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仕事部屋

奇遇の亡霊。

ゲン担ぎというか縁頼みというか、人とのつながりの中にひょんな偶然を見つけると嬉しくなる。

同じ物を持っていたとか、全然縁遠いと思っていたところに共通の友人がいたとか、まだ知り合わない頃に同じ場所にいたはずとか、マイナーな映画のファンだとか、吸ってるタバコが同じ銘柄だとか。

そんな下らないことなのだけど、出会う人の中には、そういう事柄の中でもごくごく自分の内側に近いところでの共通項目を、幾つも重ねて持ってる人がいて、そういう人に出会うと自分が道を外れていないと確かめられるような気がする。

道というのは、然るべき星回りの道すじ、星回りというのは占いではなく、大げさに言えば「運命」なのだろうけど、つまりあらかじめ描かれている座標というか、自分の「何事もなければここにいるはず」みたいな位置。

しょっちゅう外れているもんだから、出会うべくして出会ったような感覚になるだけで安心してしまうのかもしれない。
安心は信頼に結びついて、幾つかの奇遇にはしゃいでうかうか信用してしまう性質は恐らく騙されやすいのだろうけど。

星占いは後付けが面白く未来の事を知っても大して役に立たない、過ぎたことに当てはめて解説のように読むのがいい。

兄弟のような男友達は子供の頃からみんな射手座だし、
山羊座の男の子は瞬時に信頼してしまう傾向があって、
程よい距離で親しくなれる女友達は天秤座と蠍座が圧倒的に多く、
公私ともに手助けをしてくれる年下の友人たちには双子座が多い。
何より獅子座は明らかに家族の星だと思う。

もちろん分類不可な友人は数多く存在するけれど、見渡すとそれなりの傾向があるようなので、星座の相性みたいなもんはそれなりに有益な情報、一方で苦手なタイプというのもあるわけだが、そういう人の誕生日などはいちいち覚えていないのでデータにならない。

星座や血液型などただのデータだし深く学んだわけでもないから傾向を読むことにしか使えないのだが、同じ誕生日の人が同じようなことを言って、かつての認識からちゃんとした意味を読まずに傾向だけで早合点するという失敗もあった、それは奇遇の亡霊を見てその向こうにいる実在を見ていないということなのだろう、ひっかけ問題的な失点。

私は今、うちの犬の二代目の仔どもたちと同じ誕生日の男の子を好きになって、亡霊に怯えている。


皆さん、愉しい亡霊の夜を。

  1. 2015/10/31(土) 23:58:57|
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但し、ひとりじゃできません。

初めは雰囲気、次は居心地、あとはタイミング、加えて自分とつながるいくつかの偶然があって、時々思い出し笑い。


歪みなく、真っ直ぐであること。

陽が射すような明るさと温かさがあること。

滞らないこと。

触れたくなること。

触れられる距離でいること。

確かめずにいられること。

ご飯が美味しいこと。


正しい恋の始め方を、久しぶりに思い出した。

とても気分が良い。


  1. 2015/10/29(木) 07:19:24|
  2. 雑感
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日常の潮時。

芝居が終わって日常に戻る切り替えの追っつかなさに年取ったんだなあと思う、尤もすぐさまに原稿の〆切があったり昔とは違ってバイトがあったりもするのだけど、未だ日常のリズムを取り戻せていない気がする、出勤して帰宅して寝て起きて、合間にダラダラ映画を観る、レンタルDVDのみならずこの頃はhuluだのNETFLIXだのオンデマンドだのがあってますます引きこもる、バイト休みには客席に足を運んでくれた友人への返礼観劇でJACROWと温泉ドラゴン、コルモッキル、出向けば深酒になってますます日常が遠ざかる、先送りにしていたデートの約束いくつかも挟んでそれらは非日常からはみ出した日常であったり日常のふりをした非日常であったりする、ところで稽古中に3kg落ちた体重がこれまた戻らず公演が終わってから更に1kg落ちた、そのせいか体調が今ひとつしゃんとせず微熱が続いている、犬もこの頃は散歩を億劫がるし、あれこれでますます日常が自分の身体からうわ滑るのだ、ふと気がついた、何に不満があるわけでもないのに常に心の奥底で現状打破を求めているんじゃないのか、心の片隅ではそれ以上に現状維持を望みながら、ただ瘡蓋のように日常を引っ掻く。
  1. 2015/10/20(火) 04:22:41|
  2. 新刊
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ネタの種。

