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仕事部屋

私は優しくなれません。

準備会があるとひと月があっという間に感じられる、こないだ名古屋で歓待してくれた佃さんに逢いたいのもあり、昨日はポレポレ東中野で「隣る人」観てから流山児事務所「さらば、豚」の稽古を見学、稽古場に行って気付いたのだけどスペース早稲田での「台所純情」からちょうど1年、つまり「コルセット」は1年ぶりの演出、おっさんたちの稽古はスゴく面白かった、いや勿論芝居が面白いんだけど、稽古ってやっぱり面白い、役者の素が混じるからかしら、観ながら自分たちの公開稽古で何が見えたら面白いのだろうなども考えたし、「コルセット」の稽古をどう進めようみたいなことも考えた、終わっての飲みですっかり柔和な紳士になった流山児さんに学生運動のことなどあれこれ教えてもらう、塩野谷さんにもこないだ励まされて助けられたことの御礼が言えた、不意に稽古を観たくなったのは朝一番で「空が近い」という映画でご一緒した小林すすむさんの訃報があって気分が落ち込んでいたからで、ついつい優しくしてくれるオジサンのとこに甘えに行ってしまう自分に今更気付いたりもして、お目当ての佃さんは近辺を彷徨いているはずと私がチクったのでコウスケを呼び出し、コウスケとコウスケの連れのMちゃんと佃さんと私は念願のこーしゅんラーメンで紹興酒、佃さんは我が家でソファー泊、朝になって犬のリード握って「俺、初体験」とか嬉しそうに小走り散歩して帰って行かれた、地元に戻ればPTA会長なのだ、雷雨の前にすっかりコウスケの布団のようになっている客用布団を洗濯して、雨上がりに食材の買い出し、合間に講談社文庫のエロ・アンソロジーに収録される短編のゲラ作業、掲載当時には今イチな気がしていたのだが読み返すとそう悪くない、準備会のことを考えると気持ちが落ち着かないので豚の角煮を作った、プロテインとスープばかりでろくに料理をしていなかったので楽しかった、台本読み返したり稽古画像を見直したりしてコウスケと密談の後、寺十さんと進行の相談、明日の準備会には寺十さんが「一番観られたくない」と言っている客人のご予約がある、ついでに言えばデートの約束を1年以上先延ばしにされている私の客人もあるのだが、それでドキドキするほどの余裕すらないのが恒例の準備会、来月はお休みと思うと殊更に力んでしまいそうだけど、自分が試そうと思っているプランの一つはコウスケと試せそうだけど、もう一つのプランは未だぼんやりしたままでどうアプローチすべきかこれという確信がない、うううううむ、どこまでやれるだろ、私は優しくなれませんと開き直れないあたりが弱点か。


第三回トライアル、お申し込みまだ受け付けてます。


  1. 2012/05/18(金) 23:45:54|
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母の日。

母の日のメッセージらしきメールが娘から届いたのは数日前、文字化けしていてなんだかわからなかったので「ん?」と返したら「まだだった」と返ってきて、母の日当日にはすっかり忘れられていた。

私も毎年忘れてしまう、5月には父の誕生日と母の日があるのに、もう何年も墓参りに行っていないし仏壇の類いがないから線香すらあげていない。

娘がまだ小さかった頃、娘を母に預けて夫婦で芝居なんぞやっていて、その時に初めて渡辺真起子と共演したのだけど、母の日の楽屋で、真起子が「麻ちゃんもお母さんだからね」と花をくれたんだった。あれが、私にとって初めての、「母の日」の贈り物だ。

少しずつ、周りに「お母さん」が増えてきて、ああ今日はみんなにカードを贈ればよかったのに、どうしてうっかりしてたんだろうと、さっき思って、残念な気持ちだ。
でもきっと、いつかもうちょっとしてから自分の子どもに贈られるそれが何より嬉しいんだろう。

私は、母に贈り物をしたことがあっただろうかと考えて、思い当たらず、涙が出た。

子どもの頃の私は子どもが嫌いで、それは子どもじみたことが嫌いなばかりでなく、子どもらしくあることも、嫌いだったから、お母さんやお父さんを歓ばせたいなどとはきっと一度も考えたことがなかったんじゃないかと思う。

私は、子どもであることがとても恥ずかしかった。
そういうひねくれた子どもだった。
ひねくれていて、硬質で、「ガラス細工みたいにすぐに壊れてしまいそう」だと、周囲のオトナたちに言われていて、それがまたひとしお嫌だった。

