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仕事部屋

人は嘘をつく。

「入籍しました」という嘘に、暖かい祝福の言葉が続いた。
それってお正月にお雑煮を食べて「あけましておめでとう」って言うのと同じだと思う。

「まじすか?エイプリルフールでしょ?」という反応には何故信じないのかと腹立たしく、「嬉しい!」と我がことのように歓んでくれる人にはまったく申し訳ない気持ちになる。
だめ押しで「妊娠しました」と呟いたあたりでさすがに嘘とわかってもらえたが、嘘と白状する嘘ほどつまらないこともない。

「本当に嬉しくて、束の間幸せな気持ちになりました」と言ってくれる人もいるのだけれど、皆、「騙される」ことに元来抵抗があるんだなあと、ちょっと驚いた。
「騙されませんでした!」と得意な人もいて、それぞれの、嘘の概念が面白い。

自分の身に拘ることであればともかく、他人事の真偽など、そもそも計り知れないものではないのか。
平たく言えば、嘘だろうが本当だろうがどうでもいいことなんじゃないのか。
つまり、自分が騙されようが騙されなかろうが、大したことじゃないんじゃないのか。
嘘をついた身でそんなことを言うと盗人猛々しいようなあれだけども。

嘘に傷ついたのならともかく、歓んでくれたのなら、たとえ嘘と知れてがっかりしようが、嘘をつかれたことには何も損などないんじゃないかと思うのだけど、世の中の人はそうではないのだろうか。

ここで言う「嘘」も「本当」も、ただの言葉なわけだけど。
嘘の本質には「何故嘘をつくのか」があって、大抵の場合、重要なのは真偽ではなくそこのところで、エイプリルフールというのはそこのところを皆が共通して推察せずに済む大変に開放されたイベントだと思うのだけど、世の中の人はそうではないのだろうか。

私は、嘘を罪とは思っていないのかもしれない。
嘘をつくことと演技をすることは同じだから羞恥は感じるし、嘘をつくという行為に罪を感じる場合はある。
それは、嘘が、事実を誤摩化すために利用されるときで、嘘そのものを罪とは感じない。

そもそも、他人の言葉を疑ってかかるということ自体、とても奇妙に感じる。

「嘘なのでは?」と疑うって、どういう気持ちなのだろう。
「東京湾にゴジラが」と言われたとき、信じる人も、信じない人もいる。
受け止める側が「信じる」か「信じない」か選択するだけじゃないかと思っている。

吉岡がワークショップを辞めたいが為に「インドに自分探しの旅に出ます」とついた嘘も、「ああそうなんだ」と思ったし、帰ってきた吉岡が「すいません、嘘でした」と白状したときにも「ああそうなんだ」と思った。
なんでそんな嘘をつくのかと考えることもなかった。
だって、その場合には吉岡がどうしたいかが重要なんであって、私にとってはインド自分探しの旅などどうでも良いことだったから。

誰かが私に嘘をついて、私がそれを「嘘」だと知ったとき、私にとって問題になり得るのは、それが嘘か真かではなく、「嘘をつくその人に対する、何故という興味」とか、「嘘をつこうとするその人と嘘をつかれる私の関係性を認識すること」とかなので、そこにある「嘘」がどんなに些細なことだろうが関係がない。

電話したとき「寝てた?」と訊いて「起きてた」と答えるそれと、「実は僕は宇宙人なのだ」と言われるそれと、私にはなんの違いもない。

「もっとましな嘘をつけ」とよく言うけれど、もっとましな嘘なんてものはなく、もっと真面目に嘘をつけ、と思う。
「やさしい嘘」などと言われても、やさしい嘘なんてものはなく、優しさと嘘はそれぞれ別のものだと思う。

恐らく、私は日常的にあらゆる物事を疑っていて、同時に全てをそのままに信じていて、それはつまり、「本当か嘘か」という区別をつけることなく暮らしているのだなあ。
だから、ミステリー小説を読んでも何も面白がれない。

嘘の中にあるたった一つの真実は「嘘をつく」という行為なわけで、そこのところを見せないのは「騙す」という行為で、事実とすり替えられてしまう嘘は「ごまかし」という類いのもので、すべてが嘘でありながら「嘘じゃありません」と主張する厚顔無恥な行為が「演技」だと思う。

一番シンプルな嘘は「私は嘘をつかない」という嘘だし、一番複雑な真実も同じそれなわけで、それはやっぱり「嘘」というものが本来は受け止める側の選択で存在するものだからだろうと思うし、演劇なんてものは、その仕組みの上にしか成立しないわけで、「事実ではない=嘘」ではない、「嘘ではない=事実」ではない、という仕組みが飲み込めない人は、きっと演劇やら小説やらの枠組みそのものを楽しめないんだろう。

たとえば芝居を観て「巧い嘘だな」と思うより、「こんな世界がどこかにある」と思う方が、より豊かな受け止め方なんじゃないかと思う。

「せつないかもしれない」でも、そんな話、してたな。グレーゾーンてやつ。
嘘かほんとかを見ようとする人は、グレーゾーンにあるものを見落としちゃうんだろうなあ。
言葉は嘘だけれど、嘘をつく人は真実である、そこのところに「劇」が生まれるんだし。

だってさ、ニュースだって新聞だってネットの情報だって、つまるところは言葉じゃん。
目の前で起きること、遠くで起きることに事実はあっても、それを伝え聞く時点で、事実とは違う。
「伝え聞いたことを事実として受け止める」かどうかだけじゃん。
事実を見極めているつもりの人は多いけど、そんなのただのチョイスじゃん。

嘘はどこにだって生じるただの現象だ。
人はみんな、グレーゾーンの中で息をしている。
ああ、そうか。
みんな、こっちが白でこっちが黒と区別することで自分をグレーゾーンに置いているのかもしれない。

ま、どうでもいいんだけど、そんなこと。


  1. 2011/04/02(土) 09:57:15|
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