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仕事部屋

ウシナウヲエル。

あっという間に10月が終わってしまった、ユニオン旗揚げ公演のための台本は改訂するだけのつもりがクラちゃんの「厄日」を下敷きに結局丸まるの書き下し、まあ人物4人のホンを14人にアテ書きで改訂するって時点でそうなるだろうとは思っていたのだが、前後で雑遊と紀伊國屋、完徹3日目だった雑遊では爆睡してしまったので来週に出直す、ユニオンの稽古が展開しているワークショップに帰れないからと始発まで飲む若造がいて毎回これに付き合うとたちまち体調を崩すことが判ったので次回から放置する、それとも影響したのは週に2日も観劇したせいだったのか、風邪症状でコーチングの現場もバイトも休ませてもらって1日ダウン、復調して夜勤→現場→夜勤→現場といきなりのフル稼働じゃまた倒れるんじゃないかと心配されるのも当然、しかも来週は観劇予定がまた2本。

観て欲しいと思ってくれる人を観てあげたいと思うからできるだけ足を運ぶ、決して芝居を観ることが好きな訳じゃない、そもそも他人の芝居を観てココロ打たれるとか記憶に残る衝撃とか感じたことがない、年間50本観たって観たことを特記する必要を感じる芝居は片手の指が余る、やっぱり芝居好きなわけじゃないんだろう、ただ世話になってる人とか仲間とかトモダチとかふと顔の浮かんだあの人この人が今そこで何をしているかを見届けたいというだけ、だからそもそも飲み代はケチらないが芝居にお金を払うことには抵抗がある、などとボヤいても仕方ない、絶対にみんな似たり寄ったりの感覚に違いない。

合間に友人からの良い報せやよろしくない報せ続々、出来事とその受け止め方によって自分がその人に対してどれくらいの距離にいるのかどういう立ち位置にいるのかが判る、つまりそういう出来事がないとわからない、もやもやした曖昧さの中に佇むこともできるし苦痛を感じるわけではないけれど、それらが明確になった途端の解放感というのか安心感というのか、自分がすいっと収まるちょうどいい感じはやっぱり心地良い、理屈や筋道抜きにしたこれこその実感、こういう感覚ばっかりなら頭使わないでふわふわっと生きていけるのに。

連城三紀彦さんが亡くなった、メリエス時代にとてもお世話になって、やっぱりまた何もご恩を返せていないまま取り残された、自分の行く先がうっすら見えるようになって初めて返すべきあれこれに気がつく、その時には時間が足りなくなる、判っているのに毎年同じことを悔やむ、インタビュアーの初仕事が決まったと報告したら連城さんがポラロイドカメラをくれた、それを持ってるだけで仕事ができる人のような気分だった、今も手元にある、そんなふうに物が残るのっていいなと思った、物を贈ろうと思った、受ける側が敢えてココロに書き留めることがなければ真心なんてものはいつか擦り切れ薄れてしまう、物はそこに残る、贈り主など忘れられてしまっても構わない、物を択んで手渡すときの贈り主の気持ちだけは物と一緒に残る、無論、形ある物は失われることもあるわけで、壊れたり失くしたりだってする、それでも「失った」ことが残るのはまったく悪くない、「かつて在った」ことではなく。

生まれて生きればいつか死ぬ、死んだことが残るのは多分まったく悪くないとも思える、遺される我々はいつだって「喪う」ことを得る、もうたくさんってほどそれが手元に溜まったら、たった一度の贈り物として今度は誰かにそれを贈る、そういうことになっているんだろう。


  1. 2013/10/31(木) 05:55:21|
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