 13:09:43|
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アンチ・ヘラクレス。

忘年会明けは引き蘢りで休養、今日は高円寺に立ち寄ってからイクマに甘えて月刊根本宗子の「この世で一番幸せな家族」@タイニイアリス、弱冠22歳の座長がセーラー服着てるあたりついつい自分の当時を振り返る、大人の芝居書くんだなあ、背伸びなのかリアルなのか、どうしても筋書き先行で紙芝居的になるけれど、稽古積んでく地力がつけばオーソドックスなきちんとした芝居を作れる人なんだろう、イクマの狂気も今回は不発、新谷真弓がすっかり大人の女になっていてちょっと驚いた。

この数日で不安の黒雲にぐるぐる取り巻かれている、コーチングのバイトも丸々一ヶ月休んで当然ながらカツカツ、しかもキャスティング時期とあってここ数年になかった観劇率で泣きっ面に蜂、今年一年ずっと泣きっ面で蜂に集られていたけれど、泣きつける友人がいて良かった、もはや来年のことを考える余裕すらなく今日明日生き延びてナンボの切羽、しかし不安のおおもとは生活不安とはまた違うとことに派生しているのだから面倒臭い。

たとえば種があって芽吹く、そのときにその種が枯れるとしたら、やはり芽も枯れるのか、育もうとするそこにばかり気を取られているうちに種を腐らせてしまいやしないか、そもそもその種はいつになれば芽吹くのか、というような不安。

たとえば好きな人がいて、その人に嫌われることよりも、自分がその人を嫌いになってしまうことが怖い、というような。

自分が一番信じている、自分自身の内側にあるそれが、ある日ふと気づいたときに見当たらなくなっていたら、何を信じていこう。

そういえば、私がまだ子供だった頃、「お前はとりあえず役者をやれ」と言ってくれた人がいて、そう言ってくれる誰かがいるうちはやってみるかなと続けてきた、その途中でその人はいなくなり、ひたすらに忙しなく何やってんだかというような虚しさしか残せない自分がぽつり残った、だけどそのときは、「大丈夫か。つらいだろうけどしっかりやれよ」とそんな私を心配してくれる人が他にいて、失くすばかりじゃないのだと教わった。

そう信じる。それも悪くないと、信じなければ始まらない。

だけど、私が欲しいものは、きっとそれじゃない。
うっすら気づいて勝手に傷ついて、身動きの取れない今は自分の中のそれを失うことだけが怖い。

だから本当は引き蘢って毛布被ってただ眠っていたいような心情なのだけど、それは自分の胸のうちを突き詰めることのようで、また恐ろしい。
突き詰めたくなどない、ただ放置して、ある日そっと覗いたらいつの間にかさっぱり消えてなくなるような、そんなことならいいのだけれどなあ。

飛び込んで突き進む自分にばかり目がいくけれど、臆病さは根深くて、ここぞというときにひそひそ足裏をくすぐって「あんたほんとは怖いんだろう」とニタニタ笑いを向けてくる。

闘う相手は常に自分自身であると言ったのは誰でしたっけ。
私はもっと自分を甘やかしたい。
  1. 2011/12/19(月) 22:31:06|
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忘れてあげない。

東京公演は9年ぶりという名古屋のB級遊撃隊「土管2011」@座・高円寺のマチネ、壮大な不条理と思いきや捩れのない非不条理でぶっといテーマ土管の如し、役者さんが皆チャーミング、「演劇」ってこういうことだよなあ、こちゃこちゃしてない真直ぐな在り方の気持ち良さ、どうやったらあんな芝居やれるんだろう、役者だけやりたいなあ、企むのはしんどいなあと前向きやら後ろ向きやらじりじり、会場で直さん一家やtsumazuki中野麻衣ちゃんに挨拶、サボと弘子と沖田乱に合流して2Fカフェで佃さん捕まえ、アーケードに移動して飲み始めたら楽しい楽しい、芝居どっぷりの特殊な人たちと話すのが結局しっくり、今年は後半からグイとこっちに向かされている、きっと来年も再来年もこっち向きで行くんだろう、予感でも予想でもなく惰性に近い居心地、どっぷりがしんどくて躱してきたはずなのに、じゃあどこまでっていう加減がわからなくなる深み、佃さんに「うっかりな女」と名付けられたそのまんまアンファンテリブル忘年会に堂々の大遅刻、忙しい中顔出してくれた皆さんとそれぞれゆっくりお話できず紹介しそびれたりで村さんに叱られつつ二次会の銅鑼からいつもの締めでdmxに落ち着いて朝8時解散、今年は誰も脱がなかったし何も忘れなかったしどこにもテレポーテーションせず帰宅、じーちゃんいなくなってしまったけど樹は残っていると文洋からりんご、しょーじ先輩から銀杏分けて戴き、毎年滋賀から忘年会のために上京してくる澤田くんから何故か缶みかん、カレンから可愛らしいお菓子など頂戴しキッチンが賑やか、宴の後の重たい疲労で思考停止が束の間の息抜き。
  1. 2011/12/18(日) 18:47:17|
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あたしだってぬくぬくしたい。

