仕事部屋

軽率。

公演が終わってからのこの数日、ずっと人と話したいと思っていて、ダーリン(仮)の様子を伺ったりもしたがお忙しくしてらっしゃる、連絡をくれた人やお誘いをくれた人とはタイミングが合わないってんで上の階のおばちゃんと近所にできたスーパーのことなど立ち話、無論そういう話がしたいわけじゃないのだが、生身の言葉が喋りたいので、スーパーの話でもいいのかもしれない。

話したいと話したくないは同じことで、逢いたいと逢いたくないも同じことだから、やりたいとやりたくないも同じなんだなあと考えている、セックスしたい男子高校生が激しい運動で性欲を誤魔化すときだって本当に誤魔化せているわけじゃなかろう、どうしたいかを知っているのにできないのが苦しいから何もしたくないと言うだけなのだ、望みがあろうがなかろうが望むココロは同じ。

ふりをするのが苦手だからつもりになる、つもりだから無理がでる、無理とわかってせめてものふりをする、振り出しに戻る、わかりもしないくせにわかったふうに言うならまだしも、わかりもしないくせに負けないために手当たり次第で見下していた、あの年頃に戻れたら何かを択ぶことなど簡単なのに、大人になると択ばなくなる、択ばずにただ決める、何故って決めたことに意味などないと知っているから。

覚悟とはなんだろう、諦めと同じことか、だとしたら諦めは覚悟になり得るのか、開き直りはふてぶてしく諦めは潔いと思いがちだが、逆なんじゃないのか、諦めが無気力で開き直りが傲慢だと言われがちだがこれも逆なんじゃないのか、だとすれば覚悟とはなんだろう、どれもこれもマボロシから逃げたくて現実に向き合うふりなんじゃないのか。

ああしてあげればよかった、こうしてあげればよかったと悔やんでも仕方ない、それは確かにその通りだけども、その通りが良いとは限らない、仕方ないと承知の上で思い返して悔やんでくれる人の、その気持ちだけは透けていて、ありがとうとは思うけど、それにしたって睦言に違いなく、つまりは助平ってことでしょうよ。

話したいと口にすれば話したくなる、逢いたいと口にすれば逢いたくなる、だからそれを言わない人はよほど逢いたいのだ、話したいことは砂袋一杯に詰まっていても、突いた孔くらいじゃ溢れ出さないもので、ただいつも通り淡々と時間を過ごすと知っていて、袋ごとひっつかんで逆さに振り出すだけの勇気はなく、こわごわ突っつき合うばかりでも。

話さずにいるために話す、逢わずにいるために逢う、呑まずにいるためには呑むしかないというアル中の御託と同じことを誰に言い訳すればいい、言葉などいらないのに言葉を欲しがるのは言葉の内側に潜り込みたいからで、欲するときほど自分が吐き出して上滑ると決まってる、だからきっと口数の多さに安堵する。

わからないことがわかってるとか、見えてないことが見えているとか、知らないことが知れているとかの根深い安心感と、今そこにある存在の心許なさ、どちらを信じるか決めたとしてもやはり意味など生じない、そうすると決めた、そのことができないことを増やして自分を裏切っていくことだっていい加減知ってるのに、択ばず決めずで抱えるだけの容量がない。

きっと、ただ、心細いのだ。


  1. 2015/09/29(火) 00:41:17|
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名残雨。

酔えない打ち上げ朝帰りでそのまま精算作業、仮眠してから小形くんに荷返し最終地点で自宅と倉庫を回ってもらい、作業の完了を制作部に報告してようやく一段落、むろん梱包を解いてない荷物は山積みのままだし決算作業もあるのだが。

厳しい闘いだったけどやれてよかった、いや、よかったのかどうか素直には言えない、色々思うこともあり、まだココロ落ち着かず言葉を択べない状況、それでも感謝だけは心身から立ち昇る、今は少しでも早く日常に戻りたい。


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ご支援くださった皆さん、お足運びくださった皆さん、見守ってくださっていた皆さん、ありがとうございました。

