仕事部屋

私だけのものとしての、それら。

今日どうしてる?と何気なく訊いたときに答えてくれる人がぽつぽつと増えてきて、なんだか嬉しい。
その人の予定を知るだけで安心してしまうのは、そこを前提に思いやれるからで、自分がどうするのが良いか行動を決められる安心感なのかもしれない。

それは、行動だけではなく状況でも同じことですわな。
どうしたらいいんですかなんて子どもみたいな泣き言は口にしたくないし、自分の判断が正しいのか間違っているのかを人に決められたくない。

判断するという行為には、判断を誤るという可能性が常にあるわけで、つまりその間違いを楽しむことも含めて「判断する」ということになっているんだと思う。
考えてみたら、やっている仕事の全部がそうなのだけど、そこには誰かしら判断する楽しみを共有してくれる人がいて、恵まれているときには結果の責任まで一緒に背負ってくれるから、あんまりそんなふうに思わなかった。

仕事が楽しくないという人はもしかしたら自分で判断をしていないんじゃないかしらね。
現状を理解する、少し先を予測する、より良いもしくは自分が望む展開のために、判断して行動する。
明日の朝は起きられないからしんどいけどゴミ出しは今夜のうちにやっとこう、とか。

私は人のことを思いやるのが巧くできないから、たいがい自分の状況を先に開示することになる。
そうすれば少なくとも、相手にとって「よりよい判断と行動」ができる可能性には結びつくだろうから。
だから、自分に対しても、「よりよい判断と行動」ができるように情報が提示されるだけで安心できるんだろう。

判断の段階では何も確認できないけれど、それが行動になったときには、ある程度、形として目視できる。
だから、自分の判断に自信が持てないときや判断することを楽しめないときには、判断なんかしない。
ただ、判断したつもりになって行動する。
行動すれば何かが返ってきて、判断の輪郭が少しだけ、見えてくる。

わからないからできないって皆さんしばしば仰るのを耳にするけども、しないと判らないことの方が世の中には多いもんなんじゃないのか。
自分で判断する、判断したつもりで行動するってことを積み重ねていけば、誰のせいにもせずに済むんじゃないのか。

そんでそれが続くうちに自分の判断なんてまるきり充てにならんなということを思い知って、痛い目にも沢山遭って、やっべえ判断こええとか思うようになると、きっと判断することがちょっとばかり楽しめる。

考えることは、答えを出すためではなく、考えるという行為を楽しむこと。
ずっと昔の小説にそんなことを書いたっけなあと、今思い出した。
判断することも考えることも似たような行為だから、やっぱりそういうことなんだと思う。

好きな人のことをぐるぐる考えるのは楽しい。
ああだろうこうだろう、ああでもないこうでもないを、わざわざ一晩かけて味わったりする。
そんなふうに、全部を楽しめたら、いいなあと思っていて、なんとなく、そんなふうになっている。

助けてよ、しんどいよ、悲しいことがあったんだよ、泣きたい気持ちだよと人に甘えたい気分なのに、
よくよく考えてみたら、泣きたくなるほどの悲しいこともしんどいこともなくて、がっかりした。

こないだまで、ぐずぐずぐるぐるしてしまう自分が、自分の「考えてしまう性質」が苦しくて、ぎゃあぎゃあ言っていたのに、ほんの少し状況が見えただけで、あっさりとそうなる。
夜ごとの私の愚痴を聞き流しながら適当な相づちを打ってくれた人や、率直な感想を言ってくれた人や、励ましの言葉をくれた人や、貴重な情報をくれた人や、真摯に打ち明けてくれた人たちのお陰で。

今の判断は大したことじゃなくて、まだもっとこの先にうんとしんどい逃げ出したくなるような判断が待ち構えているのかもしれない。
悲観して思うのではなく、私の人生がそうなっているというデータ上での予測だけれど。

