仕事部屋

自分空洞説。

去年の今頃だか、オムニバスの公演で初見したMrs.fictionsというグループに興味を持って、一度コンタクトをした。
そのときには実現できなかったけど、今回、12月公演では「Mrs.fictionsの身内になってくれる方を募集します」とあったので気合いを入れて応募してバタバタと出演が決まり、既に稽古に入っている。
チラシには間に合わずで名前がないけど私は中嶋康太の作品1本に出演する。
12/13から、池袋シアターグリーンBASE THEATER

実は、もう芝居は打ち止めかなと思っており、よしそうしようと決めた日に中嶋くんからの連絡があった。
身内になりたいと応募したのに実はもう芝居やめるんですとも言えず、今のところは、久々にそうしたことを思い悩んだ日々として飲み込んで、せめてもの現状維持に務めるつもりになりつつある。

ぽっかり曖昧な気持ちのまま、日曜に流山児事務所の「地球空洞説」を見物、寺山修司見せ物ミュージカルと謳う天野天街演出は、そこにいる人たちへの愛情に満ちあふれていた。
塩野谷さんに話すとまた叱られるんだろうなあと思って「もう芝居やめる」とは言えなかった。


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終演後、劇場の上空に揚げられる気球。


こないだまでそうとも意識せずに10年芝居から離れていたのに、今またそれを考えるとやっぱりごっそりと身を削ぐ感覚がある。
どんな芝居なのか、面白いのかってことよりも、どんな人なのか、何をやろうとしているのかばかりが観たい見せたいになったからかもしれない。

そもそも、やめるだのやめないだのと区切るのが苦手だ。
覚悟するとか決心するとか目標に向かうとか、その手の一切が苦手なんだろうと思う。
心に強制的な力がちょっとでも加わると途端に萎む。
そのくせ望まれることには少しでも応えたい、応えることでしか自分の存在価値を認められないという卑屈さがある。

私は芝居が好きなわけじゃなくて芝居をやってる人たちが好きなんだと自覚しているから、ときどきそういう自分をものすごく不純に感じて自己嫌悪するんだけど、嫌いな部分だからって切り捨てるにはいちいちデカ過ぎて、棄てたあとの空洞が恐ろしかったりもする。

空洞にすっぽり飲まれて彷徨う闇も、決して無益ではないと思うのだけど、そのまま闇に溶けて消えてなくなってしまいそうな恐怖があって、踏ん切れない。
棄てる恐ろしさより抱え続けるしんどさの方が百倍マシだし、馴れてしまっているせいか。

そして、そうやって思い悩む時の私は大概が選択を間違える。
大切なものを手放して楽になったつもり、自分一人が飲み込んで人の為のつもり、もの凄く無理をして道理に沿ったつもりになって、余計な苦しさを増やす。
そんな自分が誰かを幸せにすることなどできやしないのに。

棄てることで生きる人もいるだろう。
だけど私はきっとそうじゃない。
背負うとか抱えるとか引きずるんじゃなくて、自分の一部として飲み込んで、ぱつぱつに膨張しながら生きるのが性分なんだろう。

そりゃ誰だっていらないものは棄てたいし身軽でいたいんだろうけど、すっかり自分の細胞の一つになっているものを削り取れば痛みがあるわなあ。
それが本当に不要なものなら、代謝で削がれていくはずだから、せいぜい巡りの良い自分でありたい。
ぱつぱつの自分に針を突き立てられてあっさり萎んでしまったばかりで、今はまだ月に届かないけれど、重たいものを棄てなくたって飛んで行けるだけの軽さを詰め込めばいいんだろう。

どれほどの思いで自分を削いだところで、どうせしんどいことはなくならない。
だったら、しんどいことより愉しいことをたくさん抱えてやれと思う。


映画「愛のゆくえ(仮)」、ポレポレ東中野での公開は今週末。
監督もスタッフも連日寒風の街頭でチラシを配っている。
12月22日の大阪シネヌーヴォに次いで、名古屋シネマテークでの公開も決定。

本日27日は映画「ドコニモイケナイ」@渋谷ユーロスペースでのアフタートークに出演します。
上映は21:10から。




  1. 2012/11/27(火) 14:33:10|
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拳のなかみ。

私にはせっかちなところがあって、物事が落ち着くまで自然な経過を見守るということができない、勝手に仮定と推測を持ち込んで検証し、自分の施しをせかせかと決めてしまう、しかも頑固だから自分勝手に決めたことが物事の自然な道理にそぐわない場合にもなかなか折り合いがつかなくて困る、それも概ねが偏ったところの立脚点で、寄り添うとか委ねるとか従うといった余裕もない、だが本質的には自分のココロの在処がそれだから、折り合わなければならないこともなく、結果孤立を選ぶこともままある。

