仕事部屋

愛欲水平線。

どんなことも話せて、一緒にいると気楽で、飲んで愉快、仕事で信頼、仲間の共有もできて、甘えたり甘えられたりするけれど、人としての気遣いだけはどんなときにも欠かさない。

そういう心地よさを与えてくれる男友達が数人、いる。
恋人には「愛してる」と言わないけれど、数人の特別に親しい男友達には素直に言える。
いつ思い浮かべても、温かい愛おしさが込み上げる。

基本的に異性として意識できなければ知人止まりで親しくできないので、親しい男友達は皆十分に男の人として意識して関わり合うことになり、異性であるがゆえにものすごーく淋しいときとかにちょっと助平な気持ちをすり合わせることもあり、それはたとえば、手をつないで歩くとか、抱きしめ合うとか、チューをするとかのことで、その心地よさをお互いが悪くないと思えば当然ながらセックスをすることもあるし、ごく稀に結婚したりもするのだけれど、居心地のよさだけを大切に抱えてセックスせずにいる場合もあるわけで。

もしくは、最初から恋心を携えて親交を重ね、いつかそうなると思っていながらどうにもそうならずに、いつしか自然と恋心が萎えて素晴らしい男友達の一人に昇華されてしまう場合もあったり。

何十年も親友のように付き合っていてある日突然「ホテル行かないか」と言われて「いいよ」ってなあれでセックスして、それからまた十年くらい何もなくて、とかもあれば、恋心的には熱愛のように常に一緒にいた時期があるのにセックスは一度だけ、というようなそれがあったり、知り合ったときから妙にウマが合うってんで仲良くなって、でもちょっと助平心もなくはないよねと話し合ってお試しに一度セックスしてやっぱり友達だわねと納得するようなそれがあったり、よーし今日はそういう気分だからちょっとホテルでも行くかと盛り上がってホテルに行ってビール飲んでがっつり眠って何もないなんてのがあったり、まあ、色々だ。

色々あるのに、いつも戸惑う。
とても親しくなって特別な男友達の一人と認識しているけれど、セックスがないから、これは恋じゃなくて友情なんだろうとか、ぐずぐず相手の気持ちを計ろうとしてみたりする。

相手の気持ちを計るなんて無駄と承知でぐずぐず考える、そのことが既に恋心を証明していても、まだ疑う。
セックスという確信がないから疑うんだろうけど、こういうときはセックスしたってどうせ疑うに決まってる。

だってセックスは誰とだってできるもん。
誤解を怖れずに言えば、同性とだってできる。したことないけど、たぶん。
できるから、特にいらないと思う部分もある。
だけれども、好きな人と抱き合う温もりや、ココロが満たされる感覚は、それとはまた違うことだと思う。

好きな人とはセックスしたい≠好きじゃない人とはセックスできない、という仕組み。

もちろん男友達とのセックスも、楽しい。
気取らないでいられるし、安心できる。

根っこの部分は、好きな人としたい、ってだけのことだから、その相手との関係性なんかは本当はどうでもいいことで、恋心だろうが下心だろうが「このひと好き」と思う気持ちの先に、一つの選択肢としてのセックスがあるだけなんじゃないかと思う。

男友達と恋人との区別がセックスのありやなしやなんて、どっちにも失礼なんじゃないだろうか。
寝る友達がいたり、寝ない恋人がいたりして、きっといいんだろう。

そもそも「友達」だの「恋人」だのの関係性は名刺の肩書きみたいなもんなんじゃないのか。
世の中には友達の一人を強烈に想い続けるような恋もあれば、言い争ってばかりの古女房と結ぶ友情もあるからで、人が誰かを想う気持ちやそれぞれの係わりをそういうふうに括るなんてのは随分と乱暴なことのように思う。

その区別はそれぞれの気持ちのとこにしかないってことだよなあ。
形で示すなんて無理があるじゃあないか。
だから、他人から視てわかることじゃないし、それはそのセックスの相手にもきっとわからない。

気持ちってのは、一緒にいるときに、つつう、と伝わるのが一番正確なそれで。
気持ちを言葉にすることは、届いたそれを確認して共通の認識にしようというまた別の作業だ。
セックスのときにそれが伝わってくることもあれば、セックスしなくてもちゃんと伝わることもある。

相手の気持ちが見えない、わからない、と思ううちは、きっと恋愛に対して未成熟で、そういう人にとってのセックスは、こんなふうに考えることの到底できない、もっとすごく大きな意味があったり、むしろ逆に意味がわからないただの気持ちよくなる運動だったりするのかもしれない。

恋愛の成熟は、経験人数だの年数だのじゃなく、度合いというか深みというか傷みというか、まあどれだけ真摯に自分の内面を覗いたり曝したりしてきたかって部分なんだろうから、年齢とは関係がないんだろうなあ。

しかしこれまたセックスの成熟は人数だったり年数だったりする。
相手を楽しませることが巧いとか下手とかじゃなく、自分が楽しむことが巧いか下手かの差はあって、その下地に、相手の気持ちを計る、ということは関わっているように思う。

恋愛でもセックスでも、相手が自分をどう思っているかなんてことを計り始めたらたちまちに目の前のその人を見失う。
自分の気持ちと目の前にいるその人をしっかり視ていれば、タイミングは見える。

見えたそれを言葉にして共通の認識にするか、ニュアンスだけを拾って流れに任せるか、見て見ぬ振りをして意図するところへ誘導するか、時と場合によって様々な選択肢があれど、結局のところ、今この人と寝ても私はこの人の気持ちをそのことで計ったりはしないし、自分の気持ちの何かが変わることもない、という確信さえあれば、セックスは誰とでもできる。

確信があるってことは、友達とセックスしても恋心は持たないし、恋人とのセックスがどういうことになっても恋心は変わらないってことだから、「何も変わらない」という一点のみが、私がするかしないかを区別するときのそれなんじゃないかと思うし、それも含めてのタイミングということなんだろう。

「やりたい」はまっしぐらに「やりたい」だし、「やりたくない」はどう転んだって「やりたくない」わけで。
気持ちがどうしたこうしたなんぞ、それとはまったく別のこと。
いつも自分にそう言い聞かせるくせに、同じ無駄を踏んで、同じ失敗をしたりするんだよなあ。

俗に、セックスした相手に対して極端な依存に陥る女の人のことを地雷と呼んだりするけれど、男の人にもそういう人はいる。
こればっかりはドッカンとやられちゃうとまあ手足の5,6本はもげるわけだし、痛い目に遭えばうかうかふらふらもできなくなるから、一回くらい吹き飛ばされておくのもいいんじゃないかと思うけども。

こんなことぐずぐず考えてないで、いっそのこと片っ端から男友達とやっちまいたいんだけれど。
それもあんまりだと思われるだろうから、やっぱり好きな人と素直に抱き合えたら、それが一番いいんだけれど。

つまりあれだ、すべての情欲は健康だし、恋心のないセックスは2度までが良いし、恋心でのセックスはしみじみ大切だ。


男の人の方が、概ねそこらへんは純情ですわな。
意固地ともいいますけどもね。
それくらいわかってますってば。



  1. 2011/12/26(月) 02:56:05|
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