泣きついてくれる人がいると、嬉しい。パソコン通信時代の頃から一度も会ったことがなかったり名前すら知らない人らの傷みに触れる機会が多く、その人たちはたまたま吐き出さずにはいられないタイミングで(オンライン上の)私に出会しただけなのだろうけれど、その一瞬だけであっても誰かが私を必要としてくれていると感じられることで私自身がつうっと掬い上げられて楽な気持ちになれたりもする。
私自身は他人に泣きつくことが下手で、飲み込んでしまいがちだ。ついつい零した些細なことでも真摯な対応をしてくれる友人はたくさんいるのに自分にとって重大な問題ほど吐き出せずにいる。愚痴と笑ってくれる友人に助けられることは多いのに、重大な問題を人に打ち明けて本当に親身になって解決の手助けをしてもらうようなことがないのは、そもそも打ち明けることがないからだ。
愚痴りたくなる案件には公私に拘らず対人関係での不快な出来事が多いのだけど、この場合、Aさんとのいざこざに思い悩むときにはAさんを知る人に話したいわけだが、そうなるとAさんが私に向けた一面を暴露することになり、それがAさん自身の品性やら知性やら人間性やら仕事への姿勢やらに傷がつくような場合もあり、うかうかと零せない。
その他にも生活上での金銭的な問題、健康上の不安、書く仕事に対する逡巡、演劇にまつわる(ことワークショップなどの具体的な方向性を自分が持たなければならない)あれこれなど、数え上げれば誰かの意見を必要とする悩み事や笑い飛ばして欲しい愚痴は尽きないのだが、どれもなかなか口にするのが難しい。
そもそも他人に話せるくらいに言葉で整理がつけられたらその時点で自分の中での問題も七割方は解決していたりする。つまり、他人に話したいタイミングというのは「もやもやとなんだか重苦しい気持ちがあってその理由の一つにこういうことがあるのだけどそのことの何がどう問題なのかよくわからない」というようなタイミングなんじゃないかと思う。そういう時は他人に話してああでもないこうでもない言われるうちに消去法でもやもやが晴れたりするし、もやもやが晴れなくとも他の部分で不意に前向きな気持ちにさせてもらったりの効果があるから有り難い。
そうしたもやもや以上の、もうちょっと重苦しいカタマリのようなそれになるとそうはいかない。医者に診てもらうようなもので、どこがどんなときにどう痛むのかをきちんと言葉で説明できないことには医者だって診断のしようがないだろうから、ある程度、自分が感じている問題意識を整理する必要があるのだが、私はこれがあまりうまくない。どこか本質的なところで自分の問題を他人に委ねることに抵抗を感じているのか。
なので大概は「意見を訊きたい」に留まる。これこれのことにこのような問題意識があるのだがそれについてあなたはどう考えるか、という意見を伺いたいわけだから、私はどうしたらいいんでしょうに応えてくれるような親身な人じゃなく、問題そのものを理解して自分なりの意見をしてくれる人が望ましい。
それでもうまく自分で解決できないときには、私の問題意識を理解してただひたすらに頷いてくれる人に、ただ泣きつく。そういうときにはあれこれの意見よりも、ひたすらな優しさが欲しかったりする。この人は私の味方だと思わせてくれるような甘ったるさ。
そうと自分でも思うのに、私自身は他人に泣きつかれたときにそういう甘い優しさを向けられない。無駄にあれこれ意見して傷に塩を塗り込んだり別の問題を穿り返したりしてしまうのはどうにかしたい。ただ頷いて愚痴を聞くとか、余計な意見をせず悩む人を見守るとか、ただただ無心に励ますとか、そういうことをしたいのに、できない。
結果、思いやりがないと言われる。ないわけじゃないので、その人に伝えられるような思いやりの形がない、ということなのだろうけれど、他人が自分に何を求めているかを感じ取るのが下手なんだろう。褒めてくれとか貶してくれとか慰めてくれとか励ましてくれとか、そういう要求を察することが相手を思いやることなのだとしたら、確かにその能力は低いと思う。
向けられる悩み事は、裁判沙汰のいざこざだったり生きづらさの壮大な苦しみだったり仕事上のトラブルだったり夫婦の寝室の秘密だったり様々で、問題そのものに理解は至らなくとも思い悩み苦しむココロには寄り添えるはずだから、確かに具体的な意見ができずにただ話を聞くしかできないこともあるのだけど。
