仕事部屋

いつだったか言われたそれ。

「コルセット」稽古場では初通し、1時間20分の芝居として書いたホンだから1時間15分の初通しは優秀なのだが、上演時間としては短過ぎてううむと小形くんと2人唸る、つまり芝居は面白い、初通しながら60点がつけられるくらい出来上がっている、てことは後はどこに何をどうすればいいかが限られている、短くたって面白けりゃいいじゃんと思いもするのだが、スズナリで4200円取るのならもう一粘りとも思うわけで、しかも初日までまだ2週間あるとなれば手を打つのが役割。

見学に来ていた千葉ミクと松永玲子との女子飲み、千葉の大仕事に犯され役経験であれこれ余計なアドバイスをし、千葉が先に引き上げてからは初のサシ飲みになってエキサイト、2人して頭おかしいだろってくらい延々芝居の話ができる至福、でも松永さん千葉には「前川さんと一回やってみなよ、ムカつくから」と言ってくれた、これを言ってもらえる私のむずむずする歓び、千葉にはまだわからないだろう。

帰宅して話してたこと反芻しながら思った、私はホンの解釈で芝居を創り上げられるタイプの演出家じゃあない、そもそも愛仮の公開稽古やってて寺十さんに散々言われてる「マエカワは前川麻子のホンの扱いがゾンザイだ」と言われる課題、公開稽古をこれまで何度かやってきて毎回思い知らされるそれは、コットーネ7月スズナリでの演出に向けて私にとって最大のプレッシャーだった。

寺十さんはホンの読み込みで芝居を創る、書いた私の数十倍は読み込んで、某かのアプローチを持ち込んでくる、その相手役である私は自分の書いたホンになどこれっぽちの価値も感じずにただの叩き台と思って自分の生理を上乗せする、そちらの方がより価値あるものと思ってかかる、それが私にとっては演出の役割を引き受けるときの最大の課題と思っていた。

寺十吾は名優である、これは誰がどう言おうが私がそう思う、その名優がホンを飲み込むときに生じるホンとの隙間が具体化されたところに寺十演出が成立する、つまり寺十演出は名演出なのだ、ところが私の演出はそうではない、私の演技は私の生理でしかない、だから演出が必要になる、ところが生理を演出できる演出家はなかなかに少ない、よって放置される場合が多い、生理は生理のままが良いのだと誤解もする、要するに、寺十さんにはホンを立ち上げるための演出ができるのに、私にはそれができない。

寺十さんはホンを書かない人だから、ホンを読むときに「なんでこんなことが書かれているのか」「どんな考えの中でこう書かれていくのか」を知りたいと思うのだろう、知りたいから読み解く、読み解いたことが演出になる、そういうルートを私は持てない、持てないからやらない、結果ホンの解釈がぞんざいになる。

「コルセット」は、とても難しいホンになった、「主婦マリーがしたこと」と同じように事実が基にあって小説もしくは映画という作品が生まれ、それを叩き台に芝居を創るというややこしい手順になる、そのときに何を目指すのか、何がやりたくてコレなのか、という点に曇りがあれば無論出来上がりが曇るということは過去に痛い思いで学習しているはずなのだが、といってすっきり答えが出せるほどの経験が私には足りていない。

〆切があったからホンは書いた、書いたが演出するときのことまでは微塵も考えない、考えないのではなく考えられない、ホンはホンお話はお話で、演出するとか出演するとかはまた別の話と思うのが私の感覚なので、ホンを書くときはまったく無責任に、役者が決まっていればただひたすらの充て書きで〆切に間に合わせてそれなりのことを書くだけだったりする。

今日飲んでて松永さんに打ち明けたからここでも打ち明けるけれど、「コルセット」も稽古初日の本読みの時に役者たちの顔ぶれと読みの具合を視て「あ、違うな」と思った、違うと思ったのは、私のホンに対する解釈と私が作りたい芝居のテイストというか、少なくとも私にはこのホンはホンのまんまに演出できないだろうし、私の演出はこのホンには必要ないなという感触で、もちろんそんなこと役者の前では言わなかったけど、〆切に間に合わせて書いたはいいが、そのホンをどう演出していいのやら、私には脱稿の時点でさっぱりわからなかった。

