仕事部屋

いっそ失う。

他人に向ける言葉の軽卒さを自覚してから言葉を飲み込むようになった、それでも喋り逃げの場はまだあって、飲み込む時間とのバランスもそこそこには取れるので、飲み込むことにも慣れてきたところだが、そうなると今度は吐き出すべきところで喉が詰まる、今ここで全部ぶちまけて泣きつけば随分と楽になるだろうにという機会にも怯える気持ちで飲み込んだままやり過ごし結局は自家中毒を起こすのだから、きっとそもそもがそういう体質じゃあないんだろう。

お喋りな子どもじゃあなかったと思う、思春期のきゃっきゃした毎日でも必要以上のことを話すタイプじゃなかった、ただその頃には何もかもを話す必要があると感じていたからお互いがそう思っているトモダチとは何時間でも話していた、今思えばどうでもいいことだけどあの頃には何より重要なことに感じられて、いちいちが重要な会議のような気分だったんだと思う。

溜め込んだ末にやっとの思いで吐くそれも、反射で跳ね返すそれも、流れの中で不意に浮かび上がって流れ出すそれも、言葉を選ぶ時間がどれだけあるかの違いだけで、やはりすべてが自分にとっては排泄なのだ、時折には本当に選び抜いて真心を飾って誰かへの贈り物にするような言葉もあるけれど、そうするからといってそれを受け取る人がそのまま気に入ってくれるとは限らない。

思考がぐるぐる気味のときには大抵が言葉に捉われている、あの言葉の意味はなんだったのだろうとか、あの時あんなこと言わなければよかったとか、何か行動でしくじったときにはすっぱり諦めがつくのに言葉のしくじりには常々後悔がつきまとうのが不思議だ。

言葉には意味があるし感情があるし使う人の感覚や環境で使い方が違ってくる、大意という括りだって結局は受け取る側の括りでしかない、家族だって友人だってニュースで見聞きすることだって文字で書き表されたものだって、真意などというものは地球上の誰にも読み取れないし、真意を読み取って欲しいと思いながら言葉を使う人も実はそれほどいないだろうと思う、それでも誰がいつどこでああ言ったこう言ったは情報の一つに違いない。

人を見るとき、その人の印象はどこからどう発生してそうなっているのかと自分の中にあるその人ファイルを手繰り寄せることがある、あの時にああだったこうだったばかりが積もっていて今目の前のことを見逃していたりして、だからこそ新しいページを増やすときに大きな歓びを感じたりもするのだけれど、何十年も間の空いた同級生なんかだとあの時と今の間がすっきり埋まらなくてまるきり新しいファイルを作るような場合があって面白い。

そういえば昔何度か写真を撮って貰ったことのある写真家の荒木さんに「逢うたびにまるで印象が違うなあ」と言われたことがあった、やっぱり荒木さんは画像でファイルするのかしら、私にとってはスタジオの荒木さんも酒場の荒木さんもすき焼き屋の荒木さんも全部一つのファイルの中に収まるのだけど、まとめたって大した分量にはならないんだから、印象ごとに別のものとしてファイリングされているとしたらそれぞれの情報はきっとちょびっとなんだろう。

よくよく考えてみれば、ファイリングしている他人の言動なんてものは全部が全部自分がどう受け取ったかという自分フィルターがかかっている、つまり本来は自分ファイルに収めるべきもので、自分がどう感じたか何を思ったかというフィルター抜きでただその人がどこで何をしたいつどう言ったという自分がそれに何を感じたかを排除したありのまんまの記録はとても少ない、そもそも記憶と記録は完全なる同一ではないのだから、それだって自分の記憶というファイルに収めるべきことなのかもしれないし。

恋に悩む人へのアドバイスで「過去を忘れなさい。すべて今を起点に考えなさい」というのをどこかで目にしてとても的確で有益な進言だなあと感心したことがあった、働く女性たちを主人公にした海外ドラマにも「複雑に考えちゃダメ、大事なのはあなたがどうするかよ」みたいな台詞があってそれにもうんうんと頷いたけど、それってつまりは何かについて考えたり決断したりするときに自分の中で重要な資料としているものはすべて無効ってことなのかもしれない。

すべてが自分フィルターを通した印象や記憶でしかないはずなのに、それが裁判になると人の言動をあれやこれやで検証して「事実」に振り分けることができるようになるのが不可解だ、それが陪審制度だったりすると尚のこと検証した事実をこれまた赤の他人の自分フィルターに通して認定する厄介、個人の記憶や印象でしかないことも赤の他人が共感すれば現実での事実としか揺るがないものになる。

