愛没は金曜の夕方に無事クランクアップ、打ち上げもやってしまう効率の良さ、映画はあっという間に終わってしまうというボヤキにスタッフが「これからの作業がまた長いんです」、まったくそうだろう、役者なんてパーツでしかない。
翌土曜は準備会、第二回目にして稽古の方向性が大きく変化。
寺十さんから事前に「エチュードをやるだけでは積み重ねがない。稽古としての限界を感じる」との話があり、提案の一つとして、「アンダーを入れて自分が稽古をつけていけば、新しい発見もあるだろうし、芝居を作る過程を見せられるのではないか」とあって、準備会前日に碓井将仁くんがアンダーとして来てくれることになった。
当日にも「もうぶっちゃけてくしかないよね」と、寺十さんが仕切りを決意、参加の皆さんにこれまでやってきたことの問題点を打ち明けて「今日はこういうやり方をします」という説明から入り、通して本読みをすることもエチュードで全体を通して見せることもなく、アンダー碓井くんに立ってもらって寺十さん演出の中でホンへの正当なアプローチとして細かなことを重ねていく稽古となった。
14時から20時の6時間を準備会としているので稽古は3時間の区切り予定、通常の稽古ならあのまま6時間やっていくところなので個人的にはこういうやり方を見せるには時間が短いなあと思いもしたけれど、見物する人にはあれくらいがちょうどいいのかもしれない、稽古後の意見交換会で「退屈しませんでしたか」と聞くと、参加の皆さんは口々に「ちっとも!」と言って下さった、自主映画系の女優さんや監督、演劇の演出家や俳優など、やはり創作過程に興味のある方々が多かったせいもあるだろうけれど、本来の「公開稽古」の意味合いがより強く打ち出される結果になったと思う。
意見交換会でも積極的に意見や質問をして下さる方がいらして、新しい課題も戴いた。
参加の皆さんが自然にお互いの感想を話し合ううち見知らぬ人と和やかに飲み交わす、良い雰囲気。
が、時間で一旦仕切り、居残り組の深酒となったあたりでぼちぼちと寺十さんの本音が漏れ出し、「ワークショップでは仏のようなのに俺と飲んでると鬼のようなことを時々言う。こないだもヒドいことを言われた」と恨み節、こと準備会の意義に関しては私とのシビアな言い合いに周囲がやや強張る瞬間もあって、つくづく泥酔してなくて良かったと。
会場は終電解散、碓井くんを連れ帰って朝6時まで延々芝居の話、あれこれ聞くほどに自分の考えややり方の反省が重なる。
逃げられないところに踏み込んでしまったと感じているのはお互いにそうだろうし、それはスタッフワークを手伝ってくれているWSの連中や、忙しい中顔を出してくれる11月公演のスタッフも皆そうなんだろうけど、本当にどうにも恐ろしくて足が竦むこの感覚を、まずはなんとかしなければなあと、たっぷり眠って目覚めた今朝も解放感のないまま考え込んでしまう。
寺十さんにも「すぐに楽な方を選ぶ」だの「俺はもう前川麻子の芝居に飽きた」だのなんだの散々に言われた、どんな仕事でも楽しみ方を見つけ出すのが第一にすべきことと思うが、楽しむことに対しての真摯さが私には足りていないのかもしれない、それは寺十さんが手がける何を視ても必ず気づかされる、敵わんなあと歯噛みする、いっそもう役者なんか金輪際やめてしまおうかと追い込まれる、私は何がやりたいのだろうと途方に暮れる、そして、そうなることをわかっていてわざわざこういう企画を立てたんじゃないかと思い出し、頭抱えて踞りたくなるような苦しみの中、その苦しみこそ自分が必要としていたもので、ちゃんとそれがあるじゃないかと考え直すのだけれど、それでもやっぱり苦しいものは苦しい、楽しいばっかりの現場に帰りたいなあ、モグラ町恋しいなあなどとまたヒヨり、私はきっと留まりたいだけなのに、前に進みたくなんかないのに、前に進むことでしか留まる手段はないってことなのかと、軽く絶望したりする。
なんだろう、この、毎回毎回、終わったあとにうんざりする感じ、全部捨てたくなる感じ、死にたくなる感じ。
- 2012/04/15(日) 16:26:07|
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