今の私はどうだろう。
なんとも伸びやかで、真っ直ぐで、やわやわとしている。
あの頃に比べれば、むしろ、ぐずぐずなほどに。

そして強い。
言われた通り、何度でも懲りずに壊れるうち、弱さを曝せる強さを覚えたんだろう。
したたか、であってもいいし、しなやか、なら、なおいい。

私より年上の男の人が、自分の母親のことを話すとき「お母さんが」と言っているのを聞いたとき、
しなやかな人だなあと感じたことがある。

私の母はずいぶんと早くに亡くなった。
もっと生きていたかったのかもしれないし、さっさと死ねて救われたのかもしれない。
だけど、少なくとも私は、早くに親を亡くしたことで、確実に助かっている。
自分なりのやり方で「生きる」ことを考えられるようになったし、生きられるようにもなった。

お母さん、ありがとう。

私は、母が亡くなってから、初めて母に感謝する気持ちを持てた。
届けられない感謝は、ずいぶんと、さびしい。

私は、母のことを少しでも思い出すと、いつも泣いてしまう。



  1. 2012/05/14(月) 01:08:00|
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ヒメてハレルものなし。

大福ライブの翌日は俳優座にtsumazuki no ishi 座付作家スエさんが書き下ろした「ヒメジョオン・ハルジオン」を観に紀伊國屋ホールへ、tsumazuki「ストレンジャー彼女」と前後して書いていたと思うんだけど、LIFE&DEADスエヒロ派と名付けたくなる死生観の裏表、ご本人も最大限にエンタメを意識したと言っておられたそこには、役者に甘えず立ち上がろうとする物語の力強さが脈々、俳優座ではまだ若手であろう演出家の大冒険が活きて年寄り連中の口からエヴァンゲリオン用語がぽんぽん飛び出す可笑しさ、俳優には解釈の混乱が覗けるけれど、その透け方が大変にユーモラスで、年を取るって素敵だなあと思わせられる、若くて自分のことしか視えていない俳優もどきには到底真似の出来ないことだろう、私がこの年になってこんな挑戦できるだろうか、芝居ってのはつくづく肉体だの精神だのから未来永劫に遠いところにしか成立しないのだなあとも思った、生き様ってのはほんとに厄介なもんだ、この俳優さんは芝居やるためにどれだけ人生をダメにしてるんだって人しか素敵に視えない、といってそれらを「芝居のため」と一言でも口にすればすべて台無しになる、エンゲキ好きに巧い役者はいないという真理、それしかできない社会的にダメな人だけが最後に立っているのが真実じゃないか、ヒメハルに出会えた俳優さんたちはエンゲキ人生の宝を持てたんだと思う。

素晴らしい作品なのに客席ちょっとばかり淋しかった。
tsumazuki観そびれた方、小劇場が苦手な方は、是が非にも。
新宿の、旧い方の紀伊國屋ホールで、20日まで。


しかしやっぱりスエさんのタイトルは巧い。悔しい。


  1. 2012/05/13(日) 01:46:56|
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歓喜の鐘が鳴る。

音楽の人たちは居心地がいい。
16時に会場入りして、ゆるゆるとセッティング、昨日の練習に来なかったオランをネタに「オランがおらん」を皆が連発しながら、オランの椅子が空のままにサウンドチェックして何曲かを合わせていく。

ロイヤルハンチングスの瀬戸さんとはこの日が初めて。
飲み会では会っているけれど。
瀬戸さんは、台所純情のトラックにも参加してくれているので、音だけは良く知っている。

「オランがおらん」「オルに改名させろ」などと笑いながら、皆がオランを心配している。
電話にも出ないらしい。
家族と一緒に暮らしていると聞いて、安心したけれど。


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絶対に飲まないと決めて意固地に野菜ジュースなんかを飲んでる私を尻目に、そこの蕎麦屋がプレミアムモルツ1杯150円だよと嬉しそうなバッキーは既にアルコールを入れており、リハ終わってちりぢりに外へ出たメンバーは皆その蕎麦屋に行ったらしく、だって150円なんだよといい具合のテンションで戻ってくる。

開場後ほどなく現れたマツジュン夫妻がなんだか今日のマエカワさんは様子がオカシイなどと冷やかす通りアルコールがないとテンションが上がらない、ヒラケイとノヤミキにも会った途端にアサコちゃんが普通にしてるとげらげら笑われる始末で、ますますローテンションに傾く。

