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仕事部屋

台所心中。

「モグラ町1丁目7番地」の初日打ち上げの席に、「へばの」木村文洋監督と桑原プロデューサーがいて、吉岡睦雄と私と小形と内野とヒラケイと彼らで別の店に流れた。
私は演出だったのであんまり疲れていなくて、吉岡は上機嫌で、文洋はいつもの感じで酔っていた(のだろうと思う)。

「この芝居での、睦雄さんの存在意義はなんなんですか」と文洋が言って、吉岡の顔色が変わった。
私たちからすれば文洋と吉岡のじゃれ合いみたいなものに思えたのだけど、吉岡にしてみれば私の手前というのもあったのかもしれない。

何より、吉岡は単純に文洋に褒められたかったんだと思う。
文洋に「面白かった」「良かった」と、言って欲しかったんだろう。

吉岡は、いくつかの言葉を文洋に言い返して、文洋が更に食い下がり、結果、吉岡が文洋を殴った。
ドラマチックな喧嘩なんかじゃなく、モグラっぽい、しょぼしょぼした仲間内の諍いだった。

その店を出て、吉岡と文洋はそれぞれ帰って行き、桑ちゃんは文洋の身代わりのように三軒目に付き合ってくれ、私たちはまったく呆れるほどの愛情深さで、帰って行った2人のことを話題にし続けた。

そのときにはもう「キッチンストーリーをやりたい」と私が言っての【台所純情】が決まっていて、出演者全員の名前が揃った仮チラシも折り込まれていた。
私はその席で、「こりゃ次はちょっと睦雄さんを痛い目に合わせないといかんねえ」と小形に言い、小形は「まあ、そういうことですね」とニヤニヤした。

翌日、殴った人と殴られた人の両方から私に丁寧なお詫びがあって、当事者たちは勝手に仲直りもして、その出来事は「飲み屋で芝居の話して殴るなんて今どき珍しいよね」という笑い話で終わった。
後から、吉岡が文洋に言い返したときに、「お客さんに失礼じゃないか」と私が吉岡を殴れば良かったと反省した。

けれども、「睦雄さんの存在意義」という言葉は、吉岡自身には無論のこと、私にとっても小骨になった。
モグラの千秋楽、モグラのシリーズではおじさんたちに手がかかるので吉岡は常に放置していたのだけど、吉岡の最後の芝居をちょっとだけつけた。
客席じゃないところから観ていた私は、吉岡のその芝居で、涙を零した。
その芝居を、文洋に観てもらえなかったことが悔しかった。

吉岡は、猛烈な勉強家で、努力家だ。
器用なタイプと思われるようだけど、決して器用ではないし、大した技術もない。
けど、持ち前の勘の良さと、培ってきたセンスと、生真面目な性質で、たいがいの注文はこなす。
ふとした瞬間の鮮烈な印象を焼き付けるタイプじゃないけれど、個性の一本勝負でじわじわ存在を滲ませるあぶり出しタイプだと思ってる。

ダメ出し的に言えば、「決め」に弱い。
芝居の中のココというポイントでのケレンが決まらない。
間には強いが溜めには弱く、退きのセンスは抜群なのに押しどころがずれる。

まあ、照れてすかして逃げるのが、吉岡の持ち味だから、ずっとそういう役をやらせていた。
そういう役どころができるってことが、吉岡の巧さだと、一緒にやっていれば判る。
その巧さが、便利に使われているだけに見えてしまえば「存在意義」を問いたくもなる。
文洋が言いたかったこと、私なりの共感があった。

お調子者で計算高い奴だから、「俺的にイケてる」と思えば手を抜く。
必死さが魅力なのに時々それをやる。
傲慢なわけでも尊大なわけでも相手を舐めてるわけでもなく、加減でやってしまうんだろう。

過去には連日連夜、朝まで連れ歩いたり、用もないのに呼びつけたりした時期もあったらしいけれど、私はもうそういうことを全然覚えていなくて、吉岡とやっていたワークショップが中断して、別の形になった今では、吉岡と話すことが余りない。
よその宴席で偶然一緒になると、お互い妙に気まずくて、挨拶を交わすだけに終わることが殆どだった。

井土さんの映画に吉岡が出演して、私が井土×吉岡トークのゲストに呼ばれたとき、「ワークショップのときはどんな感じだったんですか」と訊いた井土さんに、「奴隷でした」と吉岡が答えていたけれど、きっと本当にそうだったんだろう。
私が吉岡と親しくなれないのは、その後ろ暗さかもしれない。