自分を信じることについて何か考える機会があると、いつも思い出すのは遠い昔にわずかな日々を共有したKのことで、恋人でも元旦那でもないのだが「日々を共にする」という言い方がしっくりくるほど私とKは飲み歩き喋り倒し笑い続けていた、いつもたくさんの仲間がいて、たくさんの出会いがあって、それなりに色恋の隙間もあったのだけど、私は初めからずっとひたすらにKのことが好きでさっさと思いを伝えてもいた、Kの答えは「夢がある、誰かと付き合っても大切にしてあげられない、だから今は誰とも付き合わない」で私はあっさり振られた、私は「ただ好きでいられて、そう思ってるままこうやってみんなと一緒にいられるなら付き合わなくてもいい」と交渉してKに
「それでいいならいいよ」と受け入れるようなことを答えさせた、Kが私のことをとても大切にしてくれていること、特別な存在として扱ってくれていることは承知していたから卑怯な交渉だったかもしれない。

ただの遊び仲間とは違って私とKは実際にちょっとした役割や責任をお互いに預け合っていたし、熱意と信頼から始まったそこで日々の無駄が肉付いた絆のようなものも育まれた、酔って騒いで抱き合って眠ることも、真冬の寒い夜に素面で手をつないで黙って歩くこともあったけど、私たちは友達で、友達でいることには何の疑いも持たなかった、好きな男の子がいると急に律儀な貞操観が芽生えるたちなので、他の男の子と寝るとどうしてかKに罪悪感を持ったし、Kもぎこちなく嫉妬を見せた、それならあんたが私をモノにしなさいよと気持ちが急いた、特別な気持ちがあることは最初からずっと暇さえあれば伝えていて、Kの答えも代わり映えしなかった、少し先のことを話すときのKは「お前を笑顔にすることも俺の夢の一つなんだ」と言ったりしたけど、私はその言葉を真に受けるのが怖くて茶化しただけだった、私は心底Kが欲しかったのにその気持ちだけは届かなかった、他の女の子に嫉妬するような歪みはなかったけれど、だからといってKは私の男ではなかったし私はKの女ではなかった、居場所のない心細さがいつもあってじわじわと捩じれた、どうしようもなくなってなんとか片想いを棄てようとココロがぐらついていた時に出逢いがあって、私は出逢った人と過ごすことを決めてKにそう報告した、世田谷線の線路沿いから環八あたりを歩く肌寒い夜だった、Kは「お前がそう決めたんならそれでいいよ」と言った。

長いこと、私とKの間は、私の一方的な下心とKの私に対する信頼だけで結びついていたと思っていた、それから私は自分が決めた人と一緒に暮らすようになりKとは疎遠になった、しばらくして久々にKと飲んだときにいつも以上に酔ったKが「あいしてる」と呟いたのを聞いた、私は「知ってる」と答えた、それだけだったけれど、何年も過ぎたある日、私はあの時ちゃんとKと結びついていたんじゃないかと不意に思った、そしてそれを棄てたのは私だと、片想いして失恋して諦めて先に進んでいたつもりの私が、「それでいい」と言った私を信じていたKを何度も裏切って傷つけて勝手に見切って棄てたのだと、本当にその時になって、初めて思った。

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、Kとは今も飲もうかと誘い合えば逢える距離だけど確かめたことはない、だから勝手な仮定と推測による個人的な感想に過ぎない、ただ私はその時に失ったものの大きさに気付いている、約束だの言葉だの役割だの立ち位置だのにココロを押込もうとして見失ったものがあった、約束は反古にできるし言葉は否定できる、役割は棄てられるし立ち位置は変えられる、ココロばかりは思うように動かせない、捉われずにいようと心がけていてもついついそこに頼ってしまう時が今もある、恋バナ的にまとめれば「あのとき、あなたが好きだと言ってくれていたら」と泣けるのかもしれないが、私は泣けない、言葉に縋ったところでいつかまた同じように足場を見失う、そうして言葉ばかりを重ねて、しまいには「あの時あなたがこういったから」「それは君がああ言ったから」といらなくなった言葉を押し付け合ったりするのだから、いっそなくていいと本気で思う、言葉や約束なんてものはただの贈り物だ、渡してあげたい気持ちがあって意味を成す、受け取る気持ちがあって価値になる。