  1. 2015/09/25(金) 17:29:52|
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明日、初日。

15日から劇場入り、今回のわたしの最大の任務は劇場での賄い飯作り、鍋釜をコットーネから借りてカセットコンロや食器を買い込んで、一升の米を炊き業務用スーパーで揃えた食材を使いまわして1日2食の計4食、コヤ入り初日が30人分で次の日が15人分、これまで炊き出しをやるときは担当をつけて任せっぱなしだったが今回は人手がないので秋葉とわたしが作ることにした、コヤでの炊き出しは手早く出せること、たくさん食べられること、安く作ることが重要なのだけど、一番大事なのは時間通りに食べられることで、手の空いてる隙に食べてもらうことができなければ作業効率に直撃する、劇場に入ってからは限られた時間の中であらゆることをやるので何をするのも時間厳守、責任重大過ぎてプレッシャーと緊張で発狂しそうになったので夢二@少年王者館にSOS、「いいですよ。行きますよ。なんでもやります」と快諾してくれ、当日は賄い隊長として大活躍してくれた、というよりわたしも秋葉も夢二に頼りきりだった、それでもスタッフの皆さんは喜んでくれる、同じ釜の飯を食うというが、炊き出しがある現場は雰囲気が良い、2日目は昼から場当たりだったので夢二と秋葉に任せることにしていたがこの一ヶ月ろくに台所に立たなかったのもあって炊き出し任務はストレス解消になる、米を炊くためにいそいそ朝イチでコヤ入り、前夜に秋葉に頼んでいた食材で早入りのスタッフさんに丼ものを食べてもらい、後は夢二に任せて場当たり、終わって自分も夢二の豚汁をごちそうになった、それにしても今回の芝居では組み立てから何から初体験三昧、炊き出し担当も初めてだったがむしろ芝居やるより楽しいんじゃないか。

軽口はさておき、明日はゲネプロやって初日、おかげ様でこの数日に初日の予約がぐいぐい伸びた、にも拘らずまだまだご予約戴ける状況、席数68とミニマムに打ちます、全力で作りました、どうか観に来てください。

ご予約は公演当日の開演3時間前まで承ります。
カルチベートチケット情報はTwitter及びFacebookの公式アカウントで前日に情報を流します。
明日初日はカルチケ2枚出ます。


劇場でお会いできますように!


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舞台上にいるのは照明チームの助手さん。


  1. 2015/09/17(木) 02:12:32|
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ヤバい気がしていたのだけど疲労が溜まっていたのもあってとうとう喘息発作、1日辛抱したけどどうにもならないので初通しの前に近所の医者で処方してもらい、なんとかやり過ごせた感じ、さてその通しでは覚束ないままなれど流れの中で拾えるものも多々あった、しかし90分のつもりだった芝居が120分と長大、劇作家+演出家からの改訂宣言で稽古終了。

飲みに行けば自分一人でやってるつもりの小僧に絡まれ、始発に乗れば寝過ごして目的地の前後を行ったり来たりで疲労困憊、帰ってきたら家の中には日常の気配がない、せっかく晴れたのに洗濯する気力がなく午後になってようやく制作雑務の合間で間に合わせの家事、記録用の通し動画と台本をチェックして一人反省会するも反省なんぞ何の役にも立たない、結局引き出しは空っぽのまま。

たとえば、誰よりもいい男に見えた方が面白い役だけど演じる本人がどうしてもそうなれないとか、理屈も解るしイメージも分かる、言われた通りにやってみせてもそうならないそう見えないという打つ手のなさには根深い問題があるわけだが、そんなことを突いてる場合じゃないのでそこは無視するしかないんであって、相変わらず国語の読解問題の解答を訊かれるような状態になるたびに状況は悪化する、どう答えようが解決にはつながらないと承知の上での現状、どうっているかが問題なのだとしたら尚更に解決のしようがない。