人前に立つことに慣れ過ぎて緊張しない故にアルコールを呷り、飲んで失敗しちゃ立つ瀬がないという理屈で無理矢理の緊張感を持つのがいつもだけど、飲んでないのに失敗しちゃもっと立つ瀬がない訳で、しかもこの日は朝から「行く」連絡が続々入って大切な人たちがこぞって来てくれる状況。

必然、テンション上がってないなあと感じるココロと裏腹に奥底ではびりびり緊張していたらしく、オープニングで1人ぽつんとステージに上がってから足が震えていることに気がついた。

スタンドマイクと譜面台の前で、大福のレコードに合わせて、熊ちゃんの言葉を朗読する。
役者としては暗唱すべきなのだけど、大福のメンバーが皆譜面台を立ててやる人たちなので、それに倣った。

音を聴け、音を聴けと唱えながら、自分の声がすいと乗せられるタイミングだけを探って音を聴く。
自分が口にする言葉に引っ張られないよう拳を握るようにして、感情をめくらめっぽうに走らせ、走りながら音を聴いて、感覚だけで声を発するタイミングを探る作業。

これが、面白い。
昔、DJとやっていたあれと同じなのだけど、どうやら私はこれが一番好きなのだ。
「世界」対「私」。
ただ、音の世界にどう噛み付くか、それだけのことが、心底楽しい。

言葉の意味を伝えようなんて微塵も思わない。
感情を自由に走らせたいから、感情移入が不要な文章を熊ちゃんに作ってもらった。
何度か校正させてもらって、最後は喋りながら語尾を調整して仕上げた文章。

ここに掲載する。
熊ちゃんには無許可だけど、もうすでに私の口から出た言葉になったんだから、いいだろう。


この世の中のすべてを肯定しきってみせる、
そういう力の在り方なのだ。
それが音楽というものの本性なのだと信じている。

窮屈。
どうしようもなくくたびれきった段ボール箱のようで、
そのくせ頑固にいつまでも動こうとしないような、そんな状態。
閉じこもっているからどこも傷つかないけれど、とことん窮屈。

ここから這い出てやろうと思う。
その先が誰のどんな大事な場所だろうと、
ズカズカと土足で踏みつけてでも、ここから這い出してやる。

よくよく考えてみれば、
後生大事に守り抜くようなものは持ち合わせていないのだし、
何より自分の弱さを卑屈に思ってる場合じゃあない。
自分という広大で未知なるものをしっかりと掴み取るには、
そんなもの蹴っ飛ばすくらいでちょうどいいと思ってる。

それを掴んでどうなるもんでもないのかもしれない。
その先には何もないかもしれない。
というかおそらく何もないだろう。
何かがあってはイケナイとすら思える。

それでいい。

拡げていくべきなのだ。
今どきのこの世は「自分」で出来上がっているのだから、
それだけを拡げていくべきなのだ。
「自分」を拡げていく、
その闘いの真っ只中にこそ救いがあるんじゃないか。

そうでなければならない。
そこにこそホントウの音楽が流れる。
そうでなければならない。

この世の中のすべてを肯定しきってみせる、
そういう力の在り方なのだ。
それが、音楽だ。



第一部の参加はオープニングのこれだけ。
わくわくと大福を楽しんで、しばしの休憩時間となり、第二部の1曲目に再び参加。
「鮮やかな魚」というその曲の後半で、私は「おーい」と叫ぶ。
最初は熊ちゃんが「おーい」と呼び、私が「おーい」と叫び、皆が口々に「おーい」と
応える。

そのパートにくるまで、なんでもいいから「おーい」を発せられるような状態になっていて欲しいと熊ちゃんからの発注があったので、無言劇風に、最初からいる。
私が何をしているのか、演奏中のメンバーがちらちらと視るのがおかしくて、ああ一緒に立ってるんだなあと感じた。

その曲の後は引っ込んで、次の登板は「民衆讃歌」という曲。
再び譜面台を引っ張り出して立ち、今度は生声で、つまりマイクなしの地声で、マイクで拾ってる演奏に乗せて、オープニングと同じ文章の朗読をする。

アンプラグドだからできるんだけど、皆の加減がとてもいい。
こんなに腹筋使ったのは何十年ぶりだってくらいの発声。

音を聴け、音を聴け。
顔を上げろ、顔を上げろ。

声を通り易くするために両手を後ろで組んで立ったのだけど、写真で見たら学芸会の子どもみたいで変な格好だった。
まあ、いい。

私の横では、白塗りのやっすんがごにょごにょと踊っていて。
反対側にはコントラバスがあって熊ちゃんがいて。
心強かった。

私とやっすんの参加はその曲でおしまいだった。
ぎこちなく挨拶してステージから引っ込んで、やっすんは白塗りだから、私がバーに駆けつけて、ビールを持って楽屋に戻り、2人で乾杯した。

