仕事部屋

大きい河。

それぞれの予定を家族で共有するアプリのおかげで結婚記念日を素通りせずに済んだ、シフト調整がままならず仕事だったため翌日に持ち越して池袋の水族館に外出、恐竜が怖いのと同じ理由で魚や鳥の類が苦手な私にはお化け屋敷のようであったが、水族館に行こうと言い出したのは私だ。

ふと気づくと、気を患うことがさっぱりなくなった、心配ごとや不満といった日々の中でちくちくと気障りなそれらが見当たらない、日々の忙しなさでそうしたところまで気が回っていないだけだとしても、《毎日》という時間のあり方が自分にとってどれほど特殊なものだったか思い知ったようでもある。

一作品ごとに新しく人と出会って関わってその時に必要とされる自分を生み出して期間が終われば解散し、次にはどんな自分になればいいのか次が決まるまで何もない、自分が何者かわからないようなざらついた空白が恐ろしく次々と絶え間なく何か先のことを詰め込んで回遊魚のように泳ぎ続けていた、そこに日常を持ち込んでようやく気が紛れるような過ごし方を続けて日々の穏やかさは常に憧れの先だった。

折あるごとにこの安定はなんだろう、どうして今まで得られなかったのだろうと考える、小さくとも社会に関わっているからなのか、単なる経済事情か、年齢を重ねて得たものなのか、家族という在り方のおかげか、芝居やら小説やらの身を削るものから遠ざかっているからか、酒を滅多に飲まなくなったからなのか、そのどれもだろうと思うけれどあんまりにも穏やかで、走馬灯とまではいかずとも、もう今生は終わり間際なのかとすら思えてくる。

これまで色んなことが次々にあったなあと、今まで本当にめまぐるしかったなあと、そんなふうに思ったことがこれまでなかったから、ここ最近はそう思っていてなんだか終章っぽい、水をたっぷり含んだ土はみっしり重たく固まるけれど、乾いた土を手に取るとさらさら指の隙間を落ちていく、そういう感じの毎日をしみじみ実感した途端、乾いた土ににわか雨のようなことが起こる。

つまりは何事もすべて自分の日々だなと、ならばこれまでは些細なことを一大事に捉えたり大切なことをどうでもよく受け流していたりしたんだろうと、もしやこれまでも今も実はずっと同じなのかもしれないとも思う。

人は山頂に滲み出る水として山を下るように生き、やがて海に流れ込むのだと考えていた、その感覚がまた蘇った、どうりで海の生き物は太々しい。


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  1. 2018/04/28(土) 03:21:29|
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