小説を書くときには、自分の日常にあった出来事や人との会話、自分が感じたことや考えたことのすべてがネタになる。
といってそのまま書くのでは小説にならないから、あくまでも小説の中にディティールやエピソードとして埋め込んでいくわけだが、小説を書くことの概ねは、ネタをどこでどうやって使うかの知恵なんじゃないだろうか。

大昔、深夜に入った歌舞伎町の中華屋で、疲れた顔のサラリーマンが一人ビール瓶を前に餃子をつついていた。
そのときには、多分何も感じていなかったのだろうが、小説の中で、疲れたサラリーマンが一人で過ごす夜と考えたときには自然とその中華屋が浮かんできて、店員の女の子の片言の対応まで鮮明に思い出した。

どうせそのまんまに使うわけではないから、それについて自分がどう思うかは二の次三の次で、まずは自分が見た通りの記憶、それから自分がどう感じたかを思い出し、なぜそう感じたかを分析して、留め置く。

そのサラリーマンを疲れた顔と思ったのはなぜか、目の下のクマなのかワイシャツの汚れなのか顔の色艶なのか、分析したそれが描写に役立つ。
ここの部分のデータが少ないと、書くものが類型的と言われたりするんだろう。

それは、演技をすることとも似てると思う。

恋愛小説が苦手といつもこぼしているけれど、それはきっと、恋愛の最中には日頃のそういう感覚がまったく働いてないからだろうと思う。
相手だけを注視して周囲が見えていないのか、ふわふわした心地で相手すらまともに見えていないのか、データの保存がないから、恋をするという感覚をどう書けばいいのか、何度挑戦してもさっぱり思い浮かばない。

ところが、性描写はすらすら書ける。

初めてエロを書いたときにはグラビア雑誌を買い込んで見たままを描写するという乱暴な方法でエロ熱を出したりもしたが、以降は過去の経験や想像の中で自在に感触を辿れるようになった。
つまり、無意識下に留め置いたネタがあったということで、それは行為の最中に案外と醒めてるってことなのか、忘れ難い鮮烈な行為ばかり経験してきたのか、ともかくエロ描写にだけは悩むことがない。

やはり演技にもそういう得手不得手があって、これも何度か書いている話だが、2時間ドラマなどに普通の人物として出ると「犯人に見える」んだそうで、「犯人か、もしくは何か重大な秘密を知っている顔」と言われるから始末が悪い。
実際に犯人の役をやったらやったで「自白が嘘に見える」という言われようだから難しい。

得手はそういうことの裏返しだから「何をやっても(あなたが)そういう人に見える」ことなのだろうが、これはアラーキーに「会うたびに顔が違う」と言われることともつながっている気がする。
大概のことは自分の経験のように思い込んでいるから、ありもしない記憶を持ったりあり得ない未来を夢見たりが「生っぽさ」と言われる所以らしい。

小説を読んだ人に「どこまでが本当なのか」と訊かれることがあるけれど、小説に本当のことなど一つもない。
本当のことはディティールやエピソードになってはいるが、本当のことを書くなら小説なんて七面倒くさい形は択ばず、もっと生々しい自分の言葉を使う。

同じく演技を視る人に「あれは本気なのか」とか「自分そのまんまじゃないのか」と言われたりする。
演技の嘘と本当については簡単に言葉にできることではなくて、ただ、自分そのまんまで芝居なんてやれるはずがないじゃないかとしか言えないのだけれど、これも大昔に白石加代子さんから「絶対に素を見せない女優」と評されたから見抜く人はいるわけで。