それから私は客席に回って駆けつけ3杯、解放される心身で一緒に歌ったりぎくしゃく踊ったりして、大いに大福を楽しんだ。

アンコールでやった曲、熊ちゃんらしくて大好きなんだ。
カリフラワーズで1番好きな曲と近い雰囲気の。
最年少メンバーのほうすけ3は最後の挨拶に登場しなかった。
だって第二部の始まりからもう眠たそうだったもの。

これは、前日のリハのときにほうすけ3が私に書いてくれたラブレター。
意味は私にだけわかる。


IMG_1249.jpg


オランは最後までおらんかったけど、椅子はずっとそのまま置かれていた。
いつオランが駆け込んでもいいようにマイクもちゃんと立っていた。

どうしても観て欲しかった人たちは、皆とても楽しそうな顔をして、帰って行った。
私は大福らしくやれたんだろうか。
音楽がやれたんだろうか。






  1. 2012/05/12(土) 02:53:42|
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輝ける毎日を前に。

大福のレコ発ライブ、1回こっきりの前日リハで浦和の熊坂ビルヂング(仮)、大福は大人数の所帯なのでなかなか調整がつかずこの日もバンドネオンのかおりちゃんとギターのあきちゃんとサックスのバッキーと舞踏のやっすんと熊坂・スパン子・ほうすけ3一家に養子である私でざっくり一通りの練習。

音楽の人たちの、何やろうねえと話し合ったのが1回でじゃあやってみようかってやるのが1回、後は本番よろしく、てな具合がいいんだな。
熊ちゃんはすごい楽しいもっとリハやりたいって言うけれど。

音楽の人にずっとずっと憧れてきた。
楽器にも手を出してきたけど、結局ものにならない。
楽器なしでどうやったら楽しめるのかっていつも考えていて、んじゃ楽器になればいいんだって思った。

歌うってことじゃなくて。
言葉と状態を使って、自分を鳴らす、とでも言うのか。
どういうふうに言えばいいのかわからないけれど。

音楽の人たちのわっと集まってじゃーんと音出してさっくり1曲やれちゃう感じ、ああいうことを、どうしてお芝居はできないんだろうって、それだけをずっとずっと考えていて、キャラメルでやってたDJとのあんなのとか、エチュード形式の2人芝居に傾倒してきたわけで。

大福の音楽を初めて見たとき、この人たちとならそれができると思った。
だから、初めましてなのに、「そう遠くないいつか、一緒にやらせてもらいます」って挨拶をした。
芝居の音楽をやってもらうという形が先になったけど、
ほんとはこれがやりたかったんだよなあと、今日のリハですっきり思い出した。

もうなんか私、これだけずっとやっていきたいって思っちゃうくらい。
エンゲキなんてややこしくてお金と時間のかかることじゃなくて、これでいいじゃんって思っちゃうくらい。
そう感じてることを、ぐいと飲み込んで、みんなの様子を窺いながら、ひとまずやってみたのだけど、
みんなとても面白がってくれて、特に熊ちゃんが、ちゃんと私のやりたいことを掴んでくれて、とても嬉しくて。

熊ちゃんによる私の紹介文にも、ちょっと泣けた。

これは、ある意味、私のデビューになるんじゃないかしら。
似たようなことは試みとしてちょびっとずつやってきてるけど、いよいよ、「これ」って形がやれる。

ヤポンチカのバンマス・深井くんも私のやりたがっていることを嗅ぎ付けて、試させてくれたんだけど、残念なことにあの時はうまく作り出せなかった。
タイミングというやつなのかしらね。
今はあっさり当たり前みたいにそれができる。

デビュー戦。

熊ちゃんたら、レコ発なので張り切って素敵な会場を押さえてるんだけど、予約状況が芳しくなくて不安げ。
しゃあないな、駆けつけて見届けてやるよ、という奇特な方、
yoshito49@folkevise.net まで、「前川のブログ特典」と書き添えてご予約下されば、うっとりするようなディスカウント料金にて承ります。もちろん関係者でも可です。
お財布と相談してる方、是非「ブログ特典」をご利用ください。
すでにご予約下さった方には大変に申し訳ないのですが、それくらい芳しくないらしいのです。
余裕がある方からは有り難く頂戴して、余裕のない方にもなんとか観て戴きたいという心情、どうかお察しください。

本日20時です!大 福 「輝ける毎日」レコ発ライブ ←詳細はコチラをクリック


ど素面でお待ちしています!


