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仕事部屋

ひたひたと。

日常に戻ってきた。
演出だけの時は翌日からばっさり日常に戻れるのに、やっぱりなんだかんだ言いながらそれなりに何かを背負っていたんだろう、ひたすらに食べて寝る合間に連絡業務などの雑用から始めて読書やDVDもちょろっと、翌日には洗濯やら買い出しやら机回りの片付けやら獣医やら郵便局やらの家の雑務、腰が痛くてぐずぐず動作なのでシネパトスにも「戦争と一人の女」試写にも行けずだったけど、稽古入り前からハードなバイト生活だったから久々に家にいるのも雑務に集中できるのも嬉しい、長いこと放置してた風呂場の電球も自力で交換、球切れを交換しようと電球をひねったらバリンと口金から下のガラス部分だけがきれいに割れて花瓶状態、口金は天井据え付け照明器具のソケットに残ったままでどうにも外せず、色んな人から色んなアドバイスを貰ったんだけどどうやっても外せなかったのを、今日再挑戦したらなんとか外せた次第、「こりゃ成田とか小形とかじゃ無理だろうな、千田さんでも無理だからちゃんと電気屋呼んだ方がいいよ」と言われていたそれを自力で解決したことで非常に満足している、あと夕飯に作ったホタテとベーコンと白菜のクリームシチューが美味しくできたことにも、スーパーで安売りしてた梅ジュースが心外に美味であったことにも、コヤで使ってた布団乾燥機を持ち帰ったので犬が大喜びしていることにも、他愛のない日報のやり取りができていることにも、なんだかいつも以上に満たされた気分になっている、こういう細やかな満足の積み重ねが日常の幸福だなあ、この細々した日常を紡いでいける約束さえあれば、どんな不穏だって乗り切れるだろうに、こうした大切なことほどなんの保証も約束もなく、不意に失われたりする。

愛仮3プロをコンプリートした文洋と、2ステ観てもらった日の夜だったかにちょっとだけ彼女のことを話した。
彼女はこれまでの長い時間をそれほど辛いとは思っていなかったんじゃないだろうか、本当の自分を、ちゃんと剥き出しにできるわずかな空間がそこにあって、それを真っ直ぐに受け止めてくれる彼がそこには必ずいたのだから。
失う恐れはあったかもしれない、だけど、仮の姿を装うことは、真実を曝す時間があるときにはそれほどしんどいことじゃないんじゃないかと思う、たとえば、役者が役を演じるとき、「あの人は普段もあのまんまの人だ」と思われ続けるのは辛いけど、それが演じている姿であると曝せる仲間としての共演者や演出家がいて「演じてる」ことをきちんと受け止めてくれていれば辛くなることなどないから、彼女もきっとこれまではそれほど辛くなかったんだろうと思う、何より辛いのはこれからだ。曝せる人がいないまま、あと何年待ち続けるのだろう、たった一人で世の中に怯えながら、それでも少しずつ世の中に自分の足場を作り上げていかなければならない、彼が戻る日のために、やはり彼女はひたすらに仮の姿を演じ続けて、それを日常として根付かせようとしていくのだろう。
愛なのかわからない、愛だとしてそれが美しいとも思わない、正しいとか間違っているとか、そういうことを言うべきことではないと思っている、ただ、そうした生き方をするしかない人として、どうしても共感してしまうものがある。

非日常を生きる感覚のない人には、そう生きるしかない人がどれほど細やかな日常を大切に愛おしんでいるかが判らないのかもしれないけれど踏みつけにする資格は誰も持たない、もちろん同情など欠片も必要としていない、私は私の細やかな日常を必死に護るしかないのだし、この先の彼女だってそうだろう、カズPがよく口にする「我々がそうであったかもしれない想像力」などなくても、私が大切と思うものと彼女が大切と思うものには少しも違いがないことが判る、私が毎日少しでも幸せを感じたいと願うのと同じ気持ちで、彼女に少しでもかつてより幸せを感じて欲しいと願うし、人が心の中で密やかに感じる幸せについてあれこれ言う傲慢さから少しでも離れたところに生きて欲しいし、私もそうでありたい。

どこかで湧いた小さな泉の岩を伝う流れのように、ひたひたと日常は流れ落ちていく。
分かれ、合わさり、太く細く流れを変えて、やがて海へ向かう。

  1. 2012/11/07(水) 22:45:17|
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<<絶望の光。

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