仕事部屋

カッコさん。

母の誕生日。墓参りは一度しかしたことがなく亡くなって何年経ったのかもわからない。そもそも母の生年を知らない。母がどういう人だったのかを知らない。

四万十川の源流にほど近い村に生まれた彼女は、何を求めて東京に出て来たのか、それがいくつのときでどんな出逢いがあって父と結ばれたのか。彼女には目指すものがあったのか、想う人がいたのか、幸せな人生であったのか、何も知らない。

父とは12年間、母とは18年間しか暮らさなかった。今や弟子や友人の方が余程付き合いも長く、あれこれを知っている。家族であっても知ろうとしなければ知らないままに別れてしまうものなのだと気付いたときにはもう手だてがない。

ただ私は私のことだけを知っている。彼女が私の母であったこと、彼女が愛した人が私の父であったこと、私が幸せな子どもであったことを知っている。

  1. 2013/07/31(水) 00:03:58|
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いっそ失う。

他人に向ける言葉の軽卒さを自覚してから言葉を飲み込むようになった、それでも喋り逃げの場はまだあって、飲み込む時間とのバランスもそこそこには取れるので、飲み込むことにも慣れてきたところだが、そうなると今度は吐き出すべきところで喉が詰まる、今ここで全部ぶちまけて泣きつけば随分と楽になるだろうにという機会にも怯える気持ちで飲み込んだままやり過ごし結局は自家中毒を起こすのだから、きっとそもそもがそういう体質じゃあないんだろう。

お喋りな子どもじゃあなかったと思う、思春期のきゃっきゃした毎日でも必要以上のことを話すタイプじゃなかった、ただその頃には何もかもを話す必要があると感じていたからお互いがそう思っているトモダチとは何時間でも話していた、今思えばどうでもいいことだけどあの頃には何より重要なことに感じられて、いちいちが重要な会議のような気分だったんだと思う。

溜め込んだ末にやっとの思いで吐くそれも、反射で跳ね返すそれも、流れの中で不意に浮かび上がって流れ出すそれも、言葉を選ぶ時間がどれだけあるかの違いだけで、やはりすべてが自分にとっては排泄なのだ、時折には本当に選び抜いて真心を飾って誰かへの贈り物にするような言葉もあるけれど、そうするからといってそれを受け取る人がそのまま気に入ってくれるとは限らない。

思考がぐるぐる気味のときには大抵が言葉に捉われている、あの言葉の意味はなんだったのだろうとか、あの時あんなこと言わなければよかったとか、何か行動でしくじったときにはすっぱり諦めがつくのに言葉のしくじりには常々後悔がつきまとうのが不思議だ。

言葉には意味があるし感情があるし使う人の感覚や環境で使い方が違ってくる、大意という括りだって結局は受け取る側の括りでしかない、家族だって友人だってニュースで見聞きすることだって文字で書き表されたものだって、真意などというものは地球上の誰にも読み取れないし、真意を読み取って欲しいと思いながら言葉を使う人も実はそれほどいないだろうと思う、それでも誰がいつどこでああ言ったこう言ったは情報の一つに違いない。

人を見るとき、その人の印象はどこからどう発生してそうなっているのかと自分の中にあるその人ファイルを手繰り寄せることがある、あの時にああだったこうだったばかりが積もっていて今目の前のことを見逃していたりして、だからこそ新しいページを増やすときに大きな歓びを感じたりもするのだけれど、何十年も間の空いた同級生なんかだとあの時と今の間がすっきり埋まらなくてまるきり新しいファイルを作るような場合があって面白い。

そういえば昔何度か写真を撮って貰ったことのある写真家の荒木さんに「逢うたびにまるで印象が違うなあ」と言われたことがあった、やっぱり荒木さんは画像でファイルするのかしら、私にとってはスタジオの荒木さんも酒場の荒木さんもすき焼き屋の荒木さんも全部一つのファイルの中に収まるのだけど、まとめたって大した分量にはならないんだから、印象ごとに別のものとしてファイリングされているとしたらそれぞれの情報はきっとちょびっとなんだろう。

よくよく考えてみれば、ファイリングしている他人の言動なんてものは全部が全部自分がどう受け取ったかという自分フィルターがかかっている、つまり本来は自分ファイルに収めるべきもので、自分がどう感じたか何を思ったかというフィルター抜きでただその人がどこで何をしたいつどう言ったという自分がそれに何を感じたかを排除したありのまんまの記録はとても少ない、そもそも記憶と記録は完全なる同一ではないのだから、それだって自分の記憶というファイルに収めるべきことなのかもしれないし。