「リアルな生理はいらない」と言われて初めて見えた道筋も「どう思う?」と再び生理を要求されて踏み外したまま、どう思っているかが問題なのだとしたらどうも思わんとは口が裂けても言えないわけで、尚更に解決のしようがないとも思う、自分の生理を切ってさえそう思えないそう見えないから抜け出すには皆それぞれが一人勝手に「思ってるつもり」と「見えてるつもり」で筋道を運ぶことになる、そんなことはしないさせないと寄って集ってのああだこうだが続く。

「うそつくんじゃないよ」という台詞が何度も出てくる戯曲で、それは実際に劇作家の口癖なのだけど、嘘をつかれた経験や嘘をつく感覚がある人にしか「嘘なんじゃないか?」と疑う心根はないわけだが、戯曲に書かれている通りにその台詞を繰り返すことで嘘をつかれた経験がある人に見えたり嘘をつく人に見えてくるのがお芝居ってもんだろう、確かにそこに疑う生理などいらない、ただ台詞を言えばいいのだが、ただ台詞を言うだけじゃ結局のところ「ただ台詞を言ってる人」にしか見えないってのもお芝居ってもんだろう。

その先は「ただ台詞を言ってる人」以上の何者かに見せるための技術、演出なり演技なりなんらかの技術が必要で、あるものがないように見えたりないものがあるように見えたり猿が人に見えたり人が猿に見えたりして初めて演劇になるのかもしれない、技術というのは無論勉強や努力や経験を重ねた先に得られるもので、一朝一夕で道具にできるようなものでもないし他人から教わってすぐさま使えるものでもない、そもそも自分自身が持っている感覚や生理しか役者が使いこなせる道具はない、鍋一つが道具ならお茶が沸かせて米も炊ける、しかし靴紐一本じゃどうしたって真似できない、そういう類の諦観。

要求されていることはそんなに難しいことじゃない、自分でできないとも思ってない、WindowsのマニュアルでMacintoshを使おうとするようなもんで、手順がまったく違うから郷に従うを試みてはみたがもはや手慣れた手順に戻すより手段はない、通し稽古がやれたからあそこでコレを拾ってそこでコレを拾ってと必要な材料の在処も確認できた、毎回零さずにそれを拾い集めれば必ず辿り着く状態がある、しくじったって何もできずにいる今よりはマシ。

何をどう見て何をどう捉えていつどこで何を思い考え感じるか、他人に従うことを試みた価値はある、空っぽにしか見えない、何かあるように見せる技術がないからほんとに何かあるときにしか見せられるものがない、「自分の中の生理は不確定要素だから身体の状態で作ったほうが確実だ」と演出家が言ったそのまんまのことを普段はやってるわけで、ただ、自分の中の生理が自分自身の生理じゃないってことや、身体の状態を作るための材料をどこから拾ってくるかっていうことの違いなんだと思うけど。

どんなときでも絶対に消えてなくならない、いちばん確かなものが目の前にあるんだから。


(仮)の事情 ご予約はコチラから。


  1. 2015/09/11(金) 22:03:03|
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もっと暗くなれ。

稽古が早く終っても皆飲みに行かなくなった、そういう人たちが新鮮でもある、演出家との話は稽古場ですればいいんであって飲み屋で芝居の話なんて野暮じゃないかという人もいるわけで、それはそれで正しいと思うのだが、芝居の話をするんでなければ特に今この人たちと飲む必要もないしなあと思ってしまうのも事実で、だったらさっさと引き上げて家でのんびりすればいいのだが今は家に帰ると放ったらかしの日常と山積みの雑務があるので自然ずるずるだらだら飲んでしまうことが多い、皆がスポーツの話なんかをしているのを眺めながら芝居のことを考えている、それはきっと皆同じだろうに胸先三寸に留め置いている時間がむずむず面白く見えることもある。