だからトモダチとお喋りするんだな、自分の感じたことを共感で証明してもらうために、事実として認定するために、正義を見極めるために、果てしなくお喋りしていたあの頃には世の中のすべてをそうやって裁いていた、何が好きで何が嫌いかを凸凹に削り分けて自分自身の型を作る時間だった、自分と自分以外の人の違いを一つでも多く見極めることで自分を知ろうとしていた。

今も時々同じことをする、これってどうなのよと思うことは裁くに相応しい相手に話して意見を聞く、共感してくれればほっとするし反論があれば考え直す、自分と違う感覚を面白がって世の中には色々な人がいるものだなあと認識することでやはり自分を知っていく、この年になっても完璧な型ではないし明確なはずの自分自身がぼやけて見えることがある、あの頃と違うのは型抜きの線引きが自分主体じゃないことで、今は自分に描けない線を他人のそれを借り受けて点線として使えるからかつてよりは効率が良い。

あの人は私を受け入れてくれないと感じる苦しみは、私はあの人に受け入れられていると感じられないに主語を入れ替えればすべきことが見えてくる、それがいつか私が感心したアドバイスやドラマの台詞の真意であって、某がうまくいかないと感じる焦りは、私は某がうまくいっていると感じられないに主語を入れ替えて立ち向かう、そうするしか物事には解決がない、他人のココロは動かせないが自分のココロは動かせる。

常々そういう筋道で物事を飲み込んでいるせいで話し合うことが苦手だ、そこには人の言い分を聞く面白さしか感じられず、結局はいつも同じやり方で飲み込んでしまう、相手に答を求めないことは時に思いやりとして機能するけれど本質では相手の答を必要としないエゴでもある、だがそれがなかったら何があるのかとも思う、摩擦を避けてエゴを隠すこととどんな成り行きにも付き合う覚悟でエゴを曝すことのどちらが誠意なのか、いつも悩まされる。

喋ることも書くことも言葉の使い道として連動しているんだろう、人に会わず話さずでいるときには書く言葉も沈殿してつらつらとはいかない、言葉を飲み込むのは職務に対する怠慢だと思い知らされた、誰かに対してとかどういう形でとかに限定して言葉を飲み込むという能力がない、そもそもそういう基準で言葉を選ぶという機能が備わっていないらしい、相手や場所を選んで喋ることを使い分けられない無能、もしかしたら私こそが言葉を信用していない。

こうして書いておきながら、これまでに何度も同じことを考えてあちこちで似たようなことを書いている気がしている、思考や言葉は都合良く変質した方が良いだろうに、拘るつもりなどなくてもなかなか目新しい感覚に届かない、自分の感覚が一発で刷新されるくらい目の覚めるような何かと出会さないものだろうか、またはこんなふうに象られた自分を捻り潰して変形させるくらいの力強い何かと出会いたい、そもそもが自分自身に飽き飽きしているのだ。

今はなんにもできない人でいたいと思うのに、もしかしたらその昔はなんでもできる人になりたいと思っていたのかもしれない。


webマガジン[AM]「愛とお金」特集にコラムを書きました。前編配信中。

8月3日(土) 「愛のゆくえ(仮)」連続上映vol.4 ×「闇打つ心臓」(1982年8mm版) @ポレポレ坐、予約受付中。

七里ガ浜オールスターズ8月公演の台本を書きました。
七里ガ浜は愛仮のパートナーだった瀧川くん主宰の劇団。この人のやることはいちいちが私の筋道に気持ちよく重なるので何を一緒にやるのも楽ちんでいい。まだ稽古初日の本読みに立ち会っただけだけれど、「モグラ町」シリーズのダメなオトナたちを引き継いだキャラクターを、モグラなおじさんたちに負けないくらいのキャスト陣でお見せします。因みに出演の一色洋平くんは「はたらく・くるぶし」脚本の一色伸幸氏のご子息、彼は今ちょうど私が一色さんのホンで「くるぶし」やった年齢くらいじゃないだろうか。
かたや私は千秋楽で46歳、「くるぶし」から25年、演劇人生39年目にして自分の書いたホンを客席で観る初体験!

七里ガ浜オールスターズ公演「オーラスライン」前川扱いのご予約はコチラからどうぞ。


今年の夏もどこかでお会いできますよう。







  1. 2013/07/23(火) 18:02:13|
  2. 雑感
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<<カッコさん。

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