人を知ろうとするとき、言葉というのはなんと頼りないものなのだろう。
日々の中でどれほどの言葉を交わしても、人を知ることはできない。
なのに、知らぬ人を想うときは、いつも某かの言葉を手がかりにしてしまう。
言葉の欠片に、誰もが、自分のこゝろの、視たいものを視る。
知りたいことを知る。
信じたいことを信じる。
通じる言葉を持たない犬猫の表情から、勝手に意味を読み取るのと同じこと。
「言葉の力」なんて言うけれど、実のところ、受け止める人のこゝろの力に頼るばかりじゃないか。
無力を感じる柔なこゝろには、返される言葉がずぶずぶとめり込む。
私のこゝろがそうでなければ、その言葉をそれほどに暖かく感じないだろうに、今は森の中の遠い灯りのように、それだけを見つめる。
そうと伝えてくれるこゝろ。
そうと伝えようとしてくれるこゝろ。
嘘やほんとや真意の手前にある、小さな事実を蝶番に、言葉を追う。
文字より言葉、言葉より声、声より気配、気配より空気。
より信じられるものは、より形がない。
芝居だの小説だの、自分の中の真実を作り替えることばかりしているから、見失ってしまったのかな。
いっそ全部ニセモノと思えば、楽しめるのかもしれない。
それとも、そのときにもやっぱり、探し求めるだろうか。
考え無しで口にした言葉の欠片が、ある人のこゝろには跳ね返され、また別のある人のこゝろには染み渡る。
選び抜いた言葉一つにしても、行方に違いはない。
物語すら無力なのだとしたら、筋道のつかないそのままの言葉に、なんの力があるのかと、言葉のこちら側で成す術無く立ち尽くすばかりで。
自分のそれに気づいていながら、誰かに何かを伝えようとまた手元の言葉を手繰って、ひたすらに重ねる。
文字を書き連ねる自分も、必死で喋り続ける自分も、バカみたいだ。
あれだ、たぶん言葉ってのは、意味を持つ記号なんかじゃなくて、音として発せられるこゝろの現象なんだな。
だから、打ち捨てられても跳ね返されても別のものにすり替えられても、湧き上がる。
こゝろの老廃物。
いや、そういうとまるで価値がないみたいで淋しいから、
働く脳細胞から吹出す蒸気みたいなもんだと思えばいいのか。
ぷしゅ。
- 2011/08/21(日) 09:06:23|
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