恋に悩む人へのアドバイスで「過去を忘れなさい。すべて今を起点に考えなさい」というのをどこかで目にしてとても的確で有益な進言だなあと感心したことがあった、働く女性たちを主人公にした海外ドラマにも「複雑に考えちゃダメ、大事なのはあなたがどうするかよ」みたいな台詞があってそれにもうんうんと頷いたけど、それってつまりは何かについて考えたり決断したりするときに自分の中で重要な資料としているものはすべて無効ってことなのかもしれない。

すべてが自分フィルターを通した印象や記憶でしかないはずなのに、それが裁判になると人の言動をあれやこれやで検証して「事実」に振り分けることができるようになるのが不可解だ、それが陪審制度だったりすると尚のこと検証した事実をこれまた赤の他人の自分フィルターに通して認定する厄介、個人の記憶や印象でしかないことも赤の他人が共感すれば現実での事実としか揺るがないものになる。

だからトモダチとお喋りするんだな、自分の感じたことを共感で証明してもらうために、事実として認定するために、正義を見極めるために、果てしなくお喋りしていたあの頃には世の中のすべてをそうやって裁いていた、何が好きで何が嫌いかを凸凹に削り分けて自分自身の型を作る時間だった、自分と自分以外の人の違いを一つでも多く見極めることで自分を知ろうとしていた。

今も時々同じことをする、これってどうなのよと思うことは裁くに相応しい相手に話して意見を聞く、共感してくれればほっとするし反論があれば考え直す、自分と違う感覚を面白がって世の中には色々な人がいるものだなあと認識することでやはり自分を知っていく、この年になっても完璧な型ではないし明確なはずの自分自身がぼやけて見えることがある、あの頃と違うのは型抜きの線引きが自分主体じゃないことで、今は自分に描けない線を他人のそれを借り受けて点線として使えるからかつてよりは効率が良い。

あの人は私を受け入れてくれないと感じる苦しみは、私はあの人に受け入れられていると感じられないに主語を入れ替えればすべきことが見えてくる、それがいつか私が感心したアドバイスやドラマの台詞の真意であって、某がうまくいかないと感じる焦りは、私は某がうまくいっていると感じられないに主語を入れ替えて立ち向かう、そうするしか物事には解決がない、他人のココロは動かせないが自分のココロは動かせる。

常々そういう筋道で物事を飲み込んでいるせいで話し合うことが苦手だ、そこには人の言い分を聞く面白さしか感じられず、結局はいつも同じやり方で飲み込んでしまう、相手に答を求めないことは時に思いやりとして機能するけれど本質では相手の答を必要としないエゴでもある、だがそれがなかったら何があるのかとも思う、摩擦を避けてエゴを隠すこととどんな成り行きにも付き合う覚悟でエゴを曝すことのどちらが誠意なのか、いつも悩まされる。

喋ることも書くことも言葉の使い道として連動しているんだろう、人に会わず話さずでいるときには書く言葉も沈殿してつらつらとはいかない、言葉を飲み込むのは職務に対する怠慢だと思い知らされた、誰かに対してとかどういう形でとかに限定して言葉を飲み込むという能力がない、そもそもそういう基準で言葉を選ぶという機能が備わっていないらしい、相手や場所を選んで喋ることを使い分けられない無能、もしかしたら私こそが言葉を信用していない。

こうして書いておきながら、これまでに何度も同じことを考えてあちこちで似たようなことを書いている気がしている、思考や言葉は都合良く変質した方が良いだろうに、拘るつもりなどなくてもなかなか目新しい感覚に届かない、自分の感覚が一発で刷新されるくらい目の覚めるような何かと出会さないものだろうか、またはこんなふうに象られた自分を捻り潰して変形させるくらいの力強い何かと出会いたい、そもそもが自分自身に飽き飽きしているのだ。

今はなんにもできない人でいたいと思うのに、もしかしたらその昔はなんでもできる人になりたいと思っていたのかもしれない。


webマガジン[AM]「愛とお金」特集にコラムを書きました。前編配信中。

8月3日(土) 「愛のゆくえ(仮)」連続上映vol.4 ×「闇打つ心臓」(1982年8mm版) @ポレポレ坐、予約受付中。

七里ガ浜オールスターズ8月公演の台本を書きました。
七里ガ浜は愛仮のパートナーだった瀧川くん主宰の劇団。この人のやることはいちいちが私の筋道に気持ちよく重なるので何を一緒にやるのも楽ちんでいい。まだ稽古初日の本読みに立ち会っただけだけれど、「モグラ町」シリーズのダメなオトナたちを引き継いだキャラクターを、モグラなおじさんたちに負けないくらいのキャスト陣でお見せします。因みに出演の一色洋平くんは「はたらく・くるぶし」脚本の一色伸幸氏のご子息、彼は今ちょうど私が一色さんのホンで「くるぶし」やった年齢くらいじゃないだろうか。
かたや私は千秋楽で46歳、「くるぶし」から25年、演劇人生39年目にして自分の書いたホンを客席で観る初体験!