数えてみたら、吉岡と共演した芝居が5本だか6本。
勘良く運んでくれるから楽だし、面白いけど、芝居に重みがなくて、組み合う手応えを感じない。
10年前、最後に一緒にやった「ネクスト・アパートメント」という芝居のときにそう思ったまま、吉岡が出演したいくつかの映画をたまに観て「楽な芝居しやがって」と毒づいてきた。

念のために補足するけれど、どこの仕事でも、吉岡は自分に求められることをきちんとこなして、それぞれの作品の中での役割をきちんと果たしている。
褒めてくれる人がたくさんいるのが納得できる仕事ぶりは、本当に立派なものだと思う。

だけどなあ、手の内知ってるからなあ。
とまあ、身内の目線で、文洋と同じように思っていたわけだ。

次は楽させないぞ。
そう小形と誓い合った。こっそり胸の内で文洋にも誓った。

痛い目に合わせるには、私ががっぷり組み合うしかない。
本当は、【台所純情】での吉岡の役どころは、ちょろっと出てくるだけの遊びのキャラ、つまり吉岡十八番のキャラを超える究極のテンション芝居、おっさんどもをイビリ倒すキチガイ上司、なんてことで考えていたのだけど、変えた。

で、吉岡の相手役は私だとして、それじゃどんなふうに絡むよ?とホンを書くときに随分と悩んだ。
悩んだ挙げ句、吉岡が苦手そうなこと、避けてるだろうことを、一通り並べてみた。

稽古入りして最初の本読みで、解釈もおぼつかない新人の内野や、全体を把握するのに一杯いっぱいで自分のキャラを掬い取るまでには届かないおじさんたちの中で、吉岡だけは、最初から、4割方の完成型を持ち込んだ。
台本から立ち上げる方向性としてはパーフェクトな読み込みではあるのだけど、パーフェクト過ぎて面白くない。

ヌケヌケと定型を持ってきやがってと腹が立つ。
定型が通じないってことをわからせなきゃいかん。
だけど、私は演出優先で稽古では代役が入ってくれているから、わからせようがない。
代役とのやり取りでの吉岡は余裕綽々だし、柔軟で素晴らしい相手役なのだ。
仕方ない、一度だけと、稽古入り早々に本役で立ち稽古をした。

これも吉岡は無難にこなす。
こちらがどんなに遊んでも、ブレることなく筋を引き、投げた球を受け止め損ねることがない。
どころか、時に打ち返してもくる。
「なんだよ、これじゃ出来上がっちゃうじゃん」と、小形と2人苦笑して終わった。

ぎりぎりと追い込みたくとも、他の役者が追いつかないから、回りくどい演出になる。
脚の長い人に歩幅の狭い階段を一段ずつ昇らせるような感じ。
それでも吉岡はきちんとこなす。
こなした挙げ句、注文される一手先まで用意してくる。
しかも、稽古休みの日には撮影があったらしく、身体を休める時間もダメ出しを反芻する時間も少ないだろうに、それを見せない努力の人だ。

芝居全体が少しずつ底上げされてきて、なんだかもうそういう助平心で芝居作ってるのがイヤんなっちゃうわ、とかも思い、最終的には龍さんや内野とのバランスを取ってオーソドックスな方向、定型から20°ずれ程度に絞った。

そこまで全体が出来上がって、最後の数日にようやく本役が入る。
まだ半分は演出の仕事があるので、ゆるーいテンションなのだけど、私が本役で最初の通し稽古に立ったとき、吉岡が、初めてブレを見せた。

どう持って行ったらいいのかわからないからとりあえず乗っかっちゃえな状態の吉岡じゃあ、私が面白くない。
何をやっても受けてくれて、運んでくれて、収めてくれる。
確かに、巧い。

だけど、そういう吉岡になってしまうと、私は自分の好き放題になってしまって、面白くないのだ。
つくづく、芝居ってのは攻めじゃなくて受けの面白さだよなあと思う。
てことは、吉岡は、芝居をやることの面白いところばっかりやってるんじゃないか。

コイツほんとに狡っ辛いぜと、やっぱり今度ばかりは何がなんでも追い込まなきゃいかんと、最後の最後になって、思い直した。
稽古場に顔を出してくれていた「へばの」高橋和博キャメラマンの一言に背中を押された。

