仕事部屋

あたらしい景色。

七里ガ浜オールスターズ公演「オーラスライン」、無事千秋楽を迎え、10ステージ終演、大変に好評で全ステージ完売とは有り難い限り、お盆休みで帰省中の方も多く、観て欲しかったのに観てもらえなかったケースもあって残念ながらこの時期こそで芝居を観るために上京される方もおられ、やっぱり客席とは一期一会、出会えなかった人=いつか出会える人、ともあれ公演中はずぶずぶと1週間呑み続け、本番やった役者より本番やって収録やって次のネタ作りと結婚パーティーの準備もしてた英次よりぐったり。

公演の感想をまとめたサイトはこちら。
主宰・瀧川英次のブログも覗いてみてください。

そして46歳の誕生日、前夜は独りでdmxにいて♪気絶するほど悩ましい〜♪ひこうき雲〜♪グッバイマイラブ〜♪コーラスライン(サントラ盤)と前川メドレーになったので充分に祝ってもらった感があったのだけど、誕生日を楽屋打ち上げのスライドショー(!)で祝ってもらい、仕事があったので小形くんが持ってきてくれた花束抱えて打ち上げを抜けてしまったが、七里ガ浜オールスタッフ大森くんセレクトのケーキ美味しかった、普段甘いものを食べないからケーキがあると特別な感じがするのですな、やはり。


IMG_1663.jpg小形くんセレクト。

IMG_1661.jpg大森くんセレクト。


これで本年の演劇活動は一段落、あとはコツコツとワークショップを重ねるだけ。
来年春にはワークショップの連中と新企画を立ち上げる、自分が表に出る企画は来年の夏に準備中。

なんかもう演劇なんかに関わらずに暮らしていきたいと終わるたんびにいつも思うし、終わったことにはまったく関心がなくなってしまうんだけど、常に二つ三つはやりたいこと抱えてるのも毎度で、結局はやりたいことなくなるまで終われないのか。

終わらせるために続けてる感覚は、もはや演劇だけじゃなく日々の暮らしまでがそうなっていく、どこかの国に移住するか、人生まるごと断ち切るか、なんでもいいんだけど早いとこ終わってくれないもんかと思い続けているのは、決して後ろ向きなんかではない。

ひとまず秋に予定されていた入院と手術はキャンセル、次に倒れたら緊急大手術と承知でなんとかなると高を括る、痛いとか苦しいとかより何もできなくなることのほうが辛いし、倒れて息絶えることよりも倒れることもできず生き存えることのほうが怖い。

こういう気持ちをどう書き表せばいいのか、随分長いこと言葉を探している、植物のようになりたいと言うと望まずに植物状態にある方々に誤解されるだろうし、蒸発したいって言うと世の中から逃げ出したい願望みたいだし、蒸発はむしろ気化、水分になって跡形もなく消えるとか、本来そういうイメージで蒸発という言葉が使われているはずなんだけど、消えることができないなら鍾乳洞の湧き水とかも涼しげでいい、鉱物でもいいな、もしくは土そのもの、いやいっそ景色になりたい。

あーあなんてため息つきながら、渋々に新しい1年を始めている次第。





  1. 2013/08/21(水) 03:55:23|
  2. 雑感
  3. | trackback:0
  4. | comment:0

悪あがき反抗期。

七里ガ浜オールスターズ「オーラスライン」の初日が無事に開幕。
稽古場での通し、前日のゲネプロ、初日と3回目の見物、限定席って言ったくせに増席もあっての満場、そわそわと開場時間を立ち飲み屋の焼酎で誤摩化し、客席へ。

二代に渡るご縁あってお誘いした一色洋平くんはかなりの緊張を見せていたけれどファンに支えられてたちまちにいつもの調子を取り戻した感じ、カンが良く安定の実力で期せずして舞台骨となった浅野千鶴ちゃんがおじさんたちをうまいこと運んでいく。
おじさんたち、実は案外に小心なところがあって、開場直前に交わした雑談の一言をもやもや気にするようなゴンザこと本井さんの繊細、悠々な印象でぶっちぎりの振れ幅を見せるガンツさんの狂気、今どき貴重とも言える質の演技ができてちゃんと今どきの加減をわかっている有さんのケレン、数年ぶりの舞台出演と言いつつ誰より楽しんでるけどこの芝居はこの人がいなかったら出来上がらない野口くんの軸足。