七里ガ浜オールスターズ公演「オーラスライン」前川扱いのご予約はコチラからどうぞ。


今年の夏もどこかでお会いできますよう。







  1. 2013/07/23(火) 18:02:13|
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不感症の恍惚。

ぼやぼやのうちに月が変わるのは毎度だが淡々と過ごしてもこれほど忙しく日がめくれるものなんだなあと新鮮、何事もない日々が曜日や月の感覚を麻痺させるのか昨日と思った日はもう何ヶ月かの昔でずっと先のことと思っていたことが寝て起きての延長にある、いつも通りの不安といつも通りの焦燥、解消しようのない問題の数々もただ馴染んでもはや何事でもない。

人に会ったり何かを観たりしないことでしか休めないとようやく思い知ってこの頃は少しだけ休むのが巧くなった、きちんと休まないと何もできないことが先に判って、休まなきゃという重圧に悶々と過ごしてきたけれど、どうしたら休まるのかを真面目に考えた成果としてオンとオフのスイッチをやっと探り当てた感じ。

身体と頭を休めていると心がきちんと働くような気がする、感情をうまく認識できないのは性格ではなくて脳の障害なのだそうだけど、悲しむとか怒るとかの負担の大きな感情ほど自分のそれを認識できず、出来事を反芻して筋道を通した結果の「ココは腹を立てるところ」「ココは悲しむところ」という理解に辿り着く、子どもの頃からずっとそうだったけれど、怒りと哀しみの感情の欠落がこの数年はより顕著になっている。

自分の心の針が振れていてもその目盛りが読めない、悲しむことを最初に捨てて次に怒ることを捨てたんだと思うけど、出来事の筋道を解釈する形でしか自分の感情がわからない、演じるときには筋道がはっきりしているから日常よりずっと楽に感情を作れる、つまり私にとっては日常のそれも演技でのそれも常に感情は「その場に相応しいものを作る」のが最初で、演技であればそれを見せるし日常では見せない。

という話を医者にしたら「感情を作る」という感覚がそもそも違っているのだと言う、「感じませんか」「感じません、いや、感じているのかもしれないけれど、自分で何を感じているのかがわからない」云々の会話、他人はそうじゃないということを懇々と説かれ、健全な人にとっての感情は「筋道に合わせて作るもの」ではないと知った衝撃、どおりで皆筋道が通らないことを言うと納得もしたけれど。

もちろん子どもの頃よりはずっと感情のあるフリが巧くなったはずで、怒ったり泣いたりのバリエーションが増えている、但し反射反応でのそれは未だにない、出来事があって何やらモヤモヤするものがあってじっくり筋道を考えて出来事の解釈が通って初めて「腹を立てる」とか「悲しむ」とかの的が見える、そこに向けて自分の感情を作っていくわけで、スムースにいけば一晩だけど三日三晩かかることもあれば一ヶ月経ってもまだ出来事の筋道が理解できずに充てが見つからないこともあり、目指すべき感情がわからないままの出来事は結局忘れてしまう。

不意に泪が出ることがある、その時には大概理由も原因もない、膀胱がいっぱいになるのと同じようにただ漏れるのに近い、もちろんそんなはずはなくてきっと何か心が動いて感じ取るからそうなるのだろうけれど、自分が何をどう感じてそうなるのかが、その時にはまずわからないし、そして実際にそのトリガーが他人とは大きくズレていたりもする。

こういうところを「不感症のくせに」と一発で見抜いたのは後にも先にも師匠だけだった、言われた当時は自覚がなかったから「こんなに繊細な私をそう呼ぶのは何故だろう」と疑問だったけれど、理屈で後付けした感情しか持てない資質は若さの欠点と見逃してくれていたのかもしれない、思えば私に充て書いたあの少女はまったくの不感症だった、いつから見抜かれていたのか。

面白いことや楽しいことは人の顔に映るから視て判る、心の負担や不快な感情は多くの場合押し殺され隠されるからそれがそうだと判らない、だが恐怖や怯えだけはすぐにわかる、わかることには過剰に反応する、私は鬼ごっこやかくれんぼが怖い、ただの追いかけっこも怖い、人の感情が怖い。

こうした不全を性格と思っているうちは開き直れたけれど障害の一種と言われれば俄然問題意識が高くなる、ある程度は薬で調整することもできるそうだけど自分のことを自分でコントロールできないのはやはり怖い、これは自分の性格だと思っていたこれまでだって誰に教わるでもなく解釈から感情を作り上げ演じるという方法を自然と身につけておっかなびっくりながら世の中に関わってきた。