カズさんは「まあ、俺たちはいつもの睦雄さんだなと思って面白がれますよ」と、おそらく肯定的な意味合いで、通し稽古の感想を言ってくれた。
まあ、そりゃそうだわな、十八番の見せ場もあるしなと笑いながら、気づいたら「でもさ」と言っていた。

「そういう睦雄さんが良くないってわけじゃないけどさ、でもさ」
その宴席にいたのは、内野と、見学にきていたカズエちゃんと、カズさんと、吉岡と。
小形は間もなくのコヤ入り準備が立て込んでいたせいか、いなかった。
「でもさ、10年ぶりに私と吉岡が共演する芝居で、それやる意味あるの?」

飲みの席の勢いで出た言葉ではなかった。
初日の直前に、必ず言ってやろうと用意していた言葉だった。

勿論、そんな一言で本番の芝居がブレる吉岡ではない。
言われた直後の初日は難なくこなし、その夜にうんと考えて、色んな逃げ道を作って、万全に対応する用意をして2日目に臨むだろうと思っていたけれど、そこで踏ん張って、どうしていいかわからなくなったまま初日に立つ吉岡がみたかった。

演出でそれを作るんじゃなくて、状態として自然発露でそうなって欲しいから、初日の直前に言う。
そう決めていたのだ。
だけど、私自身が焦れてもいた。
受けの吉岡に甘えて好き放題の座長芝居だなんて、私のやってることこそ30年やってきている十八番芝居なのだ。

通し稽古を何度かやって、吉岡とのやり取りでも龍さんとのやり取りでも加減が見えてきて、どうにでも転がせる、しっかり場の舵を取れていると確信できていた。
できるほど、つまらなかった。

演出している私はそういう芝居をする私に決してOKを出さない。
演じながらも、演出の目になると自分の芝居が他の誰より面白くない。
まあ十八番っちゃあ十八番だからねえ、お客さんに不満を持たせるようなあれじゃないんだけども、なんだかもう自分の芝居に飽き飽きしちゃってるんだよねえ、これはどうしたもんかねえと、稽古場の片隅で、こっそり吉岡に愚痴ったりもした。

そんなことは勿論、吉岡のせいじゃない。
だけど、絶対に吉岡のせいだ。
さすがにそうとは言わなかったけど、きっと、それは伝わったんだと思う。

それから2日間の稽古休みがあって、コヤ入り前日、最後の通し稽古をやった。
飲みの席での言葉に加えて、あそこの場面はこういう見せ方もできると思うけどとプランを話したそれを、吉岡はやってみせた。
こなせてなかった。

当たり前だ。
稽古休みの2日間、吉岡は古澤組の撮影で三重に行っていたらしい。
よっちゃんや龍さんは、「いいな、三重か、なんか旨いもん食べてきた?」なんて能天気なことを言うのだけど、もはやそんな暢気な状況じゃないわけで、そもそも稽古期間中に他の現場に入ることのしんどさが、演劇人生まっしぐらなおじさんたちにはわかっちゃいない。

いつもの私の演出なら、吉岡が芝居を変えたことに対して、敢えて何も言わなかったと思う。
ダメがあればダメ出しはするけれど、基本的にOKラインを出すタイプの演出じゃあない。
この道筋ですよと示すタイプではなく、こことこことそことあそこは踏んじゃダメと言うことで役者自身に道筋を作ってもらうタイプなんだと思う。

けど、そのときは「睦雄さん、そっちでいきましょう」と言った。
だって、面白かったから。
相手役として、とても。

今こうして思ったことや出来事を辿っていると、初日の直前に言うつもりだった言葉を数日早く口にしたことも、プランをちらりと示したことも、方向性にOKを出したことも、私自身の意識が変わったからなのだと思う。
いつの間にか、私は、吉岡と一緒にこの芝居を作ろうとしている。

相手役にプランを打ち明け、見え方を伝え、運びを相談して、段取りを練習するなんてこと、ちっとも自慢じゃないが37年の役者稼業の中で一度たりとてしたことがなかった。
それをすれば相手は受けを作る。
作られた受けを、投げたこちらが面白いと思えることは少ない。
だからしない。