昨夜も小道具作りで徹夜してしまい2時間ほど横になりはしたものの眠った気はせず目覚ましが鳴る前に起きていた、台本を開いて昨日の段取りを思い返したりしてるとすぐに昼になる、昼過ぎに出て稽古場に向かう、今日は途中で定期券を落とし幸い乗換駅に届いていたので引き返して無事に取り戻したのだが、突発的に混乱し自分がどこにいるのかわからなくなってホームに15分くらい蹲っていて3人くらいの心優しい人に心配されたりしていた、12:45前後の電車に乗り換えて13:00には稽古場に着くはずだったのに、気がついたら13:10とかで水天宮前にいて、改札を出ようとしたら定期がなくて、そこでようやく「あ、そうか。さっきここで定期がないことに気がついて、定期券を落とした乗換駅まで取りに戻るところじゃないか」と気がついたのだが、こういう混乱は昔からあって、それは今回のような芝居をやるときにずいぶんと役立つ。

この芝居には「その場その場で名前を変えて生きてきたからね」という素敵なセリフがあって、最初の本読みでそれを口にした時にはいきなり涙が出そうになった、劇作家が意識してそのセリフを書いたのかわからないけれど、わたしが阿部定をやりたいと思う心根はその一点だけで、むしろ阿部定という人の他のことは一切わからない、嫉妬心や独占欲や一人の男への執着心といった犯行の動機のように伝えられる心情に重なるものが欠片もない、けれども、「阿部定」と気安く呼ばれるようになるまでに彼女が連ねていかざるを得なかった嘘の名前で過ごす時間にだけは心底同情できるし、やはりそれだけが、幼少期に書物で阿部定を知ったときから今の今まで、ずっと阿部定を演じることに惹かれる理由だと思う。

だから、この戯曲を受け取って「すごいホンもらっちゃったな、わたしが拘る阿部定もとうとうこれで成仏かな」と思ったし、そうなる可能性は勿論今もあるのだけど、現状そこには辿り着けておらず、そこに拘る余りにできなくなることばかりが増えるような感覚もあって、それが苦悩の種かというとそれほどの深みはない、まっしぐらにそちらに向かってしまう心情が、線路をあみだくじにするみたいにあちらこちらと振れていく戯曲だから、「その場その場で名前を変えて生きてきた」その「場」その「場」を創り上げなければどこにも届かない、その道すがらで、くらくらと目眩のように時間を見失う、その実感まで持っているのに。

稽古場はわたしが「すべきこと」を「する」ために延々と滞っているが、OKを出すのもダメを出すのも演出家だから申し訳ないなんて殊勝な心持ちはなく、言われたことだけをするためにココロを頑なに閉ざしてあれこれを感じ取らないようにしてみたり、言われたことに拘らず感じ取るままやってやれと開き直ってみたり、あれこれの手段を探る、その時間がそのまま無駄足になるとわかっていても、腑に落ちないものを投げたってどうせ稽古は滞る、しかも演出家は懇切丁寧にわたしの無駄足に付き合っていちいち「今のはどう思ってた?」「それはどう思ってそうした?」と問いかけてくれるので、国語の授業を思い出しながら言葉を探す時間がまた無駄足で、思っていることを訊かれて答える役者なんているのかと自分が置かれている状況をまた探り、見ろ見ろと言うから見ているが見えなくていいものも見えてしまう、それは見えていないのかと、見えるものがすべての稽古場を呪うばかりでずぶずぶと無駄足の足元に水たまり、やがては泥沼という状況を繰り返して、てんで芝居のことには気がいかず、その自覚はあってもすでに抜け出せない。

見かねた相手役があれこれと仕掛けてくれたりすると、今度はその様が面白くついつい見入って、途端「今、何を思って見てる?」と指摘され、ココロはてへぺろだがそうは言えない、役の上ですべきことの段取りはひとつもできていないのに同じことをその一つ外枠でやってしまったことが自分では今日一番の収穫だが、それが少しも芝居の役に立たない。