稽古入り二日前だったか、寺十さんの稽古場に顔を出して稽古を見学させてもらい、柳美里の戯曲にがっぷり取り組んでいる寺十演出を目の当たりにして尚のこと、「私にはホンを立ち上げる演出ができない」と思い知らされた、といって落ち込んでる暇もないので至極単純に「ホンの解釈ができない、演出プランが見えない」と泣きついたりもして、そうしたら寺十さんは「俺も」と言った、「俺もノープランだよ」と、そんなのまるでウソなのだけど、まあ見事に単細胞な私はそれで「なあんだ」と安心したりもし、アホのように「俺も」を信じてノープランで稽古に入った。

そして気付かされた、プランなんぞいらないのだと、プランがないからこそ視得るものがあり、それこそが私が掬い取りたいものなのだと、ホンの解釈をしていたら絶対に採用しないそれ、もしくは役者に要求しないそれ、そうした「解釈から零れたそれら」だけが観たいのだと、私は自分が観たいそれだけの為に演出をすればいいのだと、ようやくそんなふうに思えた。

稽古に入ればそのまんま夢中になる、観たいそれが次々と具現化していくのはなんて至福のときだろう、プランを実現するための演出なんぞクソだと思うし、演出家のプランのまんま立ち上がった芝居なんぞクソにしか見えない、そう思うくせに演出の役割を引き受けるときにはそうじゃないことを考えていたのだ、それをそうと気付く間もなく稽古というものは日々進む、つまり気付いたときには遅い。

旧友みのすけにして「ナイロンで前川とやれるのは松永しかいない」と言わしめた(らしい)松永玲子も抜群に巧い役者なのだが、その松永さんが「ダメ出しされて、あ、ここね?と狙ってかかるのに、そのたびに、うーんそこじゃなくて、と違うところを指される」と言うくらい私の演出はいい加減なのだが、初日に向けてなんとか安定したい、安心したい役者と、安定と安心を奪うことしか考えていない私の演出との鬩ぎ合いが「コルセット」だ。

「コルセット」に取り組む今の時期に、寺十さんが柳美里のホンと格闘していたことが私には助けになった、ホンをがっつりと立ち上げる寺十演出を観てきたからこそ「私が観たいのはそれじゃない」=「私がみせたいのはそれじゃない」が感覚として掴めた、それがあったからこそ私は今まっしぐらに迷うことなく自分が観たいもの、自分がみせたいものだけを目指していける、そのことが「コルセット」の演出の役割の中でどれほど重要か、そのことが稽古場にいる人にはしみじみ感じられるのだと思う。

私にはホンを読み解けないことがコンプレックスだった、ホンから芝居を立ち上げる演出力のないことが演出としての力のなさに感じられていた、だがホンなんてどうでもいいじゃんと思って読むものとして「コルセット」のホンは真実どうでもよく、どうでもよいと思って作る芝居にとってはこの上なく都合がいい台本で、結局のところそういうホンを書くってことはハナからそこにしか興味がないってことなのだろう。

寺十さんの演出する「グリーンベンチ」を観ればまた「勝てないなあ」と感服するのかもしれない、だけど今は「コルセット」が負ける気もしない、そんな傲慢すら言えずにいたこれまでの気持ちの在り方を考えれば、これは私にとってかなりの進展じゃないかと思ったりもする、勝負じゃなくて共同作業じゃないかと言われればそれまでだけど、気力なんてのはそんなところでちまちまブレてるもんじゃないのか。

「どんな案配?」と連絡し合って「◎◎点かなあ」と返し合って「上出来じゃん」とか「もっと狙える」とか言い合ってお互いの稽古期間を過ごした、客席に座ってそれぞれの案配を自分の目で確かめて、また羨んだり悔しがったりほくそ笑んだりするんだろう、ようやく私は「寺十さんみたいな演出はできないからなあ」という負け気分を、まったく同じことを思いながら負けない気分で乗り越えることができるのだと思う。

だって、負けてかかっちゃこの先が面白くないじゃないか。
勝負するつもりじゃないけれど、この先を面白くするには、喰ってかからなくちゃ。
尊敬と憧れと信頼と嫉妬の果てを見届けて、私は、私の芝居を知るのだろう。


作・柳美里 演出・寺十吾 「グリーンベンチ」20日から。

作・演出 前川麻子 「コルセット」7月4日から。





  1. 2012/06/19(火) 03:17:16|
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<<あんたたちがそこにいてくれて嬉しい。

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