  1. 2012/05/10(木) 04:01:17|
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エンゲ「木」のひと。

ナイロン100℃を観たのは本当に十何年ぶりだと思う。
少なくともケラさんに直接感想を伝えられたのはTOPSでの新人公演「カメラ≠万年筆」ぶりなんじゃないか。
すっかり観なくなってしまったのには、チケットの値段も関係していると思う。
2度3度観られる値段じゃなくなって、1度も行かなくなった。

劇団健康と品行方正児童会は殆ど同級生で、ケラさんは早くからうちのを観てくれていたのに、不勉強な私は劇団健康を観ていなかった。
正直言えば、観たくない類いのものと、区別していたところがある。

なのに、どこでどうケラさんと知り合ったんだっけ。
はみだし劇場のトバさんの仕切りで参加した浅草の天幕芝居フェスティバルのときに、品行方正児童会の演出をお願いしたんだった。

そんで、私は大反省した。
私のやってることは、エンゲキじゃないな、くらいの大反省だった。
初めて健康を観たのは、その直後。
本多の「カラフルメリイでオハヨ」が初めてだったか、とにかく二度観た芝居はそれが初めてだった。

ケラさんとは、親しいようで親しくないまま今に至っている、と、私は思っている。
充分に親しみは感じてもらっていると思うし、特別な尊敬と愛情を感じるのも確かだけど、なんだか近づけない。
もっぱらの交流はtwitterばかりだけど、きっとそれは私の素行の悪さが原因なんだろう。
つまり、いつも心配ばかりかけている。
久々に今回のナイロンを観たのは、勿論コットーネの「コルセット」に松永さんが出てくれるからなんだけど。

ナイロンの女優さんをお借りするのは初めてじゃない。
以前、「主婦マリーがしたこと」というプロデュース公演で今江冬子さんに出てもらった。
ケラさんはそのとき観に来てくれて、その翌日だかに、多分寝ずに書いただろう長い手紙を、劇場の受付で「前川さんに」と預けてくれた、そうなのだが、不手際があって、私は、その手紙を受け取れなかった。
そういう手紙を預けたということを知ったのは、公演が終わって少ししてから、感想が訊きたくて連絡したときに、ケラさんから直接「俺、手紙書いて持ってったのに」と言われたからだった。
受け取れなかったことを正直に伝えて謝ったけど、何が書いてあったのかはもう教えてくれなかった。

今も、その長い手紙に何が書かれていたかは、わからないけど、ケラさんが、冬ちゃんが参加した芝居に対して並みならぬ真摯さで、しかと見届け、物言いをしてくれていたことは、そうしたことで充分にわかった。
この人はエンゲキにホンキなんだなと思ったのを覚えている。

相変わらずの長尺で、俗にいう「赤毛もの」を大真面目にやっていて、ナンセンスを売りにしていたあの頃とはどこかが違う。
それまでの間が抜けているので、変化の過程が判らず、ただなんか違うと思ってしまうのだけれど。
一幕の途中、どんな場面だったか、誰の死を語ってるのかが視えて、も、号泣。
それからまた、犬ちゃんとリエちゃんのやり取りに、歳月が視えて、も、号泣。
最後にみのすけが踏ん張って、あのみのすけが踏ん張ってることで、も、号泣。

彼らを、彼らと築いたそれを、心底愛しているケラさんが視えた気がした。
いや、むしろそれしか視えなかった。
集大成というのか、いやまだまだ過程であって欲しいのだけど、いつだってそのつもりだろうけれど、これほどの出来はいくらケラさんでもそうそうないんじゃないのかしら。

そこに出来上がる何かを、私はいつも独り勝手に視て、泣いている。
カラフルメリイのカーテンコールほど泣いた芝居は後にも先にもない。
こんなにスタイルが変わっても、そんときに視えたもんと同じもんが、まだちゃんとあった。

いい芝居だった。
人を失う痛みと、生き続ける諦めと、それを共有できる人たちがいる幸福感に満ち溢れた物語。
何より、この人が何故芝居をやっているのかを一発で飲み込ませる力のある、いい芝居だと思った。

私は昔から、ナイロンを観ると満足してしまって、「もう私芝居とかやらなくても年に二本ナイロンの芝居だけ観てれば生きていける」とかって思ってしまうのだけど、今回は「よし、じゃあ私がここんとこやっておくから、そっちはそこんとこよろしく」くらいに思った。
ネタ被ってたし。ホン上がってるし。私だって少しは成長する。