私は私がKを想う自分のココロを信じていればよかったのに、どうしてそれができなかったんだろうと、思い出すたびに苦くなる、そうしていれば良かったとか、何かが違ったかもなんていうことではなく、ただ「どうしてそれができなかったんだろう」といつも自分を戒める、あの時の苦しさはココロにも身体にも染み込んでいて、自分がどこにも存在していないような漠然とした不安や、誰からも愛されていないように感じる孤独の茫洋は、もう味わいたくないと切実に思う、だけどその苦しみは私が私を信じなかったから生み出されたもので、KやKとの関わり方がそれを生み出したわけじゃない、私は確かにKが好きで、KはKにできる精一杯のことでそれに応えていると判っていた、宝物のような日々と愛おしい私たちのココロが、確かにこの手にあったのに、私はつまらない何かを欲しがってそれらを手放してしまった、どうしたかったという悔いではない、どうしようもない悔いだ。

映画「愛のゆくえ(仮)」は、そこらへんの私の悔いを仮の物語で埋めているんだと思う、男のロマンと女の現実は重ならねえんだよという喧嘩を売ったつもりもある、男の夢に寄り添える女になりたいもんだなあとも思うし、女の現実のために夢を棄てられる男に出逢いたいもんだなあとも願う、公開劇場で配布される「愛の通信(仮)」のインタビューでもぼんやりと語った、愛することは生きるために必要な本能の一つなんじゃないかと、それは私であっても私でなくてもKであってもKでなくても良いことで、ただその時を生きるために愛することが必要で、「愛は与えるもの」なんて誤摩化してはいるが結局のところエゴなのだと承知で、エゴを受け入れて欲しいだけで愛を与えるんじゃないか、欲しいと思わせるためのチラ見せが横行してる、価値を釣り上げようとして「愛こそすべて」と謳い「安売りはしない」と隠したりもして、もっとバラまけばいいのに。

もうずっと長いこと仮定と推測で答え合わせをし続けている、独り遊びのようなそれに疲弊するとまたKのことを思い出す、意固地の拳を握る。


映画「愛のゆくえ(仮)」公開まであと2週間を切りました。
2012年
12/1(土)~ 12/7(金) 21:00
12/7(土)~12/21(金) 16:30/21:00 ※平日16:30の回は1000円均一
12/22(土)〜未定
ポレポレ東中野

演劇「愛のゆくえ(仮)」、上演台本2種ダウンロード公開中。


  1. 2012/11/19(月) 20:24:02|
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絶望の光。

暗がりで、息を潜めている、隠れなくてもいいのに、何が怖いのか、不意に窓を開けたから、眩しくて、目を、つむった、ぬるい風と、トンボの羽音、遠くの子どもの声に、少しずつ、顔を上げて、眩しがって、目を瞬く、その顔を、くすくす、笑って見てる、風が、冷たくなったら、窓を閉める、今は、少しだけ、日だまりに、身体を置いて、ぬくまって、暖めた掌で、そっと、触れて、どうせ、眠るのはひとり、悪い夢、うなされたら、目を開けて、照らす光に、ぬくまって、転寝で、いつもと違う夢を見て、涙を零して、絶望だって、きらきらする、しっかり、その掌にあれば、指先で、きらきらするから、ちゃんと、見つめて、絶望の光。


  1. 2012/11/13(火) 17:57:51|
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ひたひたと。

日常に戻ってきた。
演出だけの時は翌日からばっさり日常に戻れるのに、やっぱりなんだかんだ言いながらそれなりに何かを背負っていたんだろう、ひたすらに食べて寝る合間に連絡業務などの雑用から始めて読書やDVDもちょろっと、翌日には洗濯やら買い出しやら机回りの片付けやら獣医やら郵便局やらの家の雑務、腰が痛くてぐずぐず動作なのでシネパトスにも「戦争と一人の女」試写にも行けずだったけど、稽古入り前からハードなバイト生活だったから久々に家にいるのも雑務に集中できるのも嬉しい、長いこと放置してた風呂場の電球も自力で交換、球切れを交換しようと電球をひねったらバリンと口金から下のガラス部分だけがきれいに割れて花瓶状態、口金は天井据え付け照明器具のソケットに残ったままでどうにも外せず、色んな人から色んなアドバイスを貰ったんだけどどうやっても外せなかったのを、今日再挑戦したらなんとか外せた次第、「こりゃ成田とか小形とかじゃ無理だろうな、千田さんでも無理だからちゃんと電気屋呼んだ方がいいよ」と言われていたそれを自力で解決したことで非常に満足している、あと夕飯に作ったホタテとベーコンと白菜のクリームシチューが美味しくできたことにも、スーパーで安売りしてた梅ジュースが心外に美味であったことにも、コヤで使ってた布団乾燥機を持ち帰ったので犬が大喜びしていることにも、他愛のない日報のやり取りができていることにも、なんだかいつも以上に満たされた気分になっている、こういう細やかな満足の積み重ねが日常の幸福だなあ、この細々した日常を紡いでいける約束さえあれば、どんな不穏だって乗り切れるだろうに、こうした大切なことほどなんの保証も約束もなく、不意に失われたりする。