不安になるんだろうなあと予想していたけれど、まったくそれを忘れさせるチームワークに安心して乗っかれる。

そして座長・瀧川の見せ場、稽古場で口を出しているので仕上がりも気になるのだけど、それ以上に、ホンを書いた役割として、彼の台詞がちゃんと届くかどうかが気になる。
台詞の出来という意味ではなく、他の流れがきちんと出来上がっていて初めて響く言葉、という意味での塩梅。

手前味噌になるけれど、瀧川は巧い。
少なくとも私のホンに関しては、的確に掴んで丁寧な演出を重ね、ホンには書き切れていないニュアンスもしっかりと拾い上げて演出で補強してくれた。
その役者ぶりは、昨年の「愛のゆくえ(仮)」で充分に承知しているけれど、今回は強烈な個性を放つメンバーの中に後からざぶんと飛び込む役どころ、二人芝居なら気にせずにやれる時間の積み上げが心許ない。
にも拘らず、こなす。

良い座組だなあというのが最初の感想。
次に思ったのは、とても個人的なこと。

「シャボン玉ホリデー」「お笑いオンステージ」「ドリフの全員集合!」「雲の上団五郎一座」などの構成・演出を仕事にしていた私の父は45歳で亡くなった。
生前は「生きて喜劇の鬼となる」という言葉をあちこちに遺した厳しい人だったらしい。
その父が、「死んで喜劇の神となる」という言葉を最後に45で亡くなって、私がちょうどその年齢になった時にやっていた「愛のゆくえ(仮)」は、父の仕事とは随分と方向性の違うもので、私は自分がようやく父の呪縛から逃れられたような気になっていた。

「オーラスライン」の千秋楽が誕生日なので、それまではまだ45歳、父の最後の年と同じ年齢なわけだが、その最後の時期に、結局私は喜劇を書いたんだなあ。

つまり、初めて演出を手渡した客席で、七里ガ浜オールスターズという短い関わりの面々を眺めながら、目の前に展開される物語を、これって喜劇だよなあと感じたわけで、喜劇の鬼だか神だかを名乗った人が身内にいるってことをふと思い出し、45歳の最後にどうしてこのホンだったんだろうと考えると、なんだかそれまでは鬼とか神とかに猶予を与えられていただけで、結局は「あんたのやることはここ」って最初から決められているというか、すっぽりはまり込むだけの隙間があるのを延々迂回して諦め悪く抗っていたんだなあと、そんなことを飲み込んだ。

だからといって今さらに何ができるわけでもないし、そうと承知したからといって鬼にも神にも届きゃしないのだけれど、長い反抗期を終えたような、おかしな気分だった。
つまり、今の私にコレを書かせた瀧川くんて人にはプロデュースの才もあるってことだ。

「オーラスライン」はお陰さまで大変に好評、私が父の亡くなった年齢を越えて46歳になるその日まで上演中。

詳細はこちら。

七里ガ浜チラシ
七里ガ浜チラシ裏


ご予約は前川扱いでどうぞ。

  1. 2013/08/14(水) 17:14:05|
  2. 雑感
  3. | trackback:0
  4. | comment:0

それともライカ犬に。

ずっと片想いのつもりでどうにか好きになってもらおうと頑張っていた人に、数年後になって「なんであんとき付き合ってくれなかったのさ」と詰ったら「オレは付き合ってるつもりだった」と言われたことがかなり根深いトラウマになっていて、恋愛関係に於ける区分がつけられなくなった。

裸を見せることや添い寝することに違和感のない男の友人がたくさんいるのは昔からだし、そもそもがあやふやな区分ではあるのだけど、「付き合うってなんだ?」という長年の疑念が、その「付き合ってるつもり」という、しかも過去形での発言によって一層謎に包まれ、もはや岩の如し。