ただそうと「見える」ってだけで「そういうもの」にされる暴力的な了見に苦しんだ時期が確かにあったから書く方がましだ。
演じる側の「つもり」など無意味で「見える」ことがすべてだと知っていなければ、「書ける」ことがすべてだと割り切れずにもっと悶絶して苦しんでいただろうな、と今は思う。

「見える」ものや「書ける」ことを鵜呑みにされて、そう思われてなんぼのことをやってるのだから、こうしたことを言うのは言い訳がましいのかもしれないけれど、ここに書くことだってつまるところネタだもの。

久々に恋愛小説を書いているのだけれど、しばしば手が止まるのはデータのストックがないからで、いちいち記憶を掘り返して分析することを書きながらやっているからだろうけど、その時に、当時はさっぱり思い至らなかったことがやっと見えたりもして、都度悔やんだり合点したりして、ついつい自分の記憶で遊んでしまう。

「描写」という視点から出来事を捉え直して初めて、どれほどその人が自分をしっかり見据えてくれていたのか、そこにあるものについて考えてくれていたのか、どんなふうに受け止めてくれていたのかに気付かされ、つくづく言葉ってのは頼りないツールだなあと実感する。

その瞬間にちゃんとそうと感じ取れていれば「ありがとう」と言えたのに。

そんな悔いを成仏させるため、小説の人物の「今その瞬間」に埋め込む。
「ありがとう」ばかりではなく恨みつらみの成仏だったりもする。
しかし概ね、恨むような気持ちは消化しているから、スイートな気持ち以上にデータのストックがない。

そもそも、他人の悪意に対して鈍い。
感情の処理能力が7歳児レベルと精神科医に診断されたが、「好き・嫌い」「わかる・わからない」「したい・したくない」程度のことが基本で、「好きだから〜したい」とか「嫌いだけど〜したい」とかの、組み合わせのルールがわからない。

「好きだから〜したい」には「好き」と「〜したい」という二つの要素があるのだけど、単純な組み合わせならなんとか理解に及ぶものの、何かしらのフィルターがかかった複雑なそれは、どちらか一つ、もしくは二つをそれぞれに受け取るだけで組み合わせる意図の理解ができない。

恋愛においては、「メールの返信がないから気がない」とか「気が付くと近くにいるから気がある」とかの、そもそものセオリー自体が理解できない。
「メールの返信がない」ことにはそれぞれ事情があるだろうと思い、「気がない」と結び付けられない。
そういう思考回路がないので、他人のそれもわからない。

たとえば、「はい」という返事と、「はいはい」という返事にはニュアンスの違いがあって、「はいはい」と二つ重なると「うるさいなあ、もう」的なニュアンスが含まれるからお返事は一つと躾けられるのだが、そういうニュアンスが感じ取れない。二つだろうが三つだろうが、私にとっては「はい」という肯定だから、嫌味や皮肉としての意味合いが含まれていてもさっぱり気づけない。

そういうことは小説を読んだり映画を観たりすることで学習はできるので、「そういう可能性もある」という程度の回路は持っているのだが、共感や確信がないから、オプションみたいなものだろうと思う。

つまるところ、日頃、他人の話を殆ど理解していない。
ただ、話の中身や言葉の択び方に影響されないお陰で、「なぜ、この人は今この話をしているのか」というようなことだったり、「この人はどんな状態なのか」ということが、より明確に見えることがある。

そして、日常の大概のことは、そこだけ見えていればなんとかなる。
「はいはい」という返事の仕方に嫌味が含まれていることは、言葉の理解ではなく、その人の状態として理解できるから余り不便は感じない。

恋愛モノの多くで「あのときこう言ったのに」とか「あんなことしておいて」とかの、重要なディティールとされている嘘や心変わりであっても、言葉の意味は重要じゃなくて、その時々の心の在処が重要だと思うから、嘘や心変わりを詰る根拠が見当たらず、恋愛のシチュエーションとしてうまく扱えないのだ。

恋愛よりエロの方が分かり易い。
好意より行為の方が誤解がない。

日常を大雑把に捉えてやり過ごしているもんだから、仔細なディティールはいちいち後から分析することになるのだが、そこで、自分が捉えていた大雑把な理解と、言葉や仕草を含むその瞬間を分析して得られるものを統合してやっと「!」に至る。

