15歳で家族ゲームに参加して、そのあとなんか自分でやってみたくなって、カメラを触ったこともないのに8ミリ映画を撮ることにしたのは、自分たちで演劇をやる方法があるなんて微塵も思ってなかったからで、そのちょっと前に大阪芸大の人たちが撮る自主映画に参加したのもあって、そのときに知り合って後に劇団員になった大阪のベンちゃんとかに来てもらって、一朗太と、当時仲の良かった友だちとで、ヘタクソな8ミリ映画を作ったのが16歳で、PFFに出したら松田政男さんが気に入ってくれて上映プログラムに選んでくれて、当然ながら入選はしなかったけど審査員だったほしのあきら氏や大久保賢一氏とはその時に知り合って、それが劇団を旗揚げするという暴挙に繋がった。
そのへんの、怖いもの知らずだった頃に、長崎監督とも会ったことがあるのだけど、ご記憶ではないだろう。
あの頃、私はPFF同期の人たちに無関心だったし、つい数年前に大久保さんから七里監督を紹介されて「PFFのころから知ってます」などとからかわれて、その後あの人もこの人もと教えてもらって自分の傍若無人さに今さらながら戦き、自分の作品のどうしようもない不出来さもあって申し訳ないやら恥ずかしいやらでPFFのことは自分的には封印されていて記憶も薄れてしまっているけれど、当時上映されたプログラムの作品名をみると、やっぱり覚えていたりして不思議だ。
「蒼白者」が公開されている常本監督はいつの間にか知り合ったような気がしていたけれど、よくよく確かめるとPFF同期だった、当時の記憶はすっかりないし会って飲んだことなんかも多分ない、そのくせずっと名前を気にかけていたのは、劇団を旗揚げして以降の活動を根気よく見守ってくれていた人だからで、今どきらしくtwitterとかでまたちょこちょこ連絡が取れるようになって、ご本人が「やっとです!」と言われていたのでやっとなのだろうけど、堂々たる作品公開はなんだか誇らしい。
随分と早くからそうした場に触れていたのにどうして映画を作ることに傾倒しなかったのか理由は明白で、私には本当に何もできることがなかったからだ。
今も何もできない。
何もできないと知っていながら愛着だけは感じていて憧れや尊敬が消えずにあって、「闇打つ心臓」なんて作品はあの頃もう向こう側にいる人の作品としての認識だったので、こんなふうに愛仮と並ぶこともあるんだなあとまったくぽかんとしてしまうのだが、高橋Pの思い入れは同世代としてじんわり沁みて、そこに便乗してしまえばきっと自分にとってももの凄く思い入れのある作品のように記憶をすり替えることもできるのだろうけど、私はきっとこの日に、高橋Pと同じくらいどきどきしながらスクリーンに食いつくんだろう。
「愛のゆくえ(仮)」連続上映 vol.4 ×「闇打つ心臓」なかったことにしたいような過去を引っ張り出して恥じ入る時間は、きっと身悶えするだろうけど、日々の自分にも恥じ入り続けてきた今なら、ちょっと懐かしんだりできるのかもしれない。
- 2013/06/13(木) 18:46:44|
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