幸いにも年齢を重ねることで、そうしたことに拘らずともいい環境が整ってきて、気にせず楽しめる機会も多くなったけれど、いざ「お付き合い」を考えるとやっぱりお付き合いって何するんでしょうと白痴のように惚けてしまう。

簡単に言えば、私が思うところの理想の恋人はセックスができる友人で、理想の友人は恋ができる友人だから、その土台にはトモダチ付き合いがあるのだろうとわかるのだが、ならばトモダチ付き合いってのはどういうことかと考えると日頃は至極便利に飲みトモダチ趣味トモダチ愚痴トモダチなどを選び分けていて、それらのどこに分類しても差し障らないトモダチとの付き合い方を一例としてのトモダチ付き合いと呼ぶしかない。

私の理想ではそこにセックスも入り込む。お互いがその気になったときに誤摩化さずに曝け出せて受け入れられるのであれば、トモダチとのセックスは心地良い。それが原因でこじれるようなことがあるとしたら、それは自分の判断の誤りなんだからしょうがないけれど、今のところそういう例もなく、それが起因となってそれまでのトモダチ付き合いが希薄になって惰性のセックスだけが残るというような寂しい展開にも出会していないから幸運なんだろう。

家族であったりトモダチであったりのオールマイティーを恋人に望んでいるということなんだろうけど、実際、そういうトモダチはいて、家族のように支えてくれ、恋人のように求めてくれるトモダチは必然とても大きな存在だけど、それならどうして恋人じゃないのかというと、ただ単に恋愛感情の有無だけが違って、その違いだけが永遠にそれらを分け隔てるのだと思う。

つまり異性に求めるものは恋人もトモダチも同じだ。私が女性とのセックスも好むタイプであれば異性に限らず親しい他人全般に同じものを求めるかもしれない。だから、と言うと短絡的に過ぎるのだろうけれど、どうにも区分がつけづらく、ひたすらに自分の胸の内を探って恋愛感情の有無を確かめることになる。

問題が生じるのは、そうした感覚が他人に共感されづらいことで、トモダチだからと線引きしていたつもりが「付き合ってるつもり」に思われていたり、恋愛感情を明確に伝えていてもトモダチとして認識されたまま少しも関係が揺れなかったりして、なかなかに不自由だ。

「付き合ってください」と言ってくれたら大助かりなのだけど、そこで「はい」と返事をしても実際の付き合い方が何も変わらなくて不満を抱えさせることも多く、いつまでたっても「ほんとにオレのこと好きなの?」と大真面目に訊かれることになって、これはこれで困惑する。

私にとって純粋なトモダチ付き合いは小宇宙のようなものだけど、恋人は恋愛感情という引力が働いて軌道上に乗っかった惑星、お互いが地球から見上げる月のようにそこにある存在だから、そこにある理由を疑うことがない。
そこにいる、ということが見えていれば、それだけでよく、ややこしいことなどない。

なのにどうして恋人という存在はいつもややこしいものなのか。

「オレたち付き合ってるんだよね?」と訊かれる時、大抵はそのつもりがないのは、セックスしてもトモダチという私の貞操観念のなさを「そんなはずない」と勝手に美化してるせいだろうと思うけど、そんなことを言うと刺されそうだから言わない。同様に、デートするのは恋愛感情前提みたいな方程式を当てはめられた場合には私ばかりがいつも片想いの態になってつまらない。

けれど、トモダチとはそういうことをちゃんと話し合える。議題がどちらかの恋愛感情や欲情であっても、照れたり逃げたり誤摩化したりせずに堂々意見し合えるから、ややこしくなることもない。恋人という関わりになるとエゴだのなんだのがこじれてそうした有益な部分が欠けてしまうのは勿体ないなあといつも思う。

恋人って関係は、そんなに特別だろうか。エゴを剥き出したり支配したり依存したり嫉妬したり義務を背負ったり放置したり嘘をついたり言い訳をしたり、トモダチにはしないだろうことを恋人にはしてしまうなんて、そんな関係ならいらない。