一度その過程をそのまま小説に書いたことがあったが、大層不評であった。
普通の人にすれば分析するまでもなく当たり前に感じ取ることを、「!」に辿り着くまで綿々分析するんだからさぞかしまどろっこしいに違いない。

だが意外と、そういうまどろっこしい辿り方が、誰かにとってはしくじった恋愛のおさらいになったり、進行中の恋愛を考察する解説になったりするらしく、また書く。


明日、リリース。

コミック・ノベル「カレジャナイ。〜キスから先に溢れる想い」 全6巻を予定しています。

コミックシーモア

1巻:10月9日(金)
2巻:10月23日(金)

eBookJapan

1巻・2巻ともに 10月15日(木)


…当然ながら、主人公も鈍いのです。






  1. 2015/10/07(水) 20:01:47|
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水に流す。

月初めより職場に復帰、安定の無変化と予想通りにアトラクション環境の悪化にも瞬時に順応して、帰れる場所の1つになったんだと実感、この年令でのバイト生活は想像以上にしんどくて先々の不安も増すばかりだが、ひとまず出勤すれば目前の雑務があり、それらがある限りは誰かが必要で、その誰かは誰でも良いのだが、わたしでなければできないことをしたいなどと思うほど自分に拘らずにいられることが、働くことの利点でもある。

人との関わり合いにも同じ感覚があって、何かが決定的に変わってしまってもおかしくないくらいの時間を挟んで尚且つ変わらずにある本質的なことに触れて初めて、この人とはこういうことだったんだと実感したりする、これまで幼馴染や同級生にはそう思えても、共有する時間の少なさ故に確信のなかったそこにも今や思い至るのはまさしく年月なのだろう、この頃話してないなあ、次に会っても話せないかもしれないなあという漠然とした不安から解放され、会わずにいる時間を恐れずにいられる、年月の上に立って見渡すと今更にそういうことなのかと飲み込めることが増える、間にあるものは同じでも確信のないままぼんやり予測してあることにしながら関わってきたけれど、あると知れば互いに見据えることができて面白い、自分自身のそれも同じで、ぼんやりあることにしていたものがくっきりと模られれば自分にも触れられる、喩えるとはっきりしない体調の悪さに病名を付けられた時のような安心感と、今度はそのものに対しての明確な恐怖という感じではあるが、何を恐れているのか判然としない恐怖よりずっとマシに思える、ましてそのものが奥深く見つめて見飽きることもない、数カ月前に生活改善計画が頓挫したとき「もうわたしはこのまんまだと思う」とボヤいて「マエカワさんのことだからわかりませんよ」と言われたその通り、今更人生の軌道が動くようなことはなかろうと思っていたのに未だその機会だけは予見する、どうしようと択ぶことや決めることはできなくとも恐らくは何かによって動いていくのだろう、その1つ手前のタイミングで「そこにあるもの」を見据えて触れて確かめられれば動くことは怖くない。

年月は水の流れに似ていてゴツゴツした石も滑らかにしてくれる、砂利に隠れたところまで透けてみえるくらいには日々何かが少しずつ動かされていて、石の角が削られるその瞬間は捉えられなくても触れればちゃんと年月が見える、流れこむ先の海までは見えずどこに向かっているのかすら読めずとも、年月は確かにそこに流れていると知れれば委ねてもいいのだと分かる、なかったことにすることを水に流すと言うけれど、水に流して初めて確かにあるものが見えもする、晩年の美空ひばりに川の流れのようにと歌わせたのは秋元康で、なかったことにしたくて水に流すのではなく川底にあるものを今一度確かめたくて水を流すと知っている歌声だった、逆らわず堰き止めず汲み取らず、ありのままにしかあり得ないからこそ信じられるのが年月の価値だ、四万十のどうどうと力強い濁流も、少し登った源流の囁くようなせせらぎも同じ流れであることがまた年月に似ている。




  1. 2015/10/03(土) 13:54:25|
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