ワークショップにくる若い人たちにはよく「当たりを狙うな」と言う。
◎をもらうことを考えずにかかれ、×をもらうことを恐れるなという意味だけど、それは×をもらってもいいってことじゃあない。
経験がないんだから知らなくて当たり前、失敗しても当たり前、とは思うけれど、だからって知らないことや失敗することを当然として開き直られても困るわけで。
そんなことは年齢や経験に関係なく誰にでもわかりそうなもんだが、コレが本当にそう言う側の心情や目的、その場から理解すべきことがまったくわからない、俗にいう「バカ」がいたりする。
自分のことしか見えていない、自分のことしか考えられない、自分の物差しでしかモノごとを測れないのが、俗にいう「バカ」。
何か指示をされたとき、その指示の意味が理解できたというだけで自分基準にできると判断して、その指示がなんのためにされているのかという本質んとこに目が向かなかったり。
何か意見をされたとき、その意見を自分基準で受け止めて心したつもりになって、わざわざ今それを伝えてくれている状況、伝えてくれる人の心情や立場などを推し量ることをしようとしなかったり。
つまり、他人が持つ価値や意味を、想像することができない。
もちろん自分自身のことすらろくに理解も分析もできちゃいない。
「自分がそう思う」というだけが基準になっている。
それって、「世間とわたし」の距離感がないってことなんだろうなあ。
親という存在の価値と力、世の中に於けるお金の価値と力が見えていないのかもしれない。
見えていないってことは距離感がないってことで、そこんとこの距離感が掴めないうちは「世間」が見えないし、世間が見えなければ「世間の中のわたし」も見えない、とまあ、そういうことなんだろう。
「世間とわたし」というキーワードは、かれこれ10年以上前からワークショップで必ず話す。
芝居が「人」である以上、人によって成り立っている「世間」や、その中の「わたし」が見えないことは、致命的だと思う。
新聞読め、映画観ろ、本を読め、人と会え。
好きなものを知るのは趣味、好きじゃないものを知るのが勉強。
そんなことは、何かを志すときに、自然と覚える。
稽古も大事、バイトも大事、酒の席も大事。
それだって、そういう場所に身を置けば必然で選ぶようになる。
で、もひとつほんとに大事なことは、寝てる暇があれば働け。
芝居がやりたいんですと情熱を抱くのは素敵なことだけど、夢を言い訳に怠けてないで、しっかり働けよ。
本を買う、映画や芝居を観る、人と会う、どこかに出向く。
そういうことを存分にするためのお金を稼げよ。
芝居やってるから貧乏で当たり前と開き直ってくれるなよ。
それは本当に不自由かつ信頼ならないことだよ。
バイトがあるからその日はちょっと、とかって時間を切り分けるなよ。
今そこにいることの価値、意味、出逢いをないがしろにしちゃいけない。
やりたいことがあってお金が必要で働くんじゃないのか。
金にならない役割にも責任があることを忘れてくれるなよ。
時間を作ることができない奴に「やりたいんです」なんて甘えられても困るよ。
それができない奴は、人のお金の価値もわからない。
10円でも100万円でも、人からお金を貰うってことの意味がわからない。
他人のお金や時間の価値がわからないうちは世間も見えない。
そういう奴に誰が大事なお金を払うんだ?