だけども本当は、それら全部を飲み込んでのなんでもありで、何があってもそこにいるのが一番いい。
トモダチにそれを望むのは負担が大きいだろうし、自分がそういうトモダチでいられるかどうかは自信がないけれど、恋人にはそうありたいし、そうあって欲しい。そうなれる原動力が恋愛感情なんだろうし。

結局、私は「付き合う」ってことに対して、ものすごく大雑把に「なんでもいい」と思ってるのかもしれない。トモダチでいられてセックスができて恋愛感情があれば、呼び名が恋人だろうが愛人だろうが奴隷だろうが、その他はなんでもいい。なんでもよくてなんでもありで、ただそこにいてくれたら。

それは男にとってかなり都合がいい定義であると言われたのだけど、果たしてそうかしら、むしろ私にとって一番都合がいいのだからお互いの都合が良くて何よりじゃないかと言ったら、君は女の人と付き合うといいよと結論された。理想を適えてくれてお互いがちゃんと満たされるのであれば無論女の人と付き合うことはまったく厭わないのだが。

月の軌道は地球に対して楕円を描いているそうだ。近づいたり離れたりしながらぶつかることも重なることもねじれることもなくぐるぐるしているなんて、とても素敵だと思う。

だって私はアームストロング船長になりたいんだよ。




  1. 2013/08/06(火) 00:40:15|
  2. 雑感
  3. | trackback:0
  4. | comment:0

マシーン願望。

泣きついてくれる人がいると、嬉しい。パソコン通信時代の頃から一度も会ったことがなかったり名前すら知らない人らの傷みに触れる機会が多く、その人たちはたまたま吐き出さずにはいられないタイミングで(オンライン上の)私に出会しただけなのだろうけれど、その一瞬だけであっても誰かが私を必要としてくれていると感じられることで私自身がつうっと掬い上げられて楽な気持ちになれたりもする。

私自身は他人に泣きつくことが下手で、飲み込んでしまいがちだ。ついつい零した些細なことでも真摯な対応をしてくれる友人はたくさんいるのに自分にとって重大な問題ほど吐き出せずにいる。愚痴と笑ってくれる友人に助けられることは多いのに、重大な問題を人に打ち明けて本当に親身になって解決の手助けをしてもらうようなことがないのは、そもそも打ち明けることがないからだ。

愚痴りたくなる案件には公私に拘らず対人関係での不快な出来事が多いのだけど、この場合、Aさんとのいざこざに思い悩むときにはAさんを知る人に話したいわけだが、そうなるとAさんが私に向けた一面を暴露することになり、それがAさん自身の品性やら知性やら人間性やら仕事への姿勢やらに傷がつくような場合もあり、うかうかと零せない。

その他にも生活上での金銭的な問題、健康上の不安、書く仕事に対する逡巡、演劇にまつわる(ことワークショップなどの具体的な方向性を自分が持たなければならない)あれこれなど、数え上げれば誰かの意見を必要とする悩み事や笑い飛ばして欲しい愚痴は尽きないのだが、どれもなかなか口にするのが難しい。

そもそも他人に話せるくらいに言葉で整理がつけられたらその時点で自分の中での問題も七割方は解決していたりする。つまり、他人に話したいタイミングというのは「もやもやとなんだか重苦しい気持ちがあってその理由の一つにこういうことがあるのだけどそのことの何がどう問題なのかよくわからない」というようなタイミングなんじゃないかと思う。そういう時は他人に話してああでもないこうでもない言われるうちに消去法でもやもやが晴れたりするし、もやもやが晴れなくとも他の部分で不意に前向きな気持ちにさせてもらったりの効果があるから有り難い。

そうしたもやもや以上の、もうちょっと重苦しいカタマリのようなそれになるとそうはいかない。医者に診てもらうようなもので、どこがどんなときにどう痛むのかをきちんと言葉で説明できないことには医者だって診断のしようがないだろうから、ある程度、自分が感じている問題意識を整理する必要があるのだが、私はこれがあまりうまくない。どこか本質的なところで自分の問題を他人に委ねることに抵抗を感じているのか。

