仕事部屋

目覚めない。

ぼやぼやしてるうちに6月もあっという間に半分が過ぎていた、という書き出しは必ず1年に数回やってるんじゃなかろうか、「ぼやぼや」と「うかうか」と「バタバタ」と「ジタバタ」のバリエーションで1年を回せる、体調はまずまず、お腹の傷は徐々に赤みも退いて薄くなってきたような気がするから後は内臓事情、あんだけ大騒ぎだったそれも喉元過ぎればなんとやらで、なんだかずっと前のようなつもりになってしまうのだけど、ほんの2ヶ月前じゃないか。

「阿部定の犬」でトークのお務めを果たし、遅まきながら初見したチョコレートケーキで日澤さんにも久々のご挨拶、テツタが普通にしてるの初めて観たと言ったら「あれで普通ってのはかなりですよ」とニコニコしてた、テツタは植吉っつぁんみたいな役者になるんだろうきっと、齢食って周りはポツポツといなくなったり入れ替わったりしてるのに自分だけがなーんも変わんなくて数えてみたら30年も40年も芝居やってるのにいつまでたってももう充分にやってきたって言えないし満足もできてない、こりゃもう満足だの充足だのに関係なくやってくしかねえんだろうなあってな風情の、下手なまんま齢ばっか食っていつでもジタバタしてる役者って素敵だと思う。

実はこの1ヶ月しばしば幻覚に襲われた、あんまりに鮮明なもんでこりゃ絶対に生き霊の類いに違いないと思ったのだがそうしたものの存在に納得できる理屈がない、ちょちょっと調べたら「入眠時幻覚」というのがどうやらそれらしく、ナルコレプシーの症状によくあるんだそうだがナルコレプシーではないので多分脳の仕組みにそういうことが起きる要因がそもそもあったんだろう。

そういや昔から良く幻視とか幻聴とかがあってその頃は服用してた精神安定剤のせいだろうと思ってた、しかしよくよく振り返れば子どもの頃からその癖があって実際に体験したつもりになってるあんなことやこんなことも幻覚だったのか、などと考えてしばしばアルコールのせいで失う記憶はともあれ何よりも確信しているはずの実感まで危うげなものとなったら一体何を実存に捉えればいいのやらと途方に暮れる一方で、現実世界には存在しないような、かつて筒井康隆が書いた大名行列とか吾妻ひでおの失踪日記にあるオドロ可愛い狂った生物とか卯月妙子が人間仮免中で描いた悪意の化身とかは現れず、ひたすら現実的というか現実であっても何ら不整合のない、むしろ現実じゃないことの方が不可解なほどの幻覚しか見ないあたり、性分なんだなあと可笑しい。

何より幻覚は愉しい、夢とわかるそれよりもずっと立体的ではっと目が覚めた瞬間に現実を見失ってオロオロするのも面白い、感触や声や気配などもくっきりと五感が記憶しているから今あったものが急に消失したような感じ方で狼狽えるのだけど、それは確かに遠い昔の朧げな記憶が不意に鮮やかに蘇った時のそれに近く、懐かしかったり切なかったり時には有難かったりもして、覚醒した頭が無理矢理に思考から生み出すものとはまったく違う何かで、そういや階段から落ちて頭縫った時も目覚めて誰かが付き添ってくれてたような気がしたあれもそういう類いのものだったんだろうと、自分の中のいくつかの実感に実体がないことに気づき、ほっとする部分もある。

忙しさとシンドさを互いにやり繰りしながらの逢瀬があっても幻覚には敵わない、出来事が現実であろうが幻覚であろうが私自身が感じ取ったことは私自身の実体験なのだから、嬉しいなあとか愉しいなあと思えばそのままに記憶する、嫌な感覚が残ったときには幻覚じゃんと切り捨てることができるのも大変に都合がよろしい、だが果たして幻覚や幻聴を日常的な出来事として受け入れるってのは正常領域なのか、幻覚だと明確に区別しているうちは無事だろうけれど、区別できるのは覚醒した後のことで、今あったそれが現実にないとはっきり確かめないことには幻覚として区別できない、この区別を微に入り細に入り確かめないと気が済まなくなったら狂気だろうし、幻覚か現実か区別もせずすべて自分の中の実感に収めるようになったらそれもまた狂気だろう。

キワキワの怖さがないわけじゃないけれど、目が覚めてるときに幻覚を見ることはないから多分まだ大丈夫、妄想を信じ込むって類いの狂気よりは正常さを装わない分ずっと害がない、これは病気と言えるのか特殊能力の類いなのかそれとも趣味なのか特技なのか、なんにしろ安上がりでいいやね。


  1. 2014/06/17(火) 04:37:24|
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