楽屋でまっしぐらにケラさんに抱きついたらもの凄くビビって身を退かれた。
「誰だかわかんなかったから」って言われたけど、わかってても身を退かれたんじゃないかしら。
多分、私がそんなふうにケラさんに何かを伝えたのは初めてなんだと思う。
「松永をよろしく」と言われて、誇らしい気持ちになった。

コヤで会った千葉テツ兄さんと立ち話して、偶然一緒だった圭太くんと呑みに行って、尤もその前に前回の準備会でアンダーをやってくれたマー君と今度の準備会でアンダーをやってくれるコウスケと呑んでいたから、充分にセンチの土壌はあったのだけど、今の自分が立っているセンチなんてのは完全に吹っ飛んで、うんと先までぐいと視点を引っ張ってくれる芝居だった。
センチメンタルな未来を観た。

ものすごく高い芝居だけど、それでも採算取れないんじゃないってくらいお金かけてて、何一つ無駄になってなくて、私は自分が挫けてしまった座長という役割の、ほんとに正当な在り方を、しっかりと確かめさせてもらって、身体が震えた。

ケラさんは書く人だからなあ。そこがスゴいよなあ。
見せるものを創りあげる力と、見せないものを見通す力ってことだよなあ。
演劇人と名乗るケラさんをどうなのかと思うこともあったけど、一体いつからそんなふうに全部が背負えるようになったのか、見逃してしまっていたんだなあ。

よいものをみたなあ。
そうだよね、芝居ってそこが見えればいいんだよねって、励まされるような。
そんな共感をケラさんの芝居に感じられたのは、初めてだなあ。
私、カーテンコールで頭の上に手を上げて拍手してたよ。
みのすけや犬ちゃんやリエちゃんや藤田くんに、私ここでちゃんと観てたよって伝えたくて。

ケラさん、芝居やっててくれて、ありがとう。
大切な松永さんを、しかと預かります。
長生きしてね。
長生きしようね。


  1. 2012/05/09(水) 02:38:06|
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そういう力の在り方なのだ。

予定通り土日で「コルセット」台本作業、土曜は犬の散歩も長めにしてサイズの合わなくなったデニムの入れ替えもして夜はアケミちゃんと近所のラーメン屋でクダ撒いてかなりサボったけれど日曜も昼過ぎまで寝てたけど短め92枚で月曜朝4時に無事脱稿、本日は整体でメンテナンスして大福楽曲を垂れ流しながら推敲の繰り返し、3年前に書いたエロ短編が来月文庫のアンソロジーに収録されることになりゲラも一本あるから片付けてしまうべきか、小説講座の提出作品もわんさか届いているし、明日はナイロン観るし、明後日は大福一回こっきりのリハだし明けたらライブ本番だし、このままバタバタにACCやって準備会やって愛仮の追撮やって「コルセット」の顔合わせがあってWSやってもう稽古入りじゃないか、相変わらずデートはできず髪を切りたいと呟いていたら「追撮あるからダメ」とダーリン(バーチャル)からのメール、呟きを目に留めてすんとメールできる健全さ、ほんとに素敵な資質だなあと改めて惚れ惚れ、「終わったら短めで」とちゃっかり自分の好みをアピールするあたりもキュートなダーリン(バーチャル)である、思うのは多忙でぷつぷつ湧き上がるのは恋なんだろう、暇に任せてぐつぐつ煮立たせるのは自己愛を投影した恋じゃない何かだから、Pがどう言うかまだ感想が届いていないが「コルセット」はねっとり不穏でじくじく女の熟んだところが滴ってくるいいホンになったと思う、女には恋だの愛だのなんていらないんだなあと書きながら思った、女を書こうとしたとき恋愛もの書こうって発想が全然なかったのが正解だったのかもしれない、無論推敲は重ねる、短い部分は稽古で足す、あんなに怖がってたのに書けたんだなあとも思う、もしかして自分の能力に一番疑いを持っているのは自分自身なのかもしれない、「今までだってちゃんとやってきてるんだから今までと同じようにやればいいんだよ」と敬愛する兄さんたちに言われた通り、ダメなところも今まで通りに進んだりするんだろうけど、「脱稿おめでとう」を言ってくれる人がいるからね、今月は長編も書かなきゃならないしね、愉しみの一つとしてやれてるんだからシアワセなことだわね。


コルセット表

コルセット裏



5月25日から前売り開始!