愛仮3プロをコンプリートした文洋と、2ステ観てもらった日の夜だったかにちょっとだけ彼女のことを話した。
彼女はこれまでの長い時間をそれほど辛いとは思っていなかったんじゃないだろうか、本当の自分を、ちゃんと剥き出しにできるわずかな空間がそこにあって、それを真っ直ぐに受け止めてくれる彼がそこには必ずいたのだから。
失う恐れはあったかもしれない、だけど、仮の姿を装うことは、真実を曝す時間があるときにはそれほどしんどいことじゃないんじゃないかと思う、たとえば、役者が役を演じるとき、「あの人は普段もあのまんまの人だ」と思われ続けるのは辛いけど、それが演じている姿であると曝せる仲間としての共演者や演出家がいて「演じてる」ことをきちんと受け止めてくれていれば辛くなることなどないから、彼女もきっとこれまではそれほど辛くなかったんだろうと思う、何より辛いのはこれからだ。曝せる人がいないまま、あと何年待ち続けるのだろう、たった一人で世の中に怯えながら、それでも少しずつ世の中に自分の足場を作り上げていかなければならない、彼が戻る日のために、やはり彼女はひたすらに仮の姿を演じ続けて、それを日常として根付かせようとしていくのだろう。
愛なのかわからない、愛だとしてそれが美しいとも思わない、正しいとか間違っているとか、そういうことを言うべきことではないと思っている、ただ、そうした生き方をするしかない人として、どうしても共感してしまうものがある。

非日常を生きる感覚のない人には、そう生きるしかない人がどれほど細やかな日常を大切に愛おしんでいるかが判らないのかもしれないけれど踏みつけにする資格は誰も持たない、もちろん同情など欠片も必要としていない、私は私の細やかな日常を必死に護るしかないのだし、この先の彼女だってそうだろう、カズPがよく口にする「我々がそうであったかもしれない想像力」などなくても、私が大切と思うものと彼女が大切と思うものには少しも違いがないことが判る、私が毎日少しでも幸せを感じたいと願うのと同じ気持ちで、彼女に少しでもかつてより幸せを感じて欲しいと願うし、人が心の中で密やかに感じる幸せについてあれこれ言う傲慢さから少しでも離れたところに生きて欲しいし、私もそうでありたい。

どこかで湧いた小さな泉の岩を伝う流れのように、ひたひたと日常は流れ落ちていく。
分かれ、合わさり、太く細く流れを変えて、やがて海へ向かう。

  1. 2012/11/07(水) 22:45:17|
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終了。

10年ぶりのアンファンテリブル・プロデュース、「愛のゆくえ(仮)」が終わった。
Aプロ終わって以降で使わない道具を梱包、Bプロ終わって布団だの電子レンジだのCでは使わない道具を梱包+Cで使わない照明機材やスピーカーもさっさとバラし、Cプロ終了後に舞台のバラシと効率良く撤収しても揃ったのは午前0時近く。


愛仮集合写真
チラシに名前を載せ忘れられた小形くんはここでも何故か撮り忘れられている。


朝まで上野で打ち上がったが、まったく酔わなかった。
高木さんは程よい加減で引き上げられたが、ムック船長も赤ペン先生も途中しどけなく入眠されつつ朝までお付き合い下さり、寺十キャプテンは真っ直ぐ歩けないほどへべれけになりつつ娘の彼氏に「合格!」と太鼓判押したりして、なんだか誰かの葬式で集まった親族の宴席みたいだったなあ。
誰かが死んだときに飲むのと、芝居が終わって飲むのは、似てるかもしれない。

役者の誰とも個別に話すことなく、キャスト・スタッフの誰ともお金の話をしないまま打ち上がってしまったダメ・プロデューサーでした。

ご支援・ご注目戴きありがとうございました。
お足運び下さった皆さん、3本コンプリートの皆さん、本当にありがとうございました。
twitterでのご感想、togetterで高木さんがまとめて下さっています。
http://togetter.com/li/402316?f=tgtn

12月1日よりポレポレ東中野で公開の映画「愛のゆくえ(仮)」でまたお会いできますよう。

  1. 2012/11/06(火) 18:42:01|
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