懸命に慰めた後日にもっと具体的な解決法を期待していたと言われることも、自分なりの意見をしてそんなことが聞きたくて話した訳じゃないと言われることもあって、そこのところの判断が難しい。苦しいんだろうなと察することはできても、だから今私にどうして欲しいのか、私がその人にどう接するのがいいかという展開を読み取れない。
期待に応えられない自分にがっかりする余り、甘えんなとか期待すんなと腹の底に毒づいてしまう。
だけど、甘えられたいし期待されたいし、頼られたい泣きつかれたいと心の底で思っている。
これはエゴなんだな、と思う。
それに比べれば、苦しみを他人に吐露する人の魂は純粋だ。助けて欲しいという真っ直ぐな叫びだから、それを向けられる方にも救いがあるんだろう。私が他人に零す悩み事なんて捩じれたエゴでしかない。愚痴のふりをした自己主張なんていかにも気持ちが悪い。自分でそう思うところがあるから、尚のこと吐き出せなくなる。
エゴと言われてもいい、助けて欲しいと叫びたくなるような苦しみがないわけじゃないのだけど、まあ今のところは叫ばずにいられるわけで、いつかそれが決壊して叫び出したら被害甚大なことに違いなく、それも嫌だなあと思うから、きっと叫べない。
もっと機能的になりたい。相手の望むことをセンサーで的確に読み取り、ボタンを押すと甘い優しさが滲んで、別のボタンを押すと鋼鉄の鎧がココロを覆ってエゴの分泌を防ぎ、相手の聞きたいことだけが言葉として音声になって、スイッチを切れば何も感じずに自分を休ませることができたらいいのになあ。
人間てのは生きていくことに向いてないなあとつくづく思う。
自由業をやっていてもそう感じるんだから、しっかり社会に関わっている人はもっと生きづらいんじゃないか。
だけど、演劇やら映画やら小説やら音楽やらの文化と呼ばれる類いのものは殆どがそういう人間の無能さから生まれてくるわけで、そう思うとこれはこれで無能なりに生物としての役割を果たしているような気もする。
明日、ポレポレ坐で「闇打つ心臓」と「愛のゆくえ(仮)」。
叫ぶほどではなくとも、それぞれの、生きづらさ。
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- 2013/08/02(金) 17:38:24|
- 雑感
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| comment:2
前川先生、全くうまく言えないんですけれど、先生のブルーハーツブログでとてもお世話になりました。顔も名前も年齢もわからない、ただ一個人の私にレスをしてくださって、本当にこころが救われました。病んでいて、藁をもすがる気持ちで、先生のブログを読ませていただいていました。愛のゆくえ(仮)、とってもとってもよかったです。拙い文章で、表現力もなくてごめんなさい、こんな感想で。今でも、生きていくことに向いていないといつも感じながら、息だけ吸って吐いている自分がとてつもなく嫌で、死んでしまいたいと実は思っています。いっそ、本当にマシーンのようになれたら、と、拝読しながら感じました。乱文で、申し訳ありません。
- 2013/08/02(金) 21:11:38 |
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- hana #-
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ありがとうございます。ちょっと泣きそうになりました。私こそいつもこうして救われています。息だけ吸って吐いて自分にうんざりしながら生きていても、それだけでもこんなふうに誰かと結びつけるんですね。マシーンにはなれないから、せめて感謝しながら呼吸していきます。どうもありがとう。
- 2013/08/03(土) 00:17:33 |
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- まえかわ #-
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