  1. 2012/05/07(月) 18:16:50|
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おやすみなさい、ありがとう。

ちょっとした思い違いで人と言い争った、真夜中に、メールで、ああだこうだやり合って、でもそれぞれにどこか気遣いが透けて、退く加減があって大事には至らずというところ、お互いの不愉快は残ったままであっても際限ないからもう話はおしまいという加減に、「おやすみなさい」を言える人だから大丈夫だったんだろう、私も「おやすみなさい」を返した。

火遊びの相手に「ありがとう」と言われることもそれに似ている、風俗嬢が「お客さんにありがとうと言って貰えるともの凄く気持ちが癒される」というような話をしてくれたことがあって、確かにそうだろうなあと思ったし、お金を払って性欲を処理したときに「ありがとう」と言える男の人はちょっといいなと思った、私は一度だけ「ありがとう」を言われた、その一言でもう二度とないことなんだと伝わってほっとするやら淋しいやらだったけど、そういう意思を「ありがとう」という言葉で伝えられるその人はなかなか素敵だと思った。

争うことと身体を重ねることはとてもよく似ているんだと思う。

私はココロが傷つくことを避けるために感情を動かさないようにしてしまう癖があって、芝居をやるときにだけそれを解除するのだけど、そういう性質は大抵の争い事で火に油を注ぐ、ココロを働かさずに感情を排除して頭だけを使って筋道を通そうとする意固地さが、相手のココロをざりざりと逆撫でして余計に筋道の通らない状況にしてしまう、自分のココロが働いていないから相手のココロの働きも見過ごして驚くほど無神経になったりする。

だから身体を重ねることが私にとっては一種の解放で、頭のスイッチを切って赴くままにココロを働かせられる唯一の時間だったりするのだ、そういう仕組みであるところが男性のセックスと似ているのか、ココロがふわりと舞い上がった後はまた通常の頭業務になってしまう、事後にすぐ背中を向けるあたり、いつも叱責される。

まああれだつまり、私はこいついっそ孕ませてやりたいとか思ったりするのだ、愛なのか憎しみなのか支配なのか嫉妬なのか、解放されたココロが何を感じてそんなこと思うのか不確かだけれど、一度ならずこいついっそ孕ませてやりたいと思ったことがあるのは事実だし、それに呼応するのか唐突に「男が妊娠できるなら俺はあなたの子どもを産みたい」なんて阿呆なことを口走る男の人もいたりして、そう言われると身勝手なことにすっかり萎えるのだけれど。

さて深夜の言い争いは筋道通らぬままにやり過ごした、私は逆切れされたと思ったのだけど相手はきっと逆じゃない順当だと思っていたのだろう、そう思うのは、なんだ私本当は怒ってたんだと今になって気付いたからで、そして多分その怒りは相手には伝わっていない、私はいつもの癖で筋道を通そうとココロの働きを止めていた、もうそのことを蒸し返すつもりはないけれど、確かに私は怒っていたのだ。

怒るってことは傷ついたってことだと、いつか親友に言われたそれが、きっと永久に真実だ。

もの凄く傷ついて途方に暮れた人が、走って行って玄関のドアに頭をガンガンぶつける姿を見たことがある、その人は、その直前まで私と向き合って話をしていた、私が話している間、私を視ているその人の目がみるみる変化したのを鮮明に覚えている、まるで瞳の中にテロップが流れるように「こいつキチガイだ」と、明らかに私のことを狂ってると感じて恐怖している様子だった、「あなたは私のことを狂ってると思っている」と私は言い、その人は走って行ったのだった、なんの話をしていてそんなことになったのか、もうすっかり忘れてしまった。





  1. 2012/05/04(金) 02:55:02|
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女について知ることのすべて。

彼女について知ることのすべて
原作・佐藤正午
監督・井土紀州

笹峯愛とか長宗我部陽子とか赤澤ムックとか。
井土さんが撮る女はみんな恐ろしくて美しい。
井土映画の中の女たちは、どんなに非道なことをやらかしても、女であるというだけで赦されている気がする。
その一方で、男たちはいつだって右往左往だ。何を企んでも女にひっくり返される。
心底参ったという顔をするのに、自分を痛い目に遭わせた女を、まだどこかで求めてる。
男らしいなあ。
女を追い求めるのが男だよなあ。
井土さんカッコイイなあ。

2019.5.19よりユーロスペースにてレイトショー公開。


ユーロスペースでは、べべさんの「白い指の戯れ」も上映されるんだなあ。
しかも、曽根中生監督が登壇する日もあるらしい。


映画への憧れは今も強い。関われることは素晴らしい体験だ。

木村文洋が撮った「愛のゆくえ(没)」は、芝居とまったく同じに「愛のゆくえ(仮)」というタイトルにすることになった。
この連休も、彼らは公開目指して編集中のはず。
WSの平野敬子がスチールを撮ってくれた。