月曜、某企画の打ち合わせ2時間、その後また別件打ち合わせの席に他案件の担当を合流させて無理矢理に2件の打ち合わせ、最初の飲み屋出てからもう記憶も朧、しっかり送ってもらって帰宅、ソファー貸しで寝てったのは小形くんぶりか、翌日は一日企画の練り直しで資料作り、水曜夜の打ち合わせで重要な案件いくつかの意見をまとめられてちょっと一息な感じ、まあ方向決まるってことはまた次のステップに進むということで一息なんぞついちゃおれんのだが、いっぺんに色々はできないしなあ、一人で先走ると何かとしくじるので無理矢理の一息、煽り煽られで動き始めた企画だから孔も多い、振り返り立ち止まり孔を繕いながら拡げていければいいけれど。

そんなこんなで汲々な隙間にするり和める時間、いつの間にかドキドキせずに過ごせるようになってより沁みる、言わなくてもわかるのに、ちゃんと言いたいんだろう、きっとずいぶんと思い切りよく言ったつもりのそれすらもやっぱり屈折してて曖昧に過ぎるのだけど、わかってると伝えたいそれが巧く言えなくて、言えないそこもわかってもらってるだろうと甘え、答えないそこにまた甘えられ、もう何も伝える言葉はないのに無駄打ちして煩がらせてしまうのも毎度、今度こそ言わない、だってほんとはもう多分この先ずっと、いつかのときまで何も言うべきことなんてないんじゃないかと思ってる、言葉に頼りたくなるのは結局淋しいからなんだろう。

もう世の中はお正月休みの話なんぞをしている、みなしごには一番淋しい季節だから「実家に帰る」なんて聞くと羨ましい、「いつでも帰っておいで」と言ってくれる心の実家・熊坂家はちょいと遠くに引っ越してしまったしなあ、初詣かあ、ふうん、人ごみぞろぞろ歩いて甘酒なんか飲んだりするの子供の頃は楽しみだったのに、この数年はカウントダウンイベントに出かけるのも億劫で、きっと年明けのあれこれプレッシャーを背負いながら今年も膝の上に犬乗せて原稿作業とかしてるんだろう、ボーイフレンドがいればお雑煮なんか作るのだけど、まあいっか、今年は野垂れ死に元年になったし、マフラーぐるぐる巻いての寝正月でも、温もりだけは足りているから。
  1. 2011/12/15(木) 17:54:52|
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赤い月。

それぞれの日常で一緒に見上げた、二度目の満月が、今日は淋しくなかった。

風邪でぐずぐずと寝込んでいるくせに、じたばたする気持ちばかりが急いて、とうとう昨夜は衝動的に台本書いてしまった、冒頭だけ書き出そうとやってみたらするする進む、共同作業をお願いしている同志に読んでもらったらこのまま書いてしまえと言うのでそのまま書いた、まだ30枚で上演しても1時間くらいの分量だろう、どう増やすかは同志のパートなのでこれは準備稿として、これから弄り倒すのだ。

諸処の問題は山積みで解決策のないままだけど、中身に走るのは逃避の一種、昨夜の30枚は4時間作業だったから書く体力はまだあると確かめて安心したところもある、年内に長編小説やるつもりが放置続きで、しかも先日の打ち合わせでプロットの全面変更、つまり別の話にしようとなったところ、そちらのプロットもまだやっていないが、きっとこのまま書き出せば年内に初稿を上げるのも不可能じゃあない気がする。

芝居の企みで頭が膨らんで、自分の状況優先でついつい人の事情に気が疎か、優しくないなあと自覚することも度々なのに反省も底浅い、それでもちょっとは気が向いて馬鹿の一つ覚えのように様子を心配してみせたりはするのだが、あちらはあちらで余裕がなく、返されるときにはこちらが他のことに苛立っていたり、それでもそうと明確に状況を把握できているおかげで、やはり不安は欠片もない。

