ボーイフレンドと話していて血液型の話になったとき、彼はあたしの血液型を知っていた。知らないだろうと思って「バッテン三つもあるんだよ!」と自慢したときにも、それを知っていた。昔の話になって過去写真の数点が掲載されているリンクを送ったら、それもすでに見ていた。
「検索したでしょ」と訊いたら「した」と言う。
つまり、公開されているあたしのことは大分リサーチ済みであるらしい。
あそこのブログもここのブログも、たまには読んでいるのかしら。
ブルーハーツのブログでは延々と恋愛にまつわるエッセイをやっている。
ひじょうにもっともらしく 笑
確かに、「自分のことを知りたいと思って欲しい」と書いた気がする。過去、あたしの小説を読んでくれなかった恋人のことも書いた、と思う。
ここのブログには、そうやって記事にされたものを真に受けられちゃ困るのだ、というようなことも書いたような気がする。
あたしが思うところの、「こうして欲しいもんだ」のようなことをあちこちに書いているわけだから、それを読んでその通りに振る舞えば、あたしにとっては理想的な恋人になるんだろう、理屈上では。
つまり、あたしの恋人や夫にとっては、常にガイドブックが存在するということだ。
それを読めば、あたしに関する達人になるのか? …ほんとに?
てか、達人てなんだ???
あたし、研究されてるのか???
ともかく、知りたいと思ってくれてデータを探してくれることは、素直に嬉しい。
知られて困るようなデータはそもそも公開されてはいないはずだし。
だけど、たとえば一日連絡が取れないときなんかに、「ああ、彼女は今ごろ何してるんだろう」とぼんやりした想いを寄せられることは、あんまりなくなってしまうんじゃないのかしら。
それはなんだかつまらない。
もちょっと謎の部分も残しておきたいんだけどなあ。
決して、彼や親方が、データを入手しただけであたしのことをわかったつもりになんぞなっちゃいないってことも充分承知ではあるけれど。
あんまりにも判り易い人ってのは、どうなのかと。
知りたい気持ちは、ちょっとだけ特殊な気持ちだろうと思う。
それと同じように、知って欲しいという気持ちも、ちょっとだけ特殊だ。
但し、あたしの場合はそれ以前に「書き記したい」という欲求があって、「知って欲しい」とは別の部分で働いている。ゆえに、「それで、読んでどう思った?」と特定の誰かに感想を求めることは余りない。情報操作も可能だが、事実というのは自分以外の誰かと共有されている場合が多いので、事実と違うことを書けば、それを共有する誰かの信用を失う。結局のところ、書き記すことができるのは常に、誰かと共有した同じ事実をあたしがどう感じどう考えどういう言葉で捉えているかということでしかない。
そして、多くの人のそうした部分は、謎とされているのが常なんじゃないかと思う。
「これこれこういう出来事があって、私はそれをこれこれこうと感じました」と、ネオンサインのように看板を立てている人は、余りいない。
もちろん、だからって公開されていることがあたし自身のすべてではないから、それほど拘る必要もないんだろうけれど。その通り、というのがなんだか残念なのだ。
「たて×よこ×高さ」みたいに「思考×言動×データ」っていう方程式があるとすれば、あたしの容積など誰にでも簡単に測れてしまう。
実はO型であるとか。実は公開してない離婚歴が更にあるとか。写真はすべて別人だとか。他にも秘密の愛人がいるとか。実はあたしがドイツ人であるとか。実はあたしはまだ中学生であるとか。実はもう一人の娘が練鑑にいるとか。実は夫がソン・ガンホであるとか。
なんか、そういうことにはならないものか。
ならないのだが。
- 2007/03/28(水) 12:19:26|
- 雑感
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