15歳の私を観ていてくれた大人がまた一人いなくなってしまった。
どれだけ間が空いても、会えばその人の前では15歳の小娘になれる。
そういう場を持ち続けていられることは、ぎくしゃく大人になる過程での拠り所だと思っている。
振り返り振り返り歩いて行けることが、どれほど呼吸を楽にしてくれるか。
葬儀には出ない。
恩人の葬儀にも親友の葬儀にも出なかった。
ぬけぬけ胸を張って言えることではないが、きっとこの先も、葬儀には出ない。
安らかにと祈る気持ち、ありがとうと見送る気持ち、そのときに伝えたい胸の内がないわけじゃない。
調整しづらい仕事の予定もあるけれど、どうしてか葬儀のときに何をさしおいても駆けつけるということができない。
驚き戸惑い悲しむ人たちが、その気持ちはひとまず飲み込んで、遺された人の力になるため駆けつけるべきとわかっていても、どうしてかできない。
初めて葬儀に参列したのは父の葬儀だった。
15歳、映画の出演が決まったと報告しようとしていた矢先で、父がもう別の家族を持っていたからか、私は親戚の子という名目で親族席の末席に座らされた。
その時の屈折した残像のせいか、葬儀にはどうしても足が向かない。
生きている我々と思うと死にたくなる。
嗤われるような理由だけど、その気持ちは本当に根深くて、どれほど親しい人たちと慰め合ってもなかなか消えてくれない。
引き寄せられる自分を留める術がない。
恐ろしくて仕方がない。
散々可愛がって戴いた斉藤博さんのときも神代監督のときも、行かなければ行かなければと申し訳ない気持ちで身悶えしながら引き蘢っていた。
親友の葬儀のときも、友人たちから何度も電話をもらいながら出向けなかった。
無論「どういうつもりだ、何やってるんだ」と叱られる。
いつのときも、用意はする。
今朝も喪服と袱紗を出して、ずっと迷っていた。
お通夜は失礼するとして告別式にはと、一日延ばしに迷う。
そして、やっぱり行かないのだ。
きっと皆同じ思いなのだろう。
そこを踏ん張って、礼を尽くしているのだとわかる。
自分の葬儀のことを考えれば、やはり駆けつけて欲しいものだろうとも思う。
それでも、やはり行けない。
大人として失格だと思う。
そういうことができない自分が恥ずかしいし、周囲に向ける顔がない。
だけど、まだ生きなければならないから、どうか赦してください。
- 2011/12/23(金) 13:09:43|
- 雑感
-
| trackback:0
-
| comment:0