しないでいたから、吉岡が鍛えられた、ということでもある。
そんなことせずとも、吉岡とはすべてがうまく噛み合うし、見せる形が瞬間で出来上がる。

どう持って行きたいのか、何を企んでいるのか、その間は台詞を忘れているのか芝居の間なのか、段取りが違うのは間違えたのか変えてみたのか、台詞のニュアンスが違うのはどんな解釈を込めているのか、吉岡との稽古では全部が通じていたと思う。

それは、吉岡が私にとって素晴らしい相手役であると同時に、吉岡にとっての私が最悪につまらない相手役であるということだ。
でも、きっと吉岡自身は、そう思っていなかっただろう。
だって吉岡は演出家じゃあないから。

そんな当たり前の、芝居を作る中での信頼関係を、私は今まで誰とも持たずにいた。
具合よく都合よく思った通りに、もしくは思った以上に「受けて」くれる相手を、巧い役者いい役者と信じてきたし、実際、そういう相手役との出会いは貴重で印象深く、数えるほどしかいない。

吉岡との芝居も、その数えるほどの好相性の中の一つ、というだけだった。
今も、それは変わらない。
私にとって吉岡が素晴らしく好相性の相手役であることは同じだけど、吉岡にとっての私はもう最悪のつまらない
相手役じゃあない。

つまり、吉岡を十八番から引きずり出すには、私自身が十八番から飛び出すしかなかった、てことで。

劇場入りして、代役でのゲネプロと本役でのゲネプロの2回をやって、明日はもう初日だ。
吉岡は、新しいプランでの芝居をまだまだこなせてないし、私はちょっと長めの台詞がまだ一度も正確に言えていない。

だけど、「台所純情」という芝居は、猛烈に、最強に、面白く出来上がった。
役者が未完成なのに芝居が完成なんてあるのかと思うだろうけれど、あるのだ。
役者の足掻く姿や戸惑う姿や傷つく姿が見えなければ、完成し得ない物語というものがある。
それこそ芝居じゃないかと、胸を張れる。

何より、吉岡との場面をやることが、心底楽しい。
演出的に言えば2人してすべきことがちっともこなせていないのだけど、そこになければいけないものは丸々裸で剥き出しでごろんごろんとそこらじゅうに転がり落ちていて、どれをどう選んで拾い集めても、手にした途端にばちんと音を立てて爆ぜて、お互いに血まみれだ。

そんなふうに飛び散った吉岡と私の血飛沫を浴びて、龍さんやよっちゃんや内野が、ぎらぎらしてきた。
あ、芝居はみんないつも通りへらへらしてて薄いんだけど、役者として、ぎらぎらと、ね。

ちょろっと小戯れてちんまりした小咄を作ろうと思っていたのに、なんだかもう本当にぞくぞくするくらい凄い芝居に仕上がっている。
芝居としても勿論しっかり面白く創り上げたという自信があるけれど、それ以上に、今回は役者がみんな、今じゃないどこかの高みに手を伸ばして足掻いているのがいい。

暑苦しいことを言う割に、芝居の中身は相変わらずしょぼしょぼした話なのだけど、もしかしたら、だから一層に役者の純情が、立ち昇るのかもしれない。
どうでもいいようなことをくそ真面目に、なんの役にも立たないことで必死に足掻いて、あーあ、相変わらずだね、おっさんたちはと、笑えなくなった。
くそ真面目にくらいついて、必死に足掻いてる自分に気づいて、涙が出そうになる。

今の私には、文洋を殴る心づもりができている。
絶対に、「存在意義」なんて、吐かせない。
この芝居に関わる人全部のそれに対して、いつでもぶん殴るつもりの、拳がある。

そんでもって、これが終わったらもう、吉岡と一緒に芝居をすることはないだろう。
これが最後で、最初だ。
刺し違えての心中覚悟で、台所に立つ。



台所純情】本日19時の回が初日です。
日曜と千秋楽を除く19時の回は、お席にたっぷりと余裕があります。
ぶらりお越し戴いても、当日券でご入場戴けます。

受付開始は開演の1時間前、受付順に整理番号を発行します。
19日15時の回まで、於・スペース早稲田。



これほど純情な役者が揃った芝居なんざ、滅多に観られませんぜ、お客さん。
役者の純情が煮えたぎる舞台がどんな色に染まるもんか、どうか観てやってくださいよ。



  1. 2011/05/13(金) 03:05:27|
  2. 雑感
  3. | trackback:0
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<<無事に終えました。

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