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仕事部屋

衰える。

まずこの頃は老眼が進んで本が読めない、遠近両用コンタクトに変えて日常生活の不便は減ったが、それでも裁縫と読書が苦痛だ、おかげで休日にやることがなくなった、年寄りの趣味が庭いじりになるのも頷ける、そもそもが弱視に近い近眼なので芝居を観ても役者の顔が視えていないことも多い、それが理由で「存在を強く感じさせつつ大袈裟な演技をしない」役者を好むんだろう、表情を想像して楽しむから顔の動きや声の演技で説明されるのが鬱陶しい、視えないことが多いからといって全て視たがっている訳ではないのだ。

本を読まないと脳みそが凝り固まってくるような気がする、刺激が少なすぎて働きが鈍る、シナプス間の信号が飛ばないから新しいことに対してどこか及び腰になるのだ、脳みそを使わずともできる手慣れた事しかしなくなり、脳みそを動かさずともできる判断しかしない、何かを思いつく事は未だあるけれど、それをどうするか考えることができなくなった、知らないことにも知ってることを組み合わせて対処していたのだとわかる、組み合わせができなくなって、知ってることの少なさも痛感した。

読みたい本を買ってみてもわずか数ページ分の文字を読み取るだけで全力を使い果たし、理解や共感や想像や創造に結びつける脳の働きまで到底及ばない、となるとただ文字を読むだけだから何を読んでもさっぱり面白くない、山村に育って学校まで山道を1時間歩いて通っていた人の足腰が丈夫なのと同じで、私は本を読むことで頭の動かし方を覚え鍛え続けていたのだろう、こうなれば他の手段を探すしかなく、このまま脳を弛ませては痴呆も目前の年齢になった。

思考力が衰えて感情的な部分が敏感になるのかと言えばそれもなく心情は至って穏やか、そもそもの病的客観性は変わらずで、客観してるのに分析や理解や発想がないのだからつまりは傍観だが、それまで客観や傍観なりに何かを感じ取っていたはずなのにこの世の全てが他人事に思えるばかりでどこにいっても通すべき我がないような按配で、芝居の演出やプロデュースをやってきたのも小説を書いていたのも「わたしはこう思う」の我を通す手段だったのだろうからもはや原動力を失って、季節の変わり目というが人生の変わり目だ。

映画の暴力シーンを直視できなくなった、血が出るのが怖い、感情的な人は以前から恐怖の対象だが今は人の激した声や挙動が怖いだけで他人の感情などはむしろどうでも良いと思える、仕事柄日々浴びせられる負の感情に慣れたからかもしれない、心打たれるのは泣いている人より笑っている人だったりする、幸せそうな人はもちろん些細な出来事で笑える人に強く心を動かされる、年寄りが落語や漫才や三丁目の夕陽を好む原理なのかもしれない、しかし私はこのところ闇金ウシジマくんが面白くて仕方ない。

裁縫の不便にはグルーガンが役立つ、そろそろKindleを購入すべきか、老眼鏡を作り直すのが先か。
  1. 2017/05/17(水) 13:36:40|
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