愛没スチール_8

愛没スチール_9

愛没スチール_5

愛没スチール_7

愛没スチール_1

愛没スチール_10


スチールと本編に映っているものは違うけれど、好きだと思える自分の顔がこうして残っていることは嬉しい。
舞台の芝居をやるときには、楽屋の鏡前で自分の顔をしげしげ視て、ちゃんと好きになってから、舞台に上がる。
自分で好きになれない顔を人様に見せるのは忍びないじゃないか。

木村組の女優をやるのは楽しかった。
この映画では、ちゃんと女の顔をしてるんじゃないかしら。



  1. 2012/05/02(水) 01:32:44|
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シアワセの握力。

私は自分が人に求めるものが大きい、大き過ぎて誰か一人にそれを向けると窒息させてしまったりする、そう思うから、いつでもそれを都合よく分散させていた、分散させてうまくやっているつもりでも、本当に大切なたった一人を裏切り続けることには変わりなく、結局はいつもその後ろ暗さを積もらせて自分が息苦しくなり逃げ出してきた、「愛情の袋に孔が空いているんだ」と言われたことがあったっけ、ところが、どれだけ求めても必死に応えようとしてくれる人と出会ってみたら、私が求めることなんて本当に細やかなことだったりして、それはそうなるくらいに私が大人になれたのかもしれないけれど、多分きっと同じように孔が空いた袋に向けて求め続けているからそういうことになっているんだろうと思う、そういう加減てのは時間だの理屈だの度合いだのとは関係なく、ただ本質的なものなんじゃなかろうか。

苦しみ続けている女友達がいる、普段一緒に過ごす時間は余りなくて、ただメールのやり取りで親しみを増した類いの、かつて人生相談のサイトをやっていた頃やブルハブログでよくあった類いの、リアルに比べれば浅い関わりの女友達だけれど、その事柄だけで通じる濃密さだってちゃんとある、彼女はシアワセになりたいのに、少しもシアワセじゃないそれを手放せない、少しも満たされていないのに、それを求め続ける、彼女は純粋に自分の欲求を口にするけれど女は身体があるからややこしい、人のココロは移ろうよ、人のココロを思うままには動かせないよと、私は繰り返し言うのだけれど、彼女に必要なのは、シアワセにしてくれる何かで、シアワセに近づく為の方程式なんかじゃない、多分もっと楽をしてシアワセになりたいんだろう、それを握りしめているうちはシアワセを掴むことはできないと思うよと言う私は、彼女の役に立たなかった、掌は開けておかなくちゃ、グーじゃなくてパーがいいよ、シアワセの青い鳥とはよくいったもんで、力任せに握りしめたら壊れてしまうものもあるよ、あなたはそれが嬉しくて思い切り握りしめてしまったんだね、いつか別の命になって飛べるように土に還してあげなきゃいけないよ、生きていようが死んでいようが命は誰かのものにはならない、イノチとかタマシイとかココロなんてものは、ふわふわと空中を漂って初めてイノチとかタマシイとかココロであり続けるんだと思う、人生が予想外に動くことで初めて人生であるように。

彼女は女をやめたいなんていう、女をやめられたら楽になれると信じている、そうかもしれないしそうじゃないかもしれない、やめることなんてできないからいつまでもわからない、わからないから焦がれ続ける、そうしていつまでも満たされない、ないものを欲しがるなんて浅ましいことじゃないのかと言うと、そうやっていなければ生きていけないと言う、向上心と欲求が混在してただただ地団駄を踏む、その姿は確かに浅ましくて惨めなのだけど、そこが輝きであったりもするから女は厄介だ、頑張れと思う、満たされないまま求め続けることができるならそれでいいじゃないか、握りしめたまま失わずにいられたらそれでいいんだと思う、正直言えば誰かのシアワセなんて私にはどうでもよく私はただ私の掌をいつまでも空に向けて開いているだけで、掌をくすぐる何かがあれば片目で覗いて壊さないようにじっとしている、握りしめたり追い払ったりはもうしない、誰かがその手を握りしめてくれるまで、掌はパーでいい、何より触れてくれるその手だけが欲しいんだから。

女てえのは「あなたに相応しい私」であろうとするか「私に相応しいあなた」を探し求めるかのどちらかに陥り易い、本当は「私たちに相応しいシアワセ」が欲しいだけなのに。


  1. 2012/05/01(火) 23:37:07|
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