バンドにいながら、自分の作りたい通りの音を、メンバーに求めるミュージシャン。
劇団を持ちながら、自分の作りたい通りの演技を、役者に求める演出家。
仕事でありながら、自分の作りたい通りの作品を、作家に求める編集者。
お前らみんなくそったれだ。
死ぬまで一人で自己実現やってろ。
くそったれには、出来うる限り関わりたくないのだが、どこかですこーんと出会ってしまうことだってある。
出会った以上は関わるわけで。
だって人ありきなわけだし。
そんで残念な思いをする。
何十回もそういうことがあるから今更落ち込みはしないが、どうしようもないことだからなあと諦めてしまう自分にも腹が立つ。
あたし自身、間違いなくそういう人だったんであって。
作り手は常々「何がやりたいのか」について考えさせられる。
考えた結果として「自分の思う通りにやりたい」という答えにしか行き着かないのは、素人か、ただの阿呆だ。「自分が思う通りにやりたい」という感覚の、その先を考える根気がないのは素人だし、キャリア何十年のベテランにも阿呆はいる。
そのことについて話すのはとても気を遣うし、しんどいことなので、基本、そういう人に出会ったときには、くるりと背中を向けて逃げ出すことにしている。走って逃げて、遠く離れたところで、「どうしようもないことだからなあ」と小さく言い訳を呟いたりする。
根気がないのはどっちだよと情けない。
皆がそうやって逃げ出すから、いつかその人はひとりぼっちになる。
どれほど思い通りであっても、一人でやれることにはすぐに限界が見えてくる。そのうち自分自身の思うことに飽きがきて、初めて「思う通りでなくてもいい、なんでもいいから、誰かと何かをやりたい」という心境になれるかもしれない。
だが、大抵の場合は切実にそう願ったところですでにひとりぼっちだ。周囲には、かつての自分と似たような「自分の思う通りにしたい」人たちが、自分の思う通りのことをやってくれる奴を探してうろついているだけ。まるで、物作りをする人の墓場だ。
使える奴は一人もいないが、ひとりぼっちが嫌ならば、そいつらとやるしかない。
もはや思う通りでなくてもいいと思っているから、人と何かをやることが楽しめる。昔よりずっとスムースにことが進んでいるようにも感じられる。
だが、結局は、今現在「自分の思う通りにしたい」と思っている人のそれに阻まれて、あらたに志した「誰かと一緒に何かを作る」ことには、最後まで辿り着けない。
残念な思いをしてようやく、かつての自分がそうやって阻んできたもの、拒んできたもの、失ってきたものの価値を知る。
今のあたしがそうなのかと思うと、心底情けない。
かつての無知と傲慢と薄情への天罰かと思う。
だから、そうは思わないことにしている。
あたしはそうじゃないはずだ。
「何がやりたいか」の外側にある「何故やりたいか」、もひとつ外側にある「どうやりたいか」、その外側にある「誰とやりたいか」、そのまた外側にある「いつやりたいか」、またまた外側にある「どこでやりたいか」…と、何かを作ることは、必ずマトリョーシカになる。
マトリョーシカの真ん中が掴みたければ、外側から一つずつ開いていくしかない。
いきなり真ん中を掴もうとするのは、それを叩き壊すことだ。
誰だって、自分だけの大切なマトリョーシカを、赤の他人に壊されたくはない。
いつかのあたしは、マトリョーシカなんてくそったれだと思っていた。
何も知らなくて、ただ自分の真ん中にあるものだけが全てで、そこしか信じてなかった。
だから、周りの奴らはみんな無能に見えた。
無能で当たり前だろう。あたしの真ん中をちゃんとわかって、その通りにできる人なんて、あたし自身しか存在し得ないんだから。
しかしまあ、あたし自身にだってそれができるかも危うい。やりたいこととやれることのバランスがきちんと取れていない。そんな時期だった。
繰り返し繰り返し、「お前のやってることは芝居じゃない」と言ってくれた人がいた。
あたしはド阿呆だったから、「あたしのやりたい芝居はこれじゃない」みたいなことを言って、その言葉の意味を考えられなかった。
恥ずかしい。いや、それは別に恥ずかしくない。言葉のあやです。
ひとりぼっちになったとき、あたしには友達がいた。
物作りをする仲間としてではなく、友達として、あたしに力を貸してくれた。
墓場をうろつくあたしをその人が拾い上げてくれたのは、「今すぐに誰かと何かをやりたい」という、マトリョーシカにできそうな欠片を持っていたからだろうと思う。
そのときに持っているものが「これをやりたい」っていう真ん中の一番小さなそれだけだったら、きっと死人の放つ悪臭として、顔を顰められるだけだった。
ともかく、あたしは、そこから、自分のマトリョーシカを作り始めた。
マトリョーシカになってみて、初めて、きちんと前に進んでいる人は、みんなマトリョーシカだったんだと判った。同じことを同じように続けていながら、次へ次へと進んでいく人と進めず退けずでどこにも行けない人の違いは、きっとそこにあるんだろう。
これは、誰も教えてくれない、とても重要な秘密だと思う。
あたしは相変わらず薄情だから、くそったれな人に「くそったれ」とは言わない。
マトリョーシカの秘密も教えてあげない。
くそったれは墓場でくたばればいい。
あたしはくそったれの骨をぱきぱき踏みしめて前に進むんだから。
前に進むってことは、時々はそういうくそったれにも出くわすってことだ。
- 2007/03/05(月) 07:28:00|
- 雑感
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ブルーハーツに書き込み少なくて大丈夫か…と思った私がバカでした。
お元気そうで、
なんかくそったれが気持ちよい響きです
たまってるかも。
- 2007/03/06(火) 00:26:27 |
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- かつみ #-
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お話を読んでいて、司馬遼太郎さんが講演記録で、
「自分で浮力のつかない船がありまして、それが小説です。
船端にいっぱいブイをくっつけます。浮力をほかのものに求める。このように、小説というのは夾雑物でできあがっております」
と言われていたのを思い出しました。ちょっと話のテーマとずれてるかもしれないけど。
マトリョーシカで言ったら、司馬さんは宇宙戦艦みたいに巨大なマトリョーシカだったのだろうな。ことを成す人というのは、皮膚感覚なんて存在しないくらい遠い先の部署まで全部捉え込んで、念力まで動員してそれらを認識し抜いて操るくらいの気構えで生きてるんだろうな。
司馬さんが、徹底して無私な人だった(会ったことがあるわけでもなんでもないけど)理由が、なんとなくわかるような気がします。分厚いマトリョーシカの奥の奥にいたら、息の臭さなんて、誰にも伝わるわけがないもの。(もし臭ければ)本人はたまらないだろうけど。
- 2007/03/06(火) 06:34:13 |
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- レフ #-
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>レフさん
なるほど。存在の大きさ=マトリョーシカの大きさなのだと思うと納得がいきますね。真ん中の一番ちっさいところは、みんな同じくらいの大きさなんだと思いたい。そして、スキルというのは、必要に応じてどれだけ巨大なマトリョーシカであっても、どれだけ素早く開いて真ん中を人に見せられるか、ということでもあるように思いました。真ん中を見せずにただ鎧を重ねたようなマトリョーシカは意味がありませんもの。
- 2007/03/07(水) 03:57:32 |
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- まえかわ #-
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