盲人が点字を学ぶのと同じで、私は小説の描写や映画や演劇の演技や生身の人々の様子から感情を学ぶ、ところが学ぶという意識のせいかそれらすべてが面白く思える、自分に向けられるそれに真っ直ぐな反応ができない、誰かが私に対して怒ったり泣いたりすることがあっても、その理由やそれがどれだけ負担なのかはさっぱり検討がつかず、ただそこに見える感情が興味深い。

子どもの頃、父を激怒させたことがあったけれど、記憶しているのはその時の父の表情や動作や台詞ばかりで、それを自分が怖かったとか悲しかったとか感じた記憶がない、その頃からそうだったからそういうものだと思って大人になった、そこが「何か違ってる」とはまったく気がつかないままだった。

演じるときにはすんなり気持ちが動く、筋道に沿った感情も筋道から外れた感情も必要と思うものを作れるし見せられる、台本があることや稽古する時間があるのは大きな理由だけれど、エチュードでもできるんだからその出来事が起きる時間が限られているからできることなのかもしれない、永らく自分の不全に気付かずにいたのは演じる時間があってその中ではまるで健全に心を動かしていたからだろう。

20代の私を診察した医者は「アイデンティティが出来上がるより先に演じる技術を身につけてしまって、演じることで周囲と関わってきたから、もし演じることをやめたらアイデンティティのない幼児のままに社会と関わることになる」と言われた、それが最近になってようやくどういうことか理解できた。

演じる私に嫌気がさして、そもそも「私」なんてものは幻想だと吹っ切ったつもりになっていた、「私」という自意識が自分を苦しめているのだと思った、すべては意識の問題で表面的なところに問題があるとは少しも思っていなかった、その時に問題だと思っていた「私」という自意識の在り方は多分正しかったのだと思うけど、そもそも大した苦しみもなく自意識の在り方を変えてしまえることに問題があるんじゃ?ってことで。

それ以前に感情処理ができないことのデメリットはなんだろう、人と関わることにもの凄く労力が必要だしこの先もトラブルは避けられないだろうけれど、悲しんだり腹を立てたりせずに生きていく方が楽じゃないか、少なくとも私自身は他人の感情にはできるだけ触れたくない、だからほんとにしんどい時は小説も読まないし映画や芝居も観ない、大体観ていてもそこで演じられている人物の感情がわからないわけで。

こうやってワカラナイって言うと共感できないとか理解できないとか想像できないの否定的な主張に捉えられ勝ちなのだけど、私の場合のワカラナイは真実得体が知れない「未知」だから、何故何が判らないのかと追及されると大変に具合が悪い、それは感情的反応ですか?思考の伝達ですか?本能の発露ですか?というところから教わりたい、自分にないものだから他人のそれは尚更にわからないというだけなのだけど。

無神経とも性格が悪いともキチガイとも言われてほんとだよなあと常々思う、思うだけで不快がない、不快がないから反省もない、反省がなければ繰り返す、繰り返すからまた同じことを言われる、しかし何度言われてもほんとにそうだなあという理解から先がない、その代わり謝ることだけはちゃんと覚えた。

このタイプの障害を持つ人の多くはやはり自分のそうした不全を障害と思っていないままの人が多くて「どうしてこんなに生きづらいのか」と悩み抜くんだそうで、芸事の世界でなければきっと私も悩んだんだろう、要因への誤解はあっても開き直りの早かった私はまったくお気楽だったし今も自分の不全に対して悩んだり苦しんだりはしていないし仕事にも日常にも然程差し障りがない、今のところ差し障っていると自覚できるのは近しいところでの人間関係だけだ。

私に理解や共感を求める人は大概がとても感情豊かな人で、無神経な私に腹を立てて泣いたり喚いたり拗ねたりするその人たちに、色んなことが感じられていいなあと羨ましいような、自分がそういう状態にならないことに安堵するような、そんな曖昧なことしか感じられない、「怒るのは傷ついた人のすることだ」と教わったことがあるからそれはそうとわかるけど、その気持ちがわかるかと言われると正直まったく不可解で物事の筋道を理屈で解釈した先に「それは怒るところ」と飲み込むだけなので、筋道の通らない感情的な反応に対してはお手上げになる。

理解に至らず突き放されるのも理解を求めずそこを離れるのも私にとっては違いがない、会社をクビになるのと自分から退職届を出すのとでは怒りの感情の行く先が違うから意味が違ってくるのだろうがその感情がなければ仕事をやめるという行為そのものの意味に違いはないだろうと思う、理解されることはなかろうと思うからできるだけ人と関わらないようにと配慮する、努力する姿勢だけならば他にも手段はあるだろうが、結果が出せる努力をしようと思うとそれしかない、性格だろうが障害だろうが自分自身が持っているやり方の一つには違いないのだし。



  1. 2013/07/17(水) 03:01:08|
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