あんまりのできなさ加減に皆が呆れ果てているので「生理がつながらないんです」と状況を説明したが「わたし」はどう思うという意味での生理と捉えられていたのか、「生理はいらない」と言われて「そんな芝居の作り方があるのか!」と目からウロコが落ちそうになったがつまりはわたしが伝え方を間違えていただけである、見えなくていいものが見えても「見えないこと」にするのがお芝居の決まりだとは知っていたが、それがこれほど難しい、見えなくていいものが見えた瞬間にそれがお芝居で作ろうとしている「場」にあっていいものなのか、見えないことにしなきゃいけないものなのか、といちいち考えてしまうのは、自分の生理が働かないようにスイッチを切るからで、言葉の使い方の違いだけのことなのだがやはり生理がなければセリフすら覚束ないのだから。

演出家が懸命に伝えてくれる「場にあるべきもの」と「場でみせたいもの」は馬鹿じゃないから認識できる、言われた通りのことだけをやっているつもりもある、だが稽古場では「そう見えない」ことだけが事実である以上、つもりなんてものは自分にだって必要がない、だからそれを訊かれるとぎょっとする、鼻をかんだちり紙を拾われるようなそれだから、そういうのは飲み屋で訊いてよと思うのだが、言わばおしめを取り替えてもらっているような優しく丁寧な演出を受けているからそれには段々と慣れてきた、対応できる技術や受け皿の幅を引き出しが多いと言うけれど、それはその引き出しには入っていない、昔も今も空っぽですとお手上げしても通じない、手品師が隠れる箱のように底を抜くしかないのだ。

くどくど書き連ねてみたってやっぱりわたしは芝居のことなど考えていない、芝居のことを考えてるふりをして自分の事ばかり考えている、しまいには芝居のことを考えてるふりすらしなくなる。
それが、わたしの役のまんまだから泥沼に足を取られる、久々に、本当に久々に嵌り込んだクラインのドツボは、胎内のようでもあってわたしだけが心地いい。

殺すか殺されるかしなきゃ終わらない、と、誰かさんは思っている。
わたしも思っている。
それはそれできっと良くて、そこで重っていない部分を作っていく作業をやっているのだけど、それは本当は作るものじゃなくて見つけるもので、作ったものが増えるほど見つけづらくなるから、ぼんやりしてられない。
こうした御託をまったく並べず「すべきこと」を「する」ために御託を書き捨て、目を閉じる。

駄目だしされながらニヤついていて演出家に怒鳴られたことがあったなあ、そういやあれも阿部定だった、今日もついつい頬が緩んでいたのを見つかってきりりと睨まれた、オツムがお留守だと思われたに違いない。

稽古でうっかりの隙に足を痛めたが、いつもならそのままに「足を痛めた人」を演るはずなのに、そういや今日は誤魔化してたなあと帰ってきてから気がついた、つまりこれほど明白に今までの自分のやり方を投げ打ってるんだから、やっぱり見え方ってことなわけで、見え方は見せ方でもあるけれど見方でもある、てことは見たくないものは見なきゃいいんだ、と結論するまでの無駄足が必要なのだ、そこにあるもの全部が全部「お芝居」だなんて、誰も思ってないくせに、みんな見ないふりをするのが巧い、自慢じゃないが稽古で大汗かいてるのにもう3日ばかり風呂に入っていない、台所の鍋ではカレーに黴が生え炊飯器の中の白飯も腐っている、稽古の日はプロテインと飲むときの肴だけしか口に入れていないから頭の回転もかなり鈍ってきてるんだけど、それでも全然足りゃしない、普段と違うことをする道筋の先にあるのは破滅じゃなくて希望だから、絶望の道程は普段当たり前にすることをしなくなることから始まっていく、そこがぱたんと反転する瞬間をまずは自分の中で見つけなきゃ嘘つきばかりの稽古場でそれとわかるはずがない、だって敢えて見えるように置かれるそれは紛い物じゃないか。

誰も彼もに見なくていいものが見えてしまうから、蛍光灯の下で芝居の稽古をするのは嫌いだ。
たとえば鏡合わせみたいな泥沼まで白白と見える。


「(仮)の事情」9/17〜24@中野あくとれ、ご予約はこちらから。




  1. 2015/09/08(火) 01:26:31|
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劇場入り10日前。