ああ、きっとしんどいんだろうなあとは、ちゃんとわかっている。
判断したつもりで行動できることだって、今はまだいくつか見つけられるけれど、いつか手の内がなくなるかもしれないし、今だって大したことはできやしない。
状況が見えなくなったら、すぐに立ち往生するんだろうとわかってる。

だけど、私はそれを楽しめるような気がするんだよね。たぶん、今なら。
恥ずかしいことになっても痛い目に遭っても何かを失くしても、判断する楽しさだけは得られる。
ま、実際のところ、行動するにあたってじっくり考え抜いて適切な行動を、というふうにはならないし、できないんだけども。

なんだかここ1年くらい、しくじることが怖くない気分で、それまでに怖がっていたことや自信が持てなかったことやそそられなかったことや面倒臭く思っていたことに手が伸ばせそうな気分で、そのときの結果や責任はまたちょっと先の別問題なわけだけども、そうやって考え無しに行動してみると、それなりに知恵がついたりもし、またそれが何かの判断に役立つようになるんだから、ありがたい。

昔から、自分でこうと思ったら絶対そうしてしまうと言われていたんだけど、自分自身ではきっちり臆病なところも承知していたし充分に小心者で、ただ苦手なことには手を出さないというええかっこしいなところだけで、意思ある人のように見せかけていたんで、今、自分のこころの内側で判断を怖がっていないことに気づいて、何より私自身が「お、すげえじゃん」と思っていたりする。

何故それほど信じることができるのかと言われたら、他に信じるに値するだけのものがないからだし、
そこにあるだろう真実は結局どれだけ楽しみながら考えたって、わからない。
だって本当に、真実なんて、わからないものだと思う。
わからないものだけが真実だと言ってもいいし、わかったとしてどうにも動かせないのが真実なわけで。

そこに、解釈。
「こう考える」「こう判断する」は目に見えないけれど、そうした解釈を元にした「行動」は形にできる。
「こう考えたことを伝える」「こう判断して動く」があれば、人とそれを共有できる。
もちろん、真実はそこにすらないのだけど、共有できるそれは出来事としての事実になる。
人の言葉に意味としての真実を見つけることは難しくても、その人がそう言ったという出来事としての事実だけは、手にできる。

だから、なんかもう、簡単に言えば、どうでもいいってこっちゃ。
みんな、自分の信じたいものを信じればいい。
みんな、自分のやりたいことだけをやればいい。
誰もがみんな、それぞれに。

つまり、人の考えること思うこと判断することなんてのは、どんだけ確信しようがその人だけが信じる思い込みの一種であって、それは誰にとっても同じなんだから、あとはもう、エチュード芝居の稽古をするみたいに、捨てたり拾ったりぶつけたり逃げたりしてやり合って、ただその時のそこに事実だけを引き出してこねくり回して組み立てるしかないんじゃないのか。
それだけのことなんじゃないのか。

まあちょっとややこしい話だけれども、ここでいうところの真実と事実の区別がつかないと演じることの本質は飲み込めないからワークショップの人には有意義な課題かも、などと思い至った途端に、だからこそお酒で記憶なくしてたらそこにあっただろう某かの事実を拾い損ねてるばっかりじゃんと、肩を落とした次第。
ほんとすいません。申し訳がたちません。がっかりしないでください。


9月のワークショップは久々の阿佐ヶ谷会場、過去のWSで配布したテキスト「Actor's JKD(アクターズ・ジークンドー)」が資料から出てきたので、配布します。

素の表現方法「そのまま、そこにいるために
9/17(土)~18(日) 18:00~22:00 @阿佐ヶ谷 ひつじ座

参加費10000円 申込〆切は9/16正午
★18日19:30から試演会をやります。申込不要・無料、どなた様もぶらりとお越し下さい。
お申し込み・詳細はコチラ


記憶障害に効果があるというサフランのサプリをまた飲み始めました。
効いてくれないと諸々困ります。




  1. 2011/09/11(日) 03:55:14|
  2. 雑感
  3. | trackback:0
  4. | comment:0
<<センスとセンテンス、または、満月としじみ汁。

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