公演が終わって一週間、今更ながらに、いい芝居だった、と思う。
ミニマムなチームワークでバランスが取り易かった。
仕掛けたことが倍になって打ち返される関係性の面白さ、多少のハプニングではびくともしない構造の強さの中で、皆が自分の芝居を素直に楽しんでいた。
初日が開いてから、観客の反応に支えられて、みるみる芝居が育った。
よっちゃんの芝居が変わった、龍さんの芝居が変わった、睦雄の芝居が変わった、私の芝居も変わった、内野は芝居どころか人生まで変わった。
皆、これまでとは少しだけ違うことができる自分にわくわくしながら立っていた。
それだけ。
本当にそれだけのことだ。
いい芝居だったなあ、楽しかったなあ、というそれだけが残った。
いや、そりゃまあ色々残るものは皆それぞれにあるんだろうけど、結局のところ、いい芝居だったなあ、楽しかったなあ、というそれだけじゃないか。
もう消えてしまった。
二度と、触れることのできない時間。
煙草の煙と同じように、ゆらり立ち上って臭って煙って目に沁みて、消えていく。
時々は、焦げ痕なんぞも、じじっと。
消えていくもののすべてが愛おしい。
焦げ痕のような愛おしさだけのために、きゅうきゅうになって必死になってずたずたのボロボロになって、やっていく。
もうね、なんてアホなのかと。クズなのかと。どんだけ純情なのかと。
いつなくしてもいい。
そんなようなもののために、これまでに得たもの全部を今すぐいっぺんに失うかもしれないのに、今はそれがどうしても欲しい。そういう純情。
擦れっ枯らしは、そういう純情を一舐めして「手応え」なんぞと嘯いて飲み込んでいく。
ずっとそうしてきた。
けど、あの芝居には、そんなふうに飲み込めないごつごつ尖った役者の純情があって、ゴミ袋に手を突っ込むたび、舞台の上を転げ回るたび、傷だらけになった。
龍さんやよっちゃんとは20年の、睦雄とは15年の付き合いで、お互い二枚舌の裏まで見切れていると思ってたのに、ほんの10日間くらい役者で向き合うだけで、まだまだこんなに尖った純情があると思い知らされて、築いていたはずのものや、墓標の如く微動だにしないはずのものが、あっさり変質するのも面白い。
芝居に飲まれて引きずられて、日常が無意味になっていく、この感覚。
だけど、日常に足場がないと次に行けない。
だから皆、踏ん張って、抱え込んで、日常に重しをする。
そうすればするほど、自分自身が乖離していく。
夢なのか現なのか、自分か自分ではない誰かなのか、区別できないまま、ふわふわと日常を生きる。
その心許なさが、しんどいと承知で次に向かわせる。
また、その入り口に立ってしまった。
ふわふわした日常のこのままでいたい気持ちと、ぐいと日常の重みで引き戻されたい気持ちと、夢の果てを醒めて見据えていたい気持ちと。
逃げるのも委ねるのも選ぶのも、どれも同じ狡さなんじゃないかと思うから、何もせずにいるのだけど。
誰とも共有できないそういう思いが増えるほど、孤独にしか居場所がなくなっていくと、とうに承知なのだけど。
「おつかれさま」でお茶を濁して「さようなら」を言わない人たちだから。
不純の中に、ひと滴の純情。
純情の中に、ひと捌けの不純。
見えてるものは、同じ。
あの芝居、なんだかもう3年くらい昔のようにも思う。
あちこちの擦り傷や打撲の痕が、治りかけていて、ちょっと淋しい。
引越の荷造りに追われながら、こころの荷造りもしたつもりだったのだけど、さて、それはどこに片付ければよいのやら、コップや皿と同じように片付ける場所がないと片付かなかったりするじゃないか。
などと現を抜かしているうちに、日常の雑事が積もっていくからなあ。
大人の日常には純情なんざぁいらんてことか。
ちぇ。不純な私は純情ひと滴だって、持て余しちゃうよ。
★本日の【母娘監禁・牝】@渋谷シネマヴェーラは 11:00/13:50/16:40/19:30 の上映です★

そういえば、このときは、純情の中にひと捌けの不純があって、やっぱり同じようなことを思ったっけなあ。
- 2011/05/29(日) 03:24:07|
- 雑感
-
| trackback:0
-
| comment:0