優しい言葉や甘い言葉には気が向かない、タイミングも掴めない、先の予定も立てられない、気ままに動く自由もない、そもそも関わり方の形がない、ないないづくしの状況にありながら、不安になったり焦れたりの負を抱えずにいられるのは何故だろうと自分でも不可解に思う、まったく連絡が取れないときだって、眠りにつく前にふと隅々までしっかりと満たされているような気持ちになったりする、何故だ、こんな状況で一体何に満たされてるんだと自問自答しながら、まあいっか、それも当たり前、なんて気にすらなる。

メール友達の妙齢女子が、背景は違えど似たように不自由な状況を抱えていて、彼女はひたすらに不安で、「彼にとって私って一体どんな存在なんだと思う?」を週に二度は繰り返す、つまり自分とその人が一体どんな関係であるのかを確かめたがって、「抱き合う時間があるんだからそういうことでいいんじゃない」などと曖昧な答で慰めようと試みても、これという安心できる答がその人から返されないうちはきっと何にも満足できないんだろう、他人の恋はいつだってそのように切ない。

彼にとって私は一体なんであるのか、その答を誰かに向ける感覚が今の私にはわかりづらい、いや勿論そう問い詰めたくなる気持ちはそれなりに想像できるのだけど、誰にとっても私は私じゃないのか、私にとってのその人がその人そのまんまでしかないのと同じに、誰にとっても私は私そのまんまで、何をどう求められようと与えられようと、それを変質させることは難しい、そう考えていることに共感があるかどうか、その一点の理解を信じられるから、私はそうしたことを考えずに済んでいるのだろうと思う。

声を聞いて確かめ合うことも、触れ合って暖め合うことも、約束を交わして見つめ合うこともないまま、ただ最初から変わらずにそのままそこにいることだけを信じていて、信じている自分を信じてもらえることや、信じているその人を信じられることなんてのは、よくよく考えたら奇跡というより思い込み型妄想の果ての狂気的なそれだから、さすがに時々は「私、狂ってないですよね?」と訊いてみたくなるけれど、そんなことを訊く前に、ちゃんとささやかな何かがあって、それはもう屈折した大人ならではの判りづらい愛情表現で、結局それを冷ややかなお愛想と思うか精一杯の愛情表現と思うかだけが、私が幸福でいられる分岐点だ。

いつか違う足下から見上げた満月が、今日は薄赤く染まっていた。
当たり前にそこにあるものが翳るのは恐ろしい。
だけど、暗転の空によくよく目をこらせば、うっすら息を潜めるそのものの実体が、ちゃんと見える。
欠けたわけじゃないんだ、失ってはいないんだと安心する。
そう確かめずとも、今日の月は地球の陰に隠れて欠けて見えるのだと知っていれば、怖がらずに済む。
月が、赤く見えることだってあるけれど、月はずっとそのまんまの月だ。



  1. 2011/12/11(日) 01:59:34|
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風邪気味ながら。

本日初日の黒色綺譚カナリア派@駒場アゴラ劇場、ネオ・アングラと呼ばれる作風はなるほど「ネオ」だし「アングラ」だけど野暮ったくないんだよなあ、赤澤ムックは唐十郎になりたかったんだろうなあ、可愛い女の子は可哀相だなあ、イマドキの空気が混じるとやっぱり濃密さが薄れる、アングラな雰囲気は好きだけど息が詰まるような濃さは今イチ受け付けないなんてネオな観客には程がよかろう、お話もしっかり演出もみっしり、役者の配置がいい、だけどアゴラじゃなかったんじゃないか、タイニイアリスの桟敷でぎゅうぎゅうになって観たかった、カナリア派いつか出たかったんだけど活動停止で残念、その間に地下活動で劇団員をもっと増やして復活公演は客演なしでやったらいい、濃密な空気は芝居じゃないところでも生み出せる、いくらどろどろやってみせても女の子が可愛いってだけでもうアングラじゃないんじゃないか、可愛い女の子であることはムックのせいじゃないけれど、可愛い女の子がやることはどうやっても社会派には観られないから安心したまえ、しょぼんと終わらず華々しい停止になるといいね、活動停止は無念だろうけど英断であり進歩だと思う、エキセントリックにみられるんだろうけれどムックは佇まいのいいきちんとした女の子でホンのそこここに恥じらいが見え隠れしているのがいい、下品にも馬鹿にもセンチにもロマンにも転ばない、転べない生真面目さが、ムックの可愛いところだなあ、いつかもっと叙情的な、理屈の欠片もないような、純情まっしぐらなホンをやればいい、そしたら役者で呼んで欲しい。
とにもかくにも一時見納め、「おつかれさん」ってムックのつるんとしたおでこを撫でてやれば良かった。

黒色綺譚カナリア派「誤/娯楽」は18日まで、駒場アゴラ劇場。
  1. 2011/12/08(木) 22:22:04|
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