なので大概は「意見を訊きたい」に留まる。これこれのことにこのような問題意識があるのだがそれについてあなたはどう考えるか、という意見を伺いたいわけだから、私はどうしたらいいんでしょうに応えてくれるような親身な人じゃなく、問題そのものを理解して自分なりの意見をしてくれる人が望ましい。

それでもうまく自分で解決できないときには、私の問題意識を理解してただひたすらに頷いてくれる人に、ただ泣きつく。そういうときにはあれこれの意見よりも、ひたすらな優しさが欲しかったりする。この人は私の味方だと思わせてくれるような甘ったるさ。

そうと自分でも思うのに、私自身は他人に泣きつかれたときにそういう甘い優しさを向けられない。無駄にあれこれ意見して傷に塩を塗り込んだり別の問題を穿り返したりしてしまうのはどうにかしたい。ただ頷いて愚痴を聞くとか、余計な意見をせず悩む人を見守るとか、ただただ無心に励ますとか、そういうことをしたいのに、できない。

結果、思いやりがないと言われる。ないわけじゃないので、その人に伝えられるような思いやりの形がない、ということなのだろうけれど、他人が自分に何を求めているかを感じ取るのが下手なんだろう。褒めてくれとか貶してくれとか慰めてくれとか励ましてくれとか、そういう要求を察することが相手を思いやることなのだとしたら、確かにその能力は低いと思う。

向けられる悩み事は、裁判沙汰のいざこざだったり生きづらさの壮大な苦しみだったり仕事上のトラブルだったり夫婦の寝室の秘密だったり様々で、問題そのものに理解は至らなくとも思い悩み苦しむココロには寄り添えるはずだから、確かに具体的な意見ができずにただ話を聞くしかできないこともあるのだけど。

懸命に慰めた後日にもっと具体的な解決法を期待していたと言われることも、自分なりの意見をしてそんなことが聞きたくて話した訳じゃないと言われることもあって、そこのところの判断が難しい。苦しいんだろうなと察することはできても、だから今私にどうして欲しいのか、私がその人にどう接するのがいいかという展開を読み取れない。

期待に応えられない自分にがっかりする余り、甘えんなとか期待すんなと腹の底に毒づいてしまう。
だけど、甘えられたいし期待されたいし、頼られたい泣きつかれたいと心の底で思っている。
これはエゴなんだな、と思う。

それに比べれば、苦しみを他人に吐露する人の魂は純粋だ。助けて欲しいという真っ直ぐな叫びだから、それを向けられる方にも救いがあるんだろう。私が他人に零す悩み事なんて捩じれたエゴでしかない。愚痴のふりをした自己主張なんていかにも気持ちが悪い。自分でそう思うところがあるから、尚のこと吐き出せなくなる。

エゴと言われてもいい、助けて欲しいと叫びたくなるような苦しみがないわけじゃないのだけど、まあ今のところは叫ばずにいられるわけで、いつかそれが決壊して叫び出したら被害甚大なことに違いなく、それも嫌だなあと思うから、きっと叫べない。

もっと機能的になりたい。相手の望むことをセンサーで的確に読み取り、ボタンを押すと甘い優しさが滲んで、別のボタンを押すと鋼鉄の鎧がココロを覆ってエゴの分泌を防ぎ、相手の聞きたいことだけが言葉として音声になって、スイッチを切れば何も感じずに自分を休ませることができたらいいのになあ。

人間てのは生きていくことに向いてないなあとつくづく思う。
自由業をやっていてもそう感じるんだから、しっかり社会に関わっている人はもっと生きづらいんじゃないか。
だけど、演劇やら映画やら小説やら音楽やらの文化と呼ばれる類いのものは殆どがそういう人間の無能さから生まれてくるわけで、そう思うとこれはこれで無能なりに生物としての役割を果たしているような気もする。


明日、ポレポレ坐で「闇打つ心臓」と「愛のゆくえ(仮)」。
叫ぶほどではなくとも、それぞれの、生きづらさ。
詳細・ご予約はコチラ

  1. 2013/08/02(金) 17:38:24|
  2. 雑感
  3. | trackback:0
  4. | comment:2