そんな奴が客からお金をもらって人前に立っているなんて悪夢だ。
だから、「世間とわたし」。
できるだのできないだの好きだの嫌いだの向いてるだの向いてないだの言ってないで、働け。
まったく、あの頃の私に誰かがそれを言ってくれていたらと、今しみじみ思う。
20年前の私は、芝居で食っていて若くて無知、即ち傲慢。
働きながら芝居をしている人たちを、心底軽蔑して、無能だと思っていて、そう思っていることを隠そうともしなかった。
バイトなんかじゃなくて、一流企業の社員で責任ある仕事をやりながら、それでも好きで芝居をやっている人たちを、どうしてバカにできたのだろうと、今は思う。
私には、彼らのお金と時間の価値がちっともわかっていなくて、ただただ自分のことだけを見て、恥じ入ることすらなかった。
芝居しかしていないからお金はなかったけど、なんとか食えている、それだけに満足していたし、「芝居がやりたいのにどうして働いたりするの?」と、昔のフランスの女王様みたいなことを平気で口にした。
「芝居下手なんだから仕事なんかしてないで稽古しろよ」と、さもそれが正しいことのように喚いていた。
恥ずかしい。本当に、心底、恥ずかしい。
だけど、そういう傲慢さをあちこちで切り売りするそれが私には「働く」ことだった。
結局、あの頃の私は働くことを時間の切り売りとしか捉えていなかったんだと思う。
私が働いて受け取るお金は、誰かが血を吐く思いで働いたお金だと、気づいていなかった。
求められる場所に自分の身を置くことが精一杯で、役割や責任なんてその実少しも果たせていなかったかもしれない。
少なくとも、彼らがどんな思いで芝居をやっていたのか、あの頃の私は慮ることをしなかった。彼らのしんどさや歓びが、想像できなかった。
まったく恥ずかしいことに、私が生活のために働くという経験をしたのは、つい半年前で、未だその自分が世間での役割を果たしているかの自信は持てない。
結局、私は時間の切り売りをしているだけで、自分の時間をどこに売るのが有益かと考えるばかりのような気がしている。
世間につながっているだろうかと考えると、やっぱり俯いてしまう。
だから私も偉そうなこと言えた立場ではないのだけど、君たちより先に気づいたから教えてあげる。
すでに「バカ」である君たちが、その無能さを解消するには、血を吐くまで働くしかない。
もちろん稽古や飲みの席を疎かにしちゃいかんし、本を読んだり映画や芝居を観たりする時間は何を差し置いても作らにゃいかん。
とすれば、削れるのは飯と睡眠しかないじゃないか。
それで壊れる身体だったら、そりゃ使いものにならんてことだから、さっさと淘汰されてしまえばいい。
就職してきっちり「世間」に結びつくのは早い方がいい。
求められることに応えるだけの努力ができないってことは即ち無能ってことで、そもそも無能な人の居場所はない。
自分にできる努力の範疇で生きていくなら「世間」の方がずっと温かい。
第一、稼げないバカより稼げるバカの方が、人としてマシじゃないか。
ついこないだまでの私は君らと同じくらいバカだったけど、
たった今の私は今の君らほどバカじゃないから、言うこと聞け。
- 2011/08/26(金) 09:25:33|
- 雑感
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| comment:4
コメントありがとうございます。
ごめんなさい、なんのことを指して「人それぞれ」と言っておられるのか読み取れなかったのですが、無論「人それぞれ」はすべての物事の大前提であって、だからこそ他人の意見や主義が価値を持つという仕組みになっているわけですよね。
だけど、これはまあ私のたかだか知れた経験測ではありますが、「人それぞれ」が通らないような狭い間口の先に拡がる特殊な世界というものは確かにあって、そこを目指しているはずの人が「人それぞれ」という「便利な常識」に寄っかかって開き直るのはやっぱりバカだと思います。
もちろんそういう人はその先の道のりで自然淘汰されるからワークショップじゃないところで出会う機会は滅多にありませんし、出会ったとしても弟子でもない若造がバカだろうがカスだろうがどうでもいいので、敢えて意見したりはしませんが。
- 2011/08/26(金) 17:49:00 |
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- まえかわ #-
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ひとそれぞれ。はい。なんとなくですが、前川さんが『ばか』を多用されるのはあんまり嬉しくないです。たしかに、そういう人はいますが、自分自身もばかだと思われているし。なんか、すみません。今泉
ちなみに、俺は働けとは言いませんが、貧乏は一度経験した方がいいとは思っています。自分はあのある種のここちよさを伴う風呂なし四畳半が、嫌いじゃないです。戻りたくはないですが。はい。コメントされた方も悪気などは一切ないと思われますので。 今泉
- 2011/08/26(金) 23:13:09 |
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- 立ち読みさん #-
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ご丁寧にありがとうございます。
私なんか尖った物言いしてましたかね。
お気遣い戴いてしまいすみません。
「バカ」良くないんですね 笑
使い慣れてしまっていて、無神経になっていました。ごめんなさい。
twitterでのワークショップ話の続きになりますが、「バカ」とか「死ね」とか頻繁に言ってしまいます。傷つかないと沁みないことがあると信じています。相手が60歳でも同じです。私はそういうバカです。
てか、どうせみんなバカじゃんと思ってます。
口の悪さ、よく注意されるので、気をつけるようにします。
貧乏話は、飲んだときにじっくりしましょう。
遠い日の花火じゃありませんから 笑
- 2011/08/27(土) 00:04:05 |
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