自分の声に飽きるとか相手の芝居に飽きるとか演出家がバカに見えるとか能なしのスタッフにイラつくとか、何かしらを無理矢理な理由にしてうんざりする時期というのがどんな芝居をやっていても大概あって、先週末の稽古休みを挟んで今週の真ん中までが稽古で煮詰まったピークだったか、順ぐりで標的を作って愚痴り倒すことで乗り越える、今回愚痴酒の犠牲になったのは公佑と上の稽古場で他の芝居の稽古をしていた浅野千鶴であった、抜け出すきっかけになったのは相方の慈愛、これまでになく労り慰め労い励ましで独特な甘やかしを受け、そうだよなあ、ゼロからやってるわけじゃないんだよなあ、あれがあってこれがあってこうなってそうなってるんだしなあと共闘の意欲が湧いた、おかしなもので自分一人が追い込まれていると感じるときにはもう負けた気がするが、共闘する人がいると思うと矢面に立って玉砕してやれと特攻の気分になる、毎朝稽古に行く前の戯曲音読は続いている、家で台本を開かない主義は返上、記憶力に限らず能力の衰えに従って何かしら新しい努力は必要なのだ、ざっくり段取ったそれぞれの場面を日々少しずつ小返しで固めていき、今週4日目には大まかな通しに辿り着いた、厳密に言うと時間切れでラストシーンには届かずのラス前まで通しというやつだが、一つ一つ石を積み上げていくタイプ(©浅野千鶴)とざーっと線を引いてくタイプがあって、前者にとって十分な小返しのないまま通しをやるのは苦痛に違いないが後者であるわたしにはもう稽古初日からずっと通し稽古だけでいいとすら思う、ともあれ皆身体はガタガタで財布はスカスカな三馬鹿のバカ自慢、演出助手に「皆さんセリフ入るの遅いんですね」と言われた挙句にわたしなど「こんなに不器用な人だっけと思いました」とダメ押しで言われている、稽古場には既に音響のナオチンも付いてくれているのであんまりな状態でもいられない、B級遊撃隊のまどか円太夫が助っ人に現れ、うまくやれていない着物の早替えで衣装の作り直しを手伝ってくれることになり、稽古休み1日目は日中にDM送信200通、仕事帰りの円太夫に立ち寄ってもらってうちでちくちくと針仕事、40年もやってきて自分の衣装を自分で作ったこともなかった、その日深夜にクラウドファンディングが終了、直前にバイト先の先輩に電話して厚かましくも支援の督促、だがそれ以上に駆け込みのご支援がいくつかあって〆切直前でカルチベートチケットがまた3枚ストックされる快挙、お礼メールや終了のご挨拶など諸々の業務、次の日も稽古休みだったが朝から特典の案内メールなど制作業務の続きをやりつつDM投函準備、これはいつもなら全部自分でやらなくてはならないところをヤングがリスト作りからシール出力、宛名貼りから投函までを引き受けてくれたので手書き分だけで済んで大助かり、昼前から稽古場に入ってた小形くんや出先のユニオン吉田さんとやり取りしつつコヤ入りに備えて諸々の問題処理、ユニオン経理担当Tが多忙なため代わって現状のお金のことをまとめて報告、夕方早めに業務が落ち着いたので弁天号でひとっ走り馴染みの店のシャッターにチラシを突っ込みに行き、戻って自分の雑用あれこれを片付けたらもう銭湯も閉まる時間。


MotionGallery「(仮)の事情」プロジェクト、皆様のおかげで209,000円のご支援が集まりました。
ありがとうございました。


これから先は劇場にお足運び戴けることが何よりです。
どうかご予定戴けますよう。

チケットご予約はコチラから。


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乱闘シーンの台本ページはたちまちこんな具合になる。今はすでにテープで継ぎ接ぎだらけ。


  1. 2015/09/06(日) 00:45:48|
  2. 雑感
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