遠いようで近い、近いようで遠いところの人と、毎日顔を付き合わせるのが芝居の稽古で、
そこでは知ったつもりになったり、知らないことを愉しんだりする。
知り尽くせない覚悟があるから、構えに構え備えに備えて臨んだのだが、それでもまだまだ到底知り尽くせない。
一方、ごくごく当たり前の仲良し加減では絶対に知り得ないことをぎゅううっと実感することもあり、といってその場を離れれば何一つ知らぬも同じであるわけだから、ややこしい。
そら勿論、知ってりゃいいってことにはならない。
といって、知らないでいるのがいいとも決められない。
つまるところ、何をどう知っても知らないつもりで探り合うことや、何一つ知らないままヌケヌケ知ったつもりで関わることが重要で、実際のところはどうでもいいんだろう。
私はtwitterやブログを便利に使う。
そこでの言葉がどう伝わって、どんなふうに使われるのかを、ある程度は承知して使う。
知らない人はダイレクトに受け取る。
文字を視るのではなく、間に入る人の言葉をそのままに、ダイレクトに受け取る。
お互いが交わした言葉が、別の形で、また戻ってくる。
承知の私より、ダメージが大きい。
「え、こんな形で返されるんだ」と驚かせてしまう。
間の人を無責任とは言わない。
その人にとって、それらは情報に過ぎないのだと思う。
しかも、実際はどんな空気のどんなところでどういう雰囲気で生まれた言葉かは知らないまま、
なんだか知ったつもりになれるような形で受け取るそれだから、まあ、そうも言うわな。
そんなことでどうこう歪むものはない。
ありがたいことに、それが芝居だ。
一つの台詞を交わすために、どれほどデリケートな時間を費やして、ようように成立させているのかを、観る人は知らないし、知ったこっちゃない。
我々にとっても、そうしたことは情報に過ぎないし、「へえ、そんなふうに思うんだ」「へえ、そんなこと言ったんだ」「へえ、そんなこと言う人がいるんだ」と、無益な情報をいちいち確認するだけの手間隙なのだけど、その手間隙は、案外と役立つ。
そんなことすら材料にしちまう我々の貪欲さ、無神経さが面白い。
つまらぬことのわずかな確認に、比較的長めの文章を費やしたメールがあって、
知らんぷりして稽古して、何が承知か、何が承知できないかを測る。
稽古場でのそういう関係性の、しなやかな強さと、張りつめた脆さの両方を知っているから、面白い。
稽古場で、台詞以外の言葉を交わすことが、日々減っていって、台詞以外に口にすることが何一つなくなったその先に、どれだけ饒舌な時間があるのかを、知っている。
とばっちりが出るのは、いつだって現実だ。
だって、現実や、事実の方に意味があったら、そちらに魅力があったら、我々はわざわざこんなことやってないんだもんなあ。
それでも、現実のすべてに「ごめんね」と言いながら、跨いでいく。
いつでも、俯き加減で視る、境界線。
- 2012